episode Ⅰ~2
有休を貰った僕は まさしくその休暇までの間 早朝から深夜まで働いた。
自分の我侭で頂いた休暇だ。
支店長はじめ部長、部下の安井、会社には絶対に迷惑はかけられない。
この会社には33歳の頃 前職の外資系アパレル企業から引き抜かれて入社した。
当時 僕はその現状を変えたい と考えていたのだが普通に考えれば転職も厳しくなる年齢だった。
そんな折 取引先だったこの会社の、以前から顔見知りではあった当時の人事部長が僕を誘った。
一度だけこの二つの会社は コラボレーション企画を実施した経緯があって、その時の担当責任者だったのが 前職では僕、そして以前は営業企画室長だったこの人事部長が担当者だった。
この人事部長とは なぜかウマが合った。 勿論仕事のやり方・ペースなどなんとなく共通のものを互いに感じていたし、なによりも ふたりとも共通の趣味があったからだろう。 以来 数度 仕事の枠を超えて僕らは食事やお酒の席を共にすることがあった。
そんなある日の酒の席で僕は現状を変えたい旨を話していた。
「うちの会社に来てみないか?」
迷わず僕は それまで10年近く勤め上げた前職を辞めた。
前職に仕事としての不満があったわけではない。 給料も良かった。 外資系特有の自由さもあった。
しかし・・・。
ヘッドハンティングの採用試験は 主に事前に提出した職務経歴書で書類の選考は終了していたが、採用担当者の面接だけはきちんとあった。
その面接の場にいたのは副社長はじめ執行役員の面々、人事部長・そして 何故かその場に居合わせていたのが現在の僕の上司である 当時部長職だった秋田だった。
面接の席で ひと通り これまでの会社としてのキャリアを僕が説明した後に ひとりの かなり若いが切れ者 といった印象の執行役員であり、営業本部副部長の肩書きを持つ内田という人間が質問してきた。
「藤田さんの前職でのキャリアは当社としては
以前よりその実績のお話は伺っていましたし
現在の当社の必要としているスキルからいっても申し分ないですよね。
それよりも 僕が関心を持っているのは・・・つまり その前の経歴ですよ」
なんだ・・・自分の過去の話か・・・率直に僕はそう思った。
前職の就職試験のときも 似たような経験をしていたし、20歳代の頃は 社内や社外ですらそのキャリアの話題は度々出たものだ。 いわば 定番 のような話だった。
「藤田さんは 昔 大人気ミュージシャンでしたよね?・・・
いやぁ、実は私はあなたよりもほんの少し上の世代ですがね、
当時のあなたのミュージシャンとしての絶頂期を知っているひとりなんですよ。
その藤田さんが芸能界をお辞めになって
普通の社会人になった本当の理由とはなんだったんですか?」
19歳。
僕は せっかく親が苦労して払った入学金や学費を投資してくれたにも関わらず、大学にはロクに行こうともせずに バイトに明け暮れながら、大好きだったロック・ミュージックにのめり込んでいた。
勿論 バンド活動。 僕はボーカルと楽曲作りがメインだった。
僕等は新宿のある有名ライブハウスに定期的に出演していた。
自主制作 という形でインディーズからもCDを発売していた。
時は80年代。 世間では“BOOWY”というバンドがインディーズから羽ばたいた時代。 異常ともいえる“バンドブーム”への予兆の到来だった。
当然 僕等もその人気に便乗するようにインディーズ・アーティストとしてはそれなりに人気のバンドのだった。
やがて大手レコード会社や 大手芸能プロダクションからメジャーデビューの誘いをもらった。
全くの運のおかげでメジャーデビューのチャンスを 簡単に手に入れた。 僕は大学も中退した。
まだ長髪で いかにもロックしてます的な格好をしていた19歳の冬だ。
メジャーデビューアルバムこそ ソコソコの売れ行きに留まった。 なにせデビューアルバムはそれまで自分達が好んでいたハードロックを全面に押し出した作品で インディーズ時代からのコアなファンと その手の音楽好きのためのアルバムだったからだ。
僕が19歳から20歳にかけて制作された2枚目のアルバムが劇的に僕らに変化を齎した。
売れ線の歌謡ロックを取り入れた 云わばビートロック路線に変えたことと 事務所やレコード会社が大々的なプロモーションを仕掛けたことが ものの見事に時代にハマったのだった。
勿論 もともとは演奏力やライブには定評のあったバンドで実力もあっただろう。 音楽雑誌の取材は格段に増えたし、ライブも都内中心のライブハウスツアーから全国規模へと展開、またライブハウスツアーの合間にはホールでのライブも行うようになっていた。
莫大な金額をかけてプロモーション展開を行ったものだ。
その甲斐あってか 僕等の2枚目のアルバムはヒットチャートのベスト30入りをする。
僕らは 新人バンドとしては異例の速さで その人気を不動のものとした。
20歳から21歳の頃。
「わずか4年足らずの活動で、
その絶頂期において突然音楽活動を休止された時 当時はかなりの衝撃でしたし、
ホントに世間はじめ 自分も驚きましたよ。
差し支えなければ その辞めた経緯と、その後 なぜ普通の社会人になったのか、
そして 前職を選んだ理由とはなにか 教えていただけませんか?」
前職の面接試験の時もそうだったし、前職場内でも 僕はよく当時のことを聞かれた。
所謂 『興味本位』 というやつなのだろう。
「あのぉ・・・
失礼を承知で申し上げますが、自身のキャリアの中で
確かに音楽活動のキャリアは 僕という人間形成の中でとても役立っています。
しかし、辞めて芸能界を去ってからもう10年ほどになります。
今 その音楽活動時期の話は止めませんか?
先ほど これまでの自身の社会人としてのキャリアはご説明させていただきました。
この際 その音楽活動時期の話、また 普通の社会人になった動機などの話よりも
今の僕をご判断いただき、
仕事人として必要か必要でないかでの採用のご判断をいただけないでしょうか?
勿論 正式採用の暁には 藤田を採用したことで後悔はさせませんから」
「アハハ」
突然副社長という人間が笑い出した。
「藤田さんは正直な方ですねぇ。 その正直な真っ直ぐさ、私は好きですよ。
もう その芸能界に居た頃の話は止めにしましょう、いいね 内田君。
藤田さんの一風変わったキャリアも、
そして前職でのキャリアもあって 今の藤田さんなのでしょうからね。
いや、むしろそういったキャリアをお持ちの藤田さんだからこそ
もしかしたら、逆に 既成概念にとらわれすぎている
今の我が社を変えてくれる起爆剤になっていただけるのかもしれませんね」
副社長の放ったその一言で場の空気が 採用面接のそれへと戻る。
「ご存じの通り 我が業界はバブル以降 もっとも迷走を続けている業界のひとつです。
“ 価格崩壊 ”“ ブランド戦略 ” 等々、非常の厳しい状況下にある。
わが社も例外ではなく 迷走を続け、
現状のマーケットでは今もってかなりの苦戦を強いられています
今、我が社には それを打破していく、新しい息吹と
新しい発想による社内の再構築が急務なんです。
あなたの社会的キャリアは十分理解させてもらった上で、
その真っ直ぐさを伴った人物としてのキャリアも私は是非買ってみたいと思うが・・・
役員の皆さん、そして藤田さん自身 いかがかな?」
そして 僕はこの会社に入社した。
「ところで・・・
差し障りなければ その・・・芸能界を引退して普通の社会人になった理由は?
よろしければお聞かせ願いたいのだが・・・」
即 その場で採用が決まった僕だったが、面接の最後に また話を蒸し返すように あえてそう聞いてきたのは 秋田だった。
僕を紹介してくれた人事部長は 僕を 申し訳なさそうに見ていた。
副社長は笑みを浮かべてこちらを見ている。 あの内田取締役も そしてその場に居た皆が興味津々だ。
仕方なく僕は 簡潔に話した。
「社会人になりたくて とか、芸能界に居たくて などとは一度も思わなかったです。
僕が歌を辞めて あの場所から居なくなったのは
そこで唄う必要性を僕自身が感じなくなったからです。
一番大切にしていた歌で、何より僕自身の言葉、
メロディーがそこでは歌えなくなってしまいました。 売れてしまったことで・・・。
その後 『売れる』音楽は書けても 僕自身が本当にやりたい音楽ではなかった。
当時は若気の至りもあったのでしょうが、結果 辞めた ということです。
今、音楽を辞めたことについて後悔は・・・していないと言えば嘘になりますし
現に今も1年に一度くらいは昔のメンバーとライブを行ったりもしています。
歌うことは大好きですし、自分の欠かせない一部の表現方法ですから。
むしろ今は 今の僕があるのは そういった様々な過去のおかげだと感謝しています。
それが芸能界を辞めた理由です。
前職に就いたのは・・・外資系企業ということも有り
実はただ単に英語が話せた という点と
それと採用試験で ただ必死に雇ってくれとしがみ付いてました。
働かなきゃ 暮らしてはいけなかったので。
そんな訳で 前職を選んだ理由は実は あまり無いんです。
働ければどこでも良かったですから」
伝わるようで 伝わりにくい表現をしてしまった。
しかし・・・秋田は僕の目を見て話を聞いた。 そして一言・・・
「あなたは非常にユニークな人材だ。
何よりも 副社長がおっしゃったように・・・真っ直ぐな人だ」
2枚目のアルバム以降もライブと平行し レコーディングは継続しながら、それでも僕らは怒涛の勢いで駆け抜けた。 バンドはまさに絶頂期を迎えていた。
ライブはホールツアーで常にフルハウスだったし、僕らは常に “ ファン ”と“ マスコミ ”に取り囲まれていた。
とりわけ僕の身辺は非常に騒がしくなってしまった。
その加熱振りは想像を遥かに超えた世界だった。
プライベートなど もはや 無くなった。
そして 21歳の夏、ひとつの出来事が起こる。
その歳の秋、サードアルバム発表後 所属事務所やレーベル、そしてバンドメンバーと話し合いを繰り返した結果、僕らはツアーの予定をキャンセル、重ねて僕自身は 単身ニューヨークへ渡り生活することを発表し、そしてバンドは無期限の活動休止を発表した。
様々な憶測や 心ないマスコミは当時 僕のことを騒ぎ立てた。
真実は紆余曲折し 伝えられた。
21歳の冬の出来事だった。
そして・・・約1年に及ぶ渡米明けの22歳の冬、帰国した僕に待ち受けていたのは 1年間の空白の代償・・・ともかく売れるアルバムを作る という作業と、マスコミとの戦い だった。
そして 僕は決断する。
自分の 心の中の 本当に歌いたい歌を歌う、売れなくてもいい、時代錯誤だといわれてもいい、ただ自分に正直でいたかった。
歌うことまで嘘はつけなかった。
それが出来なのなら メジャーシーンで歌わなくても 歌はどこでも歌える という結論だった。
僕にとって 歌う ということは 自分の生き方そのものだったということに気付いた。
誰かに何かを伝えたい、言葉では言い表せない感情を歌いたい。
歌うことは生きている自分自身の 心の代弁だった。
大切なのは歌うことでも メジャーで売れることでもない。
自分自身を貫くということだった。
そして 僕は一切の芸能界での音楽活動を辞めた。
23歳。
わずか4年弱の音楽活動だった




