神社
明日香の家の裏には小さな神社があった。
この神社は、いつ、誰が、何の神を祀るためにつくったのか全くの不詳である。それどころか、名前すら無い。いや、あったのかも知れないが、少なくとも神社の周りにはそれを示す物が無い。ただ賽銭箱やら鳥居やらが、ここが神社であることを指すのみ。だから、現在高校一年生の明日香は、昔からその神社のことを、特に捻りもなく「裏の神社」と呼んでいた。
裏の神社には、ある言い伝えがあった。何でも、十代の人間が五千円札に願いを書いて賽銭箱の中に入れお参りするとその願いは確実に叶うらしい。華々しい、というわけでもない内容だが、若い娘に人気がありそうではある。しかし、明日香自身それを知ったのはつい先日の母との会話の中であって、あまり知られていることではなかった。
「神社って何だか神秘的だけど、最近はそういうことに興味がない子も増えてきたのよ。経済不況のこともあるし、わざわざ都市伝説めいた言い伝えに五千円も掛けられないのね。それにほら、おまじないとかって他人に言うと効果が薄くなっちゃいそうじゃない?」
母がそう言っていたのを思い出し、明日香もまた妙に納得した。高校でも流行るおまじないといえば「好きな人の名前を書いた紙を誰にも知られず持っていると両想いになれる」など、かなりの確率で「秘密」や「内緒」がついて回る。つまるところ、そういうことなんだろう。
もしかして、お母さんもやったのかと聞くと、母は照れたように、自身の気に入っている白梅の香水の香りを漂わせながらくすりと笑っていた。
ある日の放課後、帰宅部の明日香はそのまま家に帰らずに裏の神社に向かった。 理由は至極簡単、試してみたくなったのである。あの言い伝えの真偽を。普段の明日香ならそんなことはしないのかも知れないが、彼女には、それを叶えたらしい母という存在が身近にいる。どんな願いなのかと聞いても答えてはくれなかったが。
高校生には少し値が張るのも事実。しかし、こうなると十分試してみる価値はある。明日香は好奇心と高揚感、少しばかりの緊張を抱いたまま五千円を握りしめる。まだ何も書いてはいない。着いてから書こうと思っていた。
神社に着いた。石造りの灰色の鳥居をくぐり抜ける。その時に、鳥居の柱についた二本の傷が眼に入ったが、明日香は特に気に止めなかった。
賽銭箱の前に来てようやく、明日香はスクールバッグから筆箱を取り出した。中を漁り、黒のボールペンを選んだ。明日香の好きな色は黄緑だったけれど、この空間でそれを選ぶことはしなかった。
明日香は、そのボールペンをノックし、お札にあてがった。ただ真偽を確認したかっただけの、今現在特に強い願いごとのない明日香は少しためらう。とりあえず、成績が上がりますようにとだけ書いた。神社の雰囲気に圧倒されたのか、自分のしていることが背徳的であるかのようにすら感じてしまう。 そして、いざ、賽銭箱に入れようとした時のことである。
一瞬の出来事。明日香は、自分の意識が遠くにいくのを感じていた。痛みはまるでない。が、視界がぼんやりとしてくる。身体は今にも崩れ落ちそうだ。貧血などとはまた違う、奇妙な感覚。そして、霞む視界の範囲に映る、二人の人影。
男と、女、だ。だが、何かおかしい。二人とも、服装から何から、明日香達の慣れ親しんだものとは違う。もっと詳しく見ていたかったが、もう、視界は閉ざされた。遠くから、誰かの声が聞こえる。
「……絶対に、お前を迎えにいく」
「はい……。待っています。必ず……」
それは、きっとあの二人の声なのだろう。明日香はそう考えながら、何か花の香りがすることに気が付いた。それには、憶えがあったけれど、思い出せなかった。
そして、明日香の意識は、断絶した。
眼が覚めると、明日香は自分の部屋のベッドの上にいた。何気なく窓の外を見ると、月が高く昇っている。起きた直後で安定しない頭の中が次第に鮮明になるうちに、先ほどの出来事を思い出した。夢だったのか、と思ったが、隣には母が困ったような顔つきで座っていた。その手には、一枚の紙幣。
「……明日香ったら、試したのね、あの噂」
夢ではなかった。小さな声で謝ると、母は細く白い指で明日香の髪を撫でた。その時、母の白梅の香りが漂い、明日香は全てを理解した。
「お母さん」
「何?」
「あの神社は、恋人の為のものなんだね」
「……そうよ」
微笑んだ母の顔は華が舞うようで、娘の明日香ですら、可愛らしいと感じた。
「私ね、不思議なものを見たの」
明日香は、今日起こったことを一つ一つ丁寧に話した。いきなり気が遠くなり、二人の男女が見えたこと。その男女が、再会の約束を交わしていたこと。
「あの二人は、互いのことを思いやって、神社に願掛けしたんだよね。それにきっと、柱に印をつけたのもあの二人。それとね」
明日香は瞬きを一回して、母の方を向いた。
「……あれは、きっと私のおじいちゃんとおばあちゃんだよね。お母さんと同じ、白梅の香りがしたもの」
そこまで言うと、明日香も何となく笑った。母は、一滴だけ、静かに涙を流す。
「あなたの言うとおりよ、明日香。あなたのおじいちゃんとおばあちゃんは、昔あの場で別れたの。そのまま、再会することはなく、既に身籠っていたおばあちゃんが私を産んだのだけど」
母は寂しそうに笑う。
「おばあちゃんは、白梅が好きな人だったわ。だから私も好きになったの」
あなたにも、いつか分かるときが来るわ。そう言って、母は部屋を出ていった。
きっと、あの二人は幸せだったのだろう。会えない苦しみが全てではなく、神社という存在が二人を繋ぎ止めていた。
明日香は、白梅の花言葉を調べ、そんなことを考えた。そして、私にもし好きな人ができたとしたら、その時はあの神社に行こう、と決めた。そうすれば、母の言った言葉の意味が分かるのかもしれないと。
白梅の花言葉、「気品」。
私の恋が白梅の咲き誇るようでありますように。そう願いながら、明日香は眼を閉じた。