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異世界魔王が強すぎて  作者: new1ro
勇者編
30/31

おまけ - ユグラシフェルトの恩人

正直このことは忘れてしまっていいできごとだと思ったのだが、もののついでだ。フィリビオンさんの話。


ソニタリオス=グラディオとの戦いで負傷した俺とラキリが、ソフィアに手当をしてもらう際に利用していた離宮の診療室。ルシェナ=フィリビオンはその診察室の責任者で、今年で170歳。今年がメルトグラニア帝国暦462年だから、292年の生まれとなる。


フィリビオンさんが生まれたころにはまだユグラシフェルト辺境領自体が存在しておらず、オルストロ山脈に近いこの地方は魔族がまだ闊歩していたらしい。ただし彼女自身、このあたりの生まれではないため当時のことは知らないそうだ。彼女曰く『ほんの40年前くらいからしかユグラシフェルトにはいない』とのことだった。


オルストロ山脈の北側にあるエルフの国・イーフェンヴェルクに生まれた彼女は、60年ほどはエルフの国の中で過ごし、ヒュームの母親の死を看取ると旅に出ることにした。エルフの父親には、旅の目的について「ほかのエルフよりも短い寿命をどうにか延ばす方法がないか探すこと」だと告げたそうだが、本当は狭いエルフの国にいるのが退屈で、世界を見て回りたかったのだという。


エルフは単身や少人数で国や集落の外に出ると、ある種の皮膚病になりやすいらしく、自衛できるだけの強い魔力を持ち、魔術に長けた者でなければ1人で国の外に出ることを許されないのだそうだ。幸い彼女は魔力量が多く、魔術に長けていたため単身で旅に出ることが許された。


彼女はオルストロ山脈の北側でいくつかの国を回った。その中の国の1つにディビステラムがあった。当時からディビステラムは多種族の共存する国家であり、当時は賢王と呼ばれた王の統治する平和な国だったそうだ。大陸の北端から広がる戦火はディビステラムの周辺にまで届いていたが、それでも周辺諸国と連携して戦争を回避する道を歩んでいたという。


どうにか平穏を保っていたディビステラムにおいて、数年間だけ、彼女は魔術師としていくつかの国家事業に加わった。が、やがて周辺諸国も戦乱へ巻き込まれていく様相となり、彼女はオルストロ山脈を迂回して大陸の南側へ移ることになる。当時、特にエルフやドワーフは、大陸の南側にある同族の国を頼って山脈の南へ逃れる者も多かったらしく、彼女もそのなかの1人だった。オルストロ山脈の南側へ渡ったフィリビオンさんは、しばらくはメルトグラニア帝国傘下のエルフの国に身を寄せ、そして40年ほど前にユグラシフェルト辺境領へとたどり着いたのだという。


ユグラシフェルトにおける彼女の功績として知られるのが、ヒューム世界における魔術布の実用化であろう。それまでは、医者や魔術師がその場にいなければ患者の治療は行うことができなかったが、魔術布の登場により専門的な知識がなくても誰でも応急処置を行うことができるようになった。最初は「これ以上悪化させない」ことを目的に開発された魔術布だったが、昨今では性能も向上し、裂傷や骨折については特に、治癒魔法を使わなくても短期間で完治させることができる手段として広く知られるに至っている。


彼女は魔術師であり、エルフのみならずヒュームやドワーフに対する治癒魔法や回復魔法にも長けており、研究者でもある。国教会の信徒ではない彼女は、戒律に触れるような手法での研究や実験を行う必要が生じたとしても、回避策を検討するなど、どうにか折り合いをつけながらやってきたそうだ。


ユグラシフェルトのことわざに「鐘の音に習え」というものがある。意味は日本の「郷に入れば郷に従え」と同じだ。時刻を知らせる鐘は結構いい加減で街によってバラバラだったりするから、正確な時間とはズレていることを知っていたとしても、街の中にいるあいだはその鐘に従うべき、ということらしい。俺はこの言葉をフィリビオンさんから教えてもらった。


ちょうど、最初の"勇者パーティ"でドラゴン討伐に失敗し、キルステンとロズワールという2人の先生を同時に失った直後のことだ。イリストリアはすぐに"勇者パーティ"を抜け帝都へ招集されて、ラキリがいまの"勇者パーティ"を編成するまでの間、俺の治療にあたったのがフィリビオンさんだった。当時、"勇者パーティ"壊滅の原因としてしか見られなくなっていた俺には、誰も近づこうとはしなかった。だから、俺の話し相手はフィリビオンさんくらいしかいなかった。


もともと国の外から来た彼女は厄介事を押し付けられることも多く、貴族の表沙汰にできない病気の治療や出産などへの立ち会いもしばしばあったという。帝国の傑物2名を失い、司教の姪であるイリストリアを命の危険に晒してしまった異界人の面倒を押し付けられた形だったが、彼女は嫌な顔をせずに、すこしだけ厳しくはあったものの、ごく普通に俺に接してくれた。


その後ラキリに拾われ厳しい訓練が始まり、遠征の成功を重ねていくことである程度信頼は回復でき、魔王軍四天王・ソニタリオス=グラディオを倒してから、貴族や街なかでの人々の俺に対する評価は一気に上がった。それはとても喜ばしいことだったが、ときどきその手のひらを返したような変化を不安に思うことがあった。そんな折、右腕の治療のために診療室を訪れるようになり、以前の通りのすこしだけ厳しくも優しいフィリビオンさんと接するなかで、俺は安心感を得ていた。


例えば、待ち時間に診察室の回復士の2人に対して、遠征時に地方で口にした旨い肉料理について話しているとき。


「――ちなみにその調理方法は国教の戒律に反しています。その調理方法だと寄生虫が駆除できない場合があることが理由でしょうけれど、とにかく、こんな誰が聞いているかわからないところで大ぴらに言うもんじゃありません。」


「すみません、ダメだったんですね。知らなくて……。」


「トサカさん、あなたは今回の戦役で軍の階級も得たと聞きました。喜ばしいことですがそれに応じた責任も伴います。」


「恐縮です。」


「それに右腕。吊り布で固定しないと。治るものも治りませんよ。」


「ちょっと蒸れてたもので。付けます、付けます。」


「もう……。でも、だいぶ良くなってきたみたいで安心しました。治りかけが大事ですからね。気をつけてください。」


こんな具合だ。


国教会の信徒ではないフィリビオンさんだが、国教会の戒律は正確に把握し尊重し、彼女自身もそのルールに沿って生活をしている。ヨルを例に挙げるとあまりに極端になるが、研究者や魔術師は総じて国教の戒律を窮屈に思い、軽んじる者が傾向として多いように見えたものの、彼女は決してそんなことはなく、異教徒でありながら国教会の戒律にはきちんと従っていた。


そして戒律といえばラキリ。


戒律を守るという方向ではなく、戒律を無視して堂々と生きていることで非常に有名だった。俺が国教の戒律に疎いままでいた責任の一端はラキリにあると、俺は思っている。


ラキリはユグラシフェルト辺境領の貴族であり、国教会のトップ・司教の姪で、本名をラキリエッタといったらしい。可愛らしい名前だが、あまりにも戒律を無視して振る舞うために国教会を破門となり、その際に「ラキリ」という短い名前に改名させられたのだそうだ。


メルトグラニア帝国の貴族は総じて名前が長い。高い身分であるほど名前が長くなり、身分が低くなると名前が短くなっていく傾向があるように俺には見えた。「ラキリ」という名前は、「ロジェ」や「ソフィア」といった平民格の名前だということが、音の長さを聞くだけでわかる。


ではラキリが戒律の何に反していたから破門されてしまったのかというと、まず司教の姪でありながら軍属となり、戦いに参加していること自体が良くないことだったらしい。命を奪う行為に積極的に加担しているのは宗教上、よくなさそうだということは納得のいく話だ。


ただ、戦争に参加するだけでは当然ながら「破門」されるほどの問題ではない。貴族の子弟の多くは軍属だし、戦争での手柄を誇ったりもしている。問題なのはラキリの戦い方だ。とにかく突撃し、敵を斬り殺し、全身返り血にまみれて帰ってくる。前線に出るにしてもまずは魔術でスマートに戦うのが帝都をはじめとするメルトグラニアの貴族流らしいのだが、ラキリの戦い方はユグラシフェルト辺境領の土着の氏族たちの粗暴な戦い方に似ていて、常軌を逸していると見られていたのだそうだ。「猪姫」という渾名で呼ばれるようになったのはこのためだ。


自身が指揮をするようになってからは、兵にその戦い方を無理強いすることはなく、現実的な用兵の手腕を見せ周囲から驚かれたらしいのだが、それでも特に"勇者パーティ"として少人数で行動する際には、ラキリの突進癖は時折姿を表していた。


そのほかにも食事に関することだったり、休息日を無視したりだとか、いろいろと国教会の怒りを買う行為はあったらしいが、もう1つ、あまり表沙汰にはできないものの、破門の大きな理由となった行為に「姦淫」である。


ラキリは男女問わずとくかくモテる。まずはものすごく容姿が整っているし、加えて軍人としての実力が並大抵でないことは誰もが認める。自ら剣を持って戦えば誰よりも勇猛果敢に敵を殲滅し、一方で、指揮する立場となれば兵たちに無理を強いることもなく、現実的かつ最大限の効果を発揮する作戦を瞬時にひらめき、状況に即応して実行できる。「兵たちに無理を強いることもなく」という点について、俺は異論を唱えたいところではあったがとにかく、婦女子はラキリを放っておかないしラキリも、グイグイいくタイプなので、宗教上のタブーである婚前交渉がラキリを中心に日々繰り広げられ、そしてこれがやり玉に上げられた。


軍と国教会の対立構造が明確になってきてた時期的とも重なり、立場上、司教は姪を破門にせざるを得ず、「ラキリエッタ」は「ラキリ」となった。


ややこしいのは国教会がラキリを悪く扱えないことだ。破門された立場というのは、国教会側からはなかば罪人に近い扱いとなることが普通であるらしい。しかし「司教の姪である」ことに加えて、もうひとつの別の理由により、ラキリは破門されてはいるものの特別視され続けるという、国教会視点で特異な存在となった。


帝国軍の視点で見ると、それまでは「敵対する国教会側の人間」であったラキリは、破門されたことにより味方、つまり帝国軍内部の者として扱われることになり、帝国軍内部での出世という観点では、破門はむしろプラスに作用した面もあるという。


つまり、普通はこの国で生きていくうえで致命的な足かせになるはずの「破門」が、いろいろな事情が重なったことにより、ラキリにとっては痛くも痒くもなくなっているのだった。そしてその特異性が、更なるラキリの魅力にもつながっているふしがあった。


さて、フィリビオンさんの話をする過程で、なぜわざわざ上官であるラキリについて触れたのかというと、もちろんその必要があったからだ。


場面は、ソフィアにはじめて魔力を分け合えた日、泣き崩れた彼女を支えて立っていたあの日の夜だ。俺は、忘れ物を取りに診療室へ戻っていた。忘れ物は「剣」だった。戦場を共にしている愛剣ではなく、王宮内で携帯する短めで未使用の剣。


ソフィアの涙に胸を打たれ、同時に自身の浅ましい考えを悔いていた俺は、その件で頭がいっぱいになって診療室の個室に剣を置き忘れてしまっていた。時代劇の武士を想像するとわかりやすいだろう。「武士たるものがその魂たる刀を置き忘れるとは何事か!」ということだ。時代劇の武士がされるのと同じような叱責と、武士道精神の欠片もない「訓練」という名目の暴力・拷問・虐待行為が繰り広げられる未来を恐れた俺は、離宮の診察室へ剣を取り戻すため急いでいた。


ソフィアに俺が診てもらったあと、次に個室に入ったのはラキリだ。だからもう、俺が剣を置き忘れてしまっていることをラキリは承知で、俺をどう痛めつけるかを、つまり国教会の戒律を無視した残虐な「訓練」の内容を思案している最中かもしれなかった。しかしまだ、すべての希望が失われてはいなかった。個室にある剣を回収しさえすれば、まだどうにか、現時点における最悪の自体は回避できる状況だった。


フィリビオンさんがいれば確実に注意されるスピードで離宮へ走り、ようやくたどり着いた俺は、衛兵に診療室へ向かう必要があることを伝えて、そのうち1人についてきてもらった。電気や電灯のないこの世界は現代日本よりも陽の光に大きく左右される。日が暮れても働くようなことはほぼないので、人の住んではいない離宮は静まり返っていた。


衛兵のいる手前、"勇者"としては憔悴している様子を表に出してはならない。誰が俺についてくるのか、2人の衛兵の間で揉めるくらいには、俺は尊敬されている様子だった。「魔王軍の幹部からこのヒューム世界を救った英雄」としての姿を取り繕って、一言、二言、受け答えしていたが、何を話したかは覚えていない。とにかくラキリにバレる前に、剣を回収しなくては、ということで頭がいっぱいだった。


診療室に併設された研究室の前を歩いていると、診療室の方向に人のいる気配を感じた。


「まだ誰か、残っているのですか?」


「いえ、明かりも灯っていないようですし、この時刻まで人がいることは滅多にありません。」


不穏な気配を察した俺は、衛兵に火を消して研究室の前にいるように伝え、1人で診療室へと向かった。預かった鍵を使って診療室へ。解錠の音が思ったより出てしまったが、そのあとは音を立てないように細心の注意を払って気配のする方へと近づく。


「不穏な気配」と表現したが、何のことはない。8割方、男女が密会しているのだろうと俺は想像していた。おそらく、診療室に務める男女だ。以前フィリビオンさんから「職務中にそのような態度を表に出さないように」と注意されていた2人の顔を思い出した。


奥の個室へ向かう道中、個室の中で机か椅子が動く音がした。確実に人がいる。ただ不可解なのは、どうやら魔術で音が外に漏れるのが阻害されているような様子を感じたことだった。


わざわざ、男女が密会するためだけに魔術まで使うだろうか。それほど警戒するならそもそもこの離宮は使わないだろうし、空間全体を覆う魔術は魔力量の消費も激しい。敵国……、とまではいかないにしても政治的悪意のある誰かが、何らかの目的で個室に侵入している可能性もあると俺は考えた。


動画コンテンツが皆無のこの世界で、あわよくばいい感じのネタをゲットできるかもと思っていた俺は、ここで緊張のレベルを引き上げ、臨戦態勢となった。


まさか俺とソフィアが魔力供給したことを嗅ぎつけた国教会の監査官が、証拠を集めにでも忍び込んでいるのか。もしそうなら俺とソフィアは裁判にかけられ、国教会から破門となる。俺は別に構わないが、ソフィアは回復士であると同時に修道士だ。山奥の村から、国教会に魔術の才能を認められて城郭都市へ来たと、かつて彼女が言っていた。ラキリだから国教会から破門されても生きていけるが、田舎の山村から出てきた娘ひとり、破門なんてことになれば、少なくても城郭都市の中での居場所は失ってしまう。


と、部屋の中で、何かが割れる音がした。


おかしい。侵入者がそんなヘマをするか? 俺の頭の中に、もう1つの可能性が過ぎった。誰かが争っている。もっとわかりやすくいうと、誰かが誰かを殺そうと、揉み合いになっているかもしれなかった。


より緊急度の高い不安。最悪の想像が頭をよぎった。診療室で誰かから害意を向けられるとしたら、その筆頭はフィリビオンさんだ。


なぜなら彼女はヒュームではなくエルフで、オルストロ山脈の北側の生まれで、そして数年だが敵国であるディビステラム魔王国にいたことがあり、いまなお国教の信徒ではなかったからだ。


ディビステラム魔王国から宣戦布告を突き付けられた当時、ユグラシフェルトにわずかに住んでいるエルフやドワーフなど、ヒューム以外の種族の者への風当たりが強くなった。具体的に大きな事件が生じたわけではないと俺は認識しているが、ここにきて王宮にいるヒュームでない種族の者を警戒する動きも生じていると聞いた。実際に身の危険を感じて、メルトグラニア帝国内のエルフの国やドワーフの国へ逃げる者もいたらしく、フィリビオンさんとはそういった世間話をしたこともあった。


起こってはほしくない、嫌な予感。しかし、幸運にも俺はその状況を回避できることができる状況にいた。フィリビオンさんを、俺が助ける。辛いときに1人だけ優しく接してくれたフィリビオンさんを。剣を持っていないことが悔やまれたが、しかし剣を置き忘れていなければ俺はこの場にいなかった。襲われている側を救い、賊を捕らえ、場合によっては殺す。自身の行動目標を頭の中で言語化し、いざというときに判断が遅れないようにした。


王宮のドアの鍵は、鍵穴から向こうが見えるようには作られていない。隙間があるようなちゃちな造りでもない。俺はヨルに教えてもらった魔術で解錠する。音が漏れないようなしかけも付与された魔術だ。


しばらく、向こうの気配をうかがう。……しかし解錠に気付いた様子はない。室内からは、いまだ物音がしている。


グズグズしてもいられない。俺は、静かに迅速に、ドアを押し開いて部屋の中へ壁を背に半身となり入った。


そこにいたのは2人だった。


幸いなことに、俺の悪い予感は外れた。そこでは殺人や暴力などの、人の生き死に関わるような行為は行われてはいなかった。しかし人と人がもみくちゃになり、組んず解れつ、という状況ではあった。大人が2人、両方とも息を荒げてはいるが、争ってはおらずむしろ仲を深め合っている最中というか。机の上にある物が床に散乱するほどの状況ではあったが、だからこそ止めに入ることはこの上なく無粋である状況というのか。


……回りくどい言い方になった。結論をいうと個室の中では、俺が最初に妄想・期待していた通り、情事が繰り広げられていた。


スカートが捲し上げられ、臀部を露出し壁に手を付いたフィリビオンさんと、後ろから腰を打ち付ける我が上官・ラキリ。言っていなかったがラキリは両性具有者だ。


国教の教典において神は両性具有で、地上に生まれる両性具有者は神性を持っているとされている。ユグラシフェルトの、ラキリとイリストリアの叔父にあたる司教も、ひげもじゃのおじさんだが両性具有者だと広く知られている。そういう事情もあって司教の座に就いているらしい。


そしてその身体的特徴こそが、ラキリが、国教会から破門されても不自由なく生きている理由であり、ラキリが国教会から特別視される最大の理由でもあった。


この国の猥談風にいうと「猛々しく屹立した竜の首が、激しく飛沫を散らす滝壺に……」とでも表現すればいいのか、とにかく非常に立派なそれが、フィリビオンさんへと2往復半するくらいの短い時間のうちに、俺は室内に2歩踏み込んでいたのを引き返して部屋の外へ出て、音を立てずにドアを閉めた。一気にバタンと閉めるのではなく、最後はゆっくりと音を立てずにゆっくりと。完全にドアを閉めきるまでの時間、俺はフィリビオンさんの嬌声を聞き続けなければならなかった。


ドアを全開にはしなかったことと、火は持っていなかったことから、フィリビオンさんは気が付いていないかもしれない。いや、せめてそうであってほしい。しかしラキリとは確実に目が合った。ラキリと俺の動体視力をなめないでもらいたい。


しかし……、確かにラキリは俺と完全に目が合っていたはずだが、その腰の動きには何も揺るぎはなかった。さすがはラキリ。肝が座っている。


ドアを開けた瞬間に目に焼き付いてしまったフィリビオンさんは、完全に理性を失い快楽に狂ってしまっている様子だった。ドアを開ける前までは、音の漏出が阻害されていて何の音がわからなかったが、ドアを閉じたあと、その向こうから肉と肉が激しくぶつかり合う規則的な音と嬌声が相変わらず聞き取れた。どうやら、フィリビオンさんは俺の闖入に気が付いてはいないようだ、よかった。うん。いや、よくはないけど、よかった。


ちなみに2人が情事に及んでいたあの場所は、日が沈む前に、俺とソフィアが魔力供給をはじめて行い、これから共犯者となることを誓ったあの場所だった。自分の人生の中でなかなか感動的な場面として記憶に残るはずだった思い出の場所が、きれいなものではなくなってしまった感覚。


眼福だったしエロは嫌いじゃないけど……、それとこれは分けておきたかった。


……。


あれ、ああ、そうか。……何ということだ!


重大なことを、いま、思い出した。思い出してしまった。くそっ……! あの位置は……、あの位置は、ちょうど鏡がある位置じゃないか。


なぜあの机でなければならなかったのか。なぜ、俺の思い出が純なものでなくならなければならなかったのか。その真実がいまになってわかった。


鏡だ。そういうプレイだ。「ほうら、鏡の中の自分を見てご覧」「ああ嫌っ、こんなの私じゃないわ」的なプレイをしていたんだ、きっと。ラキリは。


くそが! そんなんだから、国教会から破門されてしまうんだ。変態貴族め。俺とソフィアの思い出の場所をそんな風に汚しやがって。くそっ、うらやま……、けしからん。


……時を経て、嫌な事実に気付いてしまった。わざわざ思い出さなければよかった。


はあ……。まあ、とにかくだ。フィリビオンさんが無事だった。……髪を振り乱してよだれを垂らし、白目をむかんばかりの状況をはたして無事と表現していいのか悩むがとにかく、命に関わるようなことはなかった。そのことを確認した俺は、ゆっくりと魔術で鍵を閉めて、その場をあとにした。


個室から聞こえてくる音のリズムが激しい調子に変わったのを聞きながら、俺は診療室を出た。動転していた俺は、衛兵が見ている前だったが、外側のドアも魔術で施錠してしまい、ごまかすのに少し苦労した。


なぜだか、胸が締め付けられるような思いと、足元がガラガラと崩れるような感覚と、そして両目が潤んでしまっていたことを感じたが、衛兵の手前、"勇者"として恥ずかしくないように振る舞わなければならない。再び火を灯そうとする彼に、俺は自分の魔術で手を貸すことは技術的にはできたが、俺には涙を引かせるための時間が必要だった。診療室へ向かうときよりも、帰りのほうが衛兵とは多く話した。できるだけ楽しい話をするように努めたので彼は喜んでくれたと思う。


なぜこうなってしまったのか俺は考えた。頭をよぎるのは、イリストリアだった。


帝都からやってきたイリストリアが、診療室に対してネチネチネチネチ、ネチネチネチネチ、ネチネチネチネチ、ネチネチネチネチと、一方的な改善点の指摘をしていたのを俺は目にしていた。責任者であるフィリビオンさんは悔しかったろうし、憤りもあっただろう。そんな折、ラキリが声をかけたのか、あるいはもともとフィリビオンさんから声をかけたのかわからないが、おそらくフィリビオンさん相談や愚痴を聞いているうちに盛り上がって……、ということなのだろう。そのように俺には推測できた。


……弱っているときにうまいこと付け入りやがって。


いいな、と思っていた年上の女性と、貴族で、司教の血縁者で、戦場の英雄であらせられる上官とが立ちバ◯クしあそばされる光景を目の当たりにしてしまった俺は、ショックのあまり本来の目的を忘れてそのまま個室に剣を置き忘れて帰ってしまい、更に次にソフィアに診てもらう2日後まで放置してしまった。


剣はフィリビオンさんが保管してくれていた。これは俺が診療室の回復士の1人に聞いて知ったことなのだが、ラキリは当然のように俺が剣を置き忘れたのを見つけて、その瞬間は怒り心頭だったそうだ。しかしソフィアとフィリビオンさんが事情を説明して庇ってくれていたのだという。


剣を置き忘れるなんてミスをしたら、普段ならラキリにブチ切れられて訓練中に気絶するまでいたぶられるところだったはず。しかし本件に関しては口頭で一言二言、苦言を呈される程度で済んだ。そんなふうに優しく接せられたら、勝者から施しをうけているような惨めな気持ちになりよけいに凹んでしまうから、せめてこのときばかりは、いつもの通りの厳しさを見せてほしかった。


さらに俺を惨めにさせるエピソードが1つ。淡い恋心が打ち砕かれて自室に戻った次の日の朝だ。俺はソフィアからゴミやゴキブリを見るような冷たい視線を向けられるのを恐れて、「させてくれるほうのメイドさん」との関係はずっと断っていた。つまり禁欲生活をしていたこともあり、下履きに盛大に粗相をしてしまった。


いそいそと洗っているところを、「させてくれるわけではないほうのメイドさん」に見つかってしまい、いろいろ言い訳、というか嘘をついて誤魔化そうとした。我ながら支離滅裂というか、下手な嘘だとは自覚しながらしゃべっていると、彼女はまったく何にも気付いていないといった普段の様子で、短すぎず長すぎず、非常に適切な時間だけ、俺の下手な嘘に乗っかって会話をしてくれた。


そして決して「私がいたします」などとは口にはしなかった。「メイドである彼女自身が、"勇者さま"の持つ下履きをいまは回収しないこと」「しばらくの間"勇者さま"のいる空間から席を外す必要があること」の2つを自然に俺に伝えて、そんな風な会話の流れに誘導してくれて、どうにか俺の名誉が傷つかないように接してくれて、自然に部屋から出ていった。つくづく有能なメイドさんだ。


しかしそういう有能さと優しさが、この場合は余計に俺の傷口を広げた。せめて「させてくれるほうのメイドさん」だったのならまだ傷は浅かったのに、と自分の不運さを嘆いた。


さて最後に、ここからは王宮内で聞こえてきた噂話だが、俺の耳には有能貴族軍人・ラキリさまの素敵なエピソードが、嫌でもたくさん入ってきた。


例えばディビステラムから宣戦布告を受けたころの話。魔族との本格的な戦争が控える時期に、わずかな期間であってもその敵国にいたことが周知だったフィリビオンさんへの風当たりは強くなっていたのだそうだ。俺は知りもしなかったが、ラキリは彼女を擁護し続けていたのだという。戦争の直前、一部の兵士たちの間で彼女を捕らえるべきという声も上がり、嘘か本当か、それが実行されたらしい。


しかしラキリは単身でそれを防いだ。曰く、迫りくる兵士たちの前に身を投げ出し、「私のルシェナに手を出すな」と啖呵を切ったそうだ。俺が聞いた時点では、そのほかにも「ルシェナに手を出すのなら、先に私を殺してからいけ」だとか「我が愛剣も今宵は血に飢えている (暗黒嘲笑)」だとか、バリエーションがいくつかあったので多少尾ひれがついているのだとは思うが、フィリビオンさんを護ったのは事実だろう。


続いて診療室の話。ソニタリオスとの戦争後、帝都からわざわざお越しいただいたイリストリアさまからの、一方的な改善の要求についても、ラキリが間に入って段階を踏み現実的な優先順位とスケジュールを設定したのだという。一方的にすべて聞き入れるわけではなく、協議しながら進めていく形とするよう取り持った、だとか、回復士への魔力供給についてラキリが動いていたのはフィリビオンさんの国教会の回復士たちへの心痛を聞いたから、だとか、そいういった話も聞こえてきた。


俺は何もせずにただ、ぼーっとしていたのだが、有能なラキリはフィリビオンさんの窮地に2度も駆けつけていたわけだから、まあ、フィリビオンさんが惚れてしまうのも無理はないのだ。俺はきちんと自身の完敗を納得している。


しかし。右腕の治療のために2日に1度のペースで診療室を訪れていた俺は、そのたびにフィリビオンさんとは顔を合わせていた。規律を重んじ国教会の信徒でもないのに貞淑さについて部下に説教し俺にも苦言を呈していたようなフィリビオンさんが、目にするたびにどんどんきれいになっていく様子を目の当たりにさせられたわけだ。これもまた、少しずつ俺を辛い気持ちにさせた。


ソフィアに右腕を診てもらっていた机の前の位置は、ラキリとフィリビオンさんとが、夜の真剣勝負をしていた場所なので毎度毎度、思い出さざるを得ず、変な気分になってしまい、散々だった。


加えてだ。ソフィアに対する申し訳ない気持ちにもなった。フィリビオンさんに抱いていた感情は、ちょっといいなと思っていたくらいのものだったが、ソフィア以外に目移りしてしまったのは事実。


そんな心の汚れた俺に、仲間として、いやもしかしたらそれ以外の何かとして、献身的に右手の治療をしてくれているソフィア。ちまたで聖女扱いされるにふさわしい彼女の振る舞いに、自身のクズっぷりが恥ずかしくなった。


俺にはやはり、ソフィアしかいないのだと思った。まあ考えたらフィリビオンさんは、あくまでちょっといいな、くらいに思っていただけで、本音の本音は、最初からずっとソフィア一筋だったわけなんだけど。


……うん。


あ、いや、何かごめんなさい。

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