十章 においを辿って
一体どれぐらい歩いただろう。その洞窟のような地下道を。
いや、本当はそんなに歩いていないのかもしれない。
しかしセリアには、すでに一時間近くも歩いているように感じられた。
引き返したい衝動に駆られたのも、一度や二度ではない。
先頭を歩くアテルは、右手を掲げるようにして足早に歩いている。
その掌に踊る炎がなければ、辺りはたちまち漆黒の闇と化すだろう。
アテルは幼少の頃から、魔術に関して非凡な才能を有していた。
あのマリベルの息子なのだ。当然と言えば当然のこと。
セリアは頻繁に背後を気にしながら歩いていく。
しかし幸か不幸か、誰かが追いかけてくる気配はない。
《マリベル……》
その事実がすでに、事態の深刻さを告げていた。
マリベルは一流の魔術師である。その腕前は、レイザードでも五指に入るほどだ。事戦闘に関して、マリベルが引けを取るとは思えない。例え相手が手練の殺し屋であっても。
しかし、それならもう追ってきてもいいのではないか。
仮に何者かの襲撃があったとしても、マリベルの実力なら容易に対処できるはず。
それなのになぜ……なぜ追ってこない。
「大丈夫だよ」
セリアの動揺を気配で感じ取ったのだろう、アテルがそう言った。
「母上は負けない。母上の強さは僕がよく知ってる。絶対に負けない」
「……」
まるで自分に言い聞かすような口調。
そう、誰よりも引き返したいのはアテル自身なのだ。
まだ十五にも満たない子供が、自分を押し殺して忠義のために動いている。
《……私は、どれほど未熟なのだ……》
情けなさと申し訳なさで涙が出そうだった。
セリアはアテルのその小さな背中に、ただ無言で頭を下げた。
☆ ★ ☆
地面に力なく転がっているその者たちは皆、漆黒のマントを身にまとい、奇怪な仮面をつけていた。
どう見ても物盗りのようには見えない。
かと言って、ただの武装集団のようにも見えない。
あえて言うならば狂信者の集団。その類型。
――そして。
「……馬鹿、な……」
最後の男は、そう小さく言い漏らすと、糸が切れたように崩れ落ちた。
戦闘は終結を告げた。
――いや。
果たしてあれが戦闘と呼べるものだったのかについては、議論の余地が多分にある。
たたかいの『た』の字を言う前に、勝敗は決していた。
が、しかし。
青年の眼差しはむしろ鋭さを増し、遠くを、闇の向こうを静かに見据えている。
「まさかと思うが、隠れてるつもりか?」
闇の向こうに気配が生じた。
《……何だ?》
音もなく近づいてくる。
姿を現したのは二十歳前後の男。
整った顔立ちに薄い笑みを浮かべている。
年齢や背丈、体躯に関しては青年とあまり変わらない。
決定的に違うのは双眸。
それはあえて形容するなら、血に飢えた魔物のような、狂気に満ちた目。
――しかし。
《何だ? こいつは……》
青年が訝しんだのはそんな箇所ではない。
外見というよりはむしろ内面。
その男が持つ、人によってそれぞれ異なる気配。
その気配が、妙なのだ。
《気味の悪い野郎だ……》
目に映る対象はあくまで一人。が、その者が持つ気配は二つあった。
気になるのは二つ目の気配。
無論、微かではある。微かではあるがまず間違いない。
男の中にもう一つ、別の気配が存在している。
「……お前、腹の中に別の生き物でも飼ってるのか?」
とりあえず聞いておく。死んでからでは答えは返ってこない。
男は青年の問いに、やや驚いたような表情をしてみせた後、酷薄に笑った。只人なら震え上がるような、凄味のある笑み。
「貴様、わかるのか。なら、手加減する必要はないな。――『メイフィル』、ご指名だ」
「メイフィル?」
すると男の上半身は、力が抜けたようにだらりと垂れ下がった。
「何やってやが……ん?」
――ドクン……。
男の体内で何かが胎動している。
攻撃をするなら今が最大のチャンスではあるが、青年としては、男が何をしようとしているのか知りたいという欲求の方が強かった。
《気配が変わりやがった……》
まるで氷のように冷たく、そして鋭い気配へと。
先ほど感じた二つ目の気配が、恐らくこれだろう。
人間らしい温もりなど微塵もない。
男はゆっくりと身体を起こした。
その顔には一切の表情がなく、どこまでも冷たさに満ちていた。
目に宿っていた狂気も消え、あるのは波一つ立っていない静寂。
「メイフィル、参る」
先手は男――否、メイフィル。
自然体のまま、一瞬で青年の背後へ移動したメイフィルは、いつの間にか手に握っていた短刀で青年の首を狙った。
首筋を切るのではなく、首そのものを飛ばすほどの攻撃。
しかし青年は動かない。
視線を巡らすことすらしない。
あくまで余裕の青年。
鋭い刃が青年の首に当たる。
しかし刃は青年の首の皮一枚切ることなく、根元からパキンと折れた。
使い物にならなくなった短刀を手放したとき、すでに青年はメイフィルと正対していた。
メイフィルの時間感覚の中では、青年だけが動いていた。
そう、それは言うなれば刹那を超えた神速。メイフィルは、繰り出された掌打が自分の腹部をとらえるのを、ただ見ていることしかできなかった。
避けたり防いだりするなど論外。身構えることすらできない。そんな刹那の瞬間に、自分は動くことはできない。
掌打は破壊力をともなったものではなかった。
単に押し当てられただけに見えた。
しかし身体はくの字に折れ曲がり、足がわずかに地面から離れる。
途端、凄まじい衝撃が内腑を貫通し、背中から突き抜けていった。
「がはっ」
肺の中の空気を全て吐き出し、メイフィルはその場に片膝をついた。
――勝てない。
刹那の攻防で理解した。
強さの次元が違う。
あえて例えるなら獅子と鼠。いかに強い鼠であろうと獅子には勝てない。
しかしメイフィルはとある感情。長らく忘れていた高揚感を感じていた。
「――――面白い」
「そいつぁよかったな。だが終わりだ」
とどめの一撃を見舞うべく、青年は拳を構える。
するとメイフィルは青年を見上げ、薄らと笑みを浮かべた。
「また会おう」
「何?」
そう言い残すと、メイフィルはどさっと倒れこんだ。
同時に、メイフィルの気配が消失する。
青年は構えていた拳を戻し、倒れ伏している男の首筋に手を当てた。
「……」
男は絶命していた。
いや、今となってはその亡骸が男なのかメイフィルなのかすらわからない。
その肉体は果たしてどちらのものだったのか……。
気になるのはメイフィルが言い残した最後の台詞。
――また会おう。
《どうも、面倒な奴に惚れられた気がするな……》
「しかも男じゃねぇか」
はあっと溜め息をつき、青年はその場を後にした。
どっぷりと闇に沈んだ街は一見、何の異常もないように見える。少なくとも目に映る街並みは平穏そのものだ。
ここからやや離れた場所に妙な気配がちらほらと蠢いているが、気になるほどではない。
今気がかりなのは闇のにおい。
そしてそれは、少しずつ濃くなっている。明らかにどこかから漏れ出している。
「…………」
しばらく行くと、一軒の民家が青年の目にとまった。
明かりが漏れていないことからして、住人はすでに寝ているのだろう。
別に不思議ではない。
貴族ならともかく、一般の民衆にとって蝋燭は貴重品である。必要なとき以外に使用することはほとんどない。日が沈んで辺りが暗くなったら、明日に備えてさっさと寝るのが普通である。
「無人、か」
家の中に人気はない。
単に留守なのかそれとも空家なのかはわからないが、これも別に不思議ではない。仮に空家だったとしても、そんな家はいくらでも存在する。
が、におう。
この清浄な大気の中で、そのにおいは酷く目立つ。
青年は静かに、その民家の扉を押した。
ギィィと音がして、扉がゆっくりと開いた。
中には木のテーブルが一つあるだけで、その他生活に必要な家具類は何一つなく、しかも埃にまみれていた。
長年誰も住んでいないのだろう。色々なところがかなり傷んでいる。
青年は扉を閉めると、慎重に床を見渡していった。
青年には確信に近い予感があった。
闇のにおいの発生源はここではない。しかし、ここから漏れ出していることは間違いはない。ならばこの家のどこかにあるはず。においの発生源へと繋がっている、隠し通路のようなものが。
青年の視線が、テーブルの下の床でとまった。
テーブルを動かし、その床をコンコンと軽く叩く青年。幾度かそれを繰り返した後、床に敷かれていた板を取り外した。
そこにあったのは、人一人通れるほどの小さな穴。
そして青年の行動は早かった。
一切の躊躇いなくその穴へ飛び込んだのだ。青年の目には全てがよく見えているのだろうが、普通の人間にとってはまさに暗黒の穴である。よほど肝っ玉の据わった者でもそんな芸当はできまい。
青年は漆黒の闇の中を落ちていく。
穴には梯子がついていたが、青年はそんなものは使わず、ただ重力に任せて落下していく。
十五メートル、いや二十メートルほど落ちただろうか、穴はやや開けた通路のようなところへ繋がっていた。
青年は音もなく着地する。
驚いたことに、意外としっかりとした地下通路だった。ところどころ松明の火がぱちぱちと燃え、辺りを薄暗く照らしている。青年が落ちてきたのは、換気用の穴といったところだろう。
「おうおう、懐かしいにおいがしてやがる」
不敵な笑みを浮かべつつ、青年は歩き出した。
周囲に人気はない。あったとしても問題はないが、なければない方がいい。
右へ左へ、通路はまるで迷路のように入り組んでいた。
一本道なので迷うことはないが、その分距離は長く感じる。
《それにしても、何ともくだらねぇにおいだな》
青年の表情から笑みが消えていた。
と言うのも、青年はこのにおいがあまり好きではなかった。
知り合いの中にはこういったにおいを好む者もいたが、青年自身はあまり良く思っていなかった。
血の臭いや腐った死体の臭いは、別に何とも思わない。
そんなものに揺れ動く感情はすでに失ってしまったし、またその程度のものに一々反応していては、あの世界では生きていけない。
が、闇のにおいだけは好きにはなれない。
だから青年は、そんなにおいが充満していたあの世界が嫌いだった。
しかし今は、そんなにおいがこの世界にも存在していたという事実に、だんだんと腹が立ち始めていた。
と。
「ん?」
通路の先に、大きな扉があった。
見るからに重そうな、鉄製の扉である。
開けるのに大の大人が三人は必要だろう。
扉の前には見張りらしき輩が二人。
その出で立ちは、先ほど街中で一戦交えた者たちと同じ。
漆黒のマントをまとい、奇妙な仮面を身につけている。
青年がさらに堂々と近づいていくと、さすがにその二人は気づいたらしく、
「とまれ」
その声は、背筋がぞっとするほど不気味な響きを孕んでいた。
青年は静かに足をとめた。
「ここより先は聖域。我らが神の導きなき者通ること叶わず」
「ほう、聖域の割には随分と臭うな。さっきから血の臭いと腐臭しかしていない。お前らの神ってのは、随分と血生臭いんだな」
「我らが神を愚弄した罪、万死に値する」
そう言うなり、二人の見張りは剣を抜き放って飛びかかってきた。
が、その動きは先ほど戦ったメイフィルに遠く及ばない。
たちまち青年に倒され、地に倒れ伏す。
「……我らが神よ……この身をお捧げいたします…………」
見張り二人は動かぬ躯となった。
「…………阿呆が」
青年は歩き出した。
鉄製の扉の前までくると、左手に力を込めて無造作に押した。
ミシッ
そんな音がしたのも最初だけであった。
己の身長よりも高い、しかも分厚い鉄製の扉が軽々と開かれていく。
すぐに扉は開ききり、青年の視界に内部の光景が飛び込んできた。
その光景には、青年でさえ一瞬立ち尽くしてしまった。
「…………お前ら、何やってんだ?」
その青年の声は、青年自身でさえ、ここ最近聞いたことがないほどに冥く沈んでいた。