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名残の夜に

作者: 雪やこんこ

黒衣の人達でざわめいていた座敷も、今は人影一つない。折からの雨の音に混じり、近くの部屋からすすり泣きの声が聞こえている。月明かりに淡く照らされた棺を前に、八重は物思いに耽っていた。

棺の中にいるのは八重の主、綾乃であった。御年7歳。生まれつき体が弱く、胸の病でなんども入退院を繰り返していた。

 今回の退院は「余命半年」の告知を受けてのものだったため、それとなく心の準備をしていたものの、やはり家中の人々の落胆は激しかった。大奥様も旦那様も何も手につかぬありさまだし、奥様はショックで、お食事も喉を通らず臥せったままでおられるとか。


他の人のように綾乃様との別れを悲しむ気持ちは八重にはなかった。なぜなら、共に行くことができるから。

 大奥様に買われてこの家に来たときから、八重の運命は決まっていた。主である綾乃様に一途にお仕えすること。そして亡くなられたときには殉じて死ぬこと。これはこの家の仕来たりであった。

 正直なことを言えば、死への恐怖から心が揺れたことも一度ならずあった。そういうときに八重は、「アヤメさん」と唱えることにしていた。アヤメは、大奥様に仕えていた言わば八重の先輩に当たる。昭和はじめの大洪水のおり、大奥様の身代わりになって亡くなったという。そのお話を聞いたときから彼女は八重の憧れの存在となった。そしてふと弱い気持ちが兆したときは、その名を唱え、自らを戒めた。鍛練の成果であろうか、いざその時を明日に控えて、八重の心は平静であった。死の前にこんな気持ちの良い夜を過ごせるのは幸いだと思えるほどに。


八重は、とりとめなく亡き主に語りかけた。

「初めてお会いしたときには、綾乃様はまだヨチヨチ歩きの赤ちゃんでしたね。よだれまみれの手で頬をピタピタたたかれたのが、まるで昨日のことのようです。奥様お手製のお揃いのワンピースを着せていただいたのはいつでしたか。まるで姉妹のようだと皆さんに誉めていただいて、私も嬉しゅうございました。そうそう。私の髪を色々に結わいてくださったこともございましたね。お下げを編んでいただいたりビロウドのおリボンをつけていただいたり。でも「ぽにいている」なる形に結ばれたときは苦しゅうございました。髪が後ろに引っ張られるし、ゴムの跡が取れなかったらどうしようと気を揉んだものです。今となっては笑い話ですけれど。そう。去年の今ごろもお庭の桜の木の下でおままごとを致しましたね」



 そのとき、ままごとにまつわる思い出が一際鮮やかな色彩を持ってよみがえった。それは、些細なことであったが八重にとってたった一つの秘密といってよかった。八重はいつのまにか語りかけるのをやめ、その思い出に引き込まれていた。


 あれは去年の春のこと。八重は綾乃のままごとの相手を務めていた。いつも八重がお客になって、綾乃のもてなしを受ける。ご飯がわりの雪柳の花を集めるために、綾乃が席を外したとき、入れ替わるように、この家の居候、太一が現れたのだった。

居候とはいえ旦那様の遠縁の家から引き取られてきて、この屋敷内でも家族同様の扱いを受けていることから、誰にたいしても遠慮が無い。

 このときも、太一はずかずかと敷物の上にあがると、八重の向かいに、ごろりと寝そべってしまったのだった。

八重は慌てた。主がお客様ごっこにおけるお行儀をとても大切にしている以上、この招待客らしからぬ態度に怒るであろうことは間違いない。すぐに声をかけてどいて頂かなくては。しかし何故かできなかった。

春の穏やかな風がそよぎ花吹雪が舞った。この敷物の上だけが周りとぽっかり切り離されて、閉じ込められてしまったようで、心細くて、息苦しくて、泣きそうになりながら、どれくらいそうしていたのだろう。戻ってきた綾乃に太一が追い立てられるまでのあいだのことだから、長くても数分程度だったろう。

 だが未だに八重はあの時の中に囚われているようなきがしていた。屋敷の中で太一とすれ違うたび、声を聞くたびに、あの息苦しい空間に引き戻される。

 寝転がってちらりとこちらを見たときのいたずらっ子のような表情。散り行く花びらを見やる端正な横顔。綾乃に叱られながらも、ゆうゆうと伸びをするしなやかな姿。そして去り際のお声の涼やかさ。

「あたらしい衣装ですね。お似合いですよ」

 考えまいとすればするほど、あのひと時ひと時が鮮やかによみがえってくる。そんな記憶の一つ一つが薄紅色の糸になって八重の心にまとわり付き、甘く胸を締め付けた。結ばれるはずのない相手のことを思うなど、愚かだと何度も何度も自分に言い聞かせてきたはずなのに。

 でも、苦しいこの物思いも、もう終わる。一度だけその方の名前をよんで、この思いを封印しよう。八重は、もう会うことも無いであろう方の名前を、そっと口にした。

「太一様」


懐かしい気配が、近づいてくるのを感じ、八重は我に返った。その静かな足音はまっすぐ八重の元に来て、目の前で止まった。

 八重は、自分の秘めた思いが、太一をここに呼び寄せてしまったような錯覚にとらわれ、決まり悪さをおぼえた。

「ここに居られたんですね。探しました」

優しい声が闇に解ける。彼の姿はぼんやりとした影の様にしか見えない。そのために余計にあの折の彼の姿が思い出される。自分の声が震えないことを祈りながら、八重は出来る限り冷たい声音で尋ねた。

「何か御用ですか」

 太一はしばらくためらっていたが、やがて押し殺した声で告げた。

「八重さん。ここから逃げましょう。今すぐに」

 突然のことに八重は動揺した。

「急に何をおっしゃるのです。明日は大切な綾乃様の葬儀の日ではありませんか」

「そのことでさっき、旦那様と大奥様が話して居られたのを聞いてしまったのです。お二人はお嬢様のひつぎの中に、あなたも共に閉じ込めようとしています。綾乃様の死出の旅路が寂しいものにならないように」

「ええ。存じております。ありがたいこと」

 こんなあっけない返事は予想していなかったらしく、太一はしばらく黙っていた。やがて継がれた言葉にはかすかな苛立ちが感じられた。

「八重さん、ふざけているのですね。それとも僕の話を信じていないのか。ご遺体は棺ごと燃やされます。このままではあなたは死んでしまうのですよ。あなたの自慢の髪も衣装も魂までも焼失してしまうのです。それでいいというのですか」

「・・・・・・お供が出来るのは名誉なことです」

「そんなバカな」

太一は畳をたたき、かすかに声を荒げた。

「僕だってこの家から恩を受けています。お嬢様のことも大好きでした。でも死のうとは思いません」

「お役目の違いですわ。私は昔から綾乃様に殉することを決めていました。アヤメさんのお話をきいたときから」

「あやめさん?」

「綾乃様に私が居るように、大奥様にはアヤメさんが居られたのです」

 太一はため息をついた。

「では。そのアヤメとやらのお話を聞かせてください。それで納得できればあきらめましょう。でも納得できなければ無理にでもあなたをつれて逃げます。幸い僕は家出が得意だし、悪戯をして叱られるのもなれています」

 甘やかされたやんちゃ坊主らしい物言いにふと八重の胸が熱くなった。彼の言うとおり、逃げたらどうなるだろう。だが、綾乃様の居られない自分など想像することもできなかった。八重は静かに語り始めた。

「それはまだ大奥様の和子様がまだ少女だった時のこと。お家の側の川が氾濫し、一緒に遊んでいたアヤメさんとともに、あっという間に押し流されてしまったそうです。運良く船で通りかかった伯父様に助けられたそうなのですが、その方のお話によると、気を失った和子さまの顔の部分だけ浮き上がり、船に向かって、誰かに押されたように動いてきたそうです。どなたかが和子様を押し上げてくれたのだろうと思った伯父様は和子様を引き上げた後、その下をさぐったのですが誰もいなかったとか。そのお話を聞いてすぐ、綾乃様は私が思ったとおりのことをおっしゃった。アヤメが助けてくれたのね。そしてお婆様の身代わりになったのよ。続けて、こうもおっしゃった。八重もいつも身代わりになってくれる。お胸が苦しいときも、八重を抱きしめると治る、と」

 太一は上目遣いで見上げて言った。

「それで充分勤めを果たしたと言えませんか。お嬢様の痛みを和らげたのですから」

「いいえ。いいえ」

 八重は夢中で言い返した。

「私には何の力もありませんもの。綾乃様は、そんな私を信じてくださったのです。なんと誇らしかったことか。あのときに決めたのです。アヤメ様のように、お嬢様をお守りし、叶わぬときは殉じて死のうと」

 かすかに高ぶった気持ちで、八重は太一を見、彼があきらめて立ち去ってくれるのを待った。だが太一はその場を離れなかった。

「残念ながら納得できません」

「それなら、もうお話することはありません。どうか、私をこのままにしてください」

「いいえ。できません」

 その激しい調子に八重はたじろいだ。

「あなたを、見殺しにしろというのですか。そんなこと僕には出来ません。大奥様も旦那様もあなたに魂があることを知らないんだ。僕は知ってる。この家で多分僕だけが知ってる。だから……一緒に逃げてください」

 音も無く、太一が距離を詰めた。

八重には彼の呼吸どころか体温まで感じられる。

いけない。これ以上彼の言葉を聞いてはいけない。このまま彼に押し流されてしまうことは綾乃様と大奥様を裏切ることだ。それがわかっているのに、八重は立ち去ることも耳を塞ぐことも出来なかった。彼の言葉が八重の心を捉え、激しく揺さぶる。想像したことも無い未来が、今、自分の前に広がっているのだ。夢のような未来が。

八重の葛藤を見透かしたように太一は言い募った。

「お願いです。たった数日でいいんだ。葬儀が終わるまで隠れていればいい。そうすれば皆もあきらめるでしょう。せめて明日だけでも」

「できません」

 拒絶の言葉は、ひどく弱々しいつぶやきにしかならなかった。太一はもう説得しようとはしなかった。思いがけず強い力で袖を引かれ、八重は抗うこともできずよろけた。

「だめです。太一様。やめてください……そんなに引っ張ってはだめ」


 眠れないままに、和子は亡き孫のことを思い返して涙に暮れていた。

そのとき孫の棺の有る部屋でなにかが倒れるような物音がした。和子は慌てて部屋に駆け込むと、電気をつけた。棺の傍らに市松人形の袖をくわえて引きずっている猫の姿があった。

「これ、太一。おやめなさい」

和子は、静かにたしなめた。猫は和子を上目遣いで見上げるだけで、人形の袖を放そうとはしなかった。

「八重を離しなさい」

 頭をたたかれ無理やり引き離されてからも、太一は何度も人形に向かって飛びついた。

「こんなときに悪戯なんて、まったく」

 和子は自分の周りをぐるぐる回る猫をにらみつけたあと、そっと人形の髪をなおし、抱きしめた。

「綾乃ちゃんについていってあげてね。お願いね」

 そのときかわいらしい声で応えが聞こえた気がして、和子は辺りを見回したが、近くには誰もいなかった。太一は悲しげに一声鳴くと、身を翻して駆け去っていった。


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