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エッセイ

文芸における自然主義とは何か?

作者: 夢のもつれ

豊平文庫で島崎藤村の『新生』を読んだ。

藤村が実の姪を犯して妊娠させ、フランスに逃げた話で、今そんなことを書けば姪から多額の損害賠償を請求されることは必定だろう。

当時も世の指弾を受け、芥川龍之介の「『新生』の主人公ほど老獪な偽善者に出会ったことはなかった」という痛烈な批判はこの作品の特徴を見事に言い表している。

芥川も一般の読者も、何より藤村自身が主人公と作者を区別していない。

つまり客観視できていないから、いくら反省や悔恨を並べても見苦しい言い訳としか映らない。


言い訳なんかしなければいいのに。

姪と交わって何が悪い、彼女だって産まれた子を養子に出して、叔父に疎んじられているのにすがりついてくるような女だ。

そう言いたい様子も見えるのに同情を寄せるから偽善になる。

いちばん不満だったのは、どのような睦言を交わしながらセックスを重ねたかが全く書かれていないことだった。

それどころか、姪が叔父に妊娠を告白するまでそれらしい様子すら書かれていない。

検閲があったからなどと言う人は谷崎潤一郎の作品を読んだことがないのだろう。


この作品は自然主義文学の代表作の一つだと言われる。

しかし、エミール・ゾラに代表されるナチュラリスムとは似ても似つかない代物だ。

本家本元のフランスでは科学的な客観視とセックスが重要なファクターなのに。


第二帝政が普仏戦争の敗北によって瓦解し、不安定な第三共和政の下で軍国主義と反ユダヤ的風潮が入り混じったドレフュス事件が起こった。

バルザックの『人間喜劇』に範を求めながら、社会と人間の全体を『ルーゴン・マッカール叢書』において精緻に書こうとしていたゾラにとっては、ドレフュス事件へののめり込みは(どこやらの国のノーベル賞作家のスタンドプレーとは違って)必然であったのだろう。

つまりナチュラリスムは社会と人間の解剖図なのだ。


ところが日本において自然主義は自然とその中の人物をそのまま描く風景画のようなものだ。

ある種、正岡子規の俳句や短歌にも似て、何気ない会話やどうでもいい感慨を淡々だらだらと写生していく。

それが私小説となったのは深められる題材が他になかったからだろう。

漱石の『三四郎』のように帝大や学習院卒のエリートの身辺雑記だから当時は読まれたが、今読むに堪えるものはない。


藤村は当時の詩人としては一流だったが、小説家に転じては二流以下だろう。

一言で言えばスキャンダリズムが彼の処世術だった。

『破戒』で部落問題を、『新生』で近親相姦を、『夜明け前』で統合失調症により座敷牢で死んだ父親を題材とした。

そうした雑誌の吊り広告のようなテーマ選択はいいのだが、いかんせん文章が下手くそで、長ったらしくて惹き込まれるものが何もないのだ。

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