10話 雷雨
その日は朝から激しい雨が降っていて、空に真っ黒な曇天が掛かり夜かと見紛う程だった。図書室の窓から見える低い空を頬杖を突きながら見上げていると、ゴロゴロと空が唸り出す。(雷、か…)
嫌な汗を掻きながら、生唾を飲み込んだ。
まさか、僕に当たらないよな?
キョロキョロと周りを確認して、光り物がないか警戒する。最後に、紅茶を差し出してくれたメイドさんを見た。
『有り難う、リジー』
「いえ、とんでもないのですッ!」
僕のへらへらした笑顔に対し、リジーもニコニコと笑顔を浮かべてくれる。如何やらエリザがメイドさん達の恐怖心を宥めるような話を広めてくれたらしく、最近は過度に怯えられる事はなくなってきた。
茶色の長い髪の彼女には犬耳が生えていて、お尻の尻尾は千切れんばかりに左右に振られている。
『ブフッ!!』
「ど、どうしたのです!?王陛下!?」
苦い…とっても、苦い紅茶だ。紅茶、なのか?給仕に使うワゴンを盗み見ると、ふやけた茶葉がこんもりと盛られている。(あれを煮出したって言うのか…)
最高級茶葉も、こうなってしまえば形無しだ。
『そう、だな…ちょっと渋いかな。少しお湯を貰える?』
「た、大変申し訳ありません!直ぐに淹れ直すのです!」
『大丈夫大丈夫、少し薄めて、砂糖を入れて頂くよ。ミルクも貰って良い?』
僕は酷く咽せながら、リジーからポットを受け取る。すると彼女が後ろを向いた拍子に尻尾が机に当たり「キャンッ!」と悲鳴を上げた。
がじゃん、と激しく動いた机はカップとミルクがひっくり返り、僕の服とテーブルのクロスに染みを作る。
『、あっち…』
「あぁあ申し訳ないのですッ!!!あわわ、どうしたら…ッ!」
青褪めて右往左往するリジーに落ち着くように声を掛けようとすると、彼女はワゴンに乗せていたナプキンを引っ掴み、此方へ戻ってきた。
「お、王陛下ぁ…っ申し訳ないのです…、」
涙目になって跪き、紅茶とミルクでぐっしょりした、濡れた身体と服を丹念に拭いてくれる。そんな顔されると怒る気にもなれないよ。怒るつもりもなかったけどさ。
『そんな顔しなくても大丈夫だよ。ほら、火傷も無いし。着替えれば何とでもなるから気にしないで。拭いてくれてありがとね。リジーはぶつけた尻尾は大丈夫かい?』
「お、王陛下…っ、み、皆の言っていた通りなのです!まるで、まるで別人のようなのです!ほ、本当に王陛下なのです?」
リジーは上目遣いで僕を見ながら、脚の間で身を乗り出し膝に手を置いて胸辺りでくんくんと鼻を鳴らした。「この匂いは、間違い無く王陛下なのです…」なんて言いながら更に顔を近付けでくる。
僕は羞恥に耐えられなくなり、彼女の襟に指を掛けて軽く押して逃がれた。
『皆からすれば変わったのかもね』
「大変身なのです!前、目の前で皿を割ったメイドは鞭打ちにされたし、掃除の手落ちを見付けられたメイドは膝の骨を抜かれたし、部屋の金品を盗んだメイドはその場でバラバラにされたのです!それに私語をしてたメイドは舌を抜かれたって聞いたのです!」
『うんうん、僕が悪かった』
リジーは口が軽いと言うか、思った事を正直に声に出してしまう質のようだ。
今まで散々、メイドさんに怖がられ避けられて来た理由を思わぬ形で暴露され、僕の心は瓦解寸前。
今すぐ皆に土下座して回りたい衝動に駆られながら、ゆっくり立ち上がった。
『お風呂でも入って、着替えるかなぁ』
今日は斜め掛けのタイプの服だが、下腹部と膝に張り付いて少し気持ち悪い。
「申し訳ないのです…、リジーは、その…皆より不器用で、出来る事が少ないのです」
『そっか…。人は経験で成長するし、人と比べて気にする必要も無いんじゃないかな?失敗から学ぶ事も多いとかなんとか』
偉そうな事は言えないけど、出来る事があるだけ良いよリジー。僕なんてこんな立場だけど、何も出来ないんだからね。
「元気付けて下さるのです?」
『元気出たかい?』
「元気出たのです!」
スカートにくっ付いて下を向いていた尻尾が再び元気に振られ、僕は破顔した。
窓に叩き付ける雨の勢いが増してくる。強風で窓がカタカタ鳴り、僕は再び外の様子を見た。
バケツをひっくり返したような大粒の雨。きっと外に居たら一瞬でびしょ濡れで、体温を奪われるに違いない。
外が刹那、白く光った。次の瞬間には轟音が轟き、引き裂くような稲妻が走るのが見える。
『…っ、…』
「この時期にこんな大雨、珍しいのです」
怪物が唸るような、恐ろしい音。あの時の記憶が鮮明に思い出される、忌まわしい音だ。
身体を駆け抜ける激痛が、熱が――…。
「この地方で、こんな雷も珍しいのです。もしかしたら上空に、雷神龍が居るのかもしれないのです」
僕は血の気が引いた顔で『雷神龍?』と聞き返す。
「雨や雷を司るドラゴンなのです!雷は最強の証なのです!ドラゴンの中でも、1番強いのですっ!」
雷を操るドラゴンがいるってだけでげっそりなのに、1番強いときた。どうか、僕が生きてるうちは千年の眠りとかに就いててくれると嬉しいな。
雨雲の隙間でゴロゴロと燻る稲妻を、苦虫を噛み潰したような表情で見詰める僕に気付いたのか、リジーが「大丈夫なのです?」と聞いてくれる。
『いや、うん。大丈夫だよ。あんまり…雷に良い思い出がなくてね』
僕は曖昧に微笑んではぐらかせておいた。
◆◇◆◇◆◇
お風呂から出た僕は、暫し茫然と立ち尽くした。
何をやったのか、リジーが絨毯の上で泣いていて、僕のベッドの天蓋が落っこちている。
周囲にはカップケーキが転がっており、果実水が入っていたと思われるグラスは無残に割れていた。
ソファには羽毛が飛び出たクッション、その横にあった花瓶も粉々だ。
『リジー、落ち着いて。まず、怪我はないかい?』
「王陛下ぁあッ!」
リジーは僕を見るなり大号泣で此方にタックルして来る。受け止めきれずにそのまま倒れ込んだ僕の上で、彼女は子供のように泣きじゃくっていた。
「リジーは、王陛下が入浴を終わられるのを見計らって午後のおやつを準備していたのです!でも、でも、滑って転んだらこんな事になってたのですー!」
わぁっと僕の胸に顔を埋めるリジーをどうして良いか分からず、取り敢えず頭を撫でておく。
『うーん、一先ず人を呼んで一緒に片付けて貰おうか』
「分かったのです…通信石、使うのです」
メイドさんが全員持ってる指輪の通信石にリジーが呼び掛ける。
「王陛下のお部屋が、大変な事になっちゃったのです!片付けるの、手伝って欲しいのです…」
何人かから返答があり、暫くするとメイドさんがゾロゾロ現れた。僕の部屋がこんなに賑やかなのは初めてかもしれない。リジーを除くと5人のメイドさんが入り、部屋を整えようと忙しなく動いていた。
リジーはと言うと絨毯の上で正座して、現れたメイドさんの1人、メイド長のペトラさんにこっぴどく怒られている。
ペトラさんは初めて見たけど、凄く綺麗な女性だった。(いや、他のメイドの子達も凄く可愛いんだけどさ)僕より少し年上なのか、落ち着いていて仕草に品がある。
「うぅ、ごめんなさいなのです…」
「貴女にはまだ早いお仕事だったかもしれません。采配した私にも責任があります。王陛下、大変申し訳御座いませんでした」
深々と頭を下げられ、僕はへらへら返事をした。
『良いよ、全然。寧ろ片付けを頼んじゃって悪かったね』
「とんでも御座いません。主人に尽くすのが、我々メイドの務めで御座います」
優しく微笑んで、真っ直ぐに見詰められる。深い藤色の瞳に吸い込まれそうになった。
「しかし、お部屋をこんな状態にしてしまっては、王陛下の御前にはまだ出すわけには参りません。王陛下、誰か代わりに如何ですか?」
『代わりに?』
「リジーはまだ教育不足で御座いました。本日の任を解き、今から別のメイドをお付けしたいと思います。丁度、そこの子達の誰かでも」
周囲で作業していたメイドさん達がピクッと肩を揺らす。聞こえて来る話題が気になって仕方が無い、と言った感じだ。手は止めずにテキパキ作業をこなしていたが、意識は恐らく此方に向いている。
僕は少し悩んで、にっこり笑って言った。
『そのままリジーにお願い出来ない?』
「はえ!?お、お王陛下ッ!?」
リジーは素っ頓狂な声を上げ、ペトラさんは些か驚いたように目を見開いている。
『一生懸命さは伝わって来るし、リジーとの話は面白いしさ。部屋は、まぁえらい事にはなったけど』
「………、この子にまだ挽回のチャンスを与えて下さるのですね。有り難う御座います」
まぁ、チャンスと言うかただもう少し話したいって言うかさ。見ていて飽きないし、失敗は誰でもするしね。
ペトラさんが承諾すると、作業をしていたメイドさん達がガックリと肩を落としているように見えた。
「やったー!まだ王陛下と一緒に居れる!」
正座をしていたリジーが僕に飛び付き、今度はしっかり受け止めた。背中に回された腕を外そうとするが、ガッシリ抱き付かれてて取れない。
周囲のメイドさん達の目が、なんて事をするんだ!と物語っている。そうだね、今までの僕だったら鞭打ちだっけ?(しないってば、そんな事…)
『リジー、嬉しいのは分かったから離れて』
「リジー、貴女不敬罪になりたいのですか?リリアス様に見付かったら、投獄だけじゃ済みませんよ」
「ひぃッ!」
リリスの名前に明らかに恐怖で反応したリジーは、飛び退くように僕から離れる。ペトラさんは深い溜息を吐き「王陛下、この子を宜しくお願い致します」と言って、何故か宜しくされてしまった。
その一部始終を見ていたメイドさん達は開いた口が塞がっていない。「ほら、手が止まっていますよ」とペトラさんの声が無ければ、僕の部屋はいつ迄経っても散らかったままだったかもしれない。
ペトラさんは本来の仕事に戻って行き、部屋には僕とリジー、その他の4人のメイドさん達が残された。天蓋を取り付けてくれている2人のメイドさんと、その他床を片付けてくれている人達。窓の外で雷が鳴ると、小さな身体がビクッと跳ねる。(怖いよね、凄く分かる)
「明日の朝まで降り続くらしいのです…」
僕の横に控えたリジーが、窓の外を見てそう言った。
『いやいやリジー、何で君は何もしてないのかな?』
「王陛下のお世話係なのです!」
『僕のお世話係以前に、君が1番この部屋を片付けるべきでしょ、』
「私が片付けに参加するよりも、ジッとしていた方が片付けが早く済むのです」
あ、…それは否定できないね。普段の、周りの人達の苦労が垣間見えた気がする。
『なら、仕方ないかぁ』
僕は窓を打ち付ける水滴に目をやりながら、『メイドさん達が住んでる別邸って西の方だよね?』とリジーに問い掛けた。
「そうなのです!西側の出口から出ると直ぐなのです!」
『明日の朝までこんな調子なら、雨戸も閉めた方が良さそうだね。風と、雷の音も少しは和らぐと思う。人手が欲しいならユーリに掛け合ってみるけど』
「私達の為なのです?あ、有り難うなのです!」
『さて、片付けもして貰ったし…』
僕はソファから立ち上がり、伸びをする。
『皆、本当に有り難うね。助かったよ』
「い、いえそんな…!」
「白王陛下の為でしたら…」
「シッ!」
「あ…失礼しました!!」
(白王陛下?)初めて言われた言葉だ。僕が首を傾げると、1人がその子を小突いて黙らせてしまった。僕はリジーにこっそり耳打ちをして『どう言う意味?』と聞いてみる。
「大変身した王陛下を、メイドの間じゃ白王陛下って呼んでるのでむぎゃ!」
耳打ちした意図も察せずリジーは清々しく暴露してくれた。1人のメイドさんが走って後ろに回り込み、口を抑えたが大体聞こえたよ。
『呼び名1つで怒ったりしないよ。寧ろ今まで怖がらせててごめんね』
「お、王陛下…っ」
「神…」
「なんて慈悲深い…」
困ったように笑う僕に、メイドさんは口々に賛辞の言葉を呟いている。
ホゥ、と熱っぽい息を吐く子の眼差しは、取り柄の無い僕にとって居心地が些か悪かった。
『本当に有り難う!皆、仕事に戻ってね』
僕の一声で、残念そうではあるがメイドさん達は其々の仕事に戻ろうとする。…っと、大事な事を忘れていた。
『ごめん、その前に…誰か美味しい紅茶を淹れて欲しい』




