十一章 目指すは侯爵の屋敷
気配が二つ、闇に紛れながら移動していた。
その足取りは小走りだが慎重。単に夜道を警戒しているにしては、やや過剰すぎるほどだ。
そしてその周囲への気の配り方。まるで何者かの襲撃に備えているかのような印象さえ受ける。
この二人、セリアとアテルである。
二人はどっぷりと日が暮れたシャトリナの街を、北へ移動している最中であった。
目指すはシャトリナの最北にあるセルディオス侯爵の屋敷。
地下の洞窟内では、ついにマリベルと合流することはなかった。
現状においてもはやこの事実は、何か予定外のことが起こったと見ていい。いや、そう見なければならない。
シャトリナへの道中襲ってきた連中か、あるいは別の敵か。
敵を絞る必要はない。襲ってくる者全てが敵。
そしてその敵が何かしらの行動をとるのなら、屋敷までのこの道中しかない。
急がなければならない。
敵は、もうすぐそこまできているかもしれないのだ。
「もう少し。この通りを抜けたら着くから」
隣を走るアテルが言った。
セリアは首肯する。
「ええ、昔きたことがありますから覚えています」
夜なので決して視界が利くというわけではないが、それでも脳裏に浮かぶ朧げな風景と一致するところがある。
屋敷まではもう幾ばくもない。あの地下通路のおかげで、かなり距離を稼ぐことができた。
《このまま、何もなければいいが……》
今のところ、何者かが追ってきているような気配はない。
それにこの広い道なら、仮に襲撃を受けたところで応戦しやすい。
無論、ないに越したことはないが。
しかし万が一のとき、交わしきれないほどの敵が現れたなら、そのときは――
「生きることだけ、考えててね?」
セリアははっとした。いつの間にかアテルがこちらを見ていた。
セリアは内心の動揺を隠しつつ、
「わかっています」
「……ならいいんだ」
アテルは視線を前に戻す。
《それが、子供の言う台詞か……?》
腹が立ってしかたがなかった。
自分の不甲斐なさに。そして、そんなことを子供に言わせる、この現実に。
「――――っ」
セリアは唇を噛みしめた。
苦々しい表情を浮かべるセリアをちらっと一瞥したアテルは、何も言わずに再び前を見据えた。
すでにだいぶ走り続けている。
セリアはそれほどでもなかったが、アテルはやや乱れた呼気を繰り返し、苦しそうである。
通りの突き当たりを右に曲がる。もう屋敷は目と鼻の先だ。
と、そこに。
「お待ちしていました」
鎧に身を包んだ騎士が十人ばかり、片膝をつき、頭を垂れていた。
先頭にいる隊長格の男が顔を上げ、
「イリウス様のご命令により、お迎えにあがりました。セリアシュリン様」
「味方?」
アテルが息を整えながら問うた。
男は静かに首肯する。
「では参りましょうか。イリウス様がお待ちです」
騎士たちはさっと立ち上がり、左右に退いて道を開ける。が、セリアは動かない。じっと男を見据えている。
そしてしばしの沈黙の後、
「名を。名と階級を述べなさい」
静かに言った。
「これは……失礼しました」
男は深々と頭を下げた。
「小隊長のキースと申します」
「どちらの所属ですか?」
「恐れながら、セリアシュリン様は長らくこの国を離れておいででございました。その間に、新たに編成された部隊が多々ございます。故に、私の所属を申し上げたところで、おわかりにはなりますまい」
「……そうですね」
「おわかりいただけて幸いでございます。では、参りましょう」
「わかりました。アテル、行きましょう」
「――――うん」
セリアとアテルの周りを騎士たちが囲むようにして、一行は歩き出した。
侯爵の屋敷はもう見えている。後数百メートルも歩けば、荘厳な造りの門が迎えるだろう。
一行の歩調は速くはない。ゆっくりで、かつ一定の速度を守っている。
それはまるで、何かのタイミングを見計らっているかのようだ。
《そんなことをせずとも、こちらはいつでも構わないというのに》
セリアは勿論のこと、アテルもとっくに気づいている。
この者たちの言動が不自然だということに。
まず第一に、この者たちはイリウスの命令で迎えにきたと言った。この台詞ですでに、セリアはこの者たちが味方ではないということを確信した。
第二に、この足取りである。先ほどマリベルが言ったように、今は一刻を争う状況なのだ。にもかかわらずこのゆったりとしたペース。時間を稼ぎ、尚且つ襲撃のタイミングを計っているのが手に取るようにわかる。
そして何より、この者たちとの出くわし方、そして場所。待ち伏せしていましたと公言しているようなものではないか。
気になるのはこの者たちの詳細である。
殺し屋ではない。
恐らくレイザードの人間だろう。
とすると、セルべス政権側に属する何者かの配下か。
と、そんなことを思考していると、前を歩く騎士たちの足取りさらにがゆるやかになり始めた。
セリアらの足も自然とそれに倣う。
それから十歩も行かぬうちに、一行は立ち止った。
《いよいよか。とはいえ、大分屋敷には近づけた》
セリアは剣の柄に手をかけた。
「どうやら、お気づきになられたようですな」
前を歩いていたキースが振り返った。
「誰の命令ですか?」
「あなた様のよく知る方ですよ」
「セルべス王ですか」
キースはにやっと笑った。
「当たらずも遠からず、といったところです。しかしまあ、無様なものですな。まるで敗戦の将のようだ。二年前のあのときも逃げて、そして今またここまで逃げてきている」
嫌みったらしく、皮肉たっぷりにキースは言う。挑発のつもりで言ったのだろうが、残念ながらセリアの心にさざ波一つ立たすことはなかった。
「あなたの言う通り、二年前から私は逃げ続けていました。ですが今は、もう逃げないためにここにいる。私が言う逃げないとは、何も戦場から逃げないことではありません。目の前の現実から目をそらさないということです」
「ふん、戦場を知らぬ小娘が、わかったような口を利かないでいただきたいものですな。――さて、お喋りはこのあたりにして、死んでいただきましょうか!」
キースは剣を抜き放った。それに伴い、他の騎士たちも次々に剣を抜く。
アテルはやや緊張した面持ちで臨戦態勢をとった。と、その唇がわずかに動き始める。何かを唱えているようだ。しかし、そこから漏れ出る言葉はすぐさま闇に溶け込み、騎士たちの耳には届かない。
「殺れっ!」
「させない!」
アテルが右手を大きく振るうとともに、紅き閃光が闇を引き裂いた。一瞬遅れて、セリアとアテルを守るようにして、地面から数本の火柱が天空へと駆け上る。周囲は一瞬にして昼間同然のように明るくなった。
「何っ!」
今まさに飛びかかろうとしていた騎士たちは、いきなり炎の魔術が展開したことに出鼻を挫かれ、動きが大きく鈍った。それを見逃すセリアではない。抜き放ちざまそして返す刀。発生した風の刃がたちまち二人を斬り伏せる。
「なっ、何だその剣はっ!」
キースが吼えるのも無理はない。常人には斬撃が飛んでいるように見えるのである。そんな常識外れのことが可能な剣など……。
まさか……。
「魔剣かっ!?」
「命惜しくは退きなさい」
「ふざけるな! 何をしている、かかれっ!」
しかし飛びかかってきた騎士は、アテルの放った火球に弾き飛ばされた。 鎧の上から命中したとはいえ、昏倒するほどの衝撃は免れない。
「お、おのれぇえ! 攻撃だ! 一斉に攻撃しろ!」
もはや騎士の誇りや面子もあったものではない。標的を仕留めさえすれば何とでも言い訳は立つ。今は任務遂行が最優先。
「くっ」
正面左右背後から敵が迫る。
たとえ猛者であってもこうなると勝敗はわからなくなる。
一対一を十回繰り返すのと、一対十を一度に行うのとではまったく話が違う。後者の場合、ただ強いだけでは生き残れない。圧倒的に強くなければならない。
「僕が道を開くから行って」
アテルが言った。
――わかっている。自分がそういう立場にあるということは。わかってはいるのだ。だが、これだけは絶 対に譲れない。
「できません」
詠唱に入っていたアテルは、それを中断し、驚いた顔でセリアを見やった。
「あなたが礎になる必要はありません」
セリアは剣を握る手に力を込めた。
今やアテルの放った火柱は消え、二人と敵との間に障害はない。上段から斬り下ろそうとする者、下段から斬り上げようとする者、あるいは突き刺そうとする者。いかなる達人であっても、これらすべての斬撃を防ぎきることなどできはしない。
二人の命運はここで潰えたかに見えた。
そのときだ。
凛とした声が走ったのは。
「猛る炎よ、我が意に沿いて煉獄と成せ。――焦熱烈波!」
放たれたのは紅の業火。その威力は苛烈にして甚大。まるで闇を吹き飛ばすかのような炎の衝撃波である。今まさにセリアとアテルに斬りかかろうとしていた数人の騎士たちは、為す術もなく炎に飲み込まれて絶命した。
「何だとっ!」
今のは何だ。何が起きた。
キースを含め、生き残った四人の騎士たちは皆、二人への攻撃どころではない。状況の把握に右往左往している。
無理もない。レイザードは二年前の動乱を除けば、最後に戦争をしたのは今から二十年も昔なのだ。その戦争を知る者のほとんどがすでに退役している。
ここにいる騎士たちも、無論魔物の討伐をしたことぐらいはあろう。しかしそれは戦ではない。所詮狩である。狩で死ぬこともあるが、それは単なる不注意によるものが大半。
しかし戦場は違う。戦場では何が起こるかわからない。咄嗟の変化に対応、判断できるのは素質やセンスではない。経験である。
二年間、傭兵として生きてきたセリアの判断力には、キースなど足元にも及ばない。
「はあっ!」
白刃が闇を切り裂く。
キースがはっとしたとき、セリアはすでに残り三人の騎士を倒し、尚且つ剣の切っ先をこちらに突きつけていた。
「ぐっ……。くぅ、おのれぇ!」
「逃げるなら追いません」
「ば、馬鹿にしやがって! 誰が、誰が貴様如きにっっ!!」
剣を振り上げ、キースは鬼の形相で向かってきた。
しかしそんなに頭に血が上った状態で、冷静に戦えるわけがない。
「死ねぇええっ!」
その剣が振り下ろされる直前、セリアは驚異的な速さでキースの脇をすり抜けた。そして、ザザァと砂埃を立てて停止し、剣を鞘に収める。
「ぐふ……」
キースは、その唇から呻き声のような声を漏らすと、剣を振り上げた体勢のまま倒れ伏した。
「お見事です。姫様」
その声が聞きたかった。
「マリベル……」
「遅くなって申し訳ありません。――アテル、よく頑張りましたね」
マリベルは母親の顔になってアテルを見やった。
アテルは恥ずかしそうに目をそらし、
「全然平気」
「アテルには助けられました。彼がいなかったら、間違いなく死んでいました」
するとマリベルは打って変わって真剣な表情になった。
「姫様、実はどうやら、現状は思っていた以上に深刻です。恐らくですが、どうやら姫様はとんでもない連中に狙われています」
「とんでもない連中?」
「まずはイリウス様の屋敷へ。詳しい話はそこでしましょう」
無論、セリアに異存はなかった。
マリベルを加え、三人となった一行は、イリウスの屋敷へと急いだ。