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後編

 蝉の音がけたたましく鳴り響く昼時、加奈子が病院へと訪れるのはもはや身体に染み付いた習性の様になっていた。受付で手続きを済ませ、いつものように四階のある病室へと向かう。

 ゆっくりと加奈子の丈よりある大きな扉を横へ滑らせる。その個室の中には、やはり一人の女性がベットに横たわっていた。扉が開けられたのに気づいたようで、ぱっと首を加奈子の方へと向けた。

「起こしちゃったかしら」

 加奈子がそう呟くように言うと、千佳子は顔を綻ばせて首を小さく振った。

「ううん、お姉ちゃん。起きてたから大丈夫よ。窓の外を見ていたの」

 千佳子の言葉に息を一つついて、加奈子も顔を自然と綻ばせた。

 加奈子と千佳子は双子の姉妹である。一卵性であるため顔は鏡写しのように大変よく似ているのだが、身体の造りはどういうわけか似つかなかったようだ。

 風邪も滅多に引かない程の健康体であった加奈子に比べ、千佳子は生まれつき心臓が弱かったのである。調子の良い時は千佳子も病院に囚われることなく、加奈子と出かけたりもしたのだが、ここ最近はあまり体調が優れず、ずっとこの病院に入院している。

 千佳子の自分と似た顔を見て、加奈子は最近、猛烈に思うことがある。私と、千佳子は一体何が違うのだろう。もちろん千佳子は千佳子。私は私だ。それ以上でもそれ以下でもないのかもしれない。でも、私は何足り得て私となっているのか。千佳子は何足り得て、千佳子となっているのか。

「今日は、調子。どう?」

 加奈子が窓枠の花瓶に生けてあった花を持って来た新しいものと変えながら聞くと、千佳子は心なしか、溜め息をつくように小さく息を吐いた。

 加奈子は千佳子にとって、身体の弱い自分を案じてしょっちゅう見舞いに来てくれる、優しい自慢の姉であった。しかし、千佳子は時々、そのような姉が猛烈に憎たらしくなっていた。

 もしかして加奈子は自身の健康な身体を私に自慢したくて、来ているのではないのだろうか?

 そんな考えが不意に頭に浮かんで、千佳子の頭を浸食していくのである。

 なぜ私は身体が弱いのだろう。

 なぜ姉が健康でいられるのだろう。

 なぜ、他の所は同じといっても過言ではないのに、ここだけ全く違うのだろう。

「ううん……良いわけじゃあないけれど……悪くもないよ?」

 千佳子は喉から絞り出すように、そう答えた。

 そう……と言いながら加奈子はちらりと千佳子の目を見つめた。その目は確かに、加奈子にはあまり元気であるようには映らなかった。いや、むしろ少し調子が悪いのではないかしらとさえ思った。

 もしかしたら他の人には分からないかもしれない。いつもと変わらない様子に見えるかもしれない。しかし実の姉である加奈子には、千佳子のわずかなほんの僅かな違いから、千佳子のことが手を取るように伝わるのである。

 しかし加奈子は、千佳子の真の思いなど終ぞ察することは出来ていなかった。

 加奈子は前に、千佳子の担当医師から「そろそろ心臓移植というのも考えないといけないかもしれない」と言われたのをふと思い出した。

「ねえ、千佳子──」

「あ、そういえば」

 加奈子と千佳子の声が合わさり、そして同時に口を押さえたため一瞬おかしな静寂が流れた。しかしそれも僅かのことですぐに二人してクスリと笑った。

「ごめん、お姉ちゃん。──なに?」

「いや、──なんでもないの。千佳子こそ、どうしたの」

 実際、私は何を言うつもりだったのだろう。加奈子は曖昧な笑みで誤摩化しながら、千佳子に先を促した。

 私も大した話じゃないんだけど……と苦笑しながら千佳子は先を続けた。

「昭利さんも、元気かなって」

「ああ」

 昭利は加奈子と千佳子の幼馴染みであり、そして加奈子の恋人であった。昭利と二人で見舞いに来ることも多いのだが、今日は都合が合わず、加奈子だけで来ていたのであった。

 加奈子は千佳子から目をそらした。

 昭利は確かに加奈子の恋人だ。

 しかし、昭利は加奈子よりも千佳子の方に、その心が傾いていることを、加奈子は随分前から、いや、初めから知っていた。

 そして、千佳子も加奈子と同じく、昭利を愛しているのだろう。

 千佳子の言動の端端から昭利への恋慕が読み取れて、そんなとき加奈子は千佳子の方へ目を合わせることができなかった。

「ええ。少なくとも千佳子に比べたら元気よ」

 加奈子は窓の外を見つめて、そして再び千佳子の方に顔を向けた。

 少しからかうように言うと、千佳子も「もう」と少し頬を膨らませながらも笑っていた。

 なんとか笑えている、と千佳子は思った。

「あら」

 そのとき、窓に目を向けていた加奈子が何かに気づいたような声を上げた。どうしたのかしらと千佳子は思ったが、窓の外を見て、千佳子も自然と声が漏れた。

「雨だわ」

 気づけば照っていた陽は完全にどこかへと隠されて、空は一面灰色に染まっていた。そしてその灰色の煙から、ぽつりぽつりと水が滴る音が近くで鳴るとともに勢い良く雨粒が地上へと叩き付けられる音が聞こえて来た。

 まるで今の自分の心境を表してくれているようだと、千佳子は心の隅で思った。

 強くなることはあれども弱くなるようには見えないその勢いに加奈子は空を見え上げて「困ったわ」と呟いた。

「朝の予報だと晴れのち曇りだったのに」

 この時期の典型的な夕立ならすぐに止むかもしれないが気象の知識を持たない加奈子にそれを判断することは出来なかった。

「お姉ちゃん、傘持って来てないの?」

「ええ、そうなのよ」

 千佳子の問いかけに、加奈子は頷く。

 この病院までバスで来た加奈子は、ふと帰りの時刻表についてを思い出した。すぐに出れば予定よりも数本前のバスに乗れるだろう。雨が酷くなる前に早めに帰るのも手かもしれない。

 しかし、加奈子は千佳子との時間を短くはしたくなかった。

 実は最近、昭利と千佳子の距離が近づいているように感じられていた。もしかしたら、私が帰った後に、昭利は千佳子と密会しているのではないか?

 そんな突拍子もない仮定が、近頃加奈子の頭から離れることはなかった。だから、なるべく千佳子と一緒にいて、千佳子と昭利がいる時は、そこに自分も居合わせておきたかった。

 いくら好き合っていたとしても、今は私の恋人だ。千佳子に譲りたくはない。

 それに、夕立だったならば帰る予定の時間にはすっかりあがっている可能性も十分にある。

 もはやラジオのノイズを聞いているかのような雨音になった外の景色をぼおっと眺めながらさあどうしようかしらと考えていると、不意に個室の扉が横に開けられた。

「やあ、どうも降ってきたね」

「昭利さん」

 病室の扉を開けて、入って来たのは昭利であった。加奈子が驚いたように声を上げる。

「来れないんじゃあなかったの?」

「予定が変わったんだ。結局、遅れちゃったけどね」

 昭利は軽く笑いながらそう答えて、頭を掻いた。そして千佳子の方を見つめて手を振る。

「千佳子。体調はどう?」

「大丈夫よ、昭利さん。ありがとう」

 千佳子と昭利のやり取りを見て、加奈子は一つ息を吐きながら千佳子の頭を撫でた。

 やはり帰らなくてよかった。心から加奈子はそう思った。

「ちょうど良かったわ、昭利さん。この雨だから帰るとき送ってくれないかしら」

 昭利は「ああ、もちろん」と答えながら加奈子の肩越しから窓の外の風景を眺めた。外は相変わらず灰色に染まり、ラジオのノイズのような音が聞こえてきた。

 千佳子はそんな二人のやり取りをただ黙って見つめていた。短いやり取り。時間にして十秒あるだろうか。しかしその僅かな間だけでも、この二人が長い年月一緒に居たことが簡単に分かるだろうと思った。もちろん、千佳子も昭利との付き合いは長い。

 しかし、加奈子と昭利との間と比べると、どうしても超えられない壁があるように感じるのだ。

 もし、お姉ちゃんが早く帰っていれば、昭利さんと二人きりの時間が過ごせたかもしれないのに──。

 そう心の中で千佳子ははっきりと呟いた。

 最近、たまに千佳子と昭利は二人きりで会うことがあった。昭利が千佳子の病室に一人こっそりと訪れるのだ。

 しかし加奈子は、千佳子の見舞いが終わると、いつでも二人きりになれるのだ。そう考えると、千佳子の胸の中には、持病とは違ったくすぶりのような違和感が襲った。

 もし、こんなに身体が弱くなければ。もしこの姉のように身体が健康ならば。いつでも昭利と二人きりになれるのに。

 お姉ちゃんになりたい。

 千佳子は、心の底からそう思った。

 そして、こうも思った。

 それか、お姉ちゃんが私のようになればいいのに──。


 千佳子との面会時間が終わり、加奈子は昭利とともに千佳子の病室から静かに退室した。外は、一時期よりは少し収まったものの、相変わらず雨は降り続いていた。

「千佳子、今日は体調が良さそうで良かったな」

 なんとなしに思ったことを言ったのだろう。そんな昭利の言葉に加奈子はちらりと昭利の顔を一瞥し、そして「そうね」と小さく言って再び顔を前に向けた。

 どのような顔をすれば良いのか、分からなかった。

 やはり、昭利の心を真に掴んでいたのは、加奈子ではなく千佳子なのだと言われているような気さえした。そして、それは事実なのであろう。

 どれだけいっしょにいようとも、何を経験しようとも、彼の心を真に占めていたのは彼女であった。昭利は加奈子の姿の先に千佳子を見ていたのである。

 この決定的な差はなんなのかしらと加奈子は思った。

 もし私も身体が弱ければ。彼は私の方に心を傾けてくれていたのだろうか。

 私は千佳子ではない。それは分かっている。では、私は何が千佳子と違って、加奈子なのだろうか。

 同じ歩調で、病院の廊下を歩いていく。やがて突き当たりのエレベーターの前にたどり着き、乗り込んだ。

「昭利さん」

 エレベーターパネルの一階のボタンを押して、加奈子はぽつりと言った。

「私、千佳子になりたいわ──」

「加奈子……」

 落下していくような重力の変化を感じながら、昭利はそっと加奈子の空いていた右手を繋いだ。

 昭利の手の温度を感じながら、このとき、加奈子は一つのことを考えていた。


 それからほんの一週間後の出来事であった。

 加奈子が亡くなったのである。

 見通しの悪い道路で車に撥ね飛ばされ、その時に頭を強く打ち付けたのがいけなかった。病院に運ばれた時には既に手遅れであった。そして、この出来事はすぐさまに大変不幸な事故として処理された。

 しかし、加奈子は生前に、ある準備をしていた。

 自分がもし万が一死んでしまった時に自分の臓器を千佳子に与えることが出来るよう、ドナー登録をしていたのである。加奈子の身体は脳以外の臓器、特に心臓には目立った外傷はなく、双子ということもあって千佳子との適合もほぼ完璧であった。

 千佳子は最初こそは渋っていたが、昭利の説得もあって、心臓移植に同意した。

「千佳子、調子はどうだ?」

 昭利は病室で、手術の終わってしばらくが経った千佳子にそう語りかけた。

「なんだかね……不思議な気分」

 そう言って、千佳子は自身の胸にそっと手を当てた。その掌から、心臓の鼓動が伝わってくる。動いてる、姉の、加奈子の心臓が。

「お姉ちゃん……」

 千佳子はその心臓に語りかけるように、口を開いた。

「……ありがとう」

 そして、そう、一言だけ言った。

 昭利はその千佳子の両の手をそっと包み込む。

「千佳子。──加奈子の分まで必死に生き抜いて、そして加奈子の分まで幸せになろう」

 千佳子は一瞬呆けるように昭利の顔を見つめたが、やがてそっと顔を俯かせた。

「──ええ」

 千佳子は顔を上げて顔を綻ばせて言った。

「ありがとう、昭利さん」

 その笑顔は間違いなく、──のものであった


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