無血の大悪魔
ありふれた森の中にある掘っ建て小屋の前で独りの青年が立っていた。
目の前には世界のどこででも見ることが出来る花々が咲いていた。
赤も。
青も。
紫も。
黄色も。
青年はそれらの花の名前を知らない。
知るつもりもなかった。
彼にとって重要なのは花ではなかったから。
そんな青年の後ろから足音が響く。
自分と違う神聖なる力を纏っている。
強い力。
「エクソシストか」
「ご名答」
返事を聞いて振り返った青年が目にしたのは少女と言っても過言ではない年齢の女性だった。
「若いな」
「うん。まだ十七歳」
「自信家だな」
青年の言葉に女性はニッと笑って答える。
「そうね。あんたを倒せると思っているくらいには」
その姿が少しだけ眩しく青年には思えた。
そんな青年の想いを知ってか知らずか女性は言葉を紡ぐ。
「756。この数が何か分かる?」
「さあな」
「あんたに倒されたエクソシストの数。その中には私の恩師や先輩も含まれている」
青年は無言で今までこの場所にやって来たエクソシストの顔を一人一人思い出していた。
果たして誰が彼女の恩師や先輩なのだろうか。
「それら全員を倒すなんて、流石ね。無血の大悪魔」
無血の大悪魔。
この二つ名がいつの頃に自分についたのか、青年は良く知らなかった。
何せ、どうでも良いことなのだから。
「倒した、か。人聞きの悪いことを言うな」
「そうね。実際にはエクソシスト側が勝手に敗北を認めて尻尾を巻いて逃げて来ただけだもんね」
彼女の言う通りだ。
千年以上にもなる青年が生きた月日の中で、エクソシストたちは何度も彼の前にやってきた。
膨大な魔力を持つ大悪魔である青年を完全に消滅させるために。
しかし、やって来た者達は誰一人青年を倒すことが出来なかった。
「先輩から聞いたの。あなたは決して攻撃をしてこないって」
「そうだな」
「酷いことするのね。先輩ったらプライドをズタズタにされって泣いていたよ」
「そんなこと言われてもな。攻撃をされたら防御するのが普通だろう?」
青年が無血の大悪魔と呼ばれる原因だった。
彼の戦い方はあらゆる攻撃を防御して、相手が諦めるのを待つだけ。
故に相手が諦め戦いが終わった時、双方どちらも血を一滴も流していないのだ。
「それで、君も僕を滅しに来たのかい?」
「ううん」
女性はそう言うと青年の隣までやってきて花をじっと見つめた。
「あんたが手入れしているの?」
「あぁ」
「なら、ここに眠っているんだ」
青年は僅かな間、無言だったがやがてぽつりと呟いた。
「その通りだ」
「そっか」
女性はそう言うと青年へ視線を戻す。
無血の大悪魔と呼ばれた青年は寂し気な表情のまま笑う。
「君は攻撃をしてこないタイプのエクソシストなのだな」
「そうね。やっぱり、今までも何人かそういう人いたの?」
「エクソシストに限って言えば三分の一ほどか。君の時代に近づくにつれて穏やかな対応をする者が増えたな」
「そりゃさ。千年以上も何もしない上に討伐に向かわせたエクソシストを無傷で返す大悪魔なんてね。いくら神に仕える身でも『例外』を考え出すのが自然よ」
「そうか」
青年は再び花々の方を見つめる。
彼女が指摘した通り、ここにはある人物が眠っている。
それは青年がまだ生まれたてで聖水を一振りするだけで滅されてしまうほどに弱かった時代に、彼を召喚し契約を結んだ少女。
彼女が青年と結んだ契約により無血の大悪魔は無害なまま未だに生きている。
「どんな人だったの?」
「慈しみ深く、穏やかで、愛らしい方だった」
「そ」
あっさりとした女性の言葉に青年は微笑む。
こんな冷たい対応。青年と契約をした少女なら決してしなかっただろう。
「こちらからも一つ質問をしていいか」
「いいよ。どうせ、先輩達にもした問でしょ?」
「神は居るのか?」
それは無血の大悪魔が訪れたエクソシスト達、全員にした問だった。
同時に全てのエクソシストが答えをつぐんだ問でもある。
けれど、彼女はあっけらかんと言った。
「居ないんじゃない?」
大悪魔は驚いた。
女性が今までの者と同じく『無言』か『はぐらかす』ことを想像していたから。
「君はエクソシストだろう? 神によって力を行使しているのではないのか?」
「外に出ないあんたからしたら驚くかもしれないけれど、今の世の中じゃ神様を信じている人の方が少ないのよ。私達エクソシストの力だって建前は『神の力』だなんて言われているけど、実際には幾つもの法則から成る魔法の一つでしかない」
「なるほど」
大悪魔の心には言いようのない想いが浮かんでいた。
それはある種の失望であり。絶望であり。苦しみであり。
そして、希望。
もしくは期待だった。
「私からもう一個質問をしてもいい?」
「あぁ」
「この人はあんたと何て契約したの?」
「先達から聞いていないのか?」
「聞いてるけど、あんたの口から聞きたいの」
大悪魔は少しの間、無言になる。
過去。
青年は少女に召喚された。
か弱い少女だった。
契約などせずとも魂をあっさり奪えてしまいそうなほどに。
けれど青年もまた弱かった。
故に、青年は少女に問う。
『何を望む』
少女は震える声で告げた。
『私を愛してください』
「素敵な契約」
女性は茶化すような口調だったが瞳はとても優しかった。
「黙れ」
大悪魔の言葉は強いものであったが、声はとても穏やかなものだった。
「それであなたは愛し続けているんだ。その人を」
「あぁ」
「教えてくれてありがと」
そう言って女性は踵を返す。
「帰るのか」
「うん。だって、あんた絶対放置していても大丈夫だもん」
「そうか」
遠くなっていく足音を大悪魔は聞いていた。
また静かに彼女を愛し続ける日々が戻って来る。
そう理解していた。
それでも彼は振り返り問うていた。
「なぁ、もう一つ質問に答えてくれ」
「何?」
「仮に君が言う通り神が居ないのであれば……」
胸の奥が小さく。
それでいて少しずつ強く高鳴っていく。
「私は彼女の下に逝かれるのだろうか?」
「そんなん私が知るわけないでしょ?」
大悪魔が僅かに項垂れる。
「けどさ。私個人の考えを言わせてもらうなら。きっと、その人は首を長くして待っていると思うよ。あんたのことを」
首をあげた青年に女性はにこりと笑って手を振った。
「それじゃね」
それから少しして。
ある日、不意に世界から巨大な魔力が一つ消えた。
女性は自らの先輩や恩師を含む多くのエクソシストと共に掘っ建て小屋を訪れると、そこにはもう誰も居なかった。
ただ、ありふれた花々が咲いているだけだ。
念のため、幾人かで手分けをして辺りを探したが大悪魔の姿はどこにもなかった。
やがて、全てを悟ったエクソシスト達は花の前に立ち皆で静かに神に祈りを捧げる。
神の御業を振るう彼女たちでさえ、今やその存在を信じ切れぬ時代。
そうであっても。
彼女たちは祈らずにいられなかった。
大悪魔と少女が再会したかどうか。
神ならぬ身では知りようもない。
それでも。
「神の御心のままに」
彼女たちの姿を知って知らずか花々は静かに穏やかに風で揺られていた。