十六章 魔術
バルト騎士団は総勢一千と兵の数は少数だが、選び抜かれた猛者ばかりの精鋭部隊である。
部隊の屯所はゼナンの南に位置し、その東には大森林が大きく広がっている。
もともとは森から出てくる魔物を討伐するために設けられた砦を、騎士団の屯所として改良し、使用しているのである。
当然のことだが、この砦には騎士しかいないため使用人などいない。
掃除、洗濯、炊事、全て自分たちでこなす。ちなみに女の騎士もいるが、女だからといって雑務が多く割り当てられることもない。
この砦では男も女も、男として、あるいは女としてではなく、あくまで一人の騎士として、常に戦いに備えているのである。
「入れ」
その声はやや年齢を感じるが、どっしりとした重みと包容力があって、聞く者を安堵させる声色であった。
「失礼します」
木製の扉が開かれ、大柄で逞しい体躯の男が部屋に入ってきた。
歳の頃は三十前後。精悍な顔立ちに加え、鋼鉄の意志を感じさせる力強い目は、まさに戦士という言葉が相応しかろう。
「お呼びでしょうか、グラムド団長」
「うむ。わざわざ呼び出してすまんな、ラインよ」
ラインを呼び出した白髪の男――グラムドは、椅子に座って、何やら書状をしたためている。
老人と言うには若干早い。だが六十には近いだろう。しかし、衣服の上からでもわかるが、鍛え抜かれた強靭な肉体は衰えを知らず、眼光も鷹のように鋭い。
無論それだけならラインも引けを取るものではないが、決定的に雰囲気が違う。何ともゆったりとした空気。それでいて堂々とした態度。無論それらは戦場でも揺らぐことはない。
たとえ形勢が不利であろうと、彼の指揮のもとであれば、騎士たちは各々の持てる力を存分に発揮できるに違いない。
「まあ座れ」
「は」
グラムドに促され、ラインは身近にあった椅子に腰かけた。
もともと小さな部屋だけに、大の男が二人いるだけでさらに狭く感じられる。もっと広い部屋もあるのだが、グラムドが「これで十分」と言って聞かないのだ。
簡素な造りのベッドに、年季の入った机と椅子、そして古びた本がしまわれている本棚。それ以外で目ぼしいものと言えば、壁にかけられている絵画であろうか。
そこには、白銀の鎧を身にまとった女騎士が金色の髪をなびかせていた。優しげな微笑をたたえ、静かに佇むその様は勇壮さに溢れ、神々しささえ感じる。
ラインがしばらくその絵を眺めていると、グラムドが言った。
「この絵は、わしはあまり好きではないから外したいのだが、先代の騎士団長から譲り受けた代物でな、おいそれと外せんのだ」
「いい絵だと思いますが? 神姫エルティアを描いた絵の中でも、これほどのものは滅多にないかと」
「だから嫌なのだ。美化され過ぎて人間味がせん。そもそも今から五百年も昔の人間だ。実際にはとんでもなく醜悪な女だったかもしれんぞ?」
「まあ、確かにそうかもしれませんな」
グラムドは一息つき、言葉を続けた。
「……しかし、英雄であることに変わりはない。レイザード建国の立役者の一人だからな」
「ええ」
「……時代はまた、英雄を求めているのかもしれん」
「時代? レイザードではなくてですか?」
「……うむ」
グラムドは重々しく頷いた。
「ここ数年の間に、魔物の数が激減した。今でもちらほら見かけるが、それでも以前の三分の一ほどには減っている」
「増えるよりは好ましいことだと思いますが」
「確かに、魔物に襲われる人々も減った。しかしな、どうも気味が悪い。何か嫌な予感がしてならぬのだ」
「嫌な予感、ですか」
「わしらの知らぬところで、わしらの想像もつかぬような何かが、起こり始めているような、な。――なに、年寄りの戯言と聞き流してくれて構わん」
「……」
「さて、無駄話はここまでとして、ラインよ、ちと頼まれてくれぬか?」
「は」
グラムドは、書き上げた書状を綺麗に折りたたみ、封筒に入れ、バルト騎士団の紋章である、二本の剣を交差させた紋様の刻印をもって封をした。
「これをブエティノ卿に届けてくれ」
すると、ラインの目が明らかに剣呑な光を宿した。
「あの男がまた何か言ってきたのですか?」
「団員を半数にしろと言ってきた。たかが魔物の討伐に千人の団員は多すぎるそうだ」
ラインは壮大な舌打ちをしたが、グラムドは面白そうに笑っている。
「団長、笑っている場合ではありませんぞ? これでも二年前と比べると、砦に詰めている騎士は半数になっているというのに」
「ライン、この場にいないからといって、その者たちが騎士でなくなったわけではない。わしはむしろよかったと思っている。彼らはバルトの騎士として、レイザード国内のあらゆる場所へ派遣されていったのだ。たとえ国外にいたとしても、バルト騎士団が参戦するときは、我先に馳せてくるはずだ。――バルトの騎士であるお主なら、そうするのではないか?」
グラムドは笑っていた。微塵の疑いも持たず、確信しているかのように。
事実、確信があるのだろう。グラムド自身がそうなのだ。
だから、他のバルトの騎士もそうに違いない。
これは能力や才能の問題とは違う。
信念の問題である。
騎士としての魂を生きる者であるなら、皆、そうするはずだ。
それが、バルトの騎士のあるべき姿であるから。
ラインもまた然り。
彼は満足げに笑い、グラムドから書状を受け取った。
「明日の昼には戻ります」
「うむ」
ラインは丁寧に一礼すると、部屋から出て行った。
そしてその後しばらくして、グラムドもまた、団員の訓練に立ち会うため、部屋を後にした。
☆ ★ ☆
街道沿いには、商人たちが中心となって興った宿場町がある。とは言っても、町と呼べるほど大きな代物ではない。しかし長旅をする旅人にとっては、なくてはならない場である。
「ふぅぃぃ~」
満足げな溜息をもらしたのは青年。彼は肩まで湯に浸かり、満天の星空を見上げていた。
宿にも備え付けの風呂はあるのだが、そこは風呂専門の店の方がいいというものであろう。
大きな露天風呂に、青年は大変ご満悦な様子であった。
「こいつぁ是非とも、俺の故郷に伝えねぇとな」
「……何を?」
と、青年の隣で湯に浸かっている少年が尋ねてきた。
アテルである。
当初、アテルが同行する予定はなかったが、出立の直前になって青年が「ついてくるか?」と問うたのだった。
マリベルは「お役には立たないと思いますが」と言っていたが、最後にはアテル自身が「一緒に行く」と決めた。
そんなこんなで、三人での旅路となっているのである。
「何って、この『風呂』とかいうやつに決まってるだろ。俺が住んでたところにこんなものはなかったからな」
「……ふぅん」
相槌を打ったアテルは、やや躊躇いがちな口振りで切り出した。
「ねえ、セリアシュリン様から聞いたんだけど、その……ルイ――さん、は違う世界から来たって、本当なの?」
「ああ、本当だ」
「そう……なんだ」
まさか即答されるとは思っていなかったアテルである。「そう……」としか言いようがなかった。すると青年は、その反応が可笑しかったのか、笑いながらアテルを見やった。
「なに?」
「いや、セリアも似たような反応だったんでな。異世界から来たなんざ、普通は馬鹿げた話だろうに」
「そうかな? 魔術の中には召喚術ってのがあって、超生物を呼び出す術があるんだけど、それの理論を研究してる人の中には、その超生物は実は違う次元から呼び出してるんだっていう説を立ててる人もいるよ」
「……説を立ててる?」
「え? うん」
「じゃあその召喚術ってのは、詳しいカラクリがわからないままに扱えてるのか?」
「召喚術に限らず、それぞれの術に対応した呪文を唱えたら魔術は発動するよ」
「あー」
そこまで聞いて、何やら非常に嫌な予感がしてきた青年である。
「呪文ってのは、魔術を発動させるときに何か唱えるあれのことだな?」
「うん」
「どういう言葉なんだ? あれは」
「闇の言葉とか、呪いの言葉とか、力ある言葉とか言われてる。正式には呪文って言うらしいけど、長いから皆呪文って言ってる」
「……なるほど」
「手錬の人になると、その呪文を聞いただけでどんな魔術かわかっちゃうから、大抵は普段使う言葉の合間合間に呪文を組み込んだりする。――こ・ん・な・ふ・う・に」
ぼっ、という音と共に、湯から持ち上げたアテルの右掌に、握り拳程度の炎が出現した。
「ふむ」
魔術の発動を改めて間近で見た青年は、ある確信を持った。
魔法であれ魔術であれ、魔力を媒介として超常現象を操る技術であることに違いはない。
青年のいた世界では『魔法』は専ら己の体内に宿る魔力を駆使して発動する技術であった。
しかしこの世界ではどうやら、呪文と呼ばれる言葉を用いることで、主に自然界に存在している魔力を駆使して超常現象を起こし、それを『魔術』と称しているようである。
そしてその呪文とやらが、魔力を集め、練り上げ、属性を変換するといった、発動に至るまでの一切の過程を自動でこなしてくれているのである。
術者は間違いのないように呪文を唱えるだけ。魔力のことなど、知る必要がないのだ。
全自動の魔法。どうやらそれが、この世界における魔術である。
青年は喉の奥で呻いた。
「これは、いかん。子供に剣持たせるよりいかん」
「え? 何が?」
アテルは炎を霧散させ、きょとんとしている。
そんなアテルを、青年は厳しい顔で見据えた。
《いや、こいつらを責めることはできねぇな。呪文みたいな便利なものがあったらこうなるのは当たり前の話だ。となると、気になるのは呪文を考え出した奴だが……。まあ、それはまた今度でいいか。とりあえず今は――》
「よし、アテル」
「な、なに?」
アテルは青年の剣幕にやや気圧されながら返事をした。
「お前に魔法を教える」
「……へ?」
青年はそれだけ言うと、風呂からあがっていった。
一人残されたアテルは首をかしげ、
「何? ……魔法って」
訝しげな声で呟いていた。
それは、影のようであった。
闇の中、大地を這うようにして疾駆する影。
数は複数。
尋常ならざる速さである。
人ではない。
獣か。――否。
暗き闇に紛れその姿形は定かではないが、影から発する禍々しさは、とてもただの獣のものとは思えない。
影は互いに交差しながら、何かを目指しているようであった。
三人は宿屋の一室にて談話していた。
二人とは遅れて、風呂から宿に帰ってきたばかりのセリア。その白い肌は上気し、本人の意思とは関係なく、妖艶さの入り混じった色気を放っていた。
青年は意に介した様子はない。しかしアテルにはやや刺激が強すぎたようで、彼は視線をセリアに移さないよう、必死に青年を凝視している。
「魔法を、ですか?」
セリアが問うた。
「ああ、俺の見た限り、魔法も魔術も原理は変わらん。ただこの世界の魔術師とやらは、魔術を扱ってる割に、知っておかなきゃならんことがわかってねぇ。――セリア、お前にも教えるから、アテルと一緒に学ぶといい」
「でもあの、私は」
「何も剣士をやめろと言ってるわけじゃない。魔法を体得すれば、お前の剣士としての腕も確実に上がる。それに――今のままは不服だろ?」
青年は、セリアの剣を一瞥した。
セリアははっとして、壁に立てかけている剣を見やった。
青年の魔力が宿った剣。
確かに強力な力だが、それは自分の力ではない。
言うなれば武器の強さだ。
武人として、力への欲求がないわけではない。
強くなりたいという思いがないわけではない。
ただその力とは、強さとは、単純に強い武器を手に入れて得る力、強さではない。
だから素直に扱えないでいた自分がいた。
しかし青年は、そんな自分をしっかりと見抜いていた。
「よろしく、お願いします」
「ん」
頭を下げたセリアに、しっかりと頷いて返した青年だった。が、
「ん?」
不意に首を動かして右を向いた。
セリアとアテルも青年に倣うが、そこには壁があるだけである。
しかしどうだ。
青年の目は壁の向こう側、その遥か彼方を見据えているようではないか。
「ルイ? どうしました?」
いきなり明後日の方を向いた青年を不思議そうに見やるセリアとアテル。
と、青年はすっと立ち上がった。
「何か来るぞ」
「え?」
「敵ですか?」
セリアは反射的に剣に手を伸ばした。
「殺気は五つ。人間のものじゃねぇな。獣……でもねぇな。何だこれは……?」
「全然、何も感じないけど?」
「いや、まだ遠いが、どうやらここへ向かってる。直に来るぞ」
「もしや魔物ですか?」
「さあな、俺は魔物がわからん」
《しかしこの気配……。魔力が狂ってやがるのか……?》
青年はアテルに視線を移した。
アテルは、目を閉じて気配を探ろうとしている。
「アテル、気配は魔力で読むんだ」
「魔力? 何それ?」
「説明は後だ。セリア、ここには兵士か何かいるのか?」
「魔物やいざこざの対策に、それなりの腕を持った傭兵は雇われていると思います」
こういった街道沿いにある宿場町にとって、何より重視されるものは安全性である。
以前は騎士団の屯所があったのだが、先の騒乱以降廃止になったため、傭兵を雇い入れるしか方法がなくなったのだ。
しかも、たとえ魔物や野党の類が襲ってきても、きっちりと対処してくれるだけの腕を持った傭兵を雇わねばならない。当然金もかかる。
だが金を渋るわけにはいかない。そうすれば結局のところ、自分たちの身に危険が及ぶことになるのだから。
「魔物ってのは、どういう生き物を言うんだ?」
「一般的には、生態系に異常を来した獣を指します」
「……なるほど、たぶんそれだろうな。――で、どうする、傭兵とやらに任せるか?」
「任せられるならその方がいいかも。僕らはなるべく、目立つような行動は控えた方がいいよ」
「……ええ」
アテルの言うことは最もだが、何もしないというのは気が引けるセリアであった。
この辺りにはそれほど強力な魔物が出現したという話は聞かないため、恐らく大丈夫だと思われるが、それでも人的被害が出ないとは限らない。
「ルイ、気配から強さはわかりますか?」
「お前一人で対処できる程度だが、問題は傭兵とやらがいつ気づくかだ」
「……そうですね」
悲鳴が上がってから駆けつけたのでは遅いのだ。
雇われている傭兵を信用しないわけではないが、万が一ということもある。
「……私、行ってきます」
セリアは立ち上がった。
「じゃあ僕も」
「決まりだな」
「え、いいのですか?」
「放っといて誰か死んだら寝覚めが悪いもん」
アテルが言った。
「ルイはよろしいので?」
「良いも悪いも、俺が行かねぇとどこから来るかわからんだろ。それに、いい機会だからな」
「何の機会です?」
「魔法を教えるって言っただろう? 百聞は一見にしかずって言うからな、実際に見せてやる」