人狼の騎士
「主よ、昼食の用意ができました」
書物の中に埋もれていた女性は、自分を呼ぶ声に頭を上げた。
人里離れた森の深く。そこには、小さな家があった。この国の人々に、魔女の森と呼ばれる地。曰く、ここには数百年も前から魔女が住まい、その永遠の美貌で男を食い物にしているとも、陰ながらこの国の秩序を保っているとも言われている。
そしてこの女性は、この家の主――つまり、彼女こそが魔女。もはや数えるほどしかいなくなった、本物の魔女である。
莫大な知識を持ち、不可思議な秘術を操る者。老いや寿命すらも超越し、永遠に近い時をそのままの姿で過ごしていると伝えられる大魔女。
事実、この魔女は数百年も前から、その変わらない美貌を保っていた。腰にまで届くほどのさらりとした白髪、傷ひとつない玉の肌、全てを見通すような瑠璃色の瞳。ゆったりとしたローブを纏っているので目立たないが、スタイルも抜群で、理想を体現するかのように女性らしい体つき。どれを取っても、もはや畏怖すら感じるほどの美しさだった。
実年齢は数えることも止めてしまったが、外見は20代前半の、彼女が最も美しいと思う地点で変化を止めている。
「おお……もうそんな時間か。今日の献立は何だ?」
そんな偉大な存在であることを感じさせないような、少し気だるげな声で、魔女は従者に問いかける。彼女が手にしていたのは最近になって取り寄せた学術書だが、どうやら当たりではなかったようだ、と青年は察する。もしも興味を引かれていたら、どれだけ呼んでも決して反応はないのだ。
「焼き上がったばかりのパンと、南瓜が食べ頃でしたのでスープにしました」
「ほう! 貴様の作るスープは絶品だからな、楽しみだ」
即座に興味を食事へと移らせたらしい魔女は、読みかけの本を置くと、青年について書斎を出る。テーブルには、青年の言った通りにパンとスープが二人分並べられ、食欲をそそる香りを立てていた。
魔女はさっそく椅子に座ると、野菜のたっぷり入ったスープを口に運ぶ。南瓜とミルクの濃厚な味わいが、彼女の口を満たした。
「うむ……美味い。いやはや、本当に優秀な料理人だ。店を出せば金が取れるぞ」
「お褒めいただき恐縮です。ですが、俺は主の好みに合わせていますので、大衆に合うかは別の話でしょう」
「心配するな、私が美味いと思うものは誰が食っても美味いに決まっておる。うむ、では今度は貴様に合う料理人の服でも取り寄せるか……」
根拠もない魔女の自信に、青年は特に何も言わずに茶の用意を始める。彼女のこういった振る舞いはいつものことで、放っておけば忘れることも分かっている。逆に反応すれば実行されることも。
「しかし貴様……私はいいのだが、いつも私と同じ献立で満足できるのか? 野菜ばかりになるだろう」
「主の育てた野菜は、俺にとって最も馴染んだ味ですから」
「嬉しいことを言ってくれる。だが、育ち盛りの男子なのだから、肉もしっかり食わねばならぬぞ?」
「生憎ですが主よ、俺の成長期は10年近く前に過ぎました」
「細かいことを気にするな。10年なぞ、私にとっては誤差でしかない」
「貴女にとってはそうでしょうが、俺にとっては一生の10分の1を占めるのです」
「屁理屈を抜かすでないわ、全く。こういうときは素直に受け取っておけばよいのだ。たまには狼らしく肉も食え、肉も」
魔女はそっと、茶を置くために身を屈めていた青年の首元を撫でる。そこは、豊かな白い毛皮に被われていた。
青年は、人間ではない。人狼――そう呼ばれる亜人種だ。狼そのものの獣頭に、ふわりとした純白の毛並み。2メートルはあろうかという長身。毛皮の下ではしなやかな筋肉が引き締まっており、同年代の人間と比べれば圧倒的に力強い。
毛皮を持つ人狼には防寒の必要があまりないため、服は簡素であることが多い。だが、彼は上下共に長袖の服を纏い、羽織った黒いコートは白い毛並みを引き立たせていた。――魔女の趣味である。暑いと文句を言ったら、丁度いい温度に調整するための秘術まで開発されてしまったので、根負けして着ている。
「心配せずとも、食べたくなれば食べますよ。それにこの前は、成長しすぎだから肉は控えろと仰っていませんでしたか」
「それとこれとは話が別だ。ほんの少し前まで、私の足にすがる子犬のようだったのに、なあ? いつのまにやら、無駄に図体はでかくなり、頭は固くなり、小言ばかりが多くなり……ああ、母は悲しいぞ」
「母と呼ぶなと言うくせに、こういう時は利用するのですね……」
「当然だ、使えるものを利用せずして何が魔女か」
「では、魔女のしもべたる俺も利用します。親のように慕う相手を親と呼べないのは、息子も悲しいのですよ?」
「……全く、そういう物言いだけ上手くなりおって。小さい頃ならいざ知らず、今の貴様が母と呼べば、まるで私が老いたように感じるではないか」
永遠に近い若さを保った魔女が何を、と人狼は嘆息する。出逢った時から変わらない、人狼の感性からしても美しいことが分かる妖艶な魔女であっても、そういう些細なことを気にするものなのだろう。だからこそ、なのかもしれないが。
貴様はそういう女心をいつまで経っても覚えんな、と、説教されたことも記憶に新しい。人狼を拾い育てた魔女にとって、人狼はいつまでも手のかかる息子扱いであるようだ。
魔女と人狼の出逢いは、18年前に遡る。
30年前、亜人連合軍と人間の大規模な戦争が、この地で発生した。その争いは12年にも及び、人間も亜人も多くの者が命を落とした。
戦災孤児など、珍しくもなかった。終戦の前日、最後の戦いにて両親を失ったという彼の境遇も、探せば同じような子供がいくらでも見付かったことだろう。
それでも、珍しくないから辛くない、などという理論はもちろん通らない。僅か7歳の少年には、あまりにも過酷な運命。悲しみと憎しみ、絶望と恐怖で、生きる気力すら失いかけたときの気持ちを、人狼は今でも思い出して震えることがある。
終戦を迎えてから、長い時が経過した。しかしあの戦いは、大きすぎる爪痕を至るところに残した。人と亜人は和平を結び、表面的にはそれぞれの争いは無くなった。だが、手を取り合って仲良く、と言うには、お互いの心にはまだ枷がある。人の街に行くことはできても、どこからか刺すような視線を受けることは仕方ない。逆も然りだ。
(……そして、魔女も)
人間には使えぬ不可思議な力を操る存在。それもまた、人間には恐怖の対象でしかなかった。その心境は、人狼にも理解できないわけではない。屈強な肉体を持つ彼であっても、魔女の所業には驚嘆せざるを得ないことばかりなのだから。
主は、善性の魔女だ。時折近くの街へと降り立ち、魔女の薬や占いなどで気紛れに人助けを行っている。それでも、魔女というくくりだけで、彼女を敵視する輩は決して少なくない。
「主よ。俺は、人間ではなく人狼に生まれて良かったと、いつも思うのです」
「何だ、唐突に? その歳になって人間嫌いにでもなったか」
「……俺はむしろ、人間を尊敬していますよ」
魔女の問いには、首を横に振る。確かに、かつての戦乱で両親や同族を失い、人間を憎んだ時期はあった。しかし、人狼は魔女に理を学び、知恵者へと成長した。すぐに割り切れたと言えば嘘になるが、両親や友人を殺したのは人間の中の誰かであり、人間という概念ではない。種族という大きなくくりで憎しみをぶつけ合ったから、戦争になった。それを理解した彼は、そのような考えを捨て去ることに決めた。
それに――これが一番大きな理由なのだが――ある日、気付いたのだ。魔女も、力を得てしまっただけの人間だと。
「人間は賢く、器用だ。彼らの繁栄を見習うべき点はいくらでもある。ですが……人間ならば、貴女に護衛として拾われることもなかったでしょう。俺は、貴女を守れることを誇りに思っていますから」
魔女は強大な秘術を操るが、身体能力は普通の女性と大差ない。もしも悪意ある者から不意に襲われてしまえば、あっさりと屈することになるだろう。だからこそ、魔女は護衛をつける。異形の使い魔を、そして、彼のように強靭な亜人を。
――ふむ、みなしごか。行く当てがないのか?
ならば、私についてくるといい。丁度、護衛が欲しかったところだ。……人間? 違うぞ、私は魔女だ。噂ぐらいは聞いたことがないか?
なに、今すぐにというわけではない。育つまでの数年など、私には大した時間ではない。その間養うだけの価値はあろう。
ふふ、期待しているぞ。未来の、私の騎士よ。
そうして魔女に拾われ、彼は魔女の護衛見習いとしての修練を積むことになった。最初は、抵抗もした。道具として扱われるのだと思った。それなら死んだ方がいいとまで考えた。しかし。
――痩せているな、獣のくせに。栄養が足りねば護衛になどなれぬぞ? ほら、食うのだ。でかくなり、そして強くなれ。
この魔女は何故か、人狼に温かい食事を与えてくれた。柔らかい寝床を与えてくれた。
――怪我をしているではないか。……なにがこのぐらい平気だ、馬鹿者。小さな傷から命は脅かされるものなのだ! 完治するまで激しい運動をするでないぞ!
傷付けば手当てをしてくれた。過保護なほどに健康に気を遣ってくれた。
――身体だけを鍛えても駄目だ。私の騎士になるのだ、知識と教養はしっかり身に付けてもらわねばな! ……そうか、人間の文字は読めぬのか……ええい、ならばそこから学ぶぞ!
それほど頭の良くなかった人狼に、根気強く知恵を授けてくれた。自分の持つ莫大な知識の片鱗を、彼に分け与えてくれた。
――今日は薬が良く売れたのだ。そこでだ、欲しいものはあるか? ……何もない? たわけ、こういう時は何でも良いからねだるものだ! 私は貴様に何かしてやりたい、貴様は好きなものが手に入る! 良質な取引だが、断れば台無しなのだぞ!
まるで息子のように大事に育ててくれた。無理やりに従わせたとしても人狼には反抗できなかったのに、そうしなかった。
――なんだ、泣いておるのか。故郷でも思い出したか? ……ああ、す、すまん! 余計なことを言った! その、私はずっとひとりだったから、その辺りの機微は分からなくてな。
……いいさ、存分に泣け。我慢すれば思いは発散できぬ。……私は、貴様の母ではない。だが……代わりにぐらいは、なれるだろう。ほら、来い。私は、貴様をひとりにはせぬよ。
本当の母がそうしてくれたように、涙が止まるまでずっと、その腕で抱き締めてくれた。優しく包んでくれた。
そのような毎日に、いつしか人狼は本当に魔女のことを新たな母として慕うようになった。
「全く、生意気を言いおって。私はまだ、お主のような子犬に守らせるほど落ちぶれてはおらぬぞ」
「俺はもう成体、どころかむしろ今が全盛期です。そもそも護衛として拾った人の言うことですか」
「ええい、獣のくせして本当に理屈っぽい男だ! 全く、誰に似たのだか。……さあ、無駄な話はせずに貴様も早く食え。今日は少し遠出をするからな」
「はい。承知しました、主よ」
わざとらしく一礼をしてから、人狼も椅子に腰かける。体格が体格なので、彼の食事量は魔女より遥かに多い。だが、狼の大きな口は、平らげる速度も魔女の比ではないので、いつも人狼の方が魔女よりも早く食べ終わる。
(……もしも、彼女に興味を持たれなければ……俺はあのまま、野垂れ死にしていたのだろうな。仮に生き延びていたとしても、人間を憎み、それを抱えたままでは、まともな生は送れなかっただろう)
食事を進めながら、人狼は思いを馳せる。
彼女がいなければ、無意味に散らしていただけの命。ならばこそ、彼は己の全てを彼女に捧げると決めている。例え気まぐれに利用し尽くされて死んだとしても、後悔はしないだろう。――などと考えるまでに忠誠を誓ったのは、彼女がそういう魔女ではなかったから、という矛盾もあるのだが。
(忠誠、か……)
魔女には分からないように、小さく笑う。子供の頃は、彼女に恩を返すためにも、立派な守護者となるために努力していた。だが、彼が成長するに従って、理由はそれだけではなくなっていた。
(俺は絶対に、貴女を守護し続ける。この命が尽きる、その瞬間まで。主である貴女を。母である貴女を。……そして)
そんな言葉は、そっと胸の内に秘める。それをはっきりと告げるのは、自分がふさわしい存在になってからだと決めていた。――とは言え、あまりにも男心が分からない魔女に、黙っているばかりでは我慢も難しい。
だから彼は、この魔女には伝わらないように、言葉を紡ぐ。いつも鈍感だの朴念仁などと説教してくるこの魔女への、ささやかな復讐。いつの日か、そっくりそのまま説教を返すための下準備。
「そういえば……そのスープ、前回とは少し味付けを変えてみたのですよ。どちらがお好みですか? 我が、愛しい主よ」
あまりにも鈍感な魔女が、人狼のいつも言う『愛しい』に、養母への情とは違うものが含まれていると気付くのは――まだまだ先の話である。