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29話 晩餐会



 仲間内での会議も一区切りつき、ステファンとの通信も終えそろそろ部屋に戻ろうとした頃だった。

 遠慮がちに扉をノックする音が響き、部屋に居た者が全員固まる。ホーリーは壁際に立つマルコへ、顎で開けろと指示を出した。マルコはそれに従い、少々怯えながら扉を小さく開ける。


「はい…?」


「大切な会議中、大変申し訳ありません。王陛下が皆様を、晩餐会へ招待なされたいそうです」


「!?」


 メイドの声だろうか、予想もしていなかった提案に皆で顔を見合わせた。


「皆様がお疲れの様でしたら、お部屋へお運びする様承っております。如何なされますか?」


「す、少しお待ち頂けますかっ…」


 マルコが扉を閉めてから、室内の者がやっと動き出す。


「…どうする?」


「どうされますか?アラン伯爵…?」


 判断を委ねられたホーリーは機嫌を良くし、鼻で笑って腕を組んだ。


「フン、晩餐の招待か、…受けようじゃないか」


「しかし、…相手はあの魔王ですよ?」


「そうだぜ、無理に参加しなくても部屋に用意してくれるってんだ。そっちの方が堅苦しくなくて良い」


 冒険者のヘンリクとバッハは部屋での食事が良いと希望する。此処まで来た苦労を気兼ね無く、互いに労りたかった為だ。


「それこそ、あの魔王だから受けるのだろ。断れば何をされるか分からんぞ?」


 今まで散々勝手をしたホーリーには、あのへらへらした魔王が此方に何か仕返しをする、と言うビジョンが浮かばなかった。

 しかし、また女神の様な微笑みを携えた彼女に少しでも会える可能性があるなら、晩餐会でも何でも出席してやる。


「しかし本人が強要はしないと言ってんですぜ?」


「何だと?俺の指示に従えないのか?」


 ホーリーは奥歯を噛み締め、驕傲な態度で彼らを睨んだ。此方が金を払っている立場での異見は、非常に不快に感じられた。

 一触即発の雰囲気にイシュベルトが割って入り「分かりました、こうしましょう。陛下にお許し頂けるなら、アラン伯爵と私で出席させて頂き、ヘンリクとバッハは部屋に。マルコはどうする?」と小間使いの少年に問い掛ける。


「僕は…お許し頂けるのでしたら参加してみたいです」


「分かりました。アラン伯爵、それで如何ですか?」


「チッ、勝手にしろ」


 本日何本目かの煙草を噛みながら、面白く無さそうに投げやりな返事をした。


 イシュベルトが待たせていたメイドに先程の内容を伝えると、彼女は丁寧に頭を下げて下がる。


「先刻の提案を受け入れて下さるそうです。ヘンリクとバッハは部屋に運び入れてくれるらしいので自由にすると良い」


「よし!バッハ、飲み比べでもするか?」


「その前に風呂に入らせてくれ」


 ホッと胸を撫で下ろしながら2人が騒いだ。


「アラン伯爵、1時間後にメイドが部屋に迎えに来てくれるそうなので準備をなさってて下さいね」


「…分かった」


 イシュベルトは心の中で、本当に分かってくれただろうかと些か心配になる。肩の荷が取れた明るい表情のバッハが、何の気無しにヘンリクに声を掛けた。


「…此処のメイドは皆美人で献身的だな。魔大陸じゃ珍しい」


「……そうだなぁ」


「どう言う意味だ?」


 話を聞いていたイシュベルトが不思議そうに尋ねる。


「魔族は人間を見下してるヤツが多いんすよ」


「そうそう、前に行った連邦なんて酷かったですよ。ナチュラルに罵倒されたりな」


 魔族は人間より生命力、身体能力、魔力に恵まれ、寿命も長い。その為彼らは総じて人間を見下している者が多いのだ。

 説明を聞いたイシュベルトは、此処に来てその様な態度に身に覚えが全く無く驚く。ホーリーの無礼な態度を咎めて来た魔王の側近が1度、此方を貶める発言をしていたがそれは主君に対する非礼に激怒しただけだと思っていた。


「他の国じゃ、こんな高待遇は受けられねぇ」


「…なるほど。もしかしたら陛下が仰ったと言う、丁重に扱うとの言葉が原因かもしれないな」


 思い出すのも恐ろしい、金髪の少女の低く濁った声が頭に響いた。彼が、此方を迎え入れると言わなければ、とうの昔に国境付近で殺されていたと。

 つまり、あの場に居た騎士たちはイシュベルト達を容易く屠れる戦闘力を有していたと言うこと。街を案内してくれた青年も恐らく強者、しかし見下した素振りを少しも見せる事無く此方に付き従い様々な要求を笑顔で飲んでくれていた。先程のメイドも、此処で世話になる間配置された専属のメイド達も。


 何という忠誠心だ。自分達にではなく、魔王に対して。彼が一言、丁重に客人を迎える、と言うとまるで国の法律の如く現実になる。

 それ程の常軌を逸した力や、カリスマを秘めているのか…、(ブルクハルトは恐怖で支配されていると聞いた事もある…)しかし、白髪の青年が部下を武力で抑え付けている場面など覚えが無い。巧妙に隠されているのか、それとも…?


 考えが纏まらないまま、一同は其々の専属のメイドの案内のもと、割り当てられた客間へ解散した。





























「はっはっは、すまないな」


『良いよ。そんな事もあるよね』


 ホーリーの軽薄な謝罪に対し、魔王が鷹揚に頷く。イシュベルトは胃がキリキリ痛み出し、晩餐が全て喉を通るか不安に駆られた。


 メイドがきっちり1時間後、其々の部屋に迎えに来た時、イシュベルトは身支度を整え待っていたが、ホーリーがあろう事か居眠りをしてしまい大幅に遅刻すると言うハプニングに見舞われたのだ。


『疲れてるのに、無理を言った様で悪かったよ』


 風呂に入った後なのか、白髪の青年の着ていた衣が変わっている。先程はクリーム色の服だったが、今は緋色の布を肩から掛けてる様な衣装だ。何処の国の物かは全く分からないが、彼はそれを上手く着こなして非常に似合っていた。


「いや、眠るつもりはなかったのだが、ベッドが余りに寝心地が良くてつい、な…」


 イシュベルトは、ホーリーが謁見前に飲んだエールのせいだと見抜いている。その為、体調を気遣う魔王に申し訳なく思った。

 本当は事実を伝えたかったが、気分を害してモンブロワ公国に矛先が向くのは何としても避けなくては。


 慌てて準備をしたホーリーを伴って専属のメイドに案内されたのは豪勢な部屋だった。

 長い長方形のテーブルに白いクロスが掛けられており、ひらひら波打つ上質な布には刺繍が施されている。中央には上品な花が咲き乱れ食卓を彩るが、食事や会話の邪魔にならない様配慮された完璧なフラワーアレンジだった。まるでテーブルに花が咲いてる様な美しい様にマルコが声を上げて驚いていた。

 テラス付きの窓が数個見え、暖かな暖炉の上には黄金の額縁が眩しい大きな絵画。


 そんな広い空間の長テーブルの先に魔王がニコニコと指を組んで待っていたのだ。イシュベルトが直ぐ遅刻した事に謝罪すると、軽く『大丈夫だよ、来てくれて有り難う』と困った様に微笑んでいた。


『普段は僕1人で食べるんだけど、折角君達が居るからさ。一緒にどうかと思ったんだ』


「それは…大変光栄で御座います、陛下」


 用意されていたのは見るも見事なコース料理だ。現在アミューズを済ませ、前菜オードブル、スープ、魚料理ポワソンを終えてソルベに差し掛かっている。

 貴族の彼らと言えど、これ程煌びやかで美味しい料理を食べたのは生まれて初めてだった。見た目も芸術的で拘りがあり、フォークやスプーンで崩してしまうのが非常に勿体なかった。


『仲間の冒険者の人達にも、似た様な食事を用意して貰ったんだ。気に入ってくれてれば良いけど』


「はは、彼奴らには勿体無い程だな!」


 シャーベットが口の中で溶けていくのを感じながら、ホーリーが豪快に笑う。声が大きくなってきたのは、彼が注がれたエールに酔ってきたからに他ならない。


『マルコ、大丈夫かい?』


 唐突に、イシュベルトの隣の手が止まっていた小間使いの少年に魔王が声を掛けた。


「は、はい!」


『苦手な物でも入ってた?』


「い、いえ…、」


 マルコが口籠っていると、ルビーアイの青年は窺う様に首を傾ける。促す、と言うより待っている様な聞き方だった。


「国の家族にも、その…こんな美味しい物を食べさせてあげられたらな、と」


 運ばれて来た肉料理アントレを眺めて、マルコが寂しそうに言う。それを聞いた魔王は不思議そうに目を瞬きさせた。


『今度連れて来たら?またご馳走するよ』


「え!?そ、そんな…平民に…」


『うん?』


 彼や家族は貴族でも何でもないただの平民で、ブルクハルトの王がもてなす価値はない。

 しかし、まるで友人の様な飾らない優しい言葉が、貴族の世話で疲労していたマルコの心に染みる。


『今度来る時は連絡頂戴ね』


「、はい!有り難う御座います…陛下…」


 本気でそう言ってると勘違いしてしまいそうになる程、魔王の表情や仕草は自然だった。建前だと自分に言い聞かせたが、平民である自分にも特別な価値を見出して貰った様に思えて綻ぶ。

 明るい顔で仔牛のフィレ肉にナイフを入れたマルコに、安心しながらイシュベルトは話題を探した。


「陛下はいつもお一人でお食事をされるのですか?」


『うん…、最近は偶に手が空いた五天王の誰かを誘ったりしてるけど、大体1人が多いかな。皆忙しくしててね』


「こんな広い食卓で…」


『そうそう、寂しいでしょう?このテーブル、頑張れば16人くらい座れると思うんだ。だからメイドさんとか料理人の人とか、騎士とか誘ってみるんだけど、皆からは断られるんだよね』


 イシュベルトは壁際に控えるメイドを一瞥して、がっくりと項垂れる青年に視線を戻す。

 きっと王の、とんでも無い申し出に慌てて、自分などが烏滸がましいと遠慮し断っているのだろうと想像すると微笑ましかった。


『ティータイムは一緒にしてくれる人も増えてきたけどなぁ』


 唸る魔王の前に、サラダとチーズが置かれる。


『やっぱりご飯は大勢の方が美味しく感じるしね』


「仰る通りです」


 ワインに口を付けてイシュベルトが同意した。彼にはどうしても、横で無邪気に笑う青年が計算で動いている様には見えない。ステファンはああ言っていたが、彼の行いは狡猾さが全く滲み出ていないのだ。


「陛下はお酒は…」


『あまり得意ではないんだ』


 イシュベルトが魔王のグラスを見ながら、不思議そうに尋ねた。彼のグラスには水が注がれていて、お酒を嗜む様子が見られない。


『以前飲んだ時は、そのまま記憶がなくなってしまってね。周りにも凄く迷惑を掛けたらしい。次の日は2日酔いで仕事どころじゃなかったし、それからは飲まない様にしてるんだ』


 何処か遠くを見つめた青年に、イシュベルトは「なるほど」と呟きながら心の中に留める。公国に彼と一緒に戻った時、ステファンや他の貴族が酒を勧める失礼を働かせない為だ。


「魔王殿、それで…リリアス殿は何方に?」


 菓子アントルメに手を伸ばしながら、期待に目を輝かせるホーリーが青年に聞いた。


『リリス?彼女は体調が良く無さそうだったから休んで貰ったよ』


「何と!?」


『僕が準備を全部任せちゃったし、ちょっと疲れが出たのかもね』


「大丈夫なのか?」


『シャルとルカも付いてるし、大丈夫だと思うよ』


 通りで、先程の側近達ではなく近衛騎士が魔王の護衛に張り付いている訳だ。再びあの可憐な女性に会えないと分かると、ホーリーは顔を顰める。


 イシュベルトは密かに、白髪の青年と美女は単に上司と部下ではなく、もっと親密な仲なのではないかと疑っていた。なのでこの話題は少し、場合によってはとても危うい気がする。


「リリアス殿が我々をもてなす準備をして下さったのか」


『そうだよ!』


「モンブロワ公国の国中を探しても、あんな美しい女性は見付からない!彼女は将来、由緒ある家柄の者と添い遂げなければ…そう、例えば有能な伯爵家だったりな。魔王殿、俺がこう言っていた事を彼女に伝えて貰えないだろうか」


『うん?分かった』


「アラン伯爵!だいぶ酔いが回っているようだ。お水をご用意して頂いた方が宜しいのでは?」


 イシュベルトはこれ以上聞いていられない、と口を挟んだ。魔王の恋人かもしれない女性を褒めちぎり、ましてや伯爵家の嫁になど。

 更に大国の王に言伝を頼むのも、無礼極まりない行いだ。暗にこれ以上は流石に黙っていてくれ、と伝えたのだが、ホーリーにその意図は全く伝わっておらず「何を言ってる、もうフルーツとプティフールだけだろう?」と見当違いの言葉が返ってきた。


『マルコ、焼菓子プティフールの保存が効くヤツは家族のお土産にどうだい?沢山作って貰ってラッピングして用意しとくよ』


「あ、有り難う御座います!お気遣い頂いて…」


「平民にあまり甘い顔をなされるな。舐められるぞ」


『平民?』


 眉を寄せたホーリーの不機嫌そうな声に、青年は言葉を繰り返しマルコを見た。見られたマルコはバツが悪そうに首を竦める。


「アラン様の仰る通りです陛下。僕の様な平民を、こんな素晴らしい夕食の同席を許可して頂いたばかりか、その家族にお土産など…」


『うん?僕が…何か悪い事したのかな、してしまったなら謝るけど…』


「滅相もありません!」


 小首を傾げる魔王にマルコが慌てて返答した。


「モンブロワ公国では平民は身の丈にあった暮らしをする様に教育されます。勿論、貴族様に仕えるのも当然です!その立場の者が…」


 イシュベルトは少し顔を歪める。自身の国が、貴族制であるが為に平民は苦労する事が多い。

 豊かな暮らしをさせてやりたいが、彼の努力では自らの領地の者で精一杯だ。平民を見下す貴族は、国に腐る程居る。


『お国の事情かな?まぁでも僕がマルコにしてあげたい事って事で貰ってくれないかい?此処はモンブロワ公国ではないし、ブルクハルトはそう言う方針ではないしね』


 青年が困った様に笑うと、マルコは「有り難う御座います、陛下」と声を震わせていた。


『それに、僕は元々平民の出だし』


「何だと!?」


 魔王が何気無く言った言葉に、ホーリーが異常な反応を見せる。立ち上がり、身を乗り出した彼に近衛騎士の視線が厳しいものになった。


『知らなかったかい?僕は平民の生まれで、元々此処ら辺にあった国々を乗っ取って、ブルクハルトを作ったんだって』


 他人事の様な言い方に少し違和感がある。


『だから、王様なんて言われてるけど、元はただの平民なんだよ』


「しかし陛下はそのお力で、僅かな期間にこれ程国を発展させました!国民の皆が、陛下が王座に居られる事を望んでいるでしょう」


『だと良いなぁ』


 へにゃりと笑った魔王は、『マルコと僕は一緒だね』と彼を慰労して見せた。


「貴族ではない…?まさか、そんな事が…?」


「アラン伯爵?」


 ぶつぶつと独り言を溢すホーリーが立ち尽くしており、イシュベルトは彼を窺う。


「ははは!魔王殿も下賤の生まれか!これは、傑作だ!」


「アラン伯爵っ!?」


 (なんて事を言うのだ!)手を叩いて高笑いをするホーリーは、魔王の周囲に控える近衛騎士とメイドが怒りに震えている事に気付いていない。イシュベルトは覚悟した。今度こそ殺される。


『ははは、アラン伯爵は面白いね。でも下賤って言葉は好きじゃないかな。僕がそうだと認めると、一緒だと言ってしまったマルコが気の毒だ』


「ははは!…嗚呼、すまなかった」


 目から涙を零すホーリーに、白髪の青年は笑顔で話し掛ける。イシュベルトは信じられない、と目を見開いていた。(これが、絶対的強者の余裕なのか?)

 王と言う立場でこれ程侮られていながら、それを不快とも思っていないように感じる。目前で優雅に紅茶を口に含む魔王に、イシュベルトはただただ呆気にとられるだけだった。



























 晩餐会が終わり、広過ぎる城を専属メイドと共に部屋へ歩いている時イシュベルトはホーリーに「これ以上陛下に無礼を働かぬ事」「リリアスと言う女性を話題に上げない事」「これにはモンブロワ公国の未来が懸かっている事」を口を酸っぱくして伝えた。


 エールを大量に飲んで気分の良かった筈のホーリーは水を差されご立腹で、始めは適当に流すだけだった。


「しかし、貴族ではないとはな」


「貴族でない王も世の中には沢山おります。モンブロワ公国の大公閣下が貴族である、と言うだけである事をゆめゆめお忘れなきように」


 世間知らずな伯爵家の次男坊に振り回され、イシュベルトは小さく息を吐く。


「世の王族の始まりは革命や戦争です。国々を乗っ取ったと仰っていた勢力の中核か代表が陛下で、あの若さでブルクハルト王国を建国し、1代目の王として登り詰めた。我々などより高貴で尊まれるお方ですよ」


「俺よりも高貴?冗談だろ、平民だぞ」


「今は王です」


「、チッ」


 権力や身分に依存しているホーリーには理解出来ない話だった。伯爵である自分が元平民に諂わなければならないなどプライドが傷付くし我慢ならない。彼は面白く無さそうに舌打ちをして、煙草を胸ポケットから出した。


「流石に今は…お部屋にご到着なされてからにして下さい」


「なんだと、マイン男爵。貴殿は俺の母親か何かか」


「貴方様のお父上から息子を頼むと言われているのです。何卒、私の声に耳を傾けて下さい」


 イシュベルトにしては少し語気が強めの言い方に、ホーリーは煙草をくしゃりと握り潰して従う。父親の名前を出されては、彼の威勢は弱いものになった。 


 しかし、腹の底に燻った怒りはまだ消えてない。するとその時、向かいの廊下から小さな少女が走って来るのが見えた。


 メイド服を着ていて、髪は左右の高い位置に小さなお団子があり猫の耳の様に見える。その手には布を被せた皿を持っており、急いでいるのか忙しそうに走っていた。


「おっと、」


 ホーリーがその脚を少女の通り道へ突き出し、態とらしく声を発する。急に脚を掛けられた少女は為す術もないまま転倒し、うつ伏せに倒れ込んだ。メイド達が騒めき、少女に駆け寄った。


「アラン伯爵!?何をなさる!」


「ぶつかってしまったのさ」


 ホーリーは歪んだ笑みでイシュベルトへ振り返る。


「そもそも何だぁ?此処のメイドは客人に対する態度がなってないなぁ?廊下を走るなど、稚児のやる事だ。お陰でぶつかったぞ」


「いや、此方からぶつかってしまったのだ。本当に申し訳ない、立てるか?」


 イシュベルトが膝を曲げて少女に語り掛けた。少女は何を考えているのか分からない、無表情で目がピクリとも動かない。

 観察している様な、此方を咎めてる様な視線にイシュベルトは胸の辺りがキュッと痛んだ。


「もー!ニコ!待つのですーッ!」


 今度は本当に騒々しいメイドがやって来た。犬耳をひょこひょこさせて、少女が来た廊下から追い掛けて来る。

 此方に気付くと「ひゃ!?お客様なのです!」と固まったが、廊下に蹲る少女を見た途端目付きが鋭くなった。


「ニコ?大丈夫なのです?」


「ハッ!貴様もなっていないな!何故俺ではなく、其方を心配する!?声を掛ける順番が違うのではないか!?」


「……」


 案内をしていた専属メイドと、廊下で会ったメイドから嫌厭を含んだ視線を浴びてホーリーは更に声を荒げる。


「メイドがそんな事では主人の気立てが知れるなぁ!」


 アルコールと興奮で真っ赤な顔をして、嘲笑を浮かべた。メイド数人の肩が、主人と言う言葉に反応する。

 その間に、小さな少女は持っていた皿から零れ落ちた物を拾おうとホーリーの足元に手を伸ばした。


「ん?」


 それは歪な形をした1枚のクッキー。


「先ずは謝れよガキが!」


 ホーリーはそのまま足元の菓子を踏み砕いた。犬耳のメイドが低く唸り、それは間違い無く威嚇を含んだ音だった。


「お前達は大人しく、俺達に従っていれば良いんだ!メイドにして下さって有り難う御座います、だろう!?使って貰えて幸せです、だろう!?俺達はお前達の魔王とは違い貴族なのだぞ!?」


 何度も踏み付けたクッキーは、見るも無残な有様で、手を伸ばしていた少女の瞳からとうとう涙が溢れる。


「くそ、靴にチョコチップが付いちまった…」


『やぁ、何をやっているの?』


 その瞬間世界が凍り付いた。



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