一章 落ちてきた青年
「ったく、誰だ起こしやがったのは? せっかくいい夢を見て……ぁあ?!」
身を起こした青年が頓狂な声を発したのも無理はない。彼の目に飛び込んできたのは、まさに夢で見ていた草原そのものだったのだ。
「まじかよ……」
いやそれだけではない。上を見上げれば、吸い込まれそうな青空が広がっている。そして鼻腔をくすぐっているのは、紛れもなく草の匂い。腐敗した死の臭いなどではなく、活力が漲る生命のにおいだ。
「どうなってるんだ? よくわからんが現実になりやがった」
違う。明らかに違う。青年とて己が生きていた世界のすべてを知っているわけではない。しかしそれでも断言できる。ここは自分がいた世界ではない、と。
まず明るさが違う。そしてにおいが違う。生と死、光と闇。ここはまさに正反対の世界。
《違う次元の世界、か?》
しかしいくら考えようと、今ここで答えが出るとは思えない。
「まあ、後でゆっくり考えるか。それより今は、お前らだな」
青年は男たちを、そして少女を静かに見渡した。全員、蛇に睨まれた蛙のように微動だにしない。今は動いてはならん、と本能が告げているのだ。
「俺がいた世界じゃ、俺の眠りを妨げることは重罪でな。ああ、女は別だが」
少女は、このときほどほっとしたことはないと後に語るのだが、それはまた別のお話。
「しかしまあ、女1人に5人がかりとはな」
青年はすっと立ち上がり、
「おい小娘、お前の知り合いか?」
「こっ?! あ、いえ、というかそんなことより、早くお逃げください!」
我に返った少女は叫んだ。
いきなり降ってきた正体不明の青年だが、ここにいては確実に殺される。殺し屋たちが狙っているのは自分1人なのだ。偶然居合わせただけの他人を巻き込むわけにはいかない。現状を作り出した原因は自分にあるのだから。
「早く!」
「そうはさせん」
4人のうち2人が青年に、残る2人は少女に迫った。
武器も何も所持していない青年だ。一瞬のうちに斬り殺されるだろう。
「よせ! 狙いは私だろう!」
少女は青年の前に進み出た。
身体を張って盾になろうとしたのだ。
これで何かが解決したわけではない。むしろ状況は悪化したかもしれない。しかし、今の自分にできることがこれしか思いつかなかったのだ。
《少しでも、時間を稼がなければ》
青年はというと、少々驚いたような目で少女を見ていた。が、やがてさも面白そうに、にかっと笑った。
「お前、気に入ったぜ」
途端、少女は左手をがしっと掴まれ、後ろに引っ張られた。いきなりのことに少女は対応できず、尻餅をついてしまう。
「な、何を!」
見上げた先には、青年の背中があった。まるで自分を守るがごとく、静かに立ちはだかっている。
その姿は何とも壮大で、少女は神にでも守られているかのような、深い安心感に包まれた。
《な、何だ、この感覚は……》
少女は、青年に一斉に斬りかかる男たちを、半ば呆然としながら見ていた。
《この者たちは何をしているんだ? まさか、勝てるとでも思っているのか? この人に、剣が効くわけがないだろうに。なぜ、それがわからない?》
少女自身、なぜそんなことを思ったのか不思議だった。あえて言うなら、本能でわかったとしか説明のしようがない。この青年が剣や弓などの武器で倒れるところなど、想像できないのだ。
「死ねえ!」
そのとき、少女には見えなかったが、青年の紅の双眸が、静かに冥く沈んでいった。
「愚か者が。自分たちが何に挑んだのか、その身を以って知るがいい」
青年は左手を軽く振り払った。蝿を払うような仕草だ。しかしその仕草は信じ難いほどの風圧を生み出し、男4人を大きく吹き飛ばした。
「ぐああ!」
激しく地面に叩きつけられる男たち。が、苦痛の声を出したのは1人だけ。後の三人は自らの剣に急所を貫かれ、地に落ちる以前に絶命していたのだ。声もなく、何とも呆気なく。
「ば、馬鹿な……。こんな……こんなことがっ」
男はまるで生かされたかのように生き残っていた。
「きっ、貴様、一体何者っ」
「そういうことは戦う前に聞くもんだ」
青年は男に詰め寄っていく。
「ひっ、や、やめろ! くるな!」
男は腰が抜けたらしく、立ち上がれずにいた。それでも手と足を必死に動かし、無様に後退していく。
しかしそんな努力もむなしく、
ガシッ。
「ひぃぃ!」
追いついた青年に胸倉を掴まれる。
「た、助けてくれ! 命だけは!」
男は涙を流しながら必死に懇願するが、青年は一笑に付した。
「お前さっき、俺に死ねと言ったと思うんだが、俺の気のせいか?」
ん? どうなんだ? と青年はにこにこした顔で尋ねた。その笑みが何だかとっても恐ろしい。
「し、仕方なかったんだ! 女を始末しろとの命令を受けた以上、目撃者も当然始末しなければならない!」
「誰に頼まれた?」
「しっ、知らん。俺たちは知らされていない」
「ふん、まあそうだろうな」
青年はくるりと身を翻した。もう用はないと言わんばかりに、男に背を向けて少女のもとへ歩いていく。
「た、助けてくれるのか!?」
「俺はな、今までに俺を殺そうとしてきた奴は全員、確実に殺してきた。それはこれからも変わることはねぇ」
青年は振り返ることなく言った。
「お前が今生きてるのは、お前の剣にだけ殺気がなかったからだ。さもなくばお前もそこらで死んでる連中同様、自分の武器に殺されてただろうな」
お前に人は殺せねぇよ。
そう言われた気がした。
確かに自分は、今回の任務が初仕事だった。今までに魔物は数多く倒してきたとはいえ、実際に人を斬ったことはなかった。
「……」
一瞬ですべてを見透かされた。
もはや何も言い返せなかった。
男はすごすごと、その場を後にしたのだった。
☆ ★ ☆
「あ、あの」
少女が声をかけてきた。
「ん?」
「危ないところを助けていただき感謝いたします。私はセリアシュリン・ストラディウス・レイザードと申します」
そう言って少女ははっとした。本名を名乗ってしまっていたのだ。今はなるべく伏せておかなければならなかったのを忘れていた。もし青年がこの名前を知っていたなら……。
「長いなおい。呼びにくいからセリアでいいか?」
どうやら杞憂だったようだ。
「あ、はい、構いません」
「俺は、そうだな、色々呼ばれ方はあるんだが。……名前、か。そういやもう長いこと名前で呼ばれたことねぇな」
「え? それはどういう」
「おーいやいや、こっちの話よ。ああ名前な、ルイだ。俺が一番気に入ってる名前」
一番? とセリアは疑問を抱いたが、追求はしなかった。名前を使い分けている人間などいくらでもいる。この青年もその類なのだろう。
「ルイ殿、助けていただいたお礼をしたいのですが」
「そんなものはいらん。俺はやりたいようにやっただけだ。現に1人逃げ帰ってる。お前にとっちゃ、むしろ好ましくない状況かもしれん」
「しかし……」
ただの恩ではない。命の恩なのだ。気にするなと言われて、はいそうですかと納得するわけにはいかない。
「あーまあどうしてもっていうなら、一つ聞きたいことがある」
「はい、私に答えられることでしたら」
青年は周囲を見渡し、空を見上げ、そしてまたセリアに視線を戻して言った。
「ここはどこだ?」