ウサギさんと攻防戦
響 (ひびき)が死んだ。
それは、響が私を一方的に詰って、部屋を飛び出していった直後の事だったという。
彼は亡くなったのだという事実を、私は彼の実家で行われた葬儀の日に、初めて知ったのである。
「……出て行け! お前のような恥知らずにやる金なんて、生憎と一銭も無い!」
そんな罵倒と共に、私はその屋敷を叩き出され……ただ呆然と、途方に暮れるしかなかった。葬儀には不釣り合いなごく普通の外出着である装いを隠すように、人目を避けて。
ただ、その時の私は自分の境遇を嘆いてシクシクと涙に暮れたりはしなかった。無意識のうちに自らのお腹に手をあてがい、自分の中から沸々と、強くあらねばならないという思いが漠然と湧き上がってくるのを感じていた。
……大丈夫、私は独りじゃない。絶対にママが守ってあげるから、安心してね。私の赤ちゃん。
「あ、今上がり?」
両親の助けを借りながら、商社で平凡なOLとして働きつつ、可愛い一人娘の母として細々とした生活を送っていた坂口理奈 (さかぐち・りな)はある日、勤め先の先輩にあたる長谷川公宏 (はせがわ・きみひろ)から仕事帰りに一階の玄関ロビーで、すれ違いざまに声を掛けられた。
「はい。お疲れ様でした」
失礼には当たらない程度に素っ気なさすぎず、かといって好意的だと捉えられないよう愛想を振り撒きすぎず。勤め先の男性には、常に誰に対してもビジネスライクでつかず離れずの態度を貫く彼女。
そんな理奈へ、取っつきにくいと感じて遠ざかる多くの男性陣の例に反して、積極的にアピールしてくる数少ない例外。それが彼、長谷川公宏だった。
理奈が思わず微笑ましく感じてしまうくらいに、長谷川の言動は実に分かり易い。
そんなので営業なんて勤まるのかと人事ながら心配になってしまうほど、長谷川は顔にも態度にも理奈への好意を前面に出してくる。
「それなら坂口さん、良ければこれから一緒に飲みに行かない?」
「いえ、せっかくのお誘いですが、用がありますので失礼します」
いつものように、積極的に誘ってくる長谷川にすげなく断りを入れて会釈し、理奈は足早にロビーを抜け出る。
玄関の自動ドアをくぐって数歩、それからこっそり振り返って背後の様子を窺い、理奈はたちまち後悔した。決まり悪げに頬をかいていた長谷川とバッチリ目が合った挙げ句、にっこりと満面の笑みを浮かべながら手を振られてしまったからだ。
気がつかなかった振りを装い、理奈のパンプスはコンクリートの道路を記録的な速さでカツカツと踏み鳴らしながら踏破していくが、もしかしたら長谷川には理奈の表情から何かを読み取られてしまったかもしれない。
そう、理奈もまた、長谷川を憎からず思っているという自覚を、彼女自身抱いていた。
何故ならば、退勤後の個人的な食事やお酒の誘いにただ一言「家で娘が私の帰りを待っていますから」と、そう言ってしまえば。そうしてしまえば、長谷川は理奈に興味を示さなくなるかもしれないのだから。
ほぼ間違いなく、大多数の男性は子持ちの女性に食指を動かされない。
別にそう、シングルマザーである事を社内で大声で喧伝している訳ではないが、必死に隠し通している訳でもない。
彼は恐らく理奈に咲来 (さら)という名の可愛い盛りの娘がいる事を知らないのだから、これから先も長谷川から誘われたくないと思うのならば、言ってしまうべきなのだ。「仕事が終われば私は一人娘の母親で、男性と遊んでいる時間なんてありません」と。
仕事と子育てを両立させようと思えば、理奈には女性としての楽しみや遊びを追求する時間など、無いのだ。
「ま~」
「ただいま、咲来ちゃん」
会社から地下鉄に乗り、揺られる事一時間。駅から住宅街を通り抜けてようやく到着した自宅のドアを開けるなり、よちよちと壁づたいに歩いてきた愛娘を抱き締めて、理奈はひとりごちた。
(何を躊躇っているの、理奈。
響から責め立てられようが彼の実家から詐欺師呼ばわりされようが、私は私だけの娘として咲来を立派に育てると決めたじゃない)
そうやって、長谷川になかなか娘の事を打ち明けられないまま、中途半端な態度を取っていたある日。
理奈は休日に咲来を連れてデパートを訪れていた。滅多に遠出をしない咲来は、理奈の腕の中であちこち物珍しそうに目をやりつつ、歓声を上げている。
これから先、こういった場所へも頻繁に連れてくる事になるのだとしたら、走り回るようになった年頃が今から心配だ。腕から下ろして目を離したら、間違いなくどこかへ駆け出して見失ってしまうわよ、と、母から笑い含みに言われていたが、この咲来の様子を見るとあながち大袈裟だとは思えない。
「咲来、まずはお買い物をしてから、帰りにお菓子にしましょうね」
いつも娘の育児で世話になっている理奈の両親、その父の誕生日に贈り物をしたいと、休日は奮発してデパートに足を運んだ。
咲来はお菓子屋や料理屋、オモチャ屋や服屋など、とにかくありとあらゆるスペースに興味を示して「あれ見たいこれ見たい」と、全身で訴えてくる。
そんな娘を宥めながらデパートのベビーカーに咲来を座らせて、それを押しながら店内を見て回る。
しかし、ふと静かになったなと咲来の様子をよくよく見てみると、盛んに服の袖を噛んでいる。
「咲来ちゃん、お腹空いちゃったのかしら?」
「すー」
「あら、それじゃあお昼にしましょうか」
「え、もしかして坂口さん?」
賑わうデパートで休日の昼下がり、そうやって娘と二人和やかに過ごす筈だったのに。
紳士服売り場を物色しながら、そろそろランチにしようかと娘と相談していた理奈へ、こんな場所で耳にする筈がない声が不意に飛び込んできたのだった。
「……長谷川、さん……?」
咲来と二人で居るところを見られた……大事な大事な自慢の娘であり、愛おしみ慈しんで育てているというのに。理奈の胸には、長谷川に目撃されてしまったという衝撃と後悔が湧き上がってくる。
「……え、その子……坂口さんの、親戚の子?」
「あ、いえ」
「ま~ま!」
誤魔化すつもりも、嘘をつくつもりもなかったけれど。咲来の喚き立てるような催促の声が被さってきて、理奈は慌てて娘を抱き上げた。
長谷川の顔を正面から見返す自信も無く、彼が理奈と咲来へどんな表情を向けているのか確かめる勇気も無い。
「すみません、娘がお腹を空かせているのでこれで失礼します」
自然と、俯きがちで早口で暇を告げていた。理奈はとにかく長谷川からの目や反応が恐ろしくて、一分一秒でも早く、この場から立ち去りたかったのだ。
だが、踵を返そうとした彼女の肩を、長谷川は「待って」と掴む。
「その、これから話せないかな? 俺、これ持ってくし!
ランチご馳走するから」
「すー!」
理奈が逃走速度を上げる為、その場に放棄する気満々で通路に乗り捨てたベビーカーの持ち手をもう片方の手で掴み、長谷川は顔を覗き込んでくる。
断りを入れようと口を開きかけた理奈の声を、またしても遮る形で咲来が歓声を上げた。近頃とみにお喋りになってきた彼女の愛娘は、何気に食い意地も張っている。
「はは、よし、美味いもんご馳走するから、お兄ちゃんに任せてくれ!」
恐る恐る、見返した長谷川の顔は。少なくとも理奈の事を、気を持たせて弄んできた悪魔だと、そう詰っているようには見えなかった。
娘の熱意と長谷川の珍しい強引さに根負けする形で、理奈はデパート内のファミリーレストランに来店する羽目になっていた。お子さまランチの写真に目を奪われ、熱心にそれをねだる咲来の頭を撫でつつ、理奈は適当に今日の日替わりランチを注文。
「何でも好きなものを頼んで!」と、太っ腹な発言をする長谷川に、理奈は少しだけ安堵した。少なくとも子供の喜ぶ店を迷わず選び、咲来の事をはっきりと邪魔者だと邪険にせず、尊重している姿勢を示してくれたのだから。
お子さまランチのライスに刺さっていた旗を楽しげに振り回す咲来に目を細めつつ、長谷川はおもむろに……理奈に向かって、「ごめん」と頭を下げてきた。
「え?」
「本当にごめん、坂口さん。
俺、坂口さんに娘さんがいるなんて知らなくて……」
別に、長谷川とは正式に交際などしていなかったにも関わらず、どうして今自分は、彼から別れの言葉にしか聞こえない台詞を告げられているのだろう……と、理解が追い付かない現状に軽く放心し、それはやがて彼女の胸に、侮辱されているかのような不快な感情をもたらした。
だから理奈は、自らのプライドにかけて猛然と抗議をしようとした。しかし、憤りから適切な単語を捻り出すよりも早く、長谷川は言葉を続ける。
「家でこんな可愛い娘さんが坂口さんの帰りを待ってるなら、俺がちょくちょく仕事帰りに食事や飲みに誘ったりしても、迷惑なだけだよな……
知らなかったとは言え、無神経でごめん」
「……は? あ、いえ……」
しかし、長谷川は理奈の予想斜め上からの角度でスライディング謝罪をかましてきた。
苛立ちをぶつけようとしたところで、出鼻を挫かれた挙げ句意表を突かれる形になった理奈は、しどろもどろに「打ち明けていなかったのは私の方だから」と、むしろ私の方が黙っていてごめんなさいと謝罪しなくてはならない空気だ。
「じゅー?」
「ええ、そろそろ食後のデザートをお願いしましょうね」
そこへタイミング良く、旗を存分に振り回して満足したらしき咲来が、恐らくは甘い物を飲みたいと言い出す。彼女の手はメニュー表を示しているから、間違い無いだろう。
理奈は咲来に向かって頷き、賢い娘は大喜びでテーブルの上に備え付けられていた店員呼び出しボタンを連打した。お昼時で賑わうファミリーレストランの店内に、BGMと混じってピンポーンと穏やかな音が流れる。
ファミリーレストランなんて、外食は殆どさせた事がない筈なのに、この順応性の高さ……理奈が昼間働いている間に、母は咲来をあちこちへ連れ回していたのだろうか。
「そ、それで坂口さん」
「はい」
思いがけない形で長谷川に秘密がバレ、虚脱感さえ感じ始めてきた理奈は、なるようになれとばかりに彼に向き直った。
この上、長谷川はいったい理奈に何を望むと言うのだろう。
「ディナーやお酒じゃなくて、その……ランチなら、またご一緒してくれますか?」
「はい?」
「あ、そのもちろん、休日デートは昼間、咲来ちゃんも一緒に!」
だから、あの、と、キョトンとした表情で見返してくる理奈に、長谷川は頬を染めながらあうあうと言葉を探し、意を決したのか頬を引き締め彼的に決め顔らしき表情でキリッと彼女を見据え、
「だからつまり坂口さんも咲来ちゃんと、俺と結婚して下さい!?」
一思いに叫んだ台詞によって、ざわめいていた周囲の客席さえ、一瞬にして静まり返った。
咲来は届けられた子供用サイズのオレンジジュース、その噛んでいたストローから口を離し、不思議そうに長谷川を見上げる。そんな娘の頭を撫でてやりながら、理奈は長谷川に疑問を投げかけた。
「……咲来と私の、二人と結婚なさりたいのですか?」
「えっ!? ま、まままま、間違っ、言い間違え、今のナシで! やり直しで!」
何やら気ばかりが焦り、段取りをすっ飛ばした挙げ句に決め台詞まで台無しにしてしまったらしき長谷川に、理奈は堪えきれずにクスクスと笑みを漏らしていた。
そして、「はい」と頷く。
「はい、良いですよ」
「あ、じゃ、じゃあ初めからもう一回……!」
「結婚しましょう?」
「坂口さん、良ければ俺と……え?
……マジ?」
どうして、そんな事を言い出したのか。
長谷川のうっかりプロポーズに、イエスと答えるだなんて。
しかし、理奈は自分の決断を、決して後悔なんてしていない。
「ねえ、公宏さん。
あなたは、私に咲来という娘がいる事に、戸惑ったり嫌な気持ちになったりしなかったの?」
「どうして? あんな可愛い娘が出来るなんて、俺はなんてラッキーなんだ! って思ったけど。だから未だに、『おぢちゃん』としか呼ばれないのは何気にショックだ……
俺、咲来ちゃんにはもう、一目惚れしたね! あ、変な意味じゃないから!?」
「早く『パパ』って呼ばれると良いわね」
「……うん。切実に」
……例え彼が、産まれてくるのを心待ちにしていた二人目の娘の顔を見る前に、事故によって先立ってしまった今でも。
理奈は決して、長谷川と結婚した事を、悔やんだ事など一度も無いのだ。
「ママ、おはよう! もうあさだよ」
しっかり者の長女として育ちつつある咲来は、朝の目覚まし時計が鳴るより早く、理奈を揺り起こした。よほど今日という日を楽しみにしていたらしい。
今日は、待ちに待った咲来の小学校入学式。
ついこの間まで咲来は赤ちゃんだったのに、時間の流れとは本当に早いものだ……と、感慨に耽る暇も無く、理奈はバタバタと朝の支度を整え、咲来と二人目の娘である佳音 (かのん)に朝食を食べさせる。
おニューのランドセルを背負って大張り切りの咲来と、あちらこちらをよそ見しながらよちよちと歩く佳音の二人と手を繋ぎ、小学校への坂を上る。
その日もそう、とてもいい天気だった。そこで待ち受けている人物との邂逅をチラリとも感じさせない、麗らかな小春日和であったのだ。
(……嘘でしょう?)
入学式の会場、その人混みの中で『彼』を見掛けた時。理奈は一瞬、よく似た他人の空似だと思い込もうとしていた。
それが既に、無理がある自己暗示だったとしても、だ。
しかし、腰が抜けるほど資産家の『彼』の子供が、私立の有名校などではなくこんな市立の平凡な小学校に通うだなんて、そんな事がある筈が無い。
だが、必死に自分に言い聞かせている理奈に、『彼』は目を留め……ツカツカと、彼女に向かって歩いてくるではないか。理奈は佳音を両腕で抱き上げて、ぎゅっと抱き締めた。
『彼』は佳音にチラリと視線を向けてから、すぐさま興味無さそうに理奈の顔へと焦点を合わせ……幾度か瞬き、何かを思い出そうとするような素振りを見せたが、足を止めずに彼女とすれ違い、何か声を掛けるでもなくそのまま歩き去ってゆく。
理奈は知らず知らずのうちに止めていた息を、ゆっくりと吐き出した。
「ママ、どーしたの?」
「何でもないわ、佳音ちゃん」
母の異変を敏感に感じ取ったのか、腕の中の佳音は訝しげに理奈の頬に手を伸ばしてくる。
娘を安心させようと笑みを浮かべてみせたが、自分でも分かるほどぎこちないものになってしまった。
「ママーっ、おまたせ!
いこういこう!」
佳音は僅かに眉をしかめて何かを言い掛けたが、駆け寄ってきた姉の姿を認め、口を閉ざした。理奈は咲来に手を引かれるまま歩き出す。
何となく、背後から強い視線を感じたような気がして、振り返った。
理奈はすぐさま、見なければ良かったと後悔した。彼女に気がつかぬまま、もしくは無視して立ち去った筈の『彼』が、目を見開いて理奈を……否、咲来を凝視していた。
娘達を寝かしつけた夜半。
明日学校へ持ってくるよう案内があった雑巾を縫っていた理奈は、些か非常識に当たりそうな時間にも関わらず、鳴り響いた携帯電話の音に首を傾げ、針を置いた。
こんな時間にいったい誰だろうと訝しみながら、折り畳み式のそれを開いて発信者の氏名を確認してみるが、見た事も無い番号が表示されている。未登録の相手からの、夜間電話。果たして出るべきか、出ないべきか。
緊急連絡かもしれないと思い立ち耳に当てると、
「……今晩は、お久しぶりですね、長谷川さん?」
昼間思わぬ所で顔を合わせた『彼』……宇佐木優 (うさき・まさる)の声だった。
ドクンと、理奈の胸は緊張感から激しく脈打ちだす。
「……今晩は。宇佐木さん、どうして私の携帯番号をご存知なのです?」
宇佐木優氏と会話を交わしたのは七年も前のあの葬儀の日のみ、それも、決して友好的とは言い難い対応で殆ど門前払いに近かったのだ。連絡先を教えたりなどしてもいないし、受け取らずに丸めて捨てられるのがオチだったろう。
電話越しにも、無駄に滑舌が良く聞き取りやすい低音な声を持つ優は、低く短い笑い声を漏らす。
「どうやら君は気がついていないようだが、君の娘と私の息子は同じクラスでね。
連絡網に、君の携帯電話の番号が載っていた」
「そうですか」
緊急時に回す連絡網に、確かに理奈は携帯の番号を載せていた。それは台風などの天災で早めに下校させるから子供を迎えに……といった、本当に必要な時に連絡が付かないケースを防ぐ措置だと、納得の上であった。
まさか、優のように個人的事情で使用する保護者がいるとは。
「こんな時間に、どういったご用件でしょう?」
「単刀直入に言わせてもらえば、君の娘……咲来さんか。
あの子は響の娘だな?」
きた、と、理奈は眉を顰めた。
優が関心を示すのはあくまでも、彼の可愛がっていた今は亡き年の離れた弟の響に関連する事柄であり、それを差し引いてしまえば、優にとって理奈は何の値打ちも興味も湧かない路傍の石に過ぎないのだろう。
「違います」
「何?」
理奈は自分でも、驚くほど冷淡な声で即座に否定していた。
「見え透いた嘘は時間の無駄だ。いったい幾ら欲しいんだ?」
「宇佐木さんこそ、人を侮辱するのも大概にして下さい。
私はあなたにお金を要求した事など一度たりとてありません。あなたが勝手に私がお金の無心に行ったと思い込んで、お金で解決しようとしてるだけじゃないの」
夜という事もあり何とか声量は抑えたが、二度に渡る子供をお金を生み出す道具としか見ていない女扱いをされて、怒りで手がぶるぶる震えてくる。
「金じゃないとしたら、いったい君の目的は何だと言うつもりだ」
「何も。何もありません。
あなたは、咲来が響の娘だとは認めないと断言した。そして響は……」
理奈にとって、響の遺言のような形になってしまったその一言は、出来れば口にしたくはない言葉だった。けれども、だからこそ彼ら宇佐木家には絶対に関わらず娘にも知らせずにおこう、と決心が固まったのだ。
「妊娠した事実を伝えた私に、響はこう言いました。『俺の子供なんかじゃない。俺の子だと言い張るなら、今すぐ堕ろせ』と」
「……」
流石に言葉を失ったのか、電話の向こうが沈黙した。
「咲来を『要らない』と、断固として棄てたのはそちらです。
例え遺伝的に響が関わってこようと、咲来を守り育て、慈しんで愛情を注いだのは私の夫の公宏です。
咲来の父親は、公宏ただ一人しかいません」
「……私に、伯父としての権利は無いと言い張る気か?」
「何年も前に一度棄てたのです。今更拾い上げようとして、出来ると思うのですか?
今まで通り、無関係でいて下さい。私の望みはそれだけです」
頑なに優に関わって欲しくない、と言い張る理奈に、電話相手は深々と溜め息を吐いた。
「それは無理というものだ。
あの子は未来永劫響の娘で、私の感情も理屈も、咲来を見放す事を良しとする事は無い。
……今夜のところはこれで失礼する。だが、響の娘がいると知った以上、私は諦めない」
一方的な宣言と共に、無情にも通話は切れた。
震える手で携帯を閉じて充電器に挿した理奈は、足音を立てないように、そっと隣の部屋に向かった。
理奈が娘二人と暮らしているアパートはとても狭く、個人の部屋すら無い。玄関を開ければ三和土の向こうはもう台所で、狭いその通路が廊下代わりであり、後はお風呂とトイレ、そして片隅に仏壇が据えられた居間兼寝室があるのみ。
眠っている子供達を起こさないよう、夜間に針仕事をするにも台所の流しの前に椅子を運んで静かに黙々と作業するしかない。
ちゃぶ台が片隅に寄せられ、二つの布団が並んだ室内では、ぴったりと寄り添ってすやすやと健やかな寝息を立ててあどけない寝顔を見せている、彼女の可愛い娘達の姿が。
理奈は布団の傍らに膝をつくと、咲来の頬にかかっている髪をそっとよけた。
咲来は本当に、生まれた時から響によく似ていたが……あの優が驚愕し、何らかの検査を受けずとも響の娘だろうとすぐさま深く確信するほどに、瓜二つに育っていた。
ついに、理奈が密かに恐れていた事態が起こってしまうのだろうか。
(どんなに拒否しても、宇佐木さんがこの子の血縁者である事は覆らない事実……
もし、もしも咲来を奪われてしまったら)
理奈は細々とした暮らしを送るシングルマザーで、あちらはお屋敷に住む大富豪夫妻。
狭い家に住み、食事も質素でおやつだって満足に作ってあげられない。近所の人からの厚意で頂いた、お下がりの服やおもちゃで過ごす娘達は、文句の一つも言わない。
……否。理奈との暮らしは、まだ幼いこの子らが、母を気遣って子供らしいワガママさえ言い出せないような、そんな遠慮を覚えてしまう環境なのだ。それは娘達にとって、どれほど強いストレスを与えている事だろう。
物質的な豊さが即、幸せだとは思わない。けれども、貧しい暮らしで子供達に辛い思いをさせているのも、また事実。
優がその気になれば、豊富な人脈や財力を活用して理奈へ母親失格の烙印を捺し、彼が正式に咲来の保護者としての立場を獲得する事も容易いだろう。
今日まで、優は咲来の存在を知らなかった。いや、正確に表現すれば、『坂口理奈の子、咲来の遺伝的父親が響である事』を偽りだと決め付けて、理奈共々その存在を気にもとめていなかった。
(そうだと認識された以上、これから私達はどうなってしまうのだろう……)
ただ穏やかに、幸せに暮らしていきたい、それだけが望みなのに。
それからの毎日は、不気味なほどに平和な日々が訪れていた。あの夜、一方的な電話を寄越して以来、優からは何の音沙汰も無いまま、時間だけが過ぎてゆく。
理奈の知らない間に、優が勝手に咲来へ接触を図ったりしていたら一大事と、さり気なく咲来から毎日の様子を聞き出しているのだが……
「もう、きいてよママ!」
「あらあらどうしたの、咲来ちゃん?」
「となりのせきの、うさきショーとかいうやつが、すっごいなまいきでムカつくの!」
いったいどこで、娘はこんな言葉を覚えてきたのだろうと、理奈は内心首を傾げつつ、具体的に何があって、ケンカでもしたのだろうかと先を促してみる。
「きゅうしょくでね、あたしがいちばんあとにたべようとおもってのこしてたシューマイ、バカショーが『さらがたべないなら、おれがくってやるよ』とかいってよこどりしたの!」
「まあ、それはびっくりね」
母の贔屓目かもしれないが、我が娘ながら、咲来は実にお喋りが上手い。自分の考えている事と、体験した出来事を人に報告する際に、分かり易く時間経過推移に沿って筋道を立てて発言し、起承転結に破綻もみられない。
そんな子だから、優や彼の手の者が接触してきたなら、必ず母である理奈に報告する筈なのだ。だがしかし、今のところ咲来からはそんな話はチラリとも聞かない。
「きっとその翔 (しょう)君は、大好きな物を最初に食べて、大嫌いな物を残しちゃう子なのね。咲来がシューマイを嫌いなのかもしれないって、勘違いしたのかもしれないわ」
好きな物だから最後に食べるの、って言ってみたらどうかしら? と、アドバイスをする理奈に、咲来は頬を膨らませながらも頷く。どうやら、好物を取られたその場は問答無用で喧嘩になり、翔の真意も咲来の怒りも互いに不透明なまま帰宅してきたらしい。
毎日毎日、小学校から帰ってきた咲来曰わく『となりのせきのバカショー』君の話題は、尽きることがない。どうやら、本人達もその血縁関係を知らないまま、仲の良い友人としての交流が出来たらしい。
明日は仲直りしてくれると良いけど。理奈はそう、心の片隅でひとりごちた。
その後もやはり、優からは何の連絡もなく……
優はもしかして、息子をけしかけて咲来の様子を探っているのだろうか? そんな風に勘ぐりつつも、理奈は小学校の一大イベントの一つ、父兄参観の場に臨んだ。
参観予定の授業より早めに足を運んだ理奈は、先に教室へとやって来ていた咲来のクラスメートの父兄の方々に目礼しつつ、教室に足を踏み入れ……
「ママっ!」
勢いよく咲来に飛びつかれた。まだ授業が始まらない休み時間とはいえ、そんなに理奈の来訪が嬉しいのだろうかと、何だか微笑ましく感じる。
「さら、そのひとがおまえのかあさんか?」
「そうよ。どう、あたしのママはわかくてびじんでしょ!
ママ、この子、あたしのとなりのせきの、うさきしょーくん」
「初めまして、翔君。咲来の母の長谷川理奈です」
「はじめまして、りなさん。
おれはうさきしょう。さらのことは、まいにちおせわしています」
「なんですって!?」
同じクラス、だと散々咲来の話には聞いていた噂の宇佐木翔は、あの優氏の息子という先入観と、咲来の語るイメージに反して、意外と礼儀正しくユーモア溢れる少年だった。
自己紹介を口にしてから、『咲来のママです』とだけただ名乗れば良かったかな、と考えたにも関わらず、翔は理奈を『咲来の付属品』ではなく、一人の人間としてきちんと認識しているらしいのだ。
「翔君、今日もとても元気いっぱいだね。教室でそんなに大きな声を出して良いのかい?」
「とおさん!」
実に仲良さそうに、ポンポンと言葉が次から次へと出てくる掛け合いを始めた咲来と翔。そんな少年に、廊下の向こうから声が掛けられた。
確実に聞き覚えのある声なのに、何か違和感がある……不審に思いながら背後を振り向くと、宇佐木優氏が見た事もないような柔和な笑みを浮かべて、息子の頭を撫でてやっていた。
「とおさん、きょうはしごとはもういいの?」
「ごめんね、翔君。実はまだたくさん残ってて……途中で抜けて来たんだ。授業参観が終わったら、またすぐ会社に戻らないと」
「ちぇー」
理奈は思わず目を見開いて、(誰?)と、内心呟いていた。
彼女の知る宇佐木優氏は、どことなく横柄で傲慢で、にこりともしない無愛想な男だったはずだ。しかし今、理奈の目に映る優は、また仕事かよとばかりに拗ねた顔をする息子に、申し訳なさそうだったりオロオロしたりといった、のほほんとしていて威厳の欠片もないパパな姿である。
校内に、授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。
周囲がざわめきつつも、担任の先生の頑張りによって授業の様相を呈している一年生の教室、その一番後ろの生徒用ロッカーの前で並び、子供達の授業風景を眺める父兄達に混じって、理奈はつい、チラチラと優へ目線を向けてしまう。
翔へはニコニコとした穏やかな笑みを浮かべていた彼は今、理奈も知る無表情に戻っている。
「なんだ?」
先生の「これ分かる人~?」というお決まりの質問に、「はいっ!」「はい!」と、張り切って挙手をする咲来と翔の姿から目線を外さぬまま、不躾な視線を感じたのか優は不機嫌そうに問うてきた。
理奈もまた娘の様子を見守りながら、他の父兄方に聞こえぬよう、ボソリと疑問を吐き出す。
「あなたもしかして……二重人格?」
クッと、隣から嘲るような小さく押し殺した笑い声が聞こえてきた。
「君は私の予想を越える考え方を展開してばかりいるな。
君と息子とでは、対応が変わって何がおかしい?」
「それはそうかもしれませんが……」
その対応が、人格変化を疑うほどに隔たりがあるだけだ。
担任の先生から指名され、元気いっぱいにハキハキと回答していく咲来と翔。その様子に、優は僅かに目を細めた。
「咲来は明るく賢い、いい子だな」
「……ありがとうございます」
彼が咲来を褒めると、それが裏側では何を意味しているのか計りかね、理奈には素直に喜べない。
「……響は」
優は声を潜めて、やや唐突感がある独り言を呟き始めた。
「響は私と年が離れていて、半ば私が育てたようなものだった。
立派な人物に育って欲しいと思い、常に厳しく対応し、しつけ……その結果、弟は私が望んだような一人前には程遠い性格のまま身体だけ成長し、私にいつも反発していた。
そして……早死にした」
淡々としている優の言葉は、理奈の耳にはそれをとても悔やんでいるように聞こえた。
「だから息子さんには、全く異なる父親像として接する、と?」
「少なくとも今の翔は、私を疎んじている様子は無いね」
「あなたという人は、よく分からないわ。別人を演じて懐かれる事が嬉しいの?」
「自分ではない自分の仮面を自在に被れるほど、私は器用ではない」
やはり、宇佐木氏はよく分からない……そう感じている理奈に、優は背を向けた。まだ授業参観の最中だというのに、残してきた仕事に戻らねばならないのだろう。
「私が君を追い返したのは、葬儀の日にあのような服装で現れ、響を偲ぶ思いが全く感じ取れなかったからだ」
「私は響が亡くなった事すら知りませんでした。ただとにかく、急に連絡が取れなくなった響を探して話し合おうと必死だった」
優が去り際に呟いた一言に、理奈もまた静かに答えると、彼はただ「そうか」とだけ呟き、教室を去っていった。
そんな父兄参観でのやり取りを経て、やはりそれからも優からは咲来を寄越せといった要求はこず、どうやら優氏は本当に目が回るほど毎日仕事で忙しいらしい。
小学校の運動会で、佳音を連れて応援に行った際、翔は心底残念そうに「とうさん今日、しごとなんだ」と、咲来に零していた。
「あんたは、お兄さんとおべんとう食べるんじゃなかったの、ショー?」
「行くけど……たすく兄が来る前にまちあわせばしょに行ったら、れん兄がぜってーイヤがらせしてくんだよ」
「ならショーくん、わたしたちといっしょにおひるしよ?」
さり気なく子供らの様子を窺うと、すっかり翔に懐いた佳音の無邪気な誘いに、翔本人はどうやら兄弟達で待ち合わせしてお昼ご飯を頂くつもりらしく、やんわり断っている。
そう言えば、と、理奈はふと疑問を持った。翔からも優の口からも、優の夫人である翔の母の事が話題に上った事は一度もない。
運動会へ父の優は仕事の都合で来れなくなった、と翔は口にするのに、母については何も言及しないのだ。
「またあとでな、さら!」と、元気に走ってゆく少年の背中を見送って、理奈は小首を傾げた。しかし、何を思おうが結局はよその家庭の事情である。
名前すら知らない宇佐木夫人の動向など、理奈が気にするべき事ではない。
それから何年か過ぎ、優は強硬手段を使って咲来を奪おうとする気配も無く、ただ『仲の良いクラスメートのお父さん』という立ち位置のまま、時間だけが過ぎ去っていった。
学校行事で咲来を見掛けるたびに、その成長を微笑ましそうに見守っているとしか思えない姿に、理奈は自分の態度の方が大人げなかっただろうかと、やや不安に思う。
娘達はすくすくと成長し、今や佳音も元気に小学校に通う年齢になったし、咲来は益々響の面差しを強くしつつ聡明さに磨きがかかっている。
そんなある日、咲来はやや不機嫌そうに「翔の家でグループ研究の勉強会があるから、帰りは遅くなる」と、不満げにぶつくさ言いながら出掛けて行った。
咲来は毎日楽しそうに翔の事を喋っているというのに、家に遊びには行きたくないらしい。少し前までならば、理奈としても咲来には宇佐木邸に出向いてなどほしくはなかったが、近頃では優ならば咲来の意に反するような事を強要したりしないのではないだろうか、という方向に気持ちが傾いてきていた。
その日の夕方、先に佳音と二人で食事を済ませた理奈は、携帯の着信音にそれを取り上げた。発信者の氏名を確認してみたが、未登録の見知らぬ番号である。首を捻った。
「はい、もしもし?」
「あ、ママ? あたし。
今これ、翔のおうちの電話借りてるんだ。
でね、帰りは思ったより遅くなりそうなんだ。それで、良ければ帰りは車で送って行くよって、翔のお父さんは言ってくれてるんだけど……」
電話の主は、友人宅にお邪魔している愛娘からだった。
「まあ、それは申し訳ないわ。
ママが愛車で今から迎えに行くから、少しだけ待っていてくれるかしら、咲来ちゃん?」
「ママの愛車で? 了解。
ありがとう、ママ」
「すぐに行くわ」
ピッと携帯の通話を切ると、部屋で大人しくドリルを広げていた佳音が顔を上げた。
「ママ、わたしなら一人でおるすばんできるよ」
「あら、本当に大丈夫、佳音ちゃん?」
「うん。ガス台にはちかよらないし、ママとお姉ちゃんじゃない人が、ママの知り合いでママにたのまれたからって言ってきても、ぜったいムシするからだいじょーぶ」
「そ、そう?」
咲来を迎えに行く間は、佳音をお隣の老婦人に見ていてもらおうか……と、算段を立てていた理奈としては、佳音の『任せてくれたまえ!』と言いたげな自信満々な表情と、ビシッと親指を立てて請け負う姿に、微妙に後ろ髪を引かれつつも、玄関をしっかり施錠して愛車の下へと向かった。
理奈の愛車、年季の入ったママチャリを漕ぎつつ、夕焼け空に思う。
(うちの娘達は本当に……いったいどこでああいう言葉や仕草を覚えてくるのかしら?)
自転車を走らせる事しばし、高級住宅街のど真ん中で、宇佐木邸はその威容を放ちつつ夕陽に染め上げられている。
インターフォンでお手伝いさんらしき人に来訪目的を告げると、玄関へと続く門扉が自動的に開かれた。自転車を押してアプローチに足を踏み入れつつ、ここは相変わらず広いなぁと、場違いな気分に溜め息が出てくる。
玄関のチャイムを鳴らすと、てっきり仕事中だとばかり思っていたこの家の主が、自ら出迎えて下さった。
「今晩は、長谷川さん。
翔やクラスメートと勉強していた咲来さんだが、ずいぶん遅くなってしまったし夕食をご馳走しようと思うのだが、構わないだろうか?」
そして、理奈への挨拶もそこそこにそんな事を言い出す。
そんな厚かましい事は出来ないと断るべきではないか、逡巡した理奈は、しかしつい最近、優に譲歩すべきなのではと考え始めていた事を思い出した。
咲来との接点作りの前に、強硬に立ち塞がるのも申し訳ないだろうと考え直した。
「それは……宇佐木さんのご迷惑でなければ」
「それは良かった。今日はせっかくだから友人達で夕飯を食べたいと、翔が珍しく駄々をこねてね」
あの子が友人を家に招くのも珍しいし、などと楽しげに優は笑い、
「あの子らが食事をしている間に、コーヒーでも如何かな?」
(……しまった。確かに、咲来がここでディナーを頂くなら、その間私は何をするの。
家主が持て成しの義務を感じても、仕方ないのかも)
やはり断れば良かったと早くも悔やむ理奈は、まず咲来と翔の二人と話した後、優に落ち着いた雰囲気のサロンに案内され、程なくして現れたお手伝いさんが運んできたコーヒーを手にとった。
ふかふかのソファーに、美しい庭が見渡せるテラス。頂くコーヒーも、味わい深く薫り高い。
理奈がカップをソーサに戻すのを待って、優が口を開いた。
「近頃、翔は落ち込みがちでね。咲来さんには本当に感謝している」
「翔君、何かあったのですか?」
理奈の問いに、優は意表を突かれたように瞬いた。
「ああ、いや、そうか……咲来さんは、君に話していなかったんだな。
実は、私の妻が先日亡くなってね。翔には大層堪えているようだ」
「亡くなっ……!?
それは、お悔やみを申し上げます」
友人の家庭事情を、咲来は家では口にしようとしなかったが、こればっかりは教えておいて欲しかった。この人の身内のご不幸を知らないで、ズカズカと屋敷に上がり込むのはこれで二回目ではないか。
「いや、私にとって妻は、もう何年も顔を合わせていない、他人にも等しい間柄だった。
薄情なようだが、死んだと聞いてもどこか他人事にしか感じられないんだ」
「……」
それこそ、優の家族でも友人でもない赤の他人である理奈は、なんと言えば良いのか言葉に悩んだ。何も言えない気まずさに、ひとまずコーヒーを啜る。
「おかしな話をしてしまったな。すまない。
ここへ君をお連れしたのは、咲来さんの事についてだ」
「咲来の……」
苦笑しながら話題を変える優に、理奈は心持ち身構えた。
彼が咲来をどうしたいと望んでいるのか、その本心は是非とも把握しておかなければならない。
「長谷川さんは以前、咲来さんと私を関わらせたくない、と言った。
子供のクラスメートの親として、お互い迂遠な関係だが、世間に戸は立てられない。聞こえてくる話も十分にある」
「ええ、その通りですね」
翔が真実、父親である優に懐いていて尊敬しているらしいという印象も。
「長谷川さんは、私が咲来さんの学費を援助すると申し出ても、良しとはしないのだろう?
しかし私は、君にとって、咲来さんに伯父だと名乗り出る事さえ許し難い男なのだろうか」
「それは……」
正直に言って、理奈の中で優の印象は本当に難しい場所に立っていた。
弟や息子を可愛がる気持ちと、どうやら何年も別居していたらしい奥様が亡くなっても、それを悲しまない態度。そして、弟の名誉を穢す詐欺師だと判断した女を迷わず追い出す誇り高さと、自らの不明を恥じて互いの過ちを水に流す大らかさ。
咲来に話してみるべきなのだろうか。彼女のルーツについて。
「私は、咲来さんともっと親しくなりたい。
あの子の成長を、今までより近くで見守っていきたいんだ」
「宇佐木さん……」
真摯に頼み込んでくる優に、理奈の心は揺れ動いた。
と、その時。
「それなら父さん、僕のお願い聞いてくれないかな?」
突如としてサロンのドアがバーンと開き、一人の少年がズカズカと入室してきた。理奈の知らない子のはずなのだが、どこかしら見覚えがあるような気がする。
「何をしている蓮 (れん)、お客様に失礼だろう」
すかさず叱りつける優の言葉に、理奈はああ、と合点がいった。そう言えば、優氏には翔以外にも息子がいて、その内の一人の名前が蓮だったはずだ。
中学生ぐらいに見受けられる蓮少年は、理奈に向かって深々と一礼し、
「すみません、少し気が逸ってしまって。改めまして……こんにちは、初めまして。
僕は蓮。宇佐木優の次男です」
弟の翔がいつもお世話になっています、と、大人の話し合いの場に平然と乱入しながらもニコリと微笑むその姿は、子供らしからぬ堂に入った態度だ。
「今私は、長谷川さんと真面目な話をしている。生憎とお前の冗談に付き合っている暇は無いぞ、蓮」
額に手を当てながら、軽く溜め息を吐きつつ声を絞り出す優に、理奈は(おや?)と首を傾げた。息子の前だというのに、優は例の人畜無害人格を被っていない。
「それと関係する頼み事だよ、父さん。
あのね父さん。理奈さんと再婚してくれないかな?」
蓮が唐突に言い出した『頼み事』のとんでもないぶっ飛び具合に、理奈は危うくコーヒーを吹き出すところだった。
しかし流石は父親、優は蓮の突拍子の無い発言に慣れているのか、理奈のように気管にコーヒーを詰まらせ、ゲホゲホとむせる事なく冷静に反論している。
「仮に私が理奈さんと再婚すれば、確かに咲来さんは私の娘になり、私の望みは十全に叶うが……それを何故、お前が願うのかが分からない」
「実は、佳音ちゃんがギフテッドなんじゃないかと思って。
僕は専門家じゃないけど、精神運動性OEの傾向に感じられる面が……」
「あ、あの」
突如として出てきた次女の名に、懸命に呼吸を整えた理奈は慌てて口を挟んだ。
いったいいつの間に、咲来だけではなく佳音まで宇佐木一族に関わっていたのだろう。
優が子供達に叔父にそっくりな咲来について、どういった説明をしているのかは理奈も知らないところではあるが、彼の胸の内にだけ秘めておけと強要する権利が無いのもまた事実。優がこのどこかしら一風変わった次男に、咲来との血縁関係について漏らしていたとしても不思議ではない。
優と蓮の視線が、その存在を今思い出したかのように理奈に向かう。
「その、ぎふて? というのはいったい?」
「一言で分かり易く言えば、生まれついての天才、かな?」
「日本では個々の能力ではなく同一レベルの習熟度に重きを置くが、個人の能力を重視する海外では人より知性的に優れた子供を、それ相応の教育を施している。それがいわゆる、天から才を与えられた子供、即ちギフテッドだ」
蓮と優の説明に、理奈はそんなバカなと目を剥いた。
「佳音は学校の成績も、IQテストだって平均値なんですよ?
あの子は普通の子供です」
「学校の成績やIQテストだけが、優秀な頭脳をふるい分ける指標じゃないですよ?
ギフテッドかどうかを判断するには、今のところ明確な基準も分かり易い条件もありません。
それに、この前一緒にたたいて・かぶって・ジャンケンポンをやったんだけど……」
「……お前は何をやってるんだ?」
平然と語る蓮に、理奈は内心で(ああ、まさしく佳音ちゃんが好きな遊び!? あの子ったら、この子を容赦なくハリセンの餌食に……!?)と、慄いていた。
一緒にそれをやった、などと平然と語る辺りに、蓮が佳音の遊び相手をしてくれていたのは紛れもない事実である事を悟る。
「結構面白いよ? 今度父さんもやろうよ。とにかく僕、一回も佳音ちゃんに勝てなかったんだよね。
多分あの子、動体視力と反射神経も並外れてる。あの才能は是非、後々我が家の優秀な人材として働いてもらうべく、今の内に引き込むべきだと思う」
蓮の訴えに、優はふむ……と、興味深そうに両腕を組んだ。
「お前の推薦する佳音さんが、見所のありそうな子だというのは分かった。
しかし、それと私と理奈さんが再婚して欲しいと言い出してくる事に、いったい何の関係があるんだ?」
優の訝しげな問いに、一瞬サロンの中は静まり返った。
蓮は、父親が突然日本語を解さなくなった、とばかりに口をポカンと開いて「は?」と、疑問の吐息を漏らす。
別に、積極的に再婚したいと思ってなどいない理奈もまた、しかしながら優の言いたい事の意味が分からず眉を潜める。
先ほどの蓮の説明で、彼女もだいたいのところは把握した。要するに蓮は佳音に何らかの才能があると考え、義理の兄妹となる事で磐石の信頼性と横槍の入らない近しい立場を手に入れ、その才能を伸ばしてやりたいと主張しているのだ。いわゆる青田買いというやつだろう。
困惑する理奈と蓮の様子に、優もまた理解しがたいとばかりに口を開く。
「そもそも、だ、蓮。
お前の推薦する佳音さんというのは、どちらのお嬢さんだ?
長谷川さんも知っているというと……咲来さんのクラスメートの子か?」
「……父さん、それ、冗談で言ってる……んだよ、ね?」
恐る恐る問い掛けてくる息子に、優は本気で首を捻っている。
理奈は無言のまま立ち上がった。
「宇佐木さん、私はこれで失礼します」
「待ってくれ長谷川さん。愚息の乱入で中断したが、咲来さんに私は……」
腰を浮かせて理奈を引き止めようとする優に、彼女はギッ! と冷たい眼差しで睨み付けた。
「打ち明け話も再婚も、お断りします。咲来に必要以上に近付かないで下さい」
キッパリと言い捨て、「帰るわよ咲来!」と、足音も高くズンズンと廊下を突き進む理奈の後ろ姿に、優は何故だ……!? と、嘆いていた。
「父さん。自分が興味ある事にしか関心を払わない悪癖は、いい加減直した方が良いよ」
「どういう意味だ」
「僕も正直、ショックだったけど……
上の娘の事は『見守ってやりたいんだ』とか言ってた男が、下の娘の事はその存在自体目にも入ってない徹底的な無関心ぶりだったりしたら、『うちの娘に近寄るな!』と思うのが、母親の心情ってもんじゃないかな?」
優が再び、可愛い姪に近付く為に、理奈の怒りを解いて相互理解を深めるまで、これから更に時間が必要となる。
この二人が再婚を決意するまで、あと二年――
*カレーなるウサギ一族? の、簡単なキャラクター紹介・ネタバレ付*
優……まさる
パパウサギ。
子供達の前では盛大な猫を被り、人畜無害ウサギのふりをしているが、実は暴君的な一面を持つ。
プライベートでは、自分の興味のある事にしか関心を払えないという悪癖がある反面、興味を抱いたものへの執着は根深い。
大財閥の総帥で、前妻とは政略結婚。奥さんの事に無関心なあまり、放っておいたら弟の響と浮気していた。
弟の事は可愛がっていたので、後継ぎも出来たし結果オーライ的に浮気自体は不問にしたが、最後まで仲は冷え切っていた。頼むからもっと気にしろよ優さん。
上の息子の匡と蓮は響の子で、彬と翔は優の子だが、優本人はその辺頓着していない。
むしろ、咲来があまりにも可愛らしいので、こんな娘が欲しかったんだ!ぐらいに思っている。
理奈……りな
ママウサギ。
ごく普通の中流家庭に生まれ育った、根っからの庶民。旧姓は坂口。
響との出会いは、そもそも高校のクラスメートだった。タチの悪いナンパに絡まれていたところを助けられ、それ以来友人として交流。
しかし酔っ払った響に襲われ、意図せぬまま咲来を妊娠。事故で亡くなった響と話し合う事も叶わず、シングルマザーとして咲来を育てていたある日、長谷川公宏と恋に落ち結婚。
しかし、佳音を妊娠中に公宏もまた、交通事故で帰らぬ人となってしまう。
そのせいか、自分は子供を作った相手を死に至らしめる女なのではないかと怯え、優との間に子をもうける事は頑なに拒否している。
子供達が長じた後は、いつ結婚報告が聞けるのかしらと、悪気なくワクワクと待ちわびている。
匡……たすく
お兄ちゃんウサギ。
本人の性格的には、反応が鈍く天然な空気を醸し出しているおっとりとした長男。
しかし、幼少期から演劇の才能を遺憾なく発揮し、まるで役が乗り移ったかのような迫真の演技力を見せつける。
将来的には自分が父親から総帥の地位を引き継がねばならないと考え、役者になる夢は諦めなくてはと望みを押し殺していたが、蓮と優の後押しによって、俳優の道を進む事に。
実家の持ち家を一つ譲り受け、大学生の頃からそこで一人暮らし。
お嫁さん(に、なる予定)のミコトを、無自覚で振り回す天然旦那様になる。
蓮……れん
シスコンウサギ。
末っ子の佳音を溺愛している、超マイペース兄さん。
中学の頃から父親について仕事を学び、将来の地固めに奔走する努力家。そして、お父さんの仕事を自分が引き継ぐ代わりに佳音を要求した徹底主義者。
兄の持つ演劇の才に幼少期から憧れ、他者から抜きん出て秀でた才能を持つ者に焦がれる。そこへ偶然出会った佳音がギフテッドだったりしたので、もう大変。
(この子を将来、大物にしてやる!)……という野望に燃え上がったのだが、なんか気がついたら(あれ?僕もしかして、本気で女の子として佳音ちゃんが欲しかっただけ?)惚れてた。
親と兄弟達との『佳音ちゃんは僕が貰うから密約』は完了済みなので、深い事は気にせずにそのままラブラブ生活をエンジョイ。年齢差?相手はまだ義務教育中?……深い事は気にするな!
パパさんからマンションを一つ貰ったので、佳音とのラブラブタイムに活用している。
彬……あきら
おっちょこちょいウサギ。
初めて恋をした相手が、男の子だった。以来、自分は同性にしか興味を抱けないのだろうかと悩み、ちょっと開き直って自由恋愛を謳歌しちゃったりしてたのだが、理奈ママから、
「彬さん、いつごろご結婚なさるご予定なのかしら?」
などとプレッシャーを掛けられ、見合いの釣書攻撃が始まる。上二人がさっさかと纏まっているせいで、仲人したがる理奈の気合いもハンパない。
実家とは縁の薄い外資系企業に勤めてるせいで、たまにパパからも「うちの会社に帰っておいで~」電話がきて、ちょっと困るお年頃。
中学時代にお父さんから蓮とは別のマンションの管理を任され、高校生の頃から社会人になるまで、週の半分はそちらで暮らして残りは実家に顔に出す、という暮らしを送っている。
蓮の不純目的利用とは違い、中学時代からの友人に格安で部屋を貸している。
翔……しょう
苦労性ウサギ。
妹が出来ても、末っ子の損な場面ばかり押し付けられる四男坊。
文武両道、容姿端麗、スポーツ万能、頭脳明晰、人柄良し。それなのに兄妹達からちゃっかり利用されるのは、これも愛なのかもしれない。
幼少期から咲来に惹かれ、彼としては懸命にアッピールしているつもりなのだが……全く通じていない。もっと分かり易く直接的な言葉が必要なのだが、恥ずかしくて口に出せないらしい。
小学校では陸上、中学からはアメフトと、スポーツに励む。大学は本場のアメリカに留学し、プロを目指す。
咲来……さら
お姉ちゃんウサギ。
超が付くほどの鈍感娘。本人は学問を学ぶ事への努力を惜しまないガリ勉秀才タイプだが、他人の気持ちにはなかなか気がつかない。
幼少期から翔をライバル視し、母の再婚にも複雑な気持ちだったが、(ママが幸せならそれでいっか)と納得。
彼女本人、そして蓮を除く兄妹達も知らないが咲来の父親は優の弟響であり、彼らは実の兄だったり従兄弟だったりする。咲来本人は、公宏が実父だと信じている。
その美貌と知性で学園のマドンナ的地位を欲しいままにしているが、兄達のガードが固くてなかなか彼氏が出来ない事が悩みのタネ。
佳音……かのん
ブラコンウサギ。
家族内アイドル的末っ子の筈だが、蓮によって独占状態。オマケに、次兄の愛が重すぎて成長するにつれて性格がひん曲がる。
動体視力及び、一般的に反射神経と称される、脳から筋肉へ指令を出す電気信号のスピードが早い。なので、スポーツ選手として努力すれば成功しそうだが……
理解力はあるが学校の勉強への意欲も殆ど湧かず、本人の自覚は薄いがギフテッドの一人。話が一気に飛躍する、頭が働いて眠れない、という精神的多動と鋭い美的感覚、知覚性OEが見られる。
実年齢と精神年齢が食い違う為、しばしば強いストレスを感じているが、蓮が敏感に感じ取って解消してやっている。そんな次兄にだけやたら甘えん坊になる。
広く深く向けられる興味の方向性が、すっかり蓮に向かってしまった為、大物に大成するかどうかはビミョー。
宇佐木 響……うさき ひびき
優パパの弟。故人。
享年24歳。
端正な美貌を誇る美青年だったが、悪ガキから問題児、不良、そして無職の遊び人、呑む打つ買うと、見事なまでにダメ人間街道まっしぐら。唯一マトモな友人は理奈のみ。
昔から優秀で期待されていた兄が鬱陶しく、また嫉ましく思っていて、嫌がらせに兄嫁を誘惑してみるも、優さんには堪えた様子が無くて余計イライラ。
彼を心配して定職につくよう説得に行った友人の理奈を、酔っ払った勢いで襲ってしまった。
子供が出来たと知って、混乱のあまり逃げ出した矢先に事故で亡くなる。
長谷川 公宏……はせがわ きみひろ
理奈の最初の旦那様、佳音の実父。故人。
理奈さんの会社の先輩。有能な営業マンとは思えぬコミカルな言動が持ち味のムードメーカー。
入社したばかりの受付嬢な理奈さんに恋してしまい、頑張ってアタックを繰り返すも、なかなか相手にされない。
そんな中、理奈さんには咲来という娘がいる事を知り、(こんな可愛い子のパパになりたい!)と舞い上がり、その場でうっかりプロポーズ。
佳音が生まれてくるのを楽しみにしていたが、仕事途中で交通事故に巻き込まれて亡くなる。享年32歳。
ミコト……
匡さんのお嫁さん予定の人。
身体的には健康的な女性だが、精神的には男性。恋愛対象も女性。
片思いしていた親友 (性別・女性)への口に出せれない想いの葛藤を知った別の親友 (千尋 性別・男性)が、親身になって相談に乗る。
やがて、彼女への想いは封印しようと決心したミコトに、千尋から「私と交際してくれ」と告白され、悩んだ末にOKし、ぎこちなく交際開始。
しかし、どうしても千尋と恋人同士の親密な接触に踏み切る事が出来ないミコトは、産婦人科で診察を受けて自分の身体は完全に女性であり、生殖機能も問題なく機能している事を確認。迷いを吹っ切りいざ……と、思った矢先に、千尋と親友が浮気していて彼女は妊娠した事が発覚。
自棄酒を飲みに訪れた深夜の公園で匡と出会い、酔っ払った勢いで、
「そうだな……たまに子供が欲しいと思う事がある」
「よーし、それなら僕がウサギちゃんの子を生んでやる!」
「ミコトが? だが、君はその……男の子なんじゃないのか?」
「僕の見た目はこんなだが、身体は立派に女だ。任せとけ!」
「そうだったのか。てっきり男の子だとばかり……では、よろしく頼む」
「おう、一ダースでも生んでやる。体力には自信があるからな。ハッハッハ!」
……という酔っ払い会話を経て、プロポーズだと真面目に受け取った匡さんから婚約者扱いで振り回され、気がつけばあれよあれよと両親への挨拶や結納が済まされる事になる。
桐島 美春……きりしま みはる
彬さんの話のヒロイン予定の人。性別はれっきとした女性。念の為。
先に高校の話にチラッと出てきていた(その当時彬は生徒会会計だった) 多分、社会人生活編だけ書く……筈。後回されててスミマセン。
男勝りで強いリーダーシップを発揮する、バリバリのキャリアウーマン。
彬さんの中学時代からの友人で、両親を早くに亡くして困っているところを、彬さんが部屋を貸したりと、何くれと骨を折ってくれた。恩義が先に立ち、積極的アタックが出来ないままズルズルと。
彬さんの恋愛対象が男性である事は承知しており、彼からは大親友と認識されている。彬さん、美春さんの恋心に全く気がついていません。
長い初恋に終止符を打とうと、他の男性に目を向けようとするも、いい感じになった彼らはたいてい、気がつけば彬さんに惚れているという、何だかとっても不遇な人。(因みに那智さんも、美春さんをナンパ→彬さんとラブラブにパターン)
※ギフテッドって何ですか?
同じ年齢・経験・環境を持つ子供と比較して著しく高いレベルを達成する、あるいはその可能性をうかがわせる子供。知的能力、独創性や芸術の分野において高い実行能力を示す、並外れたリーダーシップ能力を持つ、あるいは特定の学術分野で秀でている、などなど。
幼少期から熱心に学ばせていればギフテッドになる訳ではなく、生まれつき精神的な刺激を強く受ける為に結果的に高知能を有する。
努力によって高等知識を得た子供との判別が難しく、確固たる選別方法は無い。複数の選別テストや経過観察によって判断される。