144話 王の帰還
(何故、アルバ様と初めて会ったあの日を思い出すの?)リリアスは執務室へ足早に向かいながら考える。
あの後、少年は気を失い倒れてしまった。それをカルラデルガルド家で保護し、安息の場を提供した。
一連の騒動から妹は行方不明になり、リリアスはアメリアへの憎しみを募らせる。ペトラが部屋を訪れた時には既にもぬけの殻だった。荒らされた部屋を見て、魔物に食われてしまったのだと誰もが思った。
リリアスは、家族を奪ったアメリア・メイダールを決して赦さないと決意する。
それから彼女は幼いながらもカルラデルガルド家当主の地位に就いた。街の復興や配給、親を失った子ども達の支援…課題は山積みだが、リリアスは誰の手も借りずに奔走する。
多くの親戚が独りでは大変だろうと声を掛けて来た。手を差し伸べる者の卑しい目は父の遺産目当てだと透けて見え、嫌気が差した。
王城に呼ばれて父の爵位を継いだが、特別な感情は湧かなかった。
王が父を追悼し、慰労の言葉を賜る。リリアスはこれを当たり障りなく笑顔で返し、家族を亡くしたが気丈に振る舞う少女と周りの目には映った。
彼女はアメリア・メイダールと繋がった貴族、もしくは近しい何者かが、自らがフローリア族の血を受け継いでいると耳に入れたのだと確信していた。
でなければ、田舎貴族の娘なぞアメリアは興味も持たなかっただろう。
大勢の貴族が出席する授与式は絶好の機会だった。顔と名前を覚えて探りを入れ、怪しい家門は徹底的に調査する。
リリアスが眠るのはいつも山際がぼんやり明るく浮かび上がってくる頃だった。
仕事に勤しみながら、リリアスは眠ったままの少年の様子をよく見に行った。勿論、目覚めた時に不自由しないよう使用人を交代でつけているが、何日過ぎても瞼が開く兆しは訪れない。
少年の寝顔は年相応で、可愛げがあった。アメリアと対峙していた時の彼はまるで研ぎ澄まされたナイフのように鋭く、圧倒的で目を奪われた。
彼の眼差しを思い出しただけでも鼓動が早くなる。リリアスはそれを、本で読んだ宝石眼を持つ彼と早く話がしたくて気が急いているのだと思った。
目覚めたらまず、命を、街を救ってくれた礼を言わなければならないと髪を弄る。
当主となったその日からリリアスは大人のように振る舞うようになった。いつまでも子供のままでは、いつか足元を掬われる。彼女は急いで大人になるしかなかった。
領地の運営に社交界での情報収集は勿論、アメリア・メイダールの動向、怪しい貴族と王族の動きには注意を払った。
凡そ1ヶ月間に渡り眠っていた少年が起きると、リリアスは心底喜んだ。衰弱していた彼の世話をしながら、幾つもある疑問を投げ掛けてみる。
多くは語らなかった少年から感じたのは、アメリアに対する憎悪だった。
リリアスは戦う術を教えて欲しいと強く懇願し、体力が戻るまでと条件付きだが少年から剣と魔術を教わった。
彼から剣の腕を何気なく褒められた時は、家庭教師の賛辞とは比べ物にならないくらい嬉しかった。
自分よりも大人っぽく圧倒的な力を持つ少年の前では、リリアスは自然体でいられた。
鬼族や精霊族と言われた方が納得できる容姿。操る魔力の量は龍をも凌駕する。神が作った最高傑作こそ彼の事だと断言できる。
本当の完璧を前にしては背伸びする必要もなく、ありのままでいられた。彼と居ると心地が良い。息ができる。
初めて習った剣術も、束の間のティータイムも、彼と過ごす全ての時間が輝いていた。
療養を終えた彼が旅立つ日には一緒に連れて行ってくれと懇願し、何度も断られたがなんとかついて行く事の許諾を得た。
旅先での出会いや別れも、リリアスの心に刻まれている。
それから青い髪をした澄まし顔の魔術師や、暗殺者として名を馳せた生き別れの妹と出会う事になるとは、あの時は知る由もなかった。
「…」
思い出に浸っている場合ではない。
雷が落ちた後、直ぐに主人から話があると通信石で連絡が入った。その声はいつもの王ではないような、実に奇妙な感覚に陥った。
執務室の前で一瞬の躊躇いと葛藤する。気を取り直してノックすると、直ぐに返事が来た。
「――失礼致します」
緊張して声が震える。こんな事は久方ぶりだった。近頃は寧ろ、アルバに声を掛けられたら感動に打ち震え、扉が開くのが待ち切れない程に少しでも早く顔が見たかった。
それが、扉の向こうから感じる威圧感のせいだろうか。胸の高鳴りよりも畏敬の念が強い。
部屋の中は多くの書類が床に散乱していた。机の後ろにある大窓が開け放され、風が舞っている。カーテンが靡き、室内の空気を掻き回していた。
そんな中で机に寄り掛かる主君は、書類の内一枚に目を通している。伏せられていた眼差しがリリアスを射抜いた。
その瞳が、いつものアルバと違い彼女は狼狽える。
そして瞬時に理解した。
「アルバ様…もしや記憶が…?」
『……――嗚呼、全て思い出した。俺が、俺じゃない時の愚かな行いも全て覚えている』
自嘲する主人に、リリアスは息を呑む。
『…まずは、俺が健在だと国に知らしめる。祭りを開き、俺が気に入っている貴族どもをブルクハルトへ招待しろ』
「ハッ」
彼女は跪いて返事をした。リリアスの脳裏に『え、態々膝を突かなくて良いよ!?ホラ、なんだか距離を感じちゃうし…ね?』と、いつか主人から言われた言葉を何故か思い出す。それから暫くは膝を折らないよう注意をしたものだ。
今となっては最敬礼のお辞儀が習慣付いて、跪くのが一瞬遅れた。
記憶が戻ったのは実にめでたい事だ。それは間違いない。ただ、言葉にできない何かが胸の内を渦巻く。
困ったように笑顔を浮かべる主人は、もう何処にも居なかった。見上げる王はまさしく冷酷で無慈悲と謳われた【鮮血】の名が好適な彼だ。
窓からの日差しで後光が差して見える。王者と呼ぶに似つかわしい堂々とした佇まい。
以前の神々しさは変わらず、洗練された美しい所作。冷たい眼差しに、有無言わさぬ声。
チクリ、と胸の奥が痛む。その痛みこそが不敬だと自身を叱咤する。
冷徹な表情の彼に、こんな心情を微塵も出してはならない。彼は今、部下が己に相応しいかどうか観察している。深いワインレッドの瞳はリリアスを見下ろしていた。
『…リリアス』
「はい」
『…――今、何を考えている?』
細められる赤い双瞳。一切容赦のないプレッシャーが全身にのしかかる。
動揺を気取られた。心底、この方は恐ろしいと感じる。
彼にとってはヒトの心の内など、見抜いて当然だ。
良くて懲罰、悪くて自決を命じられる。記憶が戻った主人に対して、祝辞の一つも述べられなかった。
絨毯に、汗が沈む。リリアスは観念して目を閉じた。




