『ないで、ないで』
建設中の高層建造物が倒壊事故を起こした。帰宅途中に偶然近くを通りかかり、ワタシはその事故の一部始終を目撃したのである。
巻き込まれはしなかったものの、大轟音と土煙を浴びて気分を害してしまった。作業員にはおそらく死者が出たかもしれない。いや、絶対に出た。それほどの大事故だった。通行人に被害がなかったのがせめてもの救いだろうか。
ワタシは普段、徒歩で帰宅している。およそ四十分の帰路で、同僚によく電車にすれば? と云われるけど、美容と健康のために歩いていると答える。まあ実際はたるんできた下腹部が気になるからなのだけど……。
事故現場は会社を出て四、五分くらいの距離にあり、いくつもの公園に囲まれた閑静な住宅街だった。平日ということもあり、公園で遊んでいる親子などはいなかった。子供たちが何事もなくてよかったと思う。しばらく事故の経過を観察しようと思ったけど、ゴウンゴウンという耳なりが酷く、また、気分もすぐれなかったので、もう少し行ったところにある小さな公園で休むことにした。
ハンカチを軽く濡らし、ベンチに腰を下ろした。
頭痛は止まらず、いや、むしろひどくなっていて、肩まで重くなっている。
静寂に包まれた公園。
時刻は六時前くらいだろうか……心地よい風が頬をなでる。そのまま、いつの間にか、眠りについてしまった、いや、もしかしたら気を失ったのかも。
倒壊事故に巻き込まれる夢を見てワタシは飛び起きた。何所にいるのか何が起こったのかわからなくなってワタシは辺りをキョロキョロと見回した。暗い。外灯が数本しかないため、辺りはほぼ闇に近かった。急いでバッグから携帯電話を取り出し時間を確認する。
午前一時……。
うそおおお!
急いで身辺を確認する。財布は無事、衣服も乱れていない。三十路に一歩手前だけど、嫁入り前なので何もなくて良かった、と胸をなで下ろすが、依然として耳なりがつづいている。相変わらずゴウンゴウンと暴れている。
早く帰ろうと思い立ち上がると軽くめまいがした。風邪でも引いたのかもしれない。
よろめきながら歩いていると、すぐに、異変に気づいた。
背後に感じる人の気配。鋭い視線が背中に突き刺さっている。でも怖いから振り向けない。見ることが出来ないので、ワタシは耳をすました。だけどゴウンゴウンという音しか聞こえない。ちょうど曲がり角にさしかかり、曲がる瞬間、今だと思い、チラリと視線を背後に向けた。
居た。
ニット帽をかぶった若い男。
家々のライトは消され、街灯もまばらで、男の顔までは見えない。夜道はあまりにも静かで、そして、孤独感をあおる。
男はワタシとある一定の距離を保ちつつ歩いている。
つけられていると思うのは自意識過剰だろうか。同じ帰り道なのかもしれない。そう思いこもうとしても、無意識に意識してしまう。
男も角を曲がった。ワタシのあとをついてくる。恐怖心が増大する。家まではまだ遠い。ここでワタシは、思い切って振り返った。
すると、男は歩を止め立ち止まっていた。
な~んだ、やっぱり気のせいだったのね、と安堵した瞬間、男は猛然と駆け出した。
彼の視線はまっすぐワタシを捉えている。何かわめいているけど耳なりでほとんど聞こえない。かろうじて聞こえるのは「ないで、ないで」という意味不明の言葉。
ワタシの背筋に冷たいモノが走った。きびすを返し逃げる。
捕まったら何をされるかわからない。その恐怖がワタシの脚に力を与える。
このまま家まで逃げ帰るか、近くの家に助けを求めるか。選択肢はふたつ。
家までまだ十五分くらいの距離がある。逃げきれるだろうか。
時間も時間なので、このあたりの家のドアを叩いたとしても出てきてくれるだろうか。
悩んでいる間にも男は迫っている。
右手を伸ばし、ワタシを捕まえようとしている。それに、彼の口からもれる「ないで、ないで」
パニックになりそうになる脳を落ち着かせる。
やっぱり、自分の家へ一直線に向かおう。助かる確率はそのほうが高い。
しかし、その選択も最善とは云えないと身にしみて理解した。
いくら必至になっても、男の脚にかなうはずがないのだ。
徐々にではあるが、距離が縮まっている。
右手には人気のない公園が続き、左手には真っ暗な民家が並んでいる。家々はどれもしっかりと門が閉ざされている。もちろん公園にも路上にも、人の気配はない。自力で、逃げきるしかないのだ。
公園へ避難したほうがいいのか。捕まったときのことを考えると止めておいたほうがいい。
やっぱりこのまま、道を進むしかない。チラリと背後を振り返ると、男はなおも追いかけてくる。
距離は着実に縮んでいる。
耳なりの彼方から聞こえる「ないでないで」という、謎の言葉。
恐怖が増大する。
ワタシは全力で逃げた。
男がスピードを上げる。右へ左へ。何度もコースを変え男のスピードを落とそうとするけど、距離が離れることはない。
涙があふれてきた。恐れから、体力も低下していく。
ついに、ワタシのノドの奥から叫び声が爆発した。だけど、近隣の民家から、誰も助けようと起き出してこない。
だんだん足の感覚がなくなってきた。
右足が出ているのか、左足が出ているのか、それにちゃんと走れているのかさえわからない。
男との距離が、四メートル、三メートルと短くなる。
「ないで、ないで」
もうダメ。
これ以上は、逃げられない。
そうあきらめかけたとき、ふいに男が転倒した。
一気に広がる、距離。
チャンスとばかりに最後の力を振り絞る。そして、念願であった自分の家にたどり着いた。
遠くに見える男の影。立ち上がり、再び全力疾走。
ワタシは震える手でバッグの中にあるカギを探した。いうことのきかない手に焦りがつのる。焦る。男が見る間に近づいてくる。サイフ、化粧道具、手帳、携帯電話、カギ、カギ、カギ、やっとカギを発見し、取り出した。瞬間、無情にもガシャリという音を立てるカギ――。
近づいてくる「ないで、ないで」
ワタシはついにその場へしゃがみこみ、大声で泣いた。
「ないで、ないで」
もう泣くしかないと思った。
そのとき、ふと思い至った。
今、カギが落ちる音が聞こえた?
ああ、やっと耳なりが収まってきたのね。などと悠長なことを考えているときだった。
男の声がはっきりと聞こえた。
「逃げないで、勘違いしないで」
男は、見上げたワタシの眼の前で止まり、大きく肩を上下させてこう云った。
「や、やっと、捕まえた。ボクは変質者でもなんでもない。心配しないで。ど、どうしても伝えたいことがあったんだ。だから落ちついて、それからもう逃げないで」
「アナタの背後に、作業服を着た大勢の男性が、浮かんでいるんだ」
その瞬間、ワタシの脳裏に倒壊事故がボウッと浮かび、肩の重みが増したような気がした。
完