十七章 蒼き月の夜
中天に蒼月がかかっていた。
天気、気温、湿度など、様々な条件が整ったとき、月が蒼く光る夜がある。
幻想的、かつ神秘的なその光が大地を照らしているときに生を受けた子供は、将来偉大な事業を為すと言い伝えられている。神姫エルティアが生まれたときも、天には蒼月がかかっていたと伝承にある。
そんな、蒼き月光が降り注ぐ中、彼らは集まってきた。
ある者は義のために。ある者は守るべき者のために。そしてある者は、己が信念のために。
一人、また一人、続々と集まってくる。
各々緊張が見えるが、静かな表情であった。
その目には躊躇いはなく、覚悟があった。
イリウス邸の前は、瞬く間に人で埋め尽くされた。
八百、いや千人はいるだろう。
とそこへ、イリウスが現れた。
彼は紫のマントをまとい、黒馬に跨っていた。
少しばかりざわついていた場が、水を打ったように静まり返った。
イリウスは、集まった者たちを見渡すと、静かに話し始めた。
「皆には今日まで、大変な苦労をかけた。皆が耐えてきた苦悩は、全てこの、イリウスの不甲斐なさが原因である。よって皆の中には、私に不満を持っている者もいるだろう。しかし、これだけは言っておくが、皆は私の下で戦うのではない」
その言葉に、兵たちは互いに顔を見合わせた。
イリウスは一息つき、さらに続ける。
「我々は、あるお方の下で戦う。その方はすでに、数名の護衛を連れ、敵地へ赴かれている」
すると、ある者が問うた。
「閣下、そのあるお方とはどなたです?」
どのような兵であれ、優れた指揮官の下で戦いたいものである。
彼ら兵士にとって指揮官が采配を誤ることは、自分たちの死に直結するのだ。
「セリアシュリン殿下だ」
どこからともなく、「おぉぉ」という声が聞こえてくる。
皆、まさかその名前がくるとは予想だにしていなかったようだ。
当然だ。セリアがレイザードに帰ってきているということは、まだ一部の人間しか知らない。
「殿下はすでに計略遂行のため、敵地へ赴かれている。しかし、その計略を遂行させるためには、我々はブエティノ卿の軍と正面から渡り合う必要がある。故に、多くの死者が予想される」
イリウスはもう一度、集まった者たちの顔を見渡した。
「家には妻子がいる者もいよう。逃げても責めはしない」
そう言うとイリウスは、静かに暗闇の中に消えていった。
それから時間にして一時間後、イリウスとマリベルは兵を率いてシャトリナを後にした。
総勢千二百名。
たった一名も、逃げる者はいなかった。
☆ ★ ☆
青年の手から放たれたのは、雷光とも言うべき青白い閃光。
まさに稲妻であった。
すでに最後の一匹となっていた黒き魔物は、その身を雷光に貫かれ絶命した。
いや、絶命というのは正確ではない。
魔物は雷光に貫かれた瞬間、一瞬で灰となり、吹き飛んで消滅したのだ。
恐るべき威力。
傍で見ていたセリアとアテルは、声もなかった。
特にアテルの受けた衝撃は凄まじかったらしく、彼は半ば呆然として立ち尽くしていた。
《何、今の……。今のが……魔法?》
魔術と似たような現象ではあった。
現に、雷を操る術も魔術にはある。
しかし、違う。
決定的に違う。
力の質が。
そもそも比べることすら愚か。
あえて言うなら神と人。
それほどの質の違い。
魔法に比べたら、魔術などお遊びではないか。
「アテル、大丈夫ですか?」
セリアが、立ち尽くすアテルを覗き込んでいた。
アテルとて魔術師だ。しかもその年齢にしては腕は立つ方である。
魔術師というものは皆、己が魔術を扱えるという事実に誇りを持っているものである。
しかし今、青年の魔法を見たことで、アテルの魔術師としての自身は粉微塵に打ち砕かれているはず。
ショックを受けていないかと、セリアは心配になったのだ。
するとアテルは、ようやく我に返ったようで、セリアから顔をそらした。
「……平気」
わかりやすい反応である。
「まあ、色々言いたいこと聞きたいことあるだろうが、とりあえず宿に戻ってからだ」
こうして宿場町は、まったく知らないところで魔物の襲撃を受けそうになり、そしてまた、まったく知らないところで事なきを得たのであった。
部屋に戻っても、アテルはまだ俯き加減だったが、青年が魔力を見せてやると、興味を示した。
「何、これ?」
青年の手から、溢れるようにして出てくる赤い光の粒子。
「こいつぁ魔力と言ってな。魔法や魔術が発動する際、媒介となっている物質だ。主に自然界と生き物の体内に存在する。――魔術が発動する際、エネルギーの波動を感じるだろ? あれは魔力が練り上げられてるんだ。つまり、高密度に圧縮されてるわけだ」
「ふぅん」
「本来はな、そういった作業はすべて己の意思で行うんだが、俺が魔術を見た限りでは、どうやら呪文とやらが自動でやってくれてる。――何か質問あるか?」
「……魔術と、さっき見た、魔法? 両方とも魔力っていうのを使って発動させるんだったら、どうしてあんなに威力が違うの?」
「魔法や魔術――面倒だからもう魔法に統一するぞ? 魔法の威力っていうのはな、魔力を練り上げた度合いで決まる。呪文とやらは、確かに魔力を練り上げるわけだが、結論から言うと、あんな程度では練り上げた内に入らん。だから自ずと威力も低くなる」
「その魔力は、どうやって練り上げるの?」
「それにはまず、体内の魔力を感じ取ることから始めねぇとな」
「僕の中にもあるの?」
「アテルにもセリアにもある。それを感じ取ることができたら、世界が変わるぞ?」
「? ……どんなふうに?」
「それは、できてからのお楽しみだ」
☆ ★ ☆
その男は背が低く、でっぷりと肥えた腹が特徴的であった。
薄くなった髪は、彼を実年齢より十ほど年老いて見せている。
顔立ちも決して良いとは言えない。
男の名はアルガス・ド・ブエティノ。
カルファラ王国から派遣された執政官の一人である。
彼がどのような政治を布いてきたのか。端的に語るとするならこの二年の間だけで、ゼナンにあった町村が三つなくなった。
三つとも、滅びた直接的な原因は魔物である。
それも調査の結果では、大して強力でもない魔物によってである。
ブエティノ卿が執政官として最初に行ったことは、軍部の増強であった。
つまり徴兵である。無論、近隣の町村から。
もともと、それほど大きな町村ではなかったためお金もなく、住民で自警団を結成して魔物に備えていたところ、徴兵である。後には女子供、老人だけが残った。
そこへ魔物が来襲すれば、どうなるかは火を見るよりも明らかであろう。
ブエティノ卿は、豪華な造りの椅子に座って短い足を組み、葉巻を吸っていた。
そのままじっと、暖かそうな赤い絨毯が敷かれている床を凝視している。
とある伝手から一報が届いたのは、つい先ほどのことであった。
知らせの内容は、驚くべきことではなかった。
予想の範囲内、いつか起こるだろうと思っていたことだ。
「ついに尻尾を出しおったか」
口元に下劣な笑みを浮かべるブエティノ卿であったが、一つわからないことがあった。
なぜ今なのか。
何か理由があるはずが、それがわからない。
何か、決定的な情報が欠けている気がしてならない。
と。
トントン。
控えめなノックの音がした。
「何用じゃ?」
ブエティノ卿は威厳たっぷりに問うた。
しかし、実は本人が思っているほど声に威厳は感じられないのだが、そんなことは些細なこと。
「は。バルト騎士団隊長、ライン殿がお見えになっておりますが、いかがいたしましょう?」
「ふむ……」
恐らく例の件の返事だろう。
団員を半数にせよという。
バルト騎士団の団長は一筋縄ではいかない男。
さて、どのような返答がくるやら。
いや待て、
ブエティノ卿は何かを思いついたように、口元ににやりと下品な笑みを浮かべた。
そうだ、それがいい。
我ながら良策だ。
そうと決まれば準備をせねばなるまい。
「少し待たせておけ」
込み上げる笑いに口元が緩むが、それを抑えて威厳たっぷりに言う。
「ははっ」
扉の向こうから、足音とともに気配が遠ざかっていった。
「さて、忙しくなるわい」
これからのことを想像するだけで、込み上げる笑いがとまらないブエティノ卿であった。
ラインは舌打ちしていた。
予定よりも到着が遅れてしまったのだ。
しかし、不機嫌を表に出すことはなく、バルトの紋章が刻まれたマントをなびかせ悠然と歩く。
城に詰めている兵士たちが、ラインのために道を開けていく。ブエティノ卿に仕えてはいるが、どうやらバルトの騎士に関しては一目置いているとみえる。
ブエティノ卿の居城は、雅で華やかな城というわけではない。もともとは戦いのために建てられた石造りの城である。いざというときには、立て篭もることもできる。
無論、外壁もすべて石造り。進入路は南北に二箇所ある門のみである。
「こちらでお待ちください」
兵士にそう言って案内されたのは、客室の一つであった。
さすがに客室だけあって、高級感溢れる一室である。
ラインは腰から剣を外すと、手に持って椅子に腰かけた。
「水を一杯くれ」
「は、すぐに」
兵士は一礼すると、部屋から出て行った。
しばらくして、先ほどの兵士が戻ってきた。
水の入った杯一を手渡され、ラインはそれを一気に飲み干す。
「ふう。すまんな」
ラインは空になった杯を渡した。
「いえ、主はすぐに参りますので、もうしばらくお待ちください」
「ああ」
兵士はまた一礼し、部屋から出て行った。
五分……十分が経過した。
ブエティノ卿はまだこない。
あえて待たせるというのは、貴族が威厳を保つためによくとる方法である。
文句を言っても始まらない。待つしかない。
ラインは静かに息を吐いた。
ラインの頭に浮かぶは、先日のイリウスとの対談であった。
イリウスは、あの方を王にすると言っていた。
しかし現状は、あの方に関しては居場所すら知れない。実際のところ、生きているのかすらわからないのだ。
だが、二年前あの方を国外へ逃したのはイリウスに他ならない。
適当に逃したわけではないだろう。何かしらの手を打っているはず。
イリウスなら、いつあの方が帰ってくるかも予想がついているかもしれない。
イリウスが動くときは、あの方が帰ってきたとき。
これは間違いない。
「……」
それにしても遅い。
一体何をしているのか。
ラインは立ち上がろうとした。
が。
「むっ!」
刹那、視界がぐわんと歪んだ。
「な、んだ……?」
バランスを崩した身体を支えられず、ラインは床に倒れこんだ。
何だ、これは?
何がどうなっている?
「ま、さか……毒、か?」
なぜ?
自分はたかが騎士団の隊長に過ぎない。
そんな者を毒殺したところで、一体何になる?
何のために?
必死に考えるが、思考が回らない。
壮絶な気だるさと、全身が鉛のように重たい。
《すまん、イリウス……》
それを最後に、ラインは意識を手放した。