88話 微笑
純白の服は血と泥で汚れ、彼女の下半身は重油のような黒い粘液がべっとり付着している。腹部から大量の出血痕があり、重油と血が混ざり合った液体が階段下まで流れてきていた。
ララルカが駆け出す。一瞬で彼女の元へ跳躍し、リリアスを固定している両手首に打たれた杭を引き抜いた。
「受け止めてシャルルッ!」
重力に従い落下するリリアスの体をシャルルが身を滑り込ませ受け止める。
2人で必死に彼女に呼び掛けるが返事はない。
しかし、微かに息をしていた。
シャルルは腹部の傷を確かめ、直ぐに治癒魔法を発動させる。
「…ッ…酷い…!」
「やだ…やだッ!早く治して!」
目に涙を浮かべる妹は、青褪め完全に取り乱していた。姉の手を握り、徐に首を振る。
「…ユリウス!薬を持って来てッ!私の治癒魔法では…」
シャルルも泣きそうになりながら叫んだ。温かい治癒の光が満ちるが、彼女は己の力不足を痛感していた。
リリアスの傷はそれ程に深く、容赦がない。
青白く頬の赤みも差していない彼女の至る所には、擦傷、裂傷があり、魔物に食い千切られた形跡もある。
腹部の穴はそのまま背へ貫通していた。(ーー致命傷…)シャルルの脳裏に嫌な言葉が過ぎった。とうとう瞳から涙が溢れる。
手首からの出血を彼女の指示でララルカが押さえた。
「リリア姉様、姉様…やだ…!」
手は冷え切っているのに、迸る鮮血は温かい。
研究室へ駆けていたユリウスが戻り、上級ポーションを消費するも効果は薄かった。
「何らかの呪術に掛かっている可能性があります!呪術師を見付け解呪させなければ…!」
「そんな事言ったって…!」
呪術師を見付け出し、解呪させるまでリリアスの体力が保つか絶望的だ。
「メルディン!城内の全騎士団へ通達を…!緊急事態です!城内に敵が潜んでる可能性があります。警戒レベルを最大まで引き上げアルバ様を護衛し、同時にこの不届き者を見付け出し御身の前にその首をお持ちするのです!」
「分かったです!絶対…絶対ぶっ殺してやるです!」
ユリウスの指示でメルディンが飛び出して行く。
城には地下奥深くにある魔道結晶によって、結界が張られていた筈だ。正規の手続きを踏まずに侵入した愚者は、例外無く弾かれる。
しかし、現に何者かの侵入を許し五天王統括は瀕死の重傷を負っていた。
リリアスの身体には土が付着している。別の場所で何者かと遭遇し、戦闘の末此処まで運ばれたのだ。
ご丁寧にも、玉座最奥の金十字に磔にして。これは明らかにアルバに対するメッセージだった。
皆が忙しなく動き、声を発するその様子をアルバはただ眺めていた。
懸命な救護にも関わらず、色を失う彼女の肌、唇。
思い出す紫紺の双眸も、笑顔も、声も、それは過去の事だと知らしめる光景。その現実に押し潰されそうだ。
身体が動かず、何も出来ない。
瞬きさえ忘れ、動けずにいる中で脈打つ心臓の鼓動が煩わしい。(苦しい、)リリアスから溢れる命を止める事も出来ない。
胸を掻き毟りたい衝動に駆られ、目の前が真っ赤に染まり、ある感情に全身が支配される。
『僕はまた守れなかったのかーー…』
不意に言葉が漏れた。
声が聞こえたノヴァが主人を見る。俯いていて、彼の表情を覗く事は出来ない。
だが、ビリビリと肌で感じるこの寒気は、怖気は、余寒は。
「主人殿…?」
『ノヴァ…これでイーダに連絡して。どんな対価を払っても良いから、リリスを治してって伝えて』
譫言のように小さな声。
黒石の嵌め込まれたブレスレットを、ノヴァの小さな手に落とす。
「じゃがーー…」
再び声を掛けたノヴァの目前で、アルバが消失した。
何の前触れもなく、唐突に。
パリパリと乾いた音が波紋のように広がる。
突然姿を消した王に、ユリウスは目を見張った。
「【転移門】いや、転移…?アルバ様は一体……!、まさか命を狙う輩に…っ」
気が動転した宰相を、ノヴァは「落ち着くのじゃユリウス」と宥める。
焦燥するユリウスに先程預かったブレスレットを渡し、聖王と連絡を取るよう言ったアルバの最後の言葉を伝えた。
「主人殿は自分の意思で此処を出て行った」
「私には、前触れも無く消えてしまったように見えましたが…」
「我々が移動の時に使う【電光神速】じゃ。何処へ行ったのかは妾も分からん。じゃが、恐らくこの悪臭を放つ魔力の残穢を辿ったのじゃろう」
「我々…?」
幼い身かけをした魔獣は、ユリウスが眉を顰めた言葉についてその身で説明する。
彼女の周囲にバリバリと稲妻が満ちた。
「雷を意のままに操る者の事じゃ」
「やはり…、アルバ様はーー」
「左様、心配は要らん。今は統括殿の命を繋ぐ事に注力するべきじゃ」
「…」
彼が消え去る瞬間に見えた表情が忘れられない。
その表情に、ユリウスでさえ戦慄したのだ。
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大迷宮連邦国、地下300階層。
地下であると俄かに信じ難い高い天井。神殿に似た石造りの玉座に国の王、フェラーリオ・イブラが鎮座している。
彼の前には5人の部下が集い、談笑をしていた。
「ソレデ?アノ女ハドウシタ?」
黒山羊の頭と後肢を持つバフォメットが、隣に居た漆黒のドロドロした異形の生物に話し掛ける。
バフォメットは残忍で狡猾、一説によれば悪魔だと畏怖されていた。彼は主人同様に強慾で、高価な物や光る物を好んで収集する癖がある。
「バーピード共ニ俺ガブルグバルドニ返ジデオイダ」
絶え間無く形を変える粘液にぽっかりと穴が空いて、濁音に塗れた声を発した。
彼はヒヒラドと呼ばれる魔種族で、特異な体質により凡ゆる場所に転移する事が出来る。対象者を体内に囲繞する事で共に自在に転移する事が可能だが、彼が振り撒く悪臭は強烈だ。
「あたしゃあの小娘を見た時のアルバラードの反応まで見たかったけど、ヒヒラドが許さなかったのさ」
ハーピーが金切り声を上げる。
半人半鳥、その顔は恐ろしく醜い。
「あんな小娘、磔にするだけじゃ足りないよ!顔に、杭を打ってやるべきだったのさ!あの澄ました顔にね!」
荒ぶるハーピーの横でチュパカブラは「女ノ嫉妬は恐ろしいナ」と首を振った。
「そレよりも、オレの真の力を見せらレなかったのが残念ダ。フェラーリオ様が直接手を下さズとも、オレのルビーアイで消し炭ニしてやったものヲ」
全身が毛で覆われており、背中には立髪のような突起があり瞳は大きく赤い。獣や人間の血を吸う為に特化した鋭い牙がチラつく。
彼は自分の瞳が宝石眼であると疑っていない。しかし実際はただの赤い瞳をしているだけで、膨大な魔力に富んでいる訳ではない。
彼の勘違いに、フェラーリオは屡々悩まされている。
彼らの後方に居た、顔がパックリ縦に割れたような大口を持つガグの魔種族が「それよリ、私の兄ヲ殺したバルトろメイに復讐する機会が欲しイ。フェラーリオ様、どうか私にソノ栄誉をお与え下さイ」と進言した。
「【琥珀】ハイツカ自滅スル。【鮮血】ニ肩入リシタ事ヲ精々悔ヤムガ良イサ。我々ハ、ソノ時ガ来ルノヲタダ見テイレバ良イ」
フェラーリオは満足そうに鼻を鳴らした。
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数時間前、リリアスは国境付近で行方不明者の調査をしていた。聖王国でアルバに耳打ちされた件だ。
彼は国民や冒険者が意思に関わらず誘拐されているのではないかと憂いている。
以前調査した時は近場の竜騎士に依頼して、上がって来た報告書を読むだけだった。しかし、それでは不十分だったのだ。(また失望させてしまった…)
主人の気鬱を払うのが、彼女の仕事である。今度は僅かな見落としや誤りがないよう、リリアス本人が調査にあたった。
其々の行方不明者の軌跡を辿るが時間が経過している事もあり、聞き込みを行った人の記憶は曖昧だ。
近辺を警備していた竜騎士にも話を聞くが成果は得られず、このままではアルバに顔向け出来ないと唇を噛んだ。
しかもこの後は食事会が控えている。
シャルルに頼んで転移魔法を閉じ込めて貰った水晶を持って来ているが、あまり時間を掛けていられない。
(お風呂…着替え…)主人に身嗜みが乱れた姿を見せる訳にはいかない。残された時間を逆算しながら、最後の目撃証言のあった近隣の森に入った。
「ーー…」
妙な違和感を覚える。この森は本来、豊かな自然に覆われ神聖な気に満ちている場所だ。微精霊が多く住み着き穏やかな深緑に溢れた穢れを知らぬ土地。
だが今はそれが微塵も感じられない。鳥の囀りも、動物の気配もしない。
禍々しい不浄の香りが鼻を掠める。草の葉に付着した黒い粘液を指で掬う。
「何かしら?嫌な匂いね」
嗅いでみるが、その正体は分からない。ただ鼻を劈く悪辣な匂いに顔を歪めた。
ユリウスに預ければ何か分かるかもしれない。リリアスは身を屈め重油のような糸を引く液体を採取した。
フと、後方で何かが動く音がする。瞬時に振り返り警戒する彼女は、暫く森の奥を注意深く凝視した。
(ふぅ…)気のせいだったかと息を吐く。魔王会議により神経が過敏になっているのかもしれない。
魔王会議…。やはりアルバラードは至高の存在だ。
帝国の魔王に遅れをとり、壁へ打ち付けられた際にもいの1番に駆け寄り心配してくれた。
オルハロネオの攻撃を刹那に打ち消した時には歓声を上げるところだった。いや、喉まで出ていたが、察したユリウスに口を塞がれたのだ。
更に連邦国のダチュラへ関与を明確にし、調査団の派遣まで漕ぎ着けた。ダチュラの力は衰え、フェラーリオは序列降格か序列から追放されるだろう。
いつの間にかキシリスク魔導王国の魔王の擁護を得ているし、彼の権謀は留まる事を知らない。
バルトロメイとキスしている現場を見た時は発狂しそうだったが後から振りだったと教えて貰った。
更に彼ら2人と酒を飲んだと。初代魔王の一部の者達が盟友の証として酒を酌み交わした事は有名な話だ。彼らは生涯、互いを大事にし裏切る事無く尊重したとされる。
(アルバ様は何をお考えになって彼らと…)主人の狙いが分からず思考に耽る。しかし、答えは決まっていた。
全てはアルバの望むままに付き従うのみ。
再び歩き出そうと脚を踏み出した途端、採取した粘液が膨張した。
「な、…!」
瞬く間に飲み込まれる。視界が闇に覆われた。




