十五章 来訪者Ⅱ
あれほど強力に感じられた魔術が一瞬にして霧散していた。
当たった? いや、当たっていない。正確には青年に当たる直前に、衝撃波はまるで霧のように消えてしまったのだ。
そして青年はというと、セリアを守るように立ちはだかっている少年の頭を撫でていた。
そう、セリアを守るように飛び込んできた影の一つはアテルだったのだ。
そのアテルは、いまだに何が起きたのかわからない状態で、されるがままに青年に頭を撫でられている。
「坊主、よく頑張ったな」
「だ、誰?」
アテルはまだ困惑を隠せない様子である。
「あぁ俺か? 俺はルイだ。セリア、いやセリアシュリンから聞いてなかったか?」
「あ……ううん、聞いてる」
「そうか、なら話は早い。後は俺に任せておけばいい」
「でも……」
「向こうで倒れてるのはお前の身内か何かだろう。行ってやれ」
「う、うん」
アテルはマリベルのもとへ駆け寄っていった。
「ルイ……」
「遅れてすまねぇな」
何を言う。
何を謝ることがあろうか。
セリアは小さく首を横に振った。
「とんでもありません。来てくださって感謝しています」
と、そこで。
「貴殿がルイ殿か?」
イリウスであった。
青年の出現によって、いつの間にか場の威圧感が消えていた。そのたため、彼は立ち上がれるまでに回復していたのだ。
そんなイリウスに視線を移した青年は、
「あの爺さんは、格好から見て執事か何かだと思うんだが、お前にとってはどうでもいい人間なのか?」
青年はイリウスを見ているのではなかった。イリウスの向こうで、壁にしな垂れかかるようにして気を失っている老人を見ていたのだった。
それは、襲撃者が放った第一波で吹き飛ばされたネハイルであった。
「ネハイル!」
イリウスが走っていく姿を見て、青年はやれやれと肩をすくめた。
「さてと、待たせたな」
青年は襲撃者に向き直った。
「随分と勝手なことをしてたみたいだが、覚悟はできてるんだろうな?」
すると襲撃者は、喉の奥の方でくっくっと笑った。
「そうか……お前が障りか」
襲撃者が初めて言葉を発した。
「障り?」
「障りは消されなければならない」
「んー? てことはお前、俺を殺りにきたのか」
襲撃者は返事の代わりに呪文を唱えた。冥く低い声が紡がれる。ここまでは今までと同じだった。
――しかし。
「なっ、に……っ?」
襲撃者は、あからさまに動揺した声を発した。
それもそのはず。呪文を詠唱したにもかかわらず、その右手には何の力も集う気配がなかったからだ。
再び呪文を唱えるが一緒だった。
何も起こらない。
「馬鹿な……」
「確かに魔術とやらはよくできてるが、それを扱う本人が未熟すぎる。お前が何の対策も取らんからこっちから干渉し放題だ。せめて魔力のコントロールぐらいできるようになってから出直してこい」
しかし当の本人はというと、青年の言葉などまったく聞こえておらぬ様子で、何度も何度も呪文を唱えていた。
無論、何も起こらない。
「くそっ、なぜだ、なぜなんだ!」
もはや錯乱に近い状態である。
それもそのはず。呪文を唱えても何も起こらないということは、魔術師にしてみればありえないことである。言うなれば、呼吸をしているのに空気が肺に送られないようなもの。
パニックは必至であろう。
「うるせぇ野郎だ」
青年はため息をついてセリアに向き直った。
「怪我はないな?」
「は、はい、大丈夫です」
その直後、
「ふ、ふはははははははっっ!!」
何やら歓喜に満ちた笑い声が青年の背後から聞こえてきた。
あまりの事態に、精神の均衡が崩れたのだろうか。
しかし見てみれば、掲げられた右手には莫大なエネルギーの気配があるではないか。
術が発動しようとしている。
「ルイ!」
「心配すんな。――おいおっさん、そいつぁやめた方がいいと思うがな」
背を向けたまま注意を促す青年。しかし、もはや術を放つ気満々の襲撃者である。
「何をほざくか! 死ねぇぇええ!」
しかし襲撃者の思惑とは打って変わって、その絶大な力の奔流が青年に向かって飛ぶことはなかった。
「は?」
気の抜けた襲撃者の声を余所に、力の奔流は解放を求めてあらゆる方向へ飛び交おうとする。しかしその力は、それ以上の力によって抑えつけられているかのように微動だにしない。やがて限界まで圧迫され、極限に達した力の奔流はバランスを失い暴走――炸裂した。
まるで大気が弾けるような、強烈な破裂音が響き渡った。しかしセリアのところにはそよ風程度の微風しかこなかったのは、それもまた青年が何かをしたのだろう。
爆心地で、自らの魔術による衝撃をまともに食らった襲撃者は、全身から蒸気を上げながら、声もなくその場に倒れ伏した。
こうして、襲撃は幕を閉じた。
幸いにもネハイルは腕の骨折と軽い脳震盪だけで済んだ。
しばらく安静にしていたところすぐに気がつき、イリウスが半泣きで抱きついたのだが、青年によって引き剥がされた。
青年曰く「怪我人に何しやがる」である。
至極最もな意見だったので、イリウスは素直に従った。しかし青年がその骨折を触れるだけで治してしまったときには、一同驚愕を通り越して唖然としていたものだ。
怪我の度合いで言うなら、ネハイルよりもマリベルの方が重傷であった。
魔術による傷は、剣などの武器によってできた傷とはまた異質である。
まず治りが遅い。普通の傷と比べて、約三倍もの時間がかかると言われている。
しかし魔術には治癒の術も存在する。一流の魔術師であるマリベルは、自身に治癒の術を行使することで事なきを得た。無論、一気に万全な状態にまで回復するわけではないが。
さて、そんなこんなで再びイリウスの部屋に集まった一同。今度は青年がいる分、青年以外の皆は若干緊張気味の様子で、椅子に着席していた。
しばらく沈黙が流れていたが、セリアが口火を切った。
「ルイ、先程はありがとうございました」
椅子から立ち上がり、頭を下げようとしたセリアであったが、
「いや、さっきの奴の口振りからすると、どうも俺を狙ってきたらしい。それならこの一件、俺に責任があることになる」
「そんなこと!」
とんでもない、と言わんばかりのセリアである。
「さっきの奴も再三狙ってきた奴らと同類と思うが、俺を消さない限りお前を殺すことはできんと判断したんだろ」
「……仮にそうだとしても、ルイに責任があるとは思いません」
「失礼だが」
イリウスが口を挟んだ。
セリアは静かに着席し、青年は視線だけをイリウスに向けた。
「貴殿――ルイ殿が個人的に何者かに狙われているという可能性は?」
「イリウス殿、恐らくそれはあり得ません」
「どうしてそう言い切れるのです?」
「それは……」
事実をそのまま言うとすると、青年は異世界から来てまだ日が浅い。したがってこの世界の誰かから狙われるなどということはあり得ない。である。
しかし。
《異世界から来たなどと、イリウス殿は信じまい。――どうしたものか……》
セリアが思案していると、
「私から一つよろしいですか?」
マリベルである。
顔色が大分良くなっているところを見ると、かなり回復してきているようだ。
「先程の襲撃者の件ですが、あの魔術の腕前から推測しても、ただの殺し屋とは思えません」
「……ふむ」
イリウスは続きを促した。
「仮にルイ殿が何者かに狙われていたとしても、あれほどの魔術師が動くとは考えにくいと思われます。階梯で言うなら十二、いや十三の域にまで達しています。一介の殺し屋のはずがありません。恐らく背後には、例の組織があると考えられます」
「……確かに、そう考えるのが自然だな」
「マリベル、その例の組織というのは、私を狙ってきた者たちのことですね?」
「そうです」
マリベルは、イリウスに確認をとるように目配せした。
イリウスは静かに頷くと、マリベルに代わって話し始めた。
「殿下は『死神の手』と呼ばれている組織をご存じですか?」
「……聞いたことはあります。ギルドの一種だと思っていましたが」
ギルドとは、傭兵の中には、より効率よく仕事を遂行するために、複数人で徒党を組み、名乗りを上げる者たちがいる。その規模は大小様々だが、大きいところともなると、その団員は千人を超える。そういった集団を総称して、ギルドと呼ぶのである。
「いえ、ギルドとは少し違います。ただ、もしかしたら最初はギルドだったのかもしれません。ですが今は、大陸各地に支部が存在するほどの巨大な暗殺組織です」
セリアは小さくため息をついた。
厄介な相手だということより、そんな組織に自分の始末を依頼した実の父親に対して、もはや悲しいというより呆れた心境であった。
「正直なところ、私は『死神の手』の力を見誤っていました。正当な訓練を積んだマリベルなら、奴らの襲撃を防げると踏んでいたのです」
「姫様とお会いした酒場に襲撃してきた者たち程度であれば、私で十分対処できたのですが、先ほどの術者は次元が違いました」
セリアははっとして、思わず尋ねた。
「酒場におられた方々は、無事ですか?」
「ええ、怪我を負った者もいましたが、全員命に別状はありませんでした」
セリアはほっと安堵の息をもらした。
よかった。
自分が原因で他の誰かが死んでいくことほど、嫌なことはない。
マリベルはさらに続ける。
「次に襲撃があるとすれば、先ほどよりも力のある術者が来るはずです。そうなれば、たとえ私が万全の状態で迎え撃てたとしても防ぎ切れるものではありません」
マリベルは十一階梯の魔術師である。仮に先ほどの襲撃者が十二階梯の魔術師だったとするなら、万が一にもマリベルに勝ち目はない。たかが一階梯の差に思えるが、そこには壁があるのだ。
「しかし、かと言って軍勢を護衛につけるわけにもいかない。必要なのは千人の兵ではなく、一騎当千の力を持った者」
そう言うとイリウスは立ち上がり、青年の前まで歩み寄った。両者の視線がしばし交錯する。――が、やがてイリウスはその場にゆっくりと腰を下ろしていき、片膝をつけた。
「ルイ殿、殿下をお守りしていただけないだろうか」
そう言って頭を下げた。
「私からも、お願いいたします」
マリベルもまた、青年の前で、イリウスに倣うようにして頭を下げた。
貴族ともあろう者が、素性もわからぬ相手にここまですることはまずありえない。
そもそも決定的に身分が違うのだ。やれと言われてもそう簡単にできるものではない。
「……」
青年はしばらくの間、黙ってイリウスとマリベルを交互に見据えていた。その目は、やや呆れているようにも見えた。
二人への視線はそれまでとして、青年の目は、先ほどから始終静観の姿勢を取っているアテルへと移っていった。
そんな青年の視線に気づいたアテルは、驚いたように何度か目をしばたかせた。
「坊主、名前は?」
イリウスとマリベルは、一体何を言い出すのかと、膝をついたまま青年を見上げた。青年はそんな二人の様子など全く意に介さず、面白そうにアテルを見ている。
「さっき俺の名前は言ったよな? 訳あって今は名前しか言えんが、知りたかったらセリアから聞くといい。……あ、セリアってのはわかるな? 呼びやすいから勝手にそう呼んでるんだが」
アテルは頷くことで応えた。
「――よし、次はそっちの番だ」
「ぼ、僕はアテル。魔術師だよ」
普段は高飛車な発言をすることも多いアテルだが、今は珍しく、やや緊張した面持ちである。
「アテルか。ならアテル、一つ質問だ」
「え?」
「お前から見て、セリアはどう見える?」
質問の意味がよくわからなかったアテルである。無論それはイリウスとマリベルも同じであろう。
青年は一体何を聞こうとしているのか。
容姿? 性格? まさかそんなことではあるまい。
「すまん、わかりにくかったな。言い換えるとだな、セリアは自分で自分の身を守れないほど弱く見えるか?」
「ううん」
アテルは首を横に振った。
「僕なんかよりよっぽど強いし、たぶん、一対一でなら母上よりも強いと思う」
お世辞で言ったのではない。
実際にセリアと共に戦ったアテルは、事実そう思っていた。
セリアは魔術を嗜まないが、優れた身体能力と判断力、類稀な剣才がある。
それらを総合的に判断すると、十階梯という高位の魔術師である母よりも恐らく強いだろうと、アテルは見ていた。
青年はイリウスとマリベルに視線を移した。
「まあ、そういうことだ。お前らがセリアのことを大切に思ってるのはよくわかる。でもな、セリアはお前らが思ってるほど弱くない。これからもまだまだ強くなる。俺が保証する。――だから、もう少し信用してやれ。お前らが信用しねぇで、一体誰が信用するんだ?」
「我々とて、殿下を信用していないわけではない。ただ、万が一のことがあってからでは遅いのだ。そのためにも、どうかっ」
《頑固な野郎だ……。脳みそ岩でできてんじゃねぇだろうな》
青年は半ば面倒くさそうに、
「じゃあ何か? いざ合戦が始まったら、セリアにはどこか安全な場所から高みの見物でもさせるのか? 飾りか? セリアは」
「違う!」
飾りなわけがない。
共に戦う同志であり、希望だ。
「断じて飾りなどではない。殿下は、我々レイザードの民の希望だ。だからこそ、もし、万が一その光が潰えるようなことにれば……」
レイザードは滅びる。
これは予測ではなく事実。
ならばどんなことをしても、この希望の光を守らなければならないのは当然ではないか。
「イリウス殿、マリベル、ありがとうございます」
イリウスとマリベルは、はっとして顔を上げた。いつの間にかセリアがすぐ傍にいて、嬉しそうに笑みを浮かべていた。
「殿下……」
「姫様……」
「そんな顔をしないでください。私は本当に嬉しいんですよ? 二人が私のことをどれほど大切に思ってくれているか、痛いほどに伝わってきました。ならば今度は私が、その思いに応える番です」
「こいつはすぐにでも飛び立てる。お前たちが、手を放しさえすればな」
セリアを大切に思うその気持ちが、いつの間にかセリアを縛ろうとしていた。
イリウスとマリベルにしてみれば、セリアを束縛しようなどという気持ちはないが、言われてみれば確かに、事実としてそうなりつつあったかもしれない。
それを指摘され、二人は何も言い返せなかった。
どこか、しゅんとした面持ちになった二人に、セリアは言った。
「ゼナンへ参ります。ルイ、一緒にきてもらえますか?」
「ん」
「殿下」
そのときのイリウスの表情は、あまり顔に出ないタイプのイリウスにしては珍しかったと、後々にセリアは語ったという。
賛成するわけでもなく、反対するわけでもなく、所謂どっちつかずの迷い多き表情。
どうすればいいのかわからなくて、答えを求めている子供ような顔。
セリアは内心面白可笑しかったが、顔には出さず、むしろ堂々と構えて言った。
「心配はいりません。私は大丈夫です」
傭兵として過ごした二年は、王族として宮廷暮らしをしていたときと比べ、天と地ほどの差があったが、その厳しい環境はセリアを一回りも二回りも成長させていた。
《そうか……。もういつでも、飛び立てる、か……》
嬉しくもあり寂しくもある心境。あえて言うなら、一人で眠れるようになった幼子のベッドの傍に落ちているぬいぐるみは、このような心境であろうか。
目が潤みそうになったイリウスは、頭を下げることで堪えた。
自分もまた、成長しなければならない。
隣を見るとマリベルが、声を押し殺して泣いていた。
泣くのはマリベルに任せよう。ここで自分も涙すればセリアが困るだろう。
イリウスは顔を上げた。
「殿下、もう我が侭は言いません。共にレイザードを解放しましょう」
「無論です。そのために戻ってきたのですから」
セリアは迷いなく言う。イリウスもまた、力強く頷き返した。
そして、その後もう一度作戦について詳しく取り交わし、その日の午後、青年とセリアはゼナンへ出立した。