十二章 動乱の始まり
「あの小僧も、愚かなことをしたものだ……」
「まったくです」
暗闇の中、静かなやりとりがなされていた。
「こちらの動きが知られたかもしれません。――ご命令とあらばいつでも始末できますが?」
「そうしたいところではあるが、今は捨て置け。あ奴にはまだ動いてもらわねばならん」
「は」
男の声が二つ。
その口調とは対照的に、会話の内容は随分と物騒である。
「例の標的はどうだ」
「は……実はそのことについて、一つご相談があります」
「よもや実行不可能と言うのではあるまいな?」
「いえ、そうではありません。ですが、少々厄介な障りがあるようなのです」
「障り、か……」
「すでに三度、その障りに阻まれております」
「……詳しく話せ」
「それが……実はよくわからないのです」
「……わからぬ、だと?」
声に、ぞっとするものが混じった。
「申し訳ありません。ですがはっきりしている障りもございます」
「何者だ?」
「名はマリベル。レイザード王国の元宮廷魔術師です」
「マリベル……。シュナイザー伯爵家の者だな」
「はい」
「……なるほど、その者が標的を護衛しているのであれば、確かに障りとなるだろう。――だが、それは標的がシャトリナに入ってからのことであろう?」
「はい。実際のところ、マリベル・シュナイザーの方は大した障りではないのです。問題はもう一人の方。男ということがわかっているだけで、後は一切が不確かです」
「……」
しばらく沈黙が流れた。
敵の情報が掴めないことほど、気味の悪いことはない。
彼らはそのことをよく知っている。
標的を守っている謎の男。果たして何者なのか……。
「……力量は?」
「……計りかねます。早めに始末はしておいた方がいいでしょう。これは私の推測ですが、事の成り行き次第では、標的以上に厄介な存在に成り得るかと」
「何故だ?」
「一度目と二度目の襲撃ですが、死体を見たところ、妙なことがわかりました」
「ふむ」
「まず二度目の襲撃を行った者たちですが、全員魔術で殺されておりました。標的は魔術を使いません。したがって、標的を護衛している男が使ったと考えるのが自然でしょう。かなり力のある魔術師と推測できます。――が」
「何だ?」
「一度目の襲撃における死体ですが、不明確な傷跡が刻まれた死体があるのです。魔術に長けている者に見せたところ、魔術に似てはいるが、魔術ではない、と」
「どういうことだ?」
「……わかりません。ただその者が言うには、根本的に力の質が違う、と。どれだけ魔術を極めようと、こうはならないと申しておりました。したがって結局のところ、その男に関してはよくわからないというのが現状です」
しばらくの間、沈黙が流れた。
「その障りを取り除かぬ限り、標的には近づけぬか……」
「恐らく」
「……わかった、その障りについては支部の方に話を通しておく。早急に抹殺者を要請しよう」
「それは心強いことです。障りはすぐにでも取り除かれることでしょう」
それっきり、会話は途絶えた。
☆ ★ ☆
「このときを、どれほど待ち望んだことか……」
イリウスは常に柔和な微笑をたたえている。そのためイリウスをよく知る者でも、彼の表情を見ただけで本心を読み取ることは難しい。
実のところ、イリウスの性格は決して温厚ではない。むしろ感情の波は激しい方である。要するに、あまり顔に出ないのである。
が、このときばかりは違っていた。
紡がれる声は小さく震え、目尻には光るものがある。イリウスがここまで感情を表に出すのは滅多にない。そんなイリウスの様を見て、セリアもまた胸に熱いものが込み上げてきた。そして、ここにきたのは決して間違いではなかったと、確信を持つに至っていた。
「お久しぶりです、イリウス殿」
「よかった……本当によかった……」
固い握手を交わすその二人を微笑ましげに見ていたマリベルだったが、やがて表情を引き締めて言った。
「その続きは、レイザードを解放してからにしましょう」
今は長々と感動の再開を続けているわけにはいかないのだ。無論、イリウスとセリアに依存はなかった。
イリウスの屋敷は広い。侯爵なのだから当然ではあるが、それでも先代のときと比べると、収益は半分以下にまで下がっている。
一室へと通され、
「レイザードの解放は非常に困難です」
イリウスの第一声がそれだった。予想していなかったわけではないが、改めてそう言われ、現実を見せられた思いのセリアである。
「……望みは、まったくないのですか?」
するとイリウスは小さく笑った。
「それならば不可能と申し上げますよ。私は負ける戦いはしません。父とは違う手段をとります」
イリウスは続ける。
「困難な理由を申し上げましょう。現在のレイザードは、ただカルファラを追い払えば解放されるわけではありません」
「……はい」
イリウスが何を言わんとしているのか、わからないセリアではない。
カルファラを追い払うだけでは、レイザードはいずれ必ず滅亡する。
変える必要があるのだ。
その政権を。即ち王を。
「セルベス政権を打倒し、カルファラを追い払って、ようやくレイザードは解放されます」
「はい」
「ですから我々が行おうとしている戦いは、独立戦争であり、同時に謀反でもあります」
セリアはうなずく。
「そしてこの戦争に勝利するためには、殿下、あなたという存在が必要不可欠なのです」
「私、ですか?」
不思議そうに聞き返すセリアに、イリウスは微笑んだ。
「やはり、殿下はご自分のことをあまりご存じではないようですね」
「?」
「レイザードの民は皆、あなたのことが大好きなんですよ? そして諸侯においても、私の呼びかけに応じる者はいないでしょうが、あなたの呼びかけであれば立ちあがる者が必ずいます」
「……私は、一度皆に背を向けました。そのような者がそこまで信頼されているでしょうか……」
「いいですか、セリア様」
イリウスの声は心底嬉しそうだった。
実は彼の心中には、一抹の不安があった。それはこの数年で、セリアが変わってしまってはいないかということであった。
しかし、どうやらその心配は杞憂だったようである。根は昔のままのセリアがそこにいた。その事実が嬉しかったのである。
「もしもあなたという存在がいなければ、レイザードの各地で民衆が暴動を起こしていますよ。しかし私の知る限り、そんな話は聞いたことがありません。皆、いつかあなたが帰ってきてくれると信じて、過酷な状況の中を生き抜いているのです。レイザードがまだ滅びていないのは、あなたという存在が、皆の胸の中に希望としてあるからです」
「……」
「この国をお救いください。そして私たちをお導きください。セリアシュリン様」
イリウスはその場に片膝をつき、右手を胸に当てて頭を垂れた。マリベルもまた、それに倣う。
「私は……」
覚悟はすでにできている。
何を迷うことがあろうか。
「私は、レイザードを解放するために、ここへきました。ただ、私自身は無力です。ですから一人ではどうすることもできません」
そう言うと、セリアもまた片膝をつき、頭を垂れた。
「どうかお願いします。私に力を貸してください」
イリウスはさらに深く頭を垂れ、
「今こそ確信しました。私はこのときのために生きてきたのだと。このイリウス、身命を賭してセリアシュリン様に忠誠を誓います」
「同じくマリベル。この身果てるまで、セリアシュリン様とともに」
こうして、解放への序曲が始まった。
しかし彼らはまだ知らない。混沌とした冥き闇もまた、水面下でゆっくりと動き始めていることに。