9月7日 小さな織姫のお悩み ①
今日は犬井ちゃんと観望会の日だ。お客は彼女一人。
学生を招待する規模のものではないので、申請書も必要ない。
ただし、クラスメイトである姉への説明は求められた。
「天野くん、今日はマキちゃんとお出かけだっけ? 夜が随分と遅くなるんだね」
なぜだろう。
犬井姉の笑顔はいつもと変わらないはずなのに、後ろにドス黒いオーラが見えるような。
周りを見れば和樹だけではなく、いまやクラス全員が彼女の言動に注目しているような気さえする。
「あ、ああ。天文部の活動でな。星の良さを教えようと思って」
「ふーん。教えるのは星の良さだけだよね? それ以外、何かを教える気はないよね?」
「何かってなんだよ。気になるなら犬井さんもくるか?」
何気なく出た言葉だったが、それは犬井さんの表情を一瞬で変えた。
先程の笑顔はどこにやら。今度は何かに怯えるようにブンブンと首を振る。
「ぜんっぜん! 星に興味ないからいいや! 妹をよろしくね! わかっているだろうけど、ちゃんと家まで送り届けてね!」
「お、おう」
いきなり豹変した犬井さんに困惑しつつも、それで話は終わったらしい。
誘っただけなのに、全力で拒否されるのは傷つくな……泣くぞ。
彼女と入れ違いに和樹がやってきて、ポンと肩を叩かれた。
「フラれたんだな、ドンマイ」
「和樹と一緒にすんな。お前も星……いや、なんでもない」
誘おうとした途端、つい先程までいた人のオーラが再度見えた気がした。
犬井さん、俺が人を誘うのもダメなんですか。
仕方ない。今日は犬井ちゃん専属の星空案内人になろう。
待ち合わせは、鍵山高校の校門前。
19時にもなると、どの部活動も終わっているため門は閉ざされている。
少し余裕を見て10分前には来たわけだが、犬井ちゃんは……いた。
「あっ、先輩! よーっすです!」
「よーっす。早いな」
犬井ちゃんの私服は上にカーディガンを羽織っており、下は動きやすいようにかショートパンツだ。
事前に山を登ることは伝えてあったが、その格好だと夜の山は冷えることだろう。
本当は長ズボンのほうが好ましいんだけどな。
「いくら夏とはいえ、そんな格好で大丈夫?」
「大丈夫です! これでも陸上部ですよ? 動けば問題ないと思います!」
「元気がいいのは結構だけど、一応防寒具もあるから遠慮しないでね」
「はい!」
目的地までは、ここから歩いて50分ほど。
さすがに遠いので自転車集合だが、それでも30分はかかる。
「えへへ、出来れば二人乗りがしたかったです」
「何だ、言ってくれたらよかったのに」
「え!?」
もちろん、自転車の二人乗りは禁止されている。
犬井ちゃんはこちらの自転車にある荷台をちらちら見てくるが、あいにくとこの自転車ではできない。
「駅前にレンタルサイクルがあってな。そこに二人乗りの自転車があるんだ。レンタル料も安いし、乗ってく?」
「……遠慮しておきます。それじゃ、二人漕ぎなんです……」
「? じゃ、このままいこう」
自転車とはいえ、三脚と鏡筒を背負いながら漕ぐのはきつい。
俺は犬井ちゃんにリュックだけ預けると、二人で目的地であるあの場所を目指す。
山へ着き、斜面を登ること数分。
展望台近くに自転車を止め、あの丘へと向かう。
「あっ、ここ展望台がありますよ!」
犬井ちゃんの声に振り向けば、いつもカップルで賑わう展望台には誰もいなかった。
俺が口を開くよりも先に、犬井ちゃんは展望台へと駆け寄る。
「ほらほら、先輩! ここからなら星も見えますよ!」
「ああ。見えるけど、この場所からは夜景を楽しんだほうが良いぞ。街明かりがあると、星の光が負けてしまうからな」
街灯の光、建物の明かり、自動販売機の照明。
様々な光が邪魔して夜空が明るくなってしまうため、これらは光害とも言われている。
この展望台はその影響を大きく受けているため、星を見るなら山のなかだ。
「でも先輩! ほら、あっちに見えるのはイルミネーションですかね? あはは、いま夏ですよー」
「季節外れにもほどがあるよな」
「それに向こうでは――」
犬井ちゃんの興味は尽きない。
今日は星を見に来たんだが……まあいいか。
たまには夜景を楽しむのも悪くはない。
俺たちは他のカップルが来るまで時間を忘れ、この展望台から見える夜景を楽しんでいた。
時刻は20時を過ぎた辺りだろうか。
思ったよりも夜景に時間を取られたため、観望できる残り時間は少ない。
「うぅ……先輩、すみません。つい見惚れてしまって」
「いいさ。それに俺も引き込まれていた。あの場所がデートスポットというのも納得の夜景だったし」
いつも何が楽しいのだろう、とスルーしていたが、実際に見てみると夜景も悪くはなかった。
高速道路の車、信号待ちをしている車。終業時間で消灯するデパートなど。
人の暮らしが直にあらわれる分、毎日眺めていても飽きない気がする。
気がつくと、一緒に歩いていたはずの犬井ちゃんの足が止まっていた。
怪訝に思い、俺もその場で足を止める。
「え……あの場所、デートスポットだったんですか?」
「ん? さっきカップルと遭遇しただろ? 今みたいに人がいないことは稀で、いつも誰かしらいるんだよ」
「ということは、わたしたちも同じように見えたんですかね?」
「かもな」
犬井ちゃんが知らなかったことに驚いたが、よく考えればここに来るのはカップルが多い。
俺みたいに通りすがらない限り、展望台の存在を知らない人間は多いのだろう。
俺が歩き出したことで、犬井ちゃんも置いていかれまいとするように走ってくる。
ただその顔は、姉の犬井を思い出すくらいニコニコと破顔していた。