episode Ⅴ~12
「ねぇ どうしてもいきたいところがあるんだぁ・・・」
いつもの彼女からの電話で 突然そう言われた。
「行きたいところって? いつ? ランチの新しい店でも見つけたのかよ?」
「ううん、そうじゃなくて。
・・・
レイ、明日 定時で仕事切り上げて」
「え・・・ なんだよそれ・・・」
僕には彼女の話している意味がいまひとつ伝わらなかった。
「だからぁ・・・ふたりでさぁ 仕事終わってから・・・お出かけしようよ」
思わず僕は笑っていた。
「アハハ、そりゃ無理じゃねぇ? だって 奈緒、夜はさぁ・・・」
「明日ね、旦那が深夜遅くのタクシー帰りになるんだ。
だから 奈緒も終電までに間に合えばいいからさ・・・」
・・・
「だからね、ふたりでご飯食べてさ デートしよ? 駄目?」
ドキドキしていた。 今だ僕は彼女の立場を考えて夜は誘ったことが無い。 またそれが僕らふたりの暗黙の了解だったはずだ。 何しろ彼女は既婚者。 それが・・・。
「奈緒・・・お前さぁ 自分でなに言ってるか わかってんの?」
「うん」
「一応ね オレなりには 夜 逢いたくても我慢してきたって言うかさぁ・・・」
突然彼女が笑い出した。 しかもその笑い声から奈緒の大きな口をあけてまるで『ガハハ』といわんばかりの笑顔が想像できた。
「レイ・・・まさか・・・なに期待しちゃってんのぉ?
エッチでもする気?
この エロオヤジ・・・」
「あのさぁ お前 普段はまともな日本語も話せねぇくせに
エロオヤジって・・・変な日本語だけはマスターしてんだな・・・
しかもオレはまだオヤジじゃぁねぇっつうの・・・。
それに 言っとくけど・・・
胸も無いお前とそんなことするわけねぇだろ、馬ぁ~鹿」
「え? なに? 聞こえな~い。
レイ そんなエッチなこと考えてたんだぁ」
電話越しの彼女の声がいかにも楽しそうだった。
「でも、そんなんじゃなくてさ・・・あのね・・・お台場に行きたいんだぁ。
あたし 日本に帰ってから 行ったことないしさ。
ね・・・いいでしょ?」
「なんだよ 台場かよ。 ・・・って お前 夜 本当に大丈夫なのか?」
「うん 平気」
即答だった。 何も迷うことのない返答。
「いや・・・そうじゃなくて・・・
既婚者のお前と・・・その・・・
一度でも夜ふたりで逢ったりしたら もっと逢いたくなって・・・。
これから先 オレの歯止めが利かなくなっちゃうかもしんねぇし・・・」
「なぁ~んだ、そんなことか、
そんなことなら あたし自身の歯止めが とっくに利いていないから安心して」
まったくもって僕の質問の答えになっていない答え。 奈緒はストレートだ。
結局僕らは翌日 仕事を早く切り上げて ふたりで台場へと行くことにした。
啓吾と大喧嘩をしたのは仕事帰りの彼からの電話だった。
『今夜もいつもどおり終電で帰るから 先に食事済ませてて。
それと・・・
明日の夜も仕事で接待になってしまって・・・帰りは深夜になるから先に寝てていいよ』
そう言われた時 無性に空しかった。
今夜も明日も仕事。 日本に帰って 結婚をして、いつしかずっとこうだ。
そして これからもずっと・・・休日以外はふたりで食事すら取ったことが無い。
それでも彼は 決まって最後にはこう付け加えて話す。
『僕は君のために仕事をしている』
嘘 だ。 彼は彼自身のエゴを満たすために、あたしという存在を必要としていることはもう十分判っていた。
“ 本当のあたし ”のことなど知ろうともしなければ 言い争うことも決してしない。
「啓吾・・・あたしはなんのためにあなたと結婚したの?
あなたと あなたの仕事の為だけに結婚したわけじゃないのに・・・」
悲しかった。 いくらレイのことが好きだとしても 啓吾に対してそういわなければならないほど悪化した結婚というこの状況が悲しかった。
もう、あたしがあたしでいられる場所は啓吾とのこの生活ではないのかもしれない。
「うわぁ なんか空の上を走ってるみたいだね!
ゆりかもめ 最高じゃん!」
まるで子供のようにはしゃぐ彼女の隣で 通常のそれと比べて少し座席感覚の狭いゆりかもめの中 子供のようにはしゃぐ奈緒。
“ いい歳をして はしゃいでいる『こいつ』とは他人のフリをしなければ・・・ ”
そんなことを考え、彼女のように ゆりかもめ から眺められる湾岸の風景など目には入らなかった。
「ねぇねぇ、レイ、 あれが台場だよね? アレがフジテレビだよね?」
マジでうるさい。
「ねぇ、どっちが銀座? 上?下?」
彼女は極端な方向音痴だった。 そのためか 表現も少し可笑しい。 普通なら 目的地や知りたい場所の表現方法など 『東西南北』での表現だろうが、彼女の場合 全て『上下左右』 という風になる。 何度か“ なんで? ”と聞くと 答えは決まってこうだった。
『だって もともと方向音痴のあたしに東西南北なんかわかるわけ ないじゃん 』
・・・
確かにその通り。
しかし・・・頼むからはしゃぐのだけは勘弁してれ。
今は会社も終わり 早々に退社した恋人たちがデートで台場に向かうのも多く 当然その車内はそういった人たちも多い。
彼女の声は意外に大きいし、向かいの席に腰掛けていた少しだけ年老いたサラリーマンがそんな彼女のはしゃぎようを見て またその上下左右表現を聞いて笑っている。
「ねぇねぇ、レイ、高速がすぐ横を通ってるよ! 海も凄い 近いねぇ!」
「あ、あのさぁ お前、子供じゃないんだからさ。
それに もう少し小さな声で話してくれよ」
自分が恥ずかしくてかなわない僕はついに、座席の窓側に座っている彼女の、その車外ばかり見ている彼女の頭を軽く掴みこちらを向かせてそう話した。
「痛っ、 なんで叩くのぉ? いいじゃんかぁ、はしゃいだってぇ」
「お前は楽しくてもさ、周りがそんなでかい声で話されたら迷惑すんだろ?」
「ふ~ん・・・とかなんとか言ってさ、本当はレイだってはしゃぎたいくせに」
そう言ってはまたフジテレビだ海だと騒ぎ出す。
僕は・・・開いた口が塞がらないとはこのことだ。
「海が綺麗・・・」
台場を降りてアクアシティを横に眺めながら彼女は真っ直ぐに海へと向かう。
シンボルプロムナード公園。 通称 海に向かう公園。
柔らかな街灯が灯りはじめる時間。
「あ・・・」
彼女が急に足を止める。
「なんだよ?」
「自由の女神・・・」
「お前、ここにこれがあるの 知らなかったのかよ。
スケールダウンされてるけど 確かに自由の女神だね。
東京には違和感があるけどな」
ふと彼女の横顔が僕の知らないほどの優しさを伴って それを見ている。 何かを懐かしんでいるのか。 まぁ しかし 当然だろう。 彼女は本物の自由の女神のある街で青春時代を過ごしてきたのだろうから。
「懐かしい?」
「え? あ、うん・・・なんか ニューヨークみたい。
“ 彼女 ”が居て、海があって・・・向こうに街が見えて。
東京にいるのに、なんか ここ ニューヨークの匂いがする」
そんな奈緒の表情を見て 心から抱きしめたいと思っていた。
僕らは手を繋ぎながら歩を進め公園の階段を下り、浜辺へと向かう。
「うわぁ・・・凄く気持ちいい」
夏の夕風が心地良さを伴う。
「奈緒さぁ、本当に大丈夫なの? 今夜・・・。
もしもオレに気を使って 今日のことも旦那さんが留守だとか言って
こうしてデートしようとしてるならさ・・・」
「別に 嘘付いてないし、レイに気を使ってるわけじゃないよ。
あたしがこうしたいから してるだけ。
旦那が留守でも留守じゃなくても レイとこうしていたいと思ったら
これからはレイと二人でいるの」
奈緒は なにかを吹っ切っているかのように話す。
「それにね・・・逢いたい時に 旦那がいたら・・・
嘘つくかもしれないし、無理しないで 我慢しちゃうかもしれないし・・・。
でも・・・これからは 逢いたいと思った時に逢いたい。
自分には嘘はつかないって決めたんだ あたし」
優しい笑顔を向けて話す。
「オレは前も話したけど・・・」
「『オレはひとりだから大丈夫、けど奈緒は既婚だし ふたりでいるんだし』・・・でしょ?」
「奈緒・・・」
「もう ひとりじゃないじゃんか・・・。 レイはひとりじゃないよ。
今まで レイといろんなお話して、
静香や周りの人からも いろんな レイの話を聞いて・・・。
これでもあたし、少しは レイのこと理解してるつもり。
レイは 沢山のことを経験して、傷ついて、葛藤して、
それでも人に優しくして、人を裏切らないで 人のことばかり考えて
そうして強く生きてきて・・・」
奈緒とこの瞬間話をしていて 僕は不思議な気持ちだった。
何か自分の心の奥に眠らせた『孤独』を・・・結衣 という女性を失ってからの『孤独』を、歌うという仕事での『葛藤』も、辞めたという事実に対する僕の心の想いの『孤独』も、また 歌を辞めてからの自分なりの『孤独』も、なにもかも、人に話したことの無い僕の『心』を彼女は知っているような感覚。
「そうしてひとりで頑張ってきて。
でもね・・・もうレイはひとりじゃないよ・・・」
・・・
「あたしもね、ずっとニューヨークで孤独だったの。
いろんなことが起こって・・・人種差別だって 本当は凄い街なの。
辛くて、何度も挫折して、孤独に耐えられなくて・・・。
あたしはね、その孤独を埋めるために 何人もボーイフレンドを作ってさぁ
男の人は・・・外人は あたしに 日本の女の子に優しいから・・・。
それで孤独が埋まると信じてた。 けど駄目。
結局体だけ・・・」
・・・
「そんな時にね、旦那と知り合ったの
当時あたしはホントどうしようの無い女の子で・・・
体だけってわかってても男の人に依存して。
そうしていれば マンハッタンではあたしはあたし自身を守れたの。
一種のセキュリティみたいなもの。
そんなあたしに駄目だと言ってくれたのが旦那」
海の向こうに隅田川ラインから下ってきた屋台船が揺られていた。
クルーズする客船も見える。
「そんな旦那を信じて結婚もして 日本に帰ってきたけど・・・
結局孤独だった。
旦那は仕事ばかりで。 あたしは彼にとっては仕事の道具の一つと同じなの。
綺麗で、帰国子女で、頭がよくて、スタイルもまぁまぁ。
そんなお嫁さんがいます、妻です って紹介することが至福のときみたいな感じ」
・・・
「だから・・・あたしは孤独からまた抜け出せていない。
ニューヨークにいた時の孤独も 東京での孤独も
本当の理由はほかにあるんだけど・・・でも結局抜け出せないでいたの」
・・・
「そんな時にね、レイに出逢ったの」
・・・
「レイを見たとき・・・一目惚れだったんだぁ あたし。 上手く表現できなかったけど・・・。
でね、レイと話したり レイのこと色んな人から聞いたりして
なんか一緒だなぁ って思った。
勝手にだけどね、レイとあたし・・・似てるなぁって。
それにね・・・レイといるとあたし 自然体でいられるの」
綺麗だった。 向こうに見える東京も、海も。
この場所が こうして眺めるこの風景が、周りにもいる恋人達が。 そして 奈緒が・・・何もかもが今 夏の夜に 綺麗に写る。
「だから・・・。
もうレイは ひとりじゃないよ。
そして・・・あたしも。
レイに逢いたい と思うと本当に逢いたくなってさ、こうして行動に移しちゃう。
だから・・・もっとこうしていたい。 何度もここに来たい。
旦那のことは・・・心配しないで。
あたしの問題だから」
「奈緒・・・オレはさ お前が苦しむ・・・」
「そんなこと思わないでよぉ、平気だよ。
あたしはレイと逢って苦しんだりしないよ。
苦しいのはあたし自身の旦那に対する曖昧な気持ちがそうさせてるだけだから・・・」
静かだ。 お台場という恋人達のスポット、東京という場所なのにこの場所だけハイ次元の空間のようだった。
「だから・・・ ふたり でいたい」
手を繋ぎながら 僕の正面にいる彼女を見る。
長い髪はいつもそうであるように後ろへと束ねられている。 少しだけ降りて瞳にかかるくらいの前髪。 まるいおでこ。 大きく澄んだ瞳。 意志の強さを表すようなすっきりとした鼻立ち。 薄いルージュの似合う唇。
細い首筋。 決して広くない肩幅。 細い腕。 あまり無い胸。 細く華奢な体だがセクシーなラインにしなやかに伸びる脚。
今僕の目の前にいて 手を繋いでいる彼女はまさに僕の理想だった。 いや外見だけではない。
話している時は楽しいし 喧嘩もできる。 ボケることもできればツッコミもできる。 インテリジェンスな話題や今日あったゴシップ紙の話題も話せる。
総じて 僕らはまるで何十年も前からの知り合いのように接することもできるし、恋人であり兄弟であり家族であり友達でいられる。
そんな奈緒が話した言葉。 優しく微笑むが何かを決意した瞳
僕はもう迷わない。
「そうだな・・・ひとりじゃない。
ふたり だ・・・」
そうして僕らはメディアージュの中の『ワイルドシングス』アトラクションでまるで子供のようにはしゃぎ、アクアシティの中の『ピッツェリア マルーモ』とイタリアンレストランで厚めの生地のピザを頬張り ワインスカッシュを飲みながら色んな話をした。 僕のくだらないような過去の話、
たとえば歌をやっていた時に経験した 友人から譲り受けたボロボロのワゴン車に乗ってツアーを廻った時のこと、その車は走行18万キロ、走ると助手席側後方のスライドが軋み出すレアものの2万円の商用ワゴン車。
ある日僕らはいつものように新宿でバンドのメンバーと待ち合わせライブ先の神奈川の藤沢まで向かう国道一号で、そのドアが突然壊れ開きっぱなしの走り ついには警察に捕まり『切符』を切られ ライブに大遅刻したことや、ともかく本当にくだらない話をした。
そんな僕の話に彼女は、よく笑った。 まるで子供のように話の内容に
「なんで? どうして? それでぇ?」と 何度も聞いてきた。
僕が 過去の話を、少し嘘を交えて 過大表現をする時でさえ、
「ホントなんだぁ・・・」とあっさりと僕の嘘に騙され 今の話は嘘だよ と言う僕に奈緒は 容赦の無いデコピンや、対局しているテーブルの下の僕の脚に蹴りを入れる。
楽しい時間が過ぎる。 こんなにも楽しい時間は 僕にとって本当に無かった時間。
結衣との事があって以来 自分自身気付かずに塞いでしまったものが今解け始める。
そして こんなに笑う奈緒を見たことが無かった。 でも これが本当の彼女なのかもしれない。
「奈緒、もうすぐ帰らなきゃな・・・」
時刻は22時半。 彼女の住んでいる世田谷までの乗り継ぎ時間を考え 最終電車での帰宅を考えるとるとそれが妥当な時間だった。
「うん・・・そうだね」
レストランを出て僕らは台場の駅へと向かった。
途中 もう一度海が見たい という彼女に 僕らはまたプロムナードを歩く。
手を繋ぐ、そしていつしかそのことに慣れた僕らは 気がつけばいつも隣で互いを見れる距離にいる。
あたりは恋人達で溢れている。 夏の夜。 海から吹きつける風が更に心地良かった。
「レイにお願いがある、聞いて」
「なに?」
「あのね・・・一度だけでもいいから・・・」
少し照れながら彼女が話している。
「なんだよ、らしくねぇじゃん、はっきり言えば?」
「うん、
歌をね・・・ 唄を歌ってるレイを見たい」
少し意外な気がした。 これまでは僕に対して その歌のことを言うことなどなかった彼女が言った言葉。
「へぇ・・・意外だなぁ。
今まで あまり ミュージシャンとしての過去のオレには興味ないような感じだったのに・・・。
どうして?」
「うん・・・静香がね、前に教えてくれたんだけど、
レイは今でもこっそり何年かに一度 昔のバンドの人達とライブをやるんだって。
今年は確か秋に予定してたと思うよ って。
・・・見たいなぁ・・・レイ歌ってるとこ」
「なんだ、そんなことか」
僕はさほど気にも留めずにそう答えた。
「そうだなぁ、秋にまた昔の仲間とライブをやる予定でいるよ。
ちょうど会社の連中も招待するつもりだったしね。
奈緒が・・・もしも秋までに オレを嫌いになってなかったら見れるよ、ライブ」
僕は冗談のつもりで言った。
しかし彼女の反応はまるで違うものだった。
「嫌いになんかならないよぉ! 嫌いになんか・・・なれないよ・・・」
さっきまで笑顔の彼女が急に寂しそうになった。
「奈緒・・・冗談だって・・・」
あまりにも真剣に返されたので逆に僕が戸惑ってしまった。
「レイ・・・ずっとずっと好きだったんだよ・・・
レイが思う以上にあたし レイのことが好きなんだよ・・・
だから冗談でもそんなこと言わないで・・・そんな悲しい事言わないで。
あたしから嫌いになることなんて無いんだから。
あたしがレイに嫌われなきゃ あたしからそうなることなんて絶対に無いんだから」
まるで子供だった。 とても彼女が結婚をしていて 会社で見る大人の彼女とは思えないほど、素直で、いつでもストレートに僕に感情をぶつけてくる彼女。 そして今 泣き出しそうな彼女がいた。
「アハハ、大丈夫だよ。 オレはお前を嫌いになんかならないさ。
奈緒と またこうして一緒にいたいと思ってるよ」
しかし・・・その言葉を声に出した瞬間・・・本当は判っていた。
この恋は いつか 二つの選択を迫られる恋でしかないことを。
「うん・・・」
「いいよ、絶対にライブに招待するし 歌ってるとこ見てもらうかな」
「やったぁ!」
まるで南国の天気のように彼女の表情はめまぐるしく変わる。
海を眺めていた僕らはやがて台場の駅へ向かい出していた。
突然繋いでいた手を解く奈緒。
「ねぇ」
「なに? どうした?
急がなきゃ電車 遅れるだろ?」
「レイ・・・キスしたい」 少し大きな声で話し出す。
台場へ向かうプロムナードの途中で放たれた彼女の言葉は 想像以上に周りを行きかう人達にも聞こえたようだった。
「あのさぁ・・・お前・・・」
「キスして・・・今すぐ」
勿論僕らがこれまで そういった行為をしたことは無かった。 それはこうして夜に逢うこともなかったし、逢うのはいつも仕事中の昼のランチや 夜に食事をしても二人きりということはなかったせいもある。 しかし何よりもそうしなかったのは 互いに互いの立場を知り 制御していたからだろう。
しかし今夜、彼女にはそれが無い。 迷い、それが無い。
「奈緒、どうしたの?」
どうしていいか戸惑っている僕のほうへ 突然彼女が歩み寄り・・・
そして キス。
『小さな恋のメロディ』という映画の中のワンシーンのようなキス。
ほんの一瞬の出来事だった。 そしていたずらっ子のような瞳で僕を見上げる。
周りの行きかう人達からは冷やかしとも取れる声や 少しだけ羨ましそうな そんな声が聞こえる。
そんな彼女が愛しかった。 離したくない、強くそう思った。
触れた体温が僕をそうさせたのか。
今度は僕から彼女を引き寄せる。
『あ・・・』という彼女の声を掻き消すように僕は彼女にキスをした。
彼女の柔らかい唇に何度も何度も触れ長いキスを交わした。 肩を抱き、腰に手を回し 彼女を抱きしめていた。 彼女もまた僕の腰に手を回し引き寄せあう。 そうして僕らは それは とても長い長いキスを交わした。
やがて唇が離れた瞬間の、背伸びをしていた彼女が少し震えながら そして僕が腰から手を話した次の瞬間によろける。
互いに顔を見合い そして僕らは大きく笑った。
行きかう人たちの中から 冷やかしの拍手が聞こえた。
「ありがと・・・」 奈緒が照れながら呟く。
「いえいえ こちらこそ。 ご馳走様」
僕は彼女の頭を撫でながらおどけて見せる。
「馬ぁ~鹿」
彼女が本当に綺麗だった。
「レイのキス・・・」
「なんだよ・・・下手 とかいうなよ・・・」
「ううん、ピザの味がした」
彼女はいつもの彼女のように大きく口を開けて笑い出す。
「馬ぁ~鹿、そりゃ お前もだよ」
奈緒が本当に嬉しそうだった。
また僕の腰に手を回して抱きついてくる。 僕は彼女の肩を抱く。
初めての、ふたりのキスの夜。
ふたりは寄り添いながら台場の駅へと向かった。




