episode Ⅴ~6
「そういえば・・・レイジ、お前 またマイケルと揉めたらしいなぁ」
同僚の今田。 奴とは中途採用の同期の仲だ。
昼食の牛丼屋でせわしなく運ばれる箸の、その合間に今田からの忠告。
「なんだ、そのことか。 言っとくけどなぁ、オレは悪くないぜ」
この会社に転職した最初の出勤時のことだった。
『あなた あの“藤田レイジ”さんですよねぇ?
トップミュージシャンにして 突然引退してしまった・・・』
リクルートスーツを着込み ともすれば新卒のような装い、それが今田だった。
この会社は もともと通勤時の服装は自由だ。 営業職でも内勤職でもスーツを着込んだ男性はごく稀だ。 にもかかわらずこの男は最初から一貫してのスーツ姿で会社で働く。
入社当時 僕より二つ年上の25歳。 でも彼のマーチャンダイザーとしての経験や才能はは入社当初より際立っていた。 当然だった、彼はこの会社へはヘッドハンティングされて入社してきた奴で、大手のアパレル関連会社で既にかなりの経験と実績を積んでいたからだ。
なぜか僕とは正反対の温厚派の今田と僕は気が合った。
今田はミュージシャン時代の僕のファンだったそうだ。 何も珍しいことではない、僕のミュージシャン時代を知る人間は多いからだ。 最初の付き合いはそうであっても 今田は次第にミュージシャンとしての僕ではなく社会人としての僕として付き合ってくれた。
以来 部署は違えど仕事を超えて、親友だった。
「お前さぁ 少しは自分の立場考えたほうがいいぞ・・・。
お前は気付いてないかもしれないけど、能力は高いし、
第一にCEOのお気に入りだ。
だったらもっと、マイケルや海外の連中とも仲良く付き合ったらどうなんだ?
出世に響くぜ、
なんだかんだ言ったって うちが外資で、奴等の意向には逆らえないんだから」
「わかってるよ、それくらいはな。
ただオレはマイケルのお気に入りでやってきたあの女が気に入らないだけさ。
挨拶さえろくに出来ねぇし、そのことでマイケルにちょっと文句を言っただけさ。
なんでも あいつの意見が一番反映されての採用だったそうじゃねぇかよ。
まったく・・・採用に自分の好みを反映させるほうが馬鹿げてるよ」
「けど・・・奈緒ちゃんは CEOやら 他の面子もちゃんと面接して、
筆記も受けて 正式に採用されてんだぜ。
何もマイケルの好みが反映って・・・それはいくらなんでもないだろ?
それに、少なからず彼女の採用は正解さ。
会社の内外ウケは少なくともお前よりは良いし、そういうオレにも愛想が良いしさ」
「なんだよ、その“ 奈緒ちゃん ”って・・・あいつの本性はきっと悪魔だぜ」
「アハハ 案外そうかもな。 でも仕事もできるし、確かに綺麗で愛想はいいし、
英語だってさすが本場仕込みだよな。
英語で会話してる時の彼女なんて、むしろカッコ良いくらいさ。
でも・・・既婚者なんだろ? 彼女」
その既婚者というのが社内のあいつの印象を、更に親しみやすく好印象にさせているのか、そのせいもあって、みんながあいつのことを“ 奈緒ちゃん ”なんて呼んでいる。
「けどさ、 なんでお前にだけは彼女 あからさまに態度が違うんだろうな?
みんなには 普通に優しいぜ。」
「知るかよ そんなこと・・・」
「わかった。 お前 彼女の入社日初日にでもセクハラしたんじゃないか?
実は奈緒ちゃんがお前のミュージシャン時代の追っかけだったりとかして
憧れの的だったのに、社内でモテモテのレイジくんが手ぇ出したとか・・・」
想像力豊富なやつだ。
「んなわけねぇだろ?
第一 あいつ 日本にいなかっただろ? その時代。
オレの音楽やミュージシャン時代なんか知ってるわけねぇだろ」
「アハハ、だよなぁ」
「おい、そろそろ昼飯も終わりの時間だ、会社戻ろうぜ」
あの女には正直 手を焼いていた。
何かと僕にちょっかいは出してくるものの こちらから気を取り直して話しかけても 素直に僕の言うことなど聞かない。
どんな時でも僕は 部下の相田か桐山を通してでしか彼女には仕事も頼めないほど気を使っていた。
そういえば あいつ ニューヨークにいたって言ってたっけ。
良き思い出の街。
そういえばあのニックや日本人の家族は元気なのかなぁ。
いやいや、そんなことよりも、本当にこのままではあの女との仕事にいつか支障を来すだろう。 何とかしなければ・・・あの女。
「ねぇ レイジくん・・・お願いがあるんだけど」
別のチームの中村ねぇさんから声を掛けられたのは そんな時だった。
僕よりも2歳年上、今田と同じ年齢だ。 バリバリのキャリア組み。 もうおばちゃんの年齢にもかかわらず 毎日仕事終わりにジムに通っているせいか おばちゃんというよりかは“ ねぇさん ”といった印象がピッタリの姉御肌の人で、僕は入社以来 何かとお世話になった女性だ。
「どうしたんスか? ねぇさんがお願いなんて」
この女性が頼みごとをするなんて珍しい。 いつもは立場が逆なのに。
「うん、あのね、明日19時から
ほら、前にレイジ君に商談のお手伝いしてもらったA社 あったでしょ?
あの会社が協賛してテレビの企業CMに使っている
映画の試写会に行ってもらいたいの」
「な~んだ、そんなことか、仕事の付き合いで ってわけですね。
明日かぁ・・・」
スケジュールを確認する。
「いいですよ。 っていうか オレ一人なわけないですよね?
ねぇさんも一緒でしょう?」
「実はね 招待用のチケットが3枚なんだよ。
一人はあたしで良いとして、レイジ君でしょ、それと・・・」
「あ、だったら 今田とか・・・」
「そう思って彼誘ってみたら 明日はバイヤーチームのミーティングがあるらしいのよ。
で、他をいろいろ当たってみたの、静香ちゃんとか・・・
でもあいにくみんなそれぞれに予定が埋まってて。 なにせ今日の明日でしょ?」
確かに明日は金曜日だった。 男性人はともかく女性陣で彼氏のいる奴らはデートだろう。
「でね・・・一人だけその映画 どうしても見たいってひとがいてね・・・
その人に 明日の試写会、あたしとレイジ君とのもう一人のお相手にお願いしたんだけど・・・」
「いいですよ オレなら誰とでも。 どうせ ねぇさんの頼みだし」
「よかったぁ、 じゃぁ ともかく 明日ね」
指定の時間や場所等連絡してから ねぇさんは なにやらバツが悪そうに僕の席の前から急いで退散しようとする。
「ところで ねぇさん、誰なんです? 明日のもうひとりは?」
「ああ・・・。
奈緒ちゃん・・・よろしくね」 ねぇさんがウインクしてきた。
そして すぐに自分のデスクに逃げた。
・・・・・・
「マジ!!!
ちょっ・・・ちょっとぉ! ねぇさん!!!
憂鬱だった。
その日は朝からテンションは明らかに下がっていた。 こんなに憂鬱な日はここのところあまり経験がない。 原因は明らかだ。 かなり久しぶりの定時での退社で金曜日。 とても綺麗な女の娘 とのダブルデート・・・。 と ここまでなら誰が聞いても羨ましく思えてくるだろう。 ところが その相手が問題だった。 もっか僕の中で最悪な女、悪魔のごとく ことごとく僕の邪魔をする女。 それが僕のねぇさんと一緒に見る試写会のもう一人の相手。 何が悲しくてあんな女と・・・。
テンションは明らかに下がっていく。 それは時間の経過とともにゼロポイントを下回り明らかにマイナスポイントまで来ていた。
「いいなぁ 奈緒、レイジくんとデートなんてさぁ
ちょっと羨ましいけど・・・友達としては “ 良かったね ” だね」
ウインクしてくる静香。
実は静香が誘われたその試写会は 彼女の都合で急遽 あたしに誘いが回ってきた。
昨日営業部の中村さんから 今日の試写会のお誘いを受けた時 あたしは即答だった。
「あたし行きます!」 ものすごく驚いた顔をされた。 中村さんに。 そして横にいた静香に。
「あ・・・そう・・・。
うん 良かったぁ。 でも奈緒ちゃん さっきも話したけどね、
その試写会の相手、レイジ君にお願いする予定だけど・・・本当にいいの?」
あたしは極力悟られないように
「うん、その映画 あたしどうしても見たかったんです。
だから 相手が誰であろうと あの変なオヤジだろうと 平気ですから」
「ちょ・・・ちょっとぉ 奈緒ぉ 大丈夫ぅう?」 静香が別の意味でだろう、心配そうにあたしを覗き込んだ。
「そうそう 奈緒ちゃん 金曜だし それに旦那さんは? 大丈夫なの?
予定とかあるんじゃないの?」 と中村さん。
「うん、それなら ちゃんと旦那にお断りしてから行きます。
それに確か 啓吾・・・旦那は 金曜は帰りがかなり遅くなるって話してたし
全然問題ないです」 あたしはつい両手でガッツポーズをとってしまった。
「あ・・・そう・・・じゃぁ 何とか大丈夫そうね・・・
うん わかった。 じゃぁ明日定時であがったら19時 新橋ね
あたしとレイジ君も一緒に社を出るから奈緒ちゃんも一緒に行こうね」
『やったぁ!』 それが素直なあたしの感想だった。
その日の夜 啓吾に嘘をついた。
『明日は会社のみんなとお食事なの』
そう話したあたしに
「そっかぁ、銀座で食事なの?
だったら 僕は帰り間際に君の携帯に電話するね
どうせ僕は丸の内だし、時間があえば一緒の電車で帰ろう。
まぁ 楽しんでおいで」
嘘をつくことは いつも嫌な事だ。 後になってとてつもなく後悔する。
定時終了ともに行う夕礼。 部長への今日一日の一折の報告を終える。 さすがに今日は金曜日だ。 特に女性陣の退社比率が高い。
そんな中 僕の憂鬱さはまさにピークを迎えていた。
今日一日 結局僕は あの悪魔とは一言も言葉を交わすことはなかった。 僕より2つほどしか離れていないデスクに腰掛けているのに。
『あ~あ・・・マジかよ・・・ねぇさんはともかくとして何であんな奴と・・・。
既婚者なんだから さっさと家に帰れよな・・・』
「レイジ君 ごめん、一緒に行くって予定だったけど、
先に奈緒ちゃんと出てて。 部長と30分ほどミーティングがあるから。
みんなが遅れていくわけにはいかないからさ」
中村ねぇさんがそそくさとミーティングの準備をしながら僕の横をすり抜けていく。
「えっ? って何で? 一緒じゃなかったんスか? だったらオレも遅れて出ますよ。
あいつに先に行ってて貰いましょうよ」
「なに言ってるの!
奈緒ちゃん 極度の方向音痴らしいから誰かが一緒に行ってあげないと・・・。
一応レイジ君は彼女の上司なんだからあの娘 迷子にしちゃいけないでしょ?
ほら 先に行ってて」
僕の中のテンションというものが完全にその姿を消した瞬間だった。
『ふたりっきりかよ!』
「じゃぁ 奈緒ちゃん 後はレイジ君に付いてってね。 あたしは後で ね」
そう言ってそそくさと部長達とオフィスを出て行く。
「はぁ~い、中村さん 先に行ってまぁ~す」
『ふざけんな! 馬鹿! お前一人で行けよ!!』 と僕の心の中の呟き。
「おい・・・準備しろよ。 試写会までにあと40分しかねぇんだからな・・・行くぞ」
そう言いなが僕はパソコンの電源を切ろうとしていた。
「オーケイ、奈緒ならもう準備万端なんだけど」
行く気満々じゃねぇかよ・・・。
さらに 僕は落ち込んだ。
銀座にある僕らのオフィスから歩いて30分もあれば十分に新橋には行けた。
6月に入り 外は真夏並みの蒸し暑さだ。 沢山の有楽町方面へと向かう帰宅の人混みの中を僕らは新橋に向かった。
今日の試写予定の映画は 洋画の話題パニック映画だった。 ハリケーンに立ち向かう漁師の話。 実話を基にした映画らしい。 キャスティングも有名どころばかりで 本国で先行公開されかなりのヒットを記録している。 ド派手なCGと今話題の俳優のキャスティング、そして巨額の制作費をかけたパニック映画でありながら結局はヒューマンドラマ仕立てに仕上げた内容。 確かに僕もこの夏見てみたいと思っていた映画のひとつだった。
「ねぇねぇ レイはさぁ あの手の映画 好き?」
歩きながら鼻歌を歌い わざと早足だった僕の後ろをしっかりとついてくる。
「ああ・・・見たいと思ってた映画さ、 それがどうだよ・・・
せっかくねぇさんがくれた試写会のチケットなのに 何でお前なんかと・・・」
「へぇ~そうなんだぁ、
ねぇねぇ あたしね ジョージ・クルーニーって大好きなんだよねぇ~」
CGとかも かなりリアルに作りこんでいるらしくってさぁ
海で遭難するシーンなんか意外に怖いんだって。
先行で公開されてるアメリカで 既に見た向こうの友達が言ってたよ」
「はいはい・・・」
線路沿いを歩く。 これで新橋までの道のりは相当短縮できた。 途中 ガードをくぐる。
その際 いきなりガードの中で後ろから迫る車にクラクションを鳴らされた。 その道幅の狭さから僕の後ろをついて歩いていた古谷が邪魔だったのだろう。
その音に驚いたのか、はたまた引かれるとでも思ったのか、古谷が僕のすぐ後ろへ駆け寄り そして僕は腕を捉まれた。
『なんだよ、こいつ・・・意外に可愛いとこ あるんだなぁ』
腕を捉まれた瞬間 その悪魔と思っていた女の 一瞬 胸が肘に当たった。
そして これも一瞬だったが とても良い香り、香水の匂い。 さらに今日の古谷は水色のラフなシャツにジーンズ姿だったが、ともすればなんとも無い服装の中にもこいつなりのセンスが感じられる服装だった。 そのシャツの少し大きめに開いたその襟元から一瞬胸元が見えてしまった。
一瞬だけ僕は 普段悪魔のような女 を忘れ 女性として意識してしまった。
映画は アメリカの俳優ジョージ・クルーニー主演のスペクタクル巨編として一般公開前からかなりの話題作だ。
1991年、ある漁師たちに降りかかった大嵐“グレイス”、その実話に沿って描かれている、その話題作の関係者向けの試写会 ということで 配給元の映画会社のビルの中にある30人も入れば一杯になるような小部屋での試写会だった。 試写会はプレミアム招待形式で一週間に渡り 厳選された関係者のみに許されているものらしい。
試写会場の入場が始まり、上映時間の15分前に中村ねぇさんが 何とか駆け込みで合流した。
僕らはスクリーン正面から向かって、右から順に中村女史、僕・そして・・・あいつ、つまり僕の右隣に古谷の順で席に着くことにした。
「奈緒ちゃん、この席順で良いよね?」
その中村ねぇさんの問いに
「うん、邪魔者が一人要るけどぉ。
中村さん、どうせだったらレイなんかじゃなくて 今田さんのほうが良かったのにぃ」
相変わらず可愛くない奴。
「まぁまぁ、
ほら3列後ろの席にいる いかにも偉そうな スーツ着てる人いるでしょ?
あの人 今回のチケットをくれた会社の部長さんね。 レイジ君は勿論面識あるよね?
あとで 奈緒ちゃんもご挨拶だけはしてね」
中村ねぇさんが古谷に話をしている間、その部長に僕は挨拶に向かった。
中村さんは続けて古谷に
「普段はものすごくシビアな人で、営業担当のあたしが手こずってたんだけど、
ある時 先方の会社の協力を得なきゃいけない仕事があってね。
でも 中々先方の仕事の責任者でもあったあの部長さんのOKがもらえなくて・・・。
それで、ちょっと思うところがあって、レイジ君に営業の手伝いをお願いしたのね。
そしたら 彼、ものの見事に部長を落として商談を成立させた経緯がある、
その部長さんなのよ。
ホント、あの時はレイジ君に助けられたなぁ。
なにせ うちの取引先では 過去も今も一番気難しいとされる部長さんを
レイジ君が ほとんど一人で落としちゃったんだもんね。
以来 うちの社とは いたって友好関係 ってわけ。
だから この場にはどうしてもレイジ君がいてもらわなきゃいけなかったのね」
彼が その中村さんの言う“気難しい”と称された部長さんとなにやら談笑している。
「ふ~ん・・・そうなんだぁ・・・」
「奈緒ちゃん、ああ見えても レイジくんは意外と人望も厚いし
仕事もかなりやり手なのよ。
それに 実はマイケルといつも遣り合っているのも
日本人スタッフみんなのことを考えての彼の行動なのよ。
うちは外資だし
やはり日本人スタッフは本国のスタッフの前だと萎縮しちゃってなかなか物も言えないしね。
実際に過去は発言も限られてたし・・・。
それを彼は たった一人でマイケルやそのほかの海外スタッフの幹部に挑んでは、
これまでもいくつか仕事を 日本人スタッフのやりやすいように変えてきたのよね。
だからうちの渡辺CEOの信頼も厚いのよ、うちの有望社員・・・次期部長候補なんだからさ」
それは あたしが入社して既に2ヶ月、彼を見ていれば判っていたし、いや それ以前から知っている。
彼は “ あの頃 ”となにも変わることなく 真っ直ぐに生きているのだと。
自分のことより いつも誰かのこと。 それが彼だ。
でも・・・彼の前では素直になれなかった。
あたしから素直に“ あの頃 ”の事を話せばそれでいいのに。 静香にもいつもそう言われた。 でも言えなかった。
今のあたしは・・・あの頃のあたしじゃないんだ。
変わったのはあたしのほうだ。 それが彼の前ではどういうわけか罪悪感に変わり、“ あの頃 ”の事を言い出せなくさせていた。
現実には勝てなくて、いつしか逃げてばかりいた あたし。
どんなに状況が変わっても、常に自分であり続けた 彼。
今は どんな形にせよ、彼に嫌われたくなかった。 嫌われたくないから むしろ 気に障るような態度をとり彼を引きつけておこうとしているのかもしれない。
そして、彼が“ あの頃 ”の事を忘れたなら 忘れられたままでいい。 こうして傍にいれるなら。
静香から彼について、あたしの知らない この10年の事はおおよそ聞いた。
彼は 昔のことをあまり話したがらないのだという。 特にミュージシャン時代のことを。
それがかえって 彼の過去のミュージシャン時代を知る会社の中の人達にとっては 未だに彼が芸能人=憧れのような存在としてあり続けているのだろう。 事実 彼はこの会社では男女問わずかなりの人気者だし、また時々今の彼の姿を取材しようとするマスコミもあるという。
しかし彼は、今を生きている。 社会人として この仕事誇りを持ち、また精一杯今を生きているように感じる。 その彼は芸能界を辞めた真実についてあまり多くは語ろうとせず、 会社でもごく一部の人間・・・彼から直接その真相を聞いた人間しか その真相は知らないらしい。 そのごく一部の人間に静香もいた。 うちの部署で真相を知っているのは部長と静香くらいのものらしい、勿論彼と一番の親しいバイヤーチームの今田さんも承知らしいが。
無論 あたし自身も彼が芸能界を辞めた理由についても、この職場に就いて初めてその真相を静香から聞いた。
“ 自分が自分であり続けるために 大好きな歌を商売道具にはされたくなかった ”
彼はそう話していたという。
会社のみんな・・・会社の内外に問わず、彼のアーティスト時代を知る人は 彼がその地位の絶頂期にミュージシャンを辞めたことを逃げたという人もいれば、もったいない事をしたと言う人もいる。 でも・・・あたしが知っている彼なら それはいかにも彼らしいやり方だと思った。
そんなあの当時のままの彼が 今 あたしの傍にいてくれて こうして映画を見れる。
何度も何度も夢にまで見た“ デート ”。 それだけでよかった。
「そっかぁ・・・レイって凄いんだ」
「そうよ、だから今日はあの部長さんもいるし、
あんまりレイジ君に突っかからないでね 奈緒ちゃん」
A社の部長とお会いさせていただくのは久しぶりだった。
この人は 取引先の中でも 難敵だった。 中村ねぇさんの頼みでなければ僕もこの人と商談の席に着くのは遠慮したいくらいだった。 ウワサどおりに一筋縄ではいかない人だったが 結局僕は真っ向勝負・・・直球で何もかも挑んだ。 小細工なし。
結果 会社の意向とその時の協力依頼を、どういうわけか受け入れてくれ 不可能と思われた協力を何とかこぎつけられた。 それ以来 うちの社とA社はかなりの友好関係にある。
「ねぇ レイジ君、もうすぐ上映時間よ」
ねぇさんが その部長との話に夢中になっている僕に声をかけてくる。
「では 部長 また今度 お食事でも誘ってくださいね」
「アハハ、藤田クンはそうやっていつも上手い飯にありつこうとするなぁ。
いや しかし 今後もわが社と末永くお付き合いお願いしますよ。
そうそう、渡辺CEOにもよろしくと伝えてくださいな」
上映が始まった。 僕はねぇさんと古谷に挟まれて観ていた。
肝心の映画は 上映が始まってすぐに そのストーリーに魅了され、さらには小さな小部屋試写会場にはおよそふさわしくないほどの巨大スクリーンに映し出されるその迫力満点の映像は相当なものだった。 映画の中の ビル10階分に相当する(らしい 実際におこったという)巨大な波、暴風・豪雨に荒れ狂うハリケーンの映像・・・ともかく圧巻だった。 迫力のある映像と 良くできたヒューマンドキュメント。 見入っていた。
ふと横にいる古谷を見ると・・・
『なんだこいつ、あまりの迫力のある津波のシーンに押されて
震えてるのか・・・いや・・・違うなぁ・・・』
彼女は腕を組みながら 少し震えていた。 よくよく場内に気を配ってみると、どうもこいつの真上から噴き出されているエアコンの冷気が効きているような気がした。
『エアコンか・・・コイツ寒いのか・・・』
僕は小声で彼女に呟く。
「おい、お前さぁ 寒いんだろ? クーラーが直に当たってんだろ?」
「あ・・・う・・・うん・・・」
相当寒かったのか、 暗くてその表情もよく掴めない場内で それでもスクリーンの明かりから見て取れる彼女の唇が震えているのがわかった
「ったく・・・ほら・・・」
僕は自分が着込んでいた Tシャツの上に羽織っていたシャツを彼女に渡した。
「悪いなぁ 男臭いだろうけど 我慢して羽織れよ」
「でも・・・」
なかなか受け取らない。
『そんなに嫌なのかよ!?』
「いいから着ろよ・・・
それに・・・席 替わってやっからさ・・・どけ」
僕は彼女に有無を言わさずシャツを渡すと ねぇさんにその旨を伝え席を替える。
「奈緒ちゃん・・・あたしの隣の席に移りな・・・」
静まり返った場内で気を使っていたのか、それでもねぇさんに席を替わるよう言われて 古谷はしぶしぶ席を替わった。
席を替わる瞬間 一瞬 かなりの近い距離ですれ違った時、例の彼女の良い香りがした。
同時に僕の脳裏にはここへ来る前の あの 物凄く近づいた時の彼女の白い肌の胸元がよぎった。
ドキドキした。 なに考えてんだ オレは・・・。 コイツは嫌な女なはずなのに・・・。
「あ・・・ありがと・・・レイ」
それからまた彼女は何事もなかったように映画を見ている。
『ヤバイ・・・! レイはなんであたしが寒いってわかったの?
しかも何で自分のシャツなんか貸すわけ?』
その時から心臓が張り裂けそうだった。 もう映画のストーリーなんかどうでもよくなっている。 実はただでさえ映画が始まり すぐ傍に彼が座った時から 既にそれどころではなかったというのに。
気付いてくれたんだ。 確かにエアコンの風が直接当たっていた事、また極度の緊張であたしは震えていた。
『なんで急に優しくするの・・・?』
「寒かった? 大丈夫? レイジ君のシャツ借りて羽織りなさいね」
中村さんの隣に席を移った。
『ヤバイよあたし・・・映画に集中しなきゃ』
それからは 中村さんが隣にいるという安心からか、映画のストーリーや迫力ある映像に没頭できた。
隣で座席に両足を乗せ 膝を抱えるようにしながら僕の左隣でスクリーンを見ている古谷を見た。
『こいつ 完全にリラックスしながら 観てるし・・・
まるで 自宅感覚で映画観てんなぁ』
寒さも少しは落ち着いたか。
映画は まさにクライマックスの迫力のある津波が小型漁船を飲み込むシーンに差し掛かっていた。
CGで描かれた巨大な波、そして暴風・豪雨に荒れ狂うハリケーン、その中にただ揺れる小型漁船・・・迫力のある映像と音が交差し、パニック映画特有の“ 怖さ ”まで与えてくる。
突然 左の腕を摑まれた。
いや むしろ しがみつかれた といってもいい。 古谷だ。
『なんだ? こいつ・・・?
手に汗握るシーンの連続・・・だからって・・・オレの腕を握るか!? 普通・・・』
一応文句でも言ってやろうかとも思ったが しかしそれは映画に入り込んでいる彼女の様子からして 言うだけ無駄だ ということに気付いた。
腕にしがみついてくるわりには その瞳はスクリーンを見つめたままだったからだ。
時折 激しい音響に切り替わったり、迫力のシーンになると力が篭もるのか 激しくしがみつかれた。
徐々に 僕の左側に座っていた彼女は膝を抱えながら隣にいる僕の肩に凭れ掛かるようにして映像が迫力を増せば増すほど寄ってきた。 とはいえ 実際にはふたりの間には肘掛があるのだが それさえ越えて僕に凭れ掛かる。
『こいつ・・・パニックシーンが怖いのか?・・・意外に可愛いとこあるんだぁ・・・』
ふと横目で目をやる。
『まずい・・・こんなに近くでこいつを見たの、初めてだ。
それに・・・やっぱり・・・綺麗だ』
間近で見る彼女。 先ほど席を替わる前は下ろしていた髪も、いつの間にか後ろに束ねられていて、その首筋や髪から漂う彼女の香り。
しかし その時何故か僕は 同時に この感覚が“ 懐かしい ”と感じていた。
この しがみ摑まれた腕の感覚・・・なんだか妙に初めてのような気がしない。
結衣がいた頃の感覚。 いや・・・結衣との感覚とは違う。
『なんなんだ?』
しかし それ以上に僕の目線や感覚を翳めていたのは、先ほどのトンネル内と同じようにその水色のブラウスの大きく開い襟元・胸元から覗く透き通るような肌の胸元だった。 薄いピンクのブラジャーまで見える始末の至近距離。 参った。
僕の頭の中は 映画どころではなくなっていた。
映画後半は そのストーリー展開の速さ、迫力のCG映像、俳優達の迫真の演技でスクリーンに広がる映像と音にあたしは完全に隣に彼がいることすら忘れていた。 時には恐怖さえ感じるシーンの連続。 あたしはすっかり映画の世界に入り込んでいた。
そういったシーンの連続のいよいよクライマックスのドラマのシーンに切り替わった時・・・自分の体勢やその距離に気付き、驚いた。
『やっちゃった・・・! 怖すぎて 映画に入り込みすぎて・・・、
あたし彼の腕にしがみついてるぅ!?
しかも何でこんなに近い距離に彼が?!
これまでそうだったように
つい啓吾と映画を見ているような錯覚で、同じ感じで彼にもしがみついていたんだ!』
途端にパニックになった。 そしてあたしは・・・また固まってしまい、逆に動かそう、離れようとすればするほどその手を離すことも彼の肩口に凭れた自分を引き離す事ができなかった。
『もう 駄目・・・こんなに馴れ馴れしくしたら きっと嫌われるよ・・・、
まして 普段はあんな悪態ばかりついているんだもん、馴れ馴れしいと思われちゃう・・・。
もう駄目だ・・・』
「なぁ、大丈夫かよ お前・・・
えらい 映画に入り込んでるけど・・・」
いきなり彼に小声で声を掛けられて 更に固まった。 声が出ない、言葉が出てこない。
「寒くねぇ? 大丈夫?」
薄い暗闇の中で彼がスクリーンのほうを見つめながら それでも優しい言葉を掛けてくれる。 一瞬だけ、そこにいたのは・・・紛れもない・・・あたしの知っている“ あの頃の彼 ”だ。
「う・・・うん・・・大丈夫・・・」
あたしは 頑張って離そうとしたその腕を動かした瞬間、今度は逆にその腕を掴まれた。
「いいよ、腕・・・。 どうせ 旦那と間違えてたんだろうし、怖ぇんだろ?
映画のパニックシーン」
もう完全にあたしは舞い上がっていた。
その腕はそのまま彼の腕に絡ませていた。
あの街で あの時 あの場所で やさしく頭を 髪を撫でてくれた“ あの頃の彼 ”が傍に居る。
突然 なんだか泣きそうになった。
ちょうど良く 映画は最後のクライマックスで涙を誘う場面だった。
あたしは どさくさに紛れて 泣いた。 というよりも自然に涙が溢れていた。
おそらく 他の誰もがこの時のあたしを、きっと悲しいシーンに涙を流しているものだと思うだろう。 嬉しかった、彼の傍にて 彼に凭れ 彼の腕に自分の腕を回している。
結局 映画の最後のテロップが流れるまでその手を離すことができなかった。
「あのさぁ・・・もう映画 終わりなんだけど・・・」
そう言われてやっと手を離し、同時にかなりの大きな声を発してしまった。
「ご・・・ごめんなさい! すみませんでした!」
中村さんは勿論、周りに居た人達が一斉にこちらを見る。
あたしは 完全に赤面していた。
「お前・・・なんだか 変わってんなぁ」
この試写会での出来事は 僕の彼女に対する印象を完全に変えた。
綺麗で、頭も良くて、それでいて可愛らしくて、時々は小悪魔のように振舞う・・・こんな奴が彼女だったら面白いだろうし、いいだろうなぁ。
しかしそんな妄想はすぐに消え、コイツが既婚者であることを思い、その妄想は叶わないと 脳が認識しだす。
「レイジ君 奈緒ちゃん・・・
なになにぃ? ふたりとも。
試写中 しっかりとコミニケーションなんか取っちゃってさ。
腕なんか組んじゃったりしてたでしょぉ?
なんなの? 仲悪いと見せかけて 実はいつの間にそういう関係?」
席を立ち出口へと歩き出した僕と彼女に ねぇさんが話しかけてきた。
しっかりと見られていた。
「ち・・・違いますよぉ、コイツ 意外に怖がりで、
しかも 旦那と間違えられてたみたいで・・。ねぇさん、誤解だって誤解!」
「そ・・・そうですよぉ~中村さん。 誰がこんな奴と!」
席を立ち出口へと歩き出した僕と彼女に ねぇさんがニヤニヤと不敵な笑みを浮かべ話しかけてきた。
しっかりと見られていた。
「ち・・・違いますよぉ、コイツ 意外に怖がりで、
しかも 旦那と間違えられてたみたいで・・。ねぇさん、誤解だって誤解!」
「そ・・・そうですよぉ~中村さん。 誰がこんな奴と!」
ねぇさんが決して小さくない声で笑い出し ツカツカと先を歩く。
「ま・・・どうでも良いけど・・・
あんたたちって こうして見るとお似合いね。
いい男と いい女で 逆に羨ましいくらいよ。
いつもの喧嘩も はたから見てると漫才みたいで面白いし、実はみんなにはウケてるしね。
これをきっかけに、二人とも 案外 物凄く仲良くなれるかもよ」




