9月5日 ②
本日二回目の更新です。
今まで部活へ行くのに、気分がこんなにも重たい日があっただろうか。
春姉から大量の仕事を任される時も、去年までいた先輩の喧嘩を仲裁した時もここまでは沈まなかった。
部室の扉を開ける……今日はまだ、誰もいない。
あれから犬井ちゃんの様子は気になったが、彼女の連絡先も知らない。
もう部室へ来ないのでは? とも思ったが、もし会えるのなら正面から謝りたい。
ちなみにクラスメイトの犬井姉からは「マキちゃんを泣かせたら許さないからね?」と笑顔で脅された。
隣りにいた和樹も震えていたので、あの笑顔は相当怖い。
「今日は何すっかな……」
床には、組み立て途中で放棄された望遠鏡。
あの後は三脚だけ寝せ、並べた部品などはそのままにしてある。
もしも叶うなら、昨日の続きをまた三人でやりたいものだ。
その時、部室の扉が開かれた。
「こんにちわ」
「あっ……白鳥、さん。こんにちわ」
失礼な挨拶も、事情を知っている彼女は気にしなかったらしい。
もはや定位置になりつつある椅子に腰を降ろすと、白鳥さんは近くにあった本を読み始める。
「あの、望遠鏡の組み立て。するか?」
「まだいいわ。そうね……一時間後にやりましょう」
組み立てなんて、数分もあれば終わる。
しかし、白鳥さんは一時間後でいいという。
それくらいは彼女(犬井ちゃん)を待ってみようという、白鳥さんなりの優しさかもしれない。
よかった。
三人で続けたいと思っていたのは、どうやら俺だけじゃなかったらしい。
「白鳥さんは、どうして星を見ようと思ったんだ?」
「そうね。写真ではなく、実際に見ることで感じられることがあるから、かしら」
いくら知識があっても、経験することでまた違う一面が見えてくる。
彼女はそう言いたいのだろう。
「でもわざわざ、天文部に入らなくても一人か友達と――」
「女性の一人歩きは危ないの。ましてや、夜になると尚更ね」
それは、誰に向けた言葉だっただろうか。
いかにも経験があるかのような言い方に、それ以上踏み込むことはできなかった。
お互い無言になってから、半時間は経っただろうか。
コンコン、と部室を叩いた控えめなノックにより、静かな空間に音が戻ってくる。
「どうぞ」
「…………入ってこないわね」
「開けれないのか?」
ここに来るのは、春姉か犬井ちゃんくらいだろう。
すりガラス越しに見えるシルエットは小さい。
となると、可能性は一人だ。
俺は扉の前までいき、その人物を出迎える。
「犬井ちゃん、よーっす」
「よ、よーっすです、先輩……」
予想通り、そこにいたのは犬井ちゃんだ。
気になる点としては、さっきから床をジッとみつめたまま、目を合わそうとしないところだろうか。
「ほら、望遠鏡を組み立てるよ。揃ってからじゃないと同時進行できないからね」
「え?」
そこで初めて、犬井ちゃんは顔を上げた。
昨日の状態のまま並べてある、望遠鏡の部品。
三脚だけは寝かせてあるが、そのほとんどは作業を中断したまま維持してある。
「あ、あの……白鳥先輩と進めていたのでは?」
「なんだかやる気になれなくてな。犬井ちゃんを待っていたんだ」
「始めたのは二人同時。昨日は私も悪かったから」
「白鳥、先輩……」
元はといえば、犬井ちゃんが飛び出していったのは俺が原因だ。
昨日の言葉の意味を、きちんと伝えなければならない。
「ごめん。その……俺には妹がいてな。犬井ちゃんはどうしても妹と被るんだよ」
「先輩の妹さん、ですか?」
「ああ。白鳥さんは同年代の女子って感じだけど、犬井ちゃんは妹と似てるからな。つい妹みたいに接してまうんだ」
日頃から紗苗を甘やかしているせいか、体型が似ている犬井ちゃんには何とも思わないんだよな。
紗苗もこれくらい人に懐いてくれたらいいのだが。
「そ、そうですか? わたし、先輩の妹さんと似ているんですね」
「性格は違うけど、見た目がな。望遠鏡の続き、やるか?」
「……はい! よろしくお願いしますっ!」
勢いよく腕に飛びつかれるも、やはり妹のようだからか何も思わない。
いや、一部が紗苗よりも小さいな……口には出さないけど。
「あ、白鳥先輩はそっちでお願いしますね。先輩の妹分なわたしは、付きっきりで指導してもらいますので!」
「…………イラッ」
「おい、そんなくっつくと危ないぞ。まずは三脚を立てるから」
「はーい!」
まずは昨日の続きをするため、三脚を立てる。
鏡筒を載せる前に、きちんと足の固定を確認し、ようやく鏡筒だ。
「まずは犬井ちゃんからやろう。ほら、離れて。どうやって持つか覚えているか?」
「わたしがしてもらったように、お姫様抱っこですよね! わたしがしてもらったように!」
「………………イラッ」
そこ、強調せんでよろしい。
さっきから白鳥さんによる無言の視線が痛いが、このあと抱っこしろとか言い出さないよな?
俺が背後から来るプレッシャーと戦っている間にも、犬井ちゃんは無事に鏡筒をセットする。
「うん、ネジもちゃんとしまっているね。とりあえずオッケーだ」
「ふぅ……上手く出来ました! なんたって経験がありましたからね!」
「秋彦くん、ちょっと」
背後から聞こえた声に振り向くと、そこには昨日のように寝転んだ白鳥さんがいた。
そんな無表情な瞳でジッと見つめられると怖いんだが。
「…………ん」
「何を求めてるかわかるけど、どうしても?」
「さっき言ったわ。実際に見ることで感じられることがあるから」
どうやら犬井ちゃんが言った、経験という言葉で火がついたらしい。
星を知るだけではなく、見ようとした白鳥さんにとっては、お姫様抱っこすら望遠鏡を使う手段に過ぎないのだろう。
……ただ対抗心を燃やしただけじゃないよな?
しかし、それを見て黙っていないのが犬井ちゃんだ。
「おやおや? やっぱり白鳥先輩も興味あるんですね。でも残念でした! 先輩は妹しか抱っこしたくないみたいですよ?」
「……………んー」
そんな目で見ないでほしい。
仰向けになった白鳥さんは、ただ横になっているだけ。
それでも、呼吸する度に上下する膨らみや、すらっと伸びた健康的な足に視線が吸い寄せられる。
「先輩?」
「っ!! あ、いや。なんでもないぞ?」
ビビった。
耳元で囁かれた声に振り向けば、犬井ちゃんが冷めた目でこちらを見ていた。
そのまま時間だけが流れる。
やがて犬井ちゃんから、視線で「はやくやれ」と指示が飛んできたような。
平常心、平常心だ……。
しっかりと腰を降ろし、白鳥さんを支えて持ち上げる。
彼女は完全に力を抜いてリラックスしているため、持ち上げる方も一苦労だ。
「よし、持ち上がった。もう降ろすぞ」
「もう少しこのまま。ね?」
白鳥さんはゆっくりとした動作で、俺の首に腕を絡めてくる。
身体が密着しているというのは、どうやら気にしたほうが負けらしい。
腕が首にあるせいか、先程よりも何かが当たっている感触が強くなっているが、気にしたら負けだ。
いつもならここで犬井ちゃんが騒ぎ出すはずだが、彼女はスマホを操作してこっちを見ていない。
「あの、降ろすからな?」
「もうちょっと。ねえ、鏡筒を持つときはこんな乱暴に扱っていいの?」
俺が白鳥さんを、無理矢理にでも降ろそうとしたことに気づかれたらしい。
鏡筒は繊細だ。斜めに落ちる可能性もあるため、可能な限り地面と平行に持つのが好ましい。
そろそろ腕が耐えられないので、降ろさせてほしいのだが。
何度めかの「もうちょっと」も無視して降ろそうとした時、部室の扉が開かれた。
ここに来るのは、あと一人しかいない。
「何やってんだ。お前ら、この天文部の条件知ってるか?」
春姉こと、顧問の生天目先生。
白鳥さんを抱き上げたままの俺は、そんな状態でこの天文部顧問。
部内恋愛禁止を推す春姉と対面した。