9月7日 小さな織姫のお悩み ②
時刻は20時30分。
21時には切り上げる予定なので、観望できるのは少しだけだ。
ようやくいつもの場所へたどり着いた時、横から感嘆の声があがった。
「ふわぁ……」
「どうだ? さっきの場所より、星がよく見えるだろう」
「はい! 同じ星空でも、少し場所が違うだけで別物ですね!」
光害のある場所では、せいぜい三等星くらいまでしか星は見えない。
しかし、光害の影響が少ない山に行けば四等星くらいは見えるだろう。
なので犬井ちゃんが言った別物というのも、あながち間違いではない。
「今日は時間がないから、星空だけ見上げよっか。ほら、アルミマットを敷いたからここに寝転がって」
「あ、はい! でもせっかく望遠鏡を持ってきたので、使ってみたかったです……」
俺としても、ここまで担いできたんだ。
時間がないからってこのまま終わるのは……ん? あの天体は。
「犬井ちゃん。あのオレンジ色の星って見える?」
「オレンジですか? そんな星……あ! ありました! 他の星と比べても明るいですね!」
「あれが火星だよ」
「えっ、火星って肉眼でも見えるんですか? へー」
ひときわ輝く、橙の星。
ここまで望遠鏡を持ってきたんだ。犬井ちゃんにはぜひ見てもらいたい。
「今日は時間がないから、俺が準備するよ。あまり遅くなると犬井姉に怒られるからね」
「お姉ちゃんですか? そういや今日も来たがって……いえ、言い聞かせておいたので大丈夫です!」
「言い聞かせて? まあいいや。とりあえず、俺が準備してる間は星空を楽しんでいて」
この前二人に教えたように望遠鏡を組み立て、火星でスコープの中心を合わせる。
本当はスコープ合わせ、天体の導入をやってもらう予定だったが、犬井ちゃんにはまず見てもらうほうが先だろう。
まずは低倍率で火星を見てもらう。
準備ができたので振り向けば、星を見ていたはずの彼女と正面から目が合った。
「あっ!?」
「ん。こっちを見て、もしかして準備もやりたかった?」
「いえ、違うんですけど、違わなくて……あの、その、先輩の真剣な姿から目を離せ…………あっ! いえ、真剣に準備してますねってことです!」
アワアワする犬井ちゃんだけど、そりゃあ真剣にもなる。
彼女にとっては、これが初めて見る火星だろう。
もしそれが、ブレてよく見えなかったり、ちょこんと存在するだけだったなら?
俺は最上級を知っているが、犬井ちゃんはこれしか知らない。
「犬井ちゃんの初めては大切にしたいからね……どうかした?」
「――っ! い、いえ。なんでもありませんっ! これもう火星が見えるんですよね? うわー、楽しみだなー」
一瞬だけ動きを止めた犬井ちゃんは、何かを誤魔化すように望遠鏡へと近づく。
最後の棒読みは、火星を逃げに使われた気がするが。
しかし、そんな反応ができるのも望遠鏡を覗くまでだ。
「うわぁ……赤茶色してますね。なんか、オレンジ色のお月様って感じがしますね」
「ああ。そして更に……ちょっといいかな?」
「ふぇ?」
俺は接眼レンズを替えるため、まだ望遠鏡を覗き込んだまま離れない彼女に近づく。
そのとき、こちらを向いた犬井ちゃんと、至近距離で目が合う。
「――ご、ごめんなさいっ!」
「あっ、いや。なんともないが」
「いえ! ちょっと離れてますね!」
そう宣言し、犬井ちゃんは五メートルほど俺から離れた。
そんなに距離をあけて避けなくても……ちょっと傷つくぞ。嫌われてはいないはずだが、ちょっと自信が持てなくなってきた。
アイピースを高倍率に替え、火星が見えるか確認する。
さっきよりもブレはあるが、こちらのほうが迫力あるだろう。
「オッケーだ。俺は離れるから、ゆっくり見てごらん」
俺も犬井ちゃんと同じように、反対側へ五メートルほど下がろうとする。
背中を向けようとしたが、その前に犬井ちゃんからストップがかかった。
「どうして離れるんですか? 先輩はそこにいてください」
「でも、ここに俺がいたら見れないだろ?」
「いえ、先輩が傍に居てほしいんです……」
今度はゆっくりと近づいてくる犬井ちゃん。
あっちこっちに忙しい子である。
ま、ここに居てという本人の希望だ。案内人としてはこのほうがやりやすい。
「これが太陽系惑星、四番目に位置する火星だよ」
「せ、先輩! これさっきよりも大きいですよ! なんていうか、視界にぶわーってきます! ぶわーって!」
犬井ちゃんの語彙が残念なことになっているが、言いたいことはわかる。
さっきは46倍率に対して、今は144倍率。
火星の全体図や模様などはこちらのほうがよく見える。
「本当は木星や土星のほうが人気だけど、この時間じゃちょっと無理だね」
「いえ! 火星もすごいです! これって大接近の日とかはもっと見えるんですか?」
「ああ。今ぼんやりと見えている模様がしっかり見えるよ。極冠とか大シルチスとか名前がついているけど、それを絵でかけるくらい」
「へー……それは、ぜひ見てみたいです!」
クラスメイトの犬井姉いわく、犬井ちゃんは絵を描くのが好きなんだとか。
趣味の範囲を出ないようだが、ランニングの際にスケッチブックを持って出かける日もあるらしい。
天体は色々と条件が揃っていないとスケッチは厳しいが、少しでも興味を持ってくれたら嬉しい。
「もうすぐ時間だから、そろそろ切り上げよっか」
「え……もう終わっちゃうんですか?」
犬井ちゃんは身長差からか、上目遣いでこちらを見てくる。
ほんのりと月明かりに照らされた顔は、見ているだけで引き込まれそうな魅力を放っていた。
「……っ、名残惜しそうにしてもダメだ。でないと君の姉に俺が怒られる」
「大丈夫ですよ。お姉ちゃんには遅くなるって連絡を入れておくので」
犬井ちゃんはスマホを取り出したが、俺はその手を抑えて制止した。
「えっ! な、なんですかいきなり」
「せっかく暗闇に目を慣らしたのに、スマホの光は有害だよ。俺としてはあと少しでも、この星空を楽しんでもらいたいな」
星見をする際は、できる限り白い明かりは控えたほうが良い。
スマホを触るにしても、あらかじめ光量を落とすことが前提だ。
「それに君の姉には『絶対に21時半には家にお願い。もし破ったらわかってるよね?』と脅され……頼まれているんだ。クラスでの立場もあるから、悪いが今日はここまでだ」
「そうですか……残念です」
しょぼん、とうなだれる犬井ちゃん。
俺としてももっと星を楽しんでもらいたいが、犬井姉に逆らった後が怖い。具体的には、彼女を中心にしたクラスメイトへの影響が。
「俺は望遠鏡を片付けるから、犬井ちゃんは星を見ていていいよ」
時間的にはちょうど良いだろう。
分解したパーツをわけてケースに詰め込んでいると、犬井ちゃんが唐突に話しかけてきた。
「先輩。わたしの話を、聞いてくれますか?」
「ん? 俺でいいなら」
犬井ちゃんは相変わらず、星空を見上げたままだ。
しかし今は、彼女のトレードマークであるニコニコ顔も鳴りを潜めている。
……彼女はいったい、何を考えているのだろうか。
長くなったので分割します。




