私だけの特別な一冊
その本と出逢ったのは、全くの偶然だった。
いつも一緒に帰る友達が、その日たまたま委員会の仕事で遅くなって、時間をつぶすために何となく、図書室に寄ってみた。
最新のラノベやマンガがそろっているわけでもないその図書室は、いつもほとんど人がいなくて、図書委員が手持ち無沙汰にカウンターに座っているだけだった。
幼い頃は私も、図書室や図書館へ行くのが好きだった。
まだ読んだことのない絵本を見つけては、ワクワクしながらページをめくっていた。
だけど、小学校を卒業してから、だんだんと距離ができてきてしまった気がする。
図書室に並ぶ本の、絵が少なくなって、文字が小さく多くなって、ページ自体も分厚くなっていくにつれ、気軽に手に取りづらくなっていった。
読書が嫌いになったわけじゃない。むしろ、物語に浸るのは大好きだ。
だけど……情報量が多く、ストーリーも複雑な小説は、読むのにそれなりの時間がかかる。
そして私の時間は、小学生の時ほど自由には使えないのだ。
いつ頃からか、手に取る本には慎重になっていった。
知っている作者の作品、映像化されて、ある程度ストーリーが分かっている作品、既に人気のある有名な作品……。
面白いものもあったけど、どこが面白いのか、よく分からないものもあった。
面白くないものを掴んでしまうたびに、ますます本に対して慎重になった。
皆が絶賛する本なのに、つまらないと感じてしまうと、「私には読書を味わう感性が無いんじゃないか」と不安になる。
本を楽しめるのは、一部の、国語の能力がものすごく高い人たちだけの特権で、私なんかには、その面白さが分からないんじゃないかと、本に対して臆病になる。
最近では何となく、図書室に寄ることさえ少なくなってきていた。
だから、その日、暇つぶしとは言え図書室に立ち寄ったのは、ほんの気まぐれだった。
久々に、本で溢れたあの景色や、独特の匂いを味わってみたくなった――そんな、思い出めぐりのような感覚だった。
せっかく寄ったのだから、とりあえず何か一冊でもページをめくってみようと思い立ち、本棚の片隅に、その本を見つけた。
あまり手に取る人もいないのか、新品同然に綺麗で、ぱりっとして……だけど紙の色だけが、ぼんやりと微かに黄色がかった、ハードカバーの本。
知っているタイトルの本でも、聞いたことのある作者の本でもなかった。
どうしてその本を手に取る気になったのか、今となっては自分でも分からない。
初めのうちは、全く真剣に読んでいなかった。
つまらなかったら読むのをやめよう、くらいの、適当で、おざなりな読書。
だけど……読み進めていくうちに、衝撃に似た感覚に襲われた。これまでに読んだどんな本より、心臓を鷲掴みにされた。
……その本に描かれた主人公が、私にそっくりだったから。
もちろん、立場や境遇の何もかもが似ているというわけじゃない。
だけど、性格や、物の考え方が、不思議なくらい私に似ていた。
初めて出逢う登場人物なのに、不思議なくらい、その心が理解できた。
ひょっとして、この作者は私の知り合いか何かで、私のことをモデルにこの主人公を書いたんじゃないかと、ちょっと疑ってしまったくらいだ。
もちろん、そんなことはあるはずがなくて、著者略歴で知ったその人は、私とは住んでいる場所も違えば、接点がありそうな年齢でもない。
しかも、後で調べてみたところ、もう既にこの世にいない人なのだと分かった。
どうしてこんなに、私とそっくりな登場人物がいるんだろう、ひょっとしてこの作者も、私と同じ性格だったのかな……そんなことを考えながら、ページをめくった。
私とそっくりな主人公の遭遇する苦難や試練は、他人事とは思えない。
これまで読んだどんな本より、物語にのめり込んだ。「感情移入ってこういうことなのかな」と、初めてその本当の意味が分かった気がした。
私は主人公と一体化して、読んでいる間だけ、主人公の人生を、自分の人生として“体感”していた。主人公が傷ついた時には、本当に、私まで苦しかった。
心が痛過ぎて、ページをめくる手が止まることもあったくらいだ。
だけど、先に進まずにもいられなかった。
本を読むって、ただ文字を目で追うことじゃない。
本の中には、世界があって、人がいて、様々な人生を生きている。
その人生を、本を読んでいる間だけ、覗き見ることができるんだ。
その本が特別であればあるだけ、読み終わるのが惜しくなる。
結末は知りたい。だけど、読み終わりたくない。
この特別な時間を、終わらせてしまいたくない……そんな、複雑な心の境地。
私とそっくりな主人公の、その物語の結末を見届けた時、まるで私自身の人生も、一旦、幕を閉じたような、そんな奇妙な思いがした。
読み終わっても、すぐには本から手を放せず、ぼーっと余韻に浸っていた。
一度読んで、ストーリーを知ってしまえば、もう二度と読む気の起きなくなる本はある。
だけど、そうじゃない本もある。
あるふとした瞬間に、また読み返したくなる本はある。
私にとっては、この本がそれだ。
できれば私の部屋の本棚に永久保存して、読みたい時に、いつでも読めるようにしておきたい。
だけど、この本は、既に絶版になっていて、書店には並んでいない。市内の古本屋を何度巡ってみても、一度も出逢えたことはない。
私にとって特別な本でも、他の人にとっては、そうじゃない。
友達の誰に訊いても、この本のことを知っている子はいなかった。
勧めても、興味を持ってくれた感じはしなかった。
そうなのかも知れないと、ぼんやり理解する。
あの主人公と同じ性格、同じ思考回路を持つ私じゃないと、この本をここまで特別には想えないのかも知れない。
以前は、周りと違っていることが怖かった。
皆と同じものを好きじゃないと怖くて、皆が好きじゃないものを好きなのは怖くて……思えば、自分の心を、無理に周りに合わせてきた。
だけど、皆が知らない、興味を持たない物語でも、この本を好きじゃなくなることは、私にはできない。
だって、私とそっくりな主人公の、この物語を捨てるということは、私自身を捨てることと同じな気がするから。
きっと、どれほどこの本を読み込んでも、周りの子たちと、物語の内容で盛り上がることはできない。
だけど……私だけが知っている、私だけが至福の楽しみを味わえる、そんな特別な物語があってもいいのかも知れない。
それはきっと、私だけの贅沢だ。
この本との出逢いは、きっと私の中の何かを変えた。
何をどう変えたのかは分からない。
だけど、この本と出逢っていなかったら、私はきっと、今とは全然違う心を持って、人生を歩んでいただろうと思う。
この世界に、本の中とは言え、私と同じ人間がいるなんて思わなかった。
自分と同じ心を持つ人間が、他にもいるって、素敵だ。ひとりじゃないって思える。
本の中だけの人物で、現実では絶対に逢えないと分かっていても……何となく、私という存在が、この世界に認められているような、許されているような、そんな気持ちになる。
本って、物語って、素敵だ。
たとえ作り手が、もうこの世からいなくなってしまっても……十年も百年も前の物語だとしても、時を超え、場所を超え、物語の中に棲む人物と、読み手の人間が、本を通じて出逢える。
時には、現実にいる人間よりもずっと近く、友達のように心に寄り添ってくれる。
あの日、たまたまこの図書室を訪れ、気まぐれに手を伸ばしてみなかったら、この本には出逢えなかった。
私じゃない、“他のたくさんの誰か”にとっての一番じゃなくて、私にとっての……私にしか分からない“一番”。
ランキングやオススメのコーナーを探しても見つからない、偶然の奇跡によってしか出逢えなかった、特別な本。
この本と出逢って以来、時々わざと気まぐれに、それまで読む気もなかった本に手を伸ばしてみる。
やっぱり面白くないと思う本もあるけど、たまに、思いがけない“当たり”がある。
この本ほどの“当たり”には、まだ出逢っていないけど、そんな“当たり”の本たちは、それまで知らなかった世界の面白さを、私に教えてくれる。
気まぐれに手を伸ばさなかったら、一生知らずに終わったかも知れない世界を、私に教えてくれる。
きっと私だけじゃなく、他の誰にでも、人生を変える特別な一冊はあるんだろうと思う。
この世に星の数ほどある本たちの中、その一冊は、必要とされる人の手に触れるのを、息をひそめて待っている。
知らない町の図書館で、まだ行ったことのない本屋の本棚で、あるいは家の物置の中、ビニール紐でまとめられ、埃をかぶって……。
だけど、その一冊と出逢えることなく人生を終える人も、きっといるんだろう。
出逢っても、気づかずにスルーしてしまう人もいるんだろう。その人だけの、本当に特別な一冊は、その人じゃない他の誰かにとっての特別な一冊ではないから。
その出逢いは、誰にでも訪れる奇跡ではないのかも知れない。
だけど、そんな奇跡のような確率で、もしその本とめぐり逢えたら……それをきっと、“運命の一冊”と呼ぶんだ。
私の運命の一冊は、今は限られた期間だけしか手元に置いておけない。
だけど、大人になって、行動範囲が今よりもっと広くなったら、いつかどこかの古書店で、この本を見つけ出したい。
そして、私の分身のようなあの子の棲む物語を、私の部屋の本棚に、大事にしまっておきたい。
そうして、寂しい時、心の疲れた時、そっとページをめくる。
それが私の、ささやかな夢だ。
この学校にいる間、私はあと何度、この本に触れられるだろう。
私が卒業した後、この本に触れてくれる子は、現れるのかな。
私しか知らない特別感もいいけど、他の誰かに知って欲しい気持ちも、やっぱりある。
私がこの物語に逢って感じたことを、他の誰かも感じてくれたらいいな。
この本を、私と同じ気持ちで読んでくれる誰かがいたなら……私はもっと、ひとりじゃなくなるから。
いつものように、図書室のカウンターにこの本を返して、しばしのお別れをする。
だけど、きっとまた私は、この本に逢いに来る。
初めて逢った、この場所に。私の、特別な一冊に。
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