episode Ⅴ~1
あの4年間は、そう、一言でいうならば 希望と、絶望との戦いだった。
誰だってそうなんだ。 多かれ少なかれ 人は何度か絶望の淵に立たされることがある。
僕は 音楽の、それも誰もが憧れるメジャーシーンでの絶頂期に身を引いた。
当時を思い返しても、人生の中でただ一瞬、まるでジェットコースターにでも飛び乗ったような紆余曲折経験だ。
19歳から23歳までの約四年間。 それは夢と希望から始まり、絶望を経て、更なる失意 新たな希望へと導かれた。
夢の叶った瞬間。 大切な人の死。 孤独の中のニューヨーク。 そして・・・再び歌い 叫び続けた日々。 しかしそれは あの時代、めまぐるしく 超高速で変化するあの業界で 同時に時代の流れに奔走させられていた。 そして・・・信じていたものからの失意。
今の時代では信じられないような出来事や欲望、工作は日常の中で頻繁に執り行われていたロックミュージックシーン。 まだ歌謡曲が全盛の時代、それはバンドが売れるために何をすべきか、市民権を得るためにどうあるべきかを模索していた時代でもあっただろう。
多くのバンドマンの しかしその一部では、売れるために様々なことが行われていたが、それは決して世間の知るところではない裏側の部分で行われていた。 やりたくも無い、自分たちの目指す音楽とのギャップに苦しみ、次第に消えるバンドも多かった時代の中、僕らは常にマスコミに騒がれ続け、本来の 純粋な音楽に対する情熱すら見失った。 時代は 反面 僕らをそのシーンのトップアーティストへと押し上げた。 騒がれれば騒がれるほど僕らの人気やセールスは伸びていった。
容赦の無いマスコミの攻撃と自分さえも見失いそうになる日々。 異常なほどの周囲の喧騒。
そして僕らは バンドとしての絶頂期である時期にシーンの中心から突如として消えた。
自分が消えて無くなるくらいなら、このエンターテイメントビジネスの世界で歌う必要などない、バンドは どこでだってライブも出来る、歌うことも出来る。 僕らは純粋に音楽と付き合っていくことを選んだ。 それが結論だった。
メンバーのマサとキョウちゃん・ドクターは、音楽しか出来ないという理由から、バンドマンとしてのキャリアには終止符を打ったものの、スタジオ・ミュージシャンという新たな道を選び、今もそのビジネスの世界に残っている。 ただ あの頃と違うのは、『職業』として割り切り演奏する道へと進んだ。 彼等は まさにあのニューヨークでニックの話した 『タフなハートとグッド・バイブレーション』 を持ち合わせていた存在ということだ。
ハルは実家のイタリアンレストランを、イシちゃんは実家の建築の仕事を継ぎ、今では『社長』と呼ばれる存在になった。 しかし彼等もまた音楽を捨てたわけではなかった。
あれ以降 僕らバンドは、数年に何度か集まってはまた昔のようにライブを行った。 それぞれが それぞれの道の上で それでも自分を見失いそうになる時にそのライブを行うだけのアマチュアバンド という道を選び、純粋に音楽と向き合うためのバンドマンとしての道のふたつの顔を持った。
さて、その後の僕はといえば、新たな自分の道を探した。 僕はハルたちのようにそのシーンに、例えばソロミュージシャンとして残ることもしなかった。 正直なところ マスコミに一番翻弄させられたのも僕だったし、バンドのフロントアクターとしてボーカルとコンポーザーを務めた僕は、疲れ果てていた。 しばらくその世界から離れたかったし、いつか そのシーンに戻れる機会が訪れれば、その時はその時で考えればいいと楽観的に考えていた。
しかし僕は 以外にも社会という波にうまく乗った。
大学もろくに出ていない、社会経験もなかった僕は、当然ながら働かざるもの食うべからず で、何よりも先に 働くことにした。 かろうじて親の伝手で大手企業と称される銀座に本社を構える直営ショップさえ持つ外資系アパレル会社へと就職をした。
気分的には 「まぁ、一度普通に働いてみるのもいいかな」程度の、軽い気持ちで就職したのだったが、しかしその考えは明らかに甘かった。
その企業で僕は当時の上司に徹底的にしごかれた。 ただ、運が良かったのはその当時の上司に当たる人間が僕という人間を ひとりの大人 として接してくれたことと、本当に熱心に一から何もかもを教えてくれたし 仕事も沢山与えてくれた。 4大卒でもなく中退の僕は それでも英語が話せる ということもあり、外資系企業の中では重宝されたほうだった。 なによりもユニークと評されたのは 所詮ミュージシャン的な発想の中で、仕事に対する発想や着眼点、達成に至るプロセスで普通の人間とはまた違ったアプローチを行っていたのだろう。 (僕自身は至って普通の考え方だと思っていたが)
そんな状況もあり、次第に僕は仕事にのめり込んでいくようになった。
そして想像以上にある意味では過酷で 競争社会、そして日々に追われるサラリーマン生活の中で、自分自身も驚くほど社会人として見事に成長していった。
思い返せば そんな会社にお世話になれた運もあっただろう、また周りの人間にも恵まれていた、当然 僕自身もなんとか仕事に適応しようと必死に働いた。 入社したての頃は さすがに元トップアーティスト ということで、社内でも騒がれたこともあったし、相変わらずマスコミは僕を付け回した。 それでも僕は働くことに新たな自分を見出し、その面白さに没頭し、ついには最初に僕に対して存在した先入観に左右されること無く僕自身を評価してくれる そんな仕事が、実はそれが何よりも嬉しかった。
音楽の世界で僕は マスコミという厄介な怪物に、どんなに事実を告げても 行動で示そうとしても それは伝わらなかった。 代わりに僕らは虚像に近い自分や人気を手に入れてきた。 なおさら認められることが嬉しかった。 僕は仕事の面白みを知っていったのだ。
いつしか僕は販売系の部署のストアーマネージメント職を経て 企画系の職種についた。
その時に初めて自分が、本来は大の負けず嫌いだった ということに気付いた。
『音楽の世界には戻らない。 ここがオレの新たに自分を表現できる場所だ』
そう思わせてくれる仕事だった。
そして時にはバンドのメンバーと再会をし、数年に一度の割合で 僕らは音楽を純粋に楽しんでライブを行う。 小さなライブハウスの中で。
昔の僕らを知っているファンも、また僕らを何も知らないお客さんも入り混じっての ただ純粋に音楽を楽しんだり、自分の言いたいことを伝えられる自由の場所、それが今の僕らにとっての音楽であり、ライブだった。 もう誰の言いなりにもならず、誰の目も気にせず・・・それがあの頃とは違っていた。
今 僕は33歳。
現在は その会社で 販売企画部に所属し、ささやかながら部下を持たせてもらっている、とある部署のチームリーダー(日本流に言えば 係長・課長 ということだろうか)職にある。
あの ジェットコースターのような、嵐のようなミュージックシーンを引退してから10年の時が流れた。
そして僕は 今も僕のままであり続けている。
バンドのメンバーや、あの当時僕を支えてくれた事務所マネージャーのヒデさんや、レーベルで僕らバンドのプロデューサーだった原さん曰く
「やはり レイジは どんな生き方をしても どんな仕事をしていても
生きてることがロック=転がり続ける石 なんだよな」
と笑う。
あのニューヨークで僕を支えてくれた人々、とりわけ ニックとあの日本人家族とは帰国後、僕がそのシーンから引退するまで手紙でのやり取りは生じていたし、最後のライブの音源や映像も彼等には届けた。
僕がそのシーンから引退をすると伝えた時には さすがにショックを隠さずにいたが、あのニューヨークでの生活を知っている彼等はまた、僕の将来について希望的な助言や期待を寄せてくれた。
『どこにいても 何をしていても
藤田レイジは藤田レイジにしか出来ない生き方をしていくだろう』
と送り出してくれた。
しかし その後 明らかに僕のほうからの連絡はしなくなったことで、いつの間にか音信不通となった。
あれから10年、今では彼等の住所すら覚えていないし、もらったエアメールなどもどこかへ消えた。 勿論彼等とやり取りをするにしても、この10年で僕は何度も引っ越したし、彼等もまた同じだろう。 いつしか思い出の片隅に追いやられた。
名前や思い出すら失くしていった。




