その香りは甘やかな毒
「あんた誰っ」
会った瞬間、猫が全身の毛を逆立てるがごとく、ミーナ様に威嚇された。
うん、まあそうだよな。そんな気がしてた。
クラウス様に言われたとおり、ミーナ様の自室にお邪魔した。一応は客人としてお茶やお菓子をふるまってくれているが、さっきから睨まれっぱなしだ。
ミーナ様の部屋はフリルとリボン、可愛らしいお人形で溢れ返っている。小さな図書館状態のリラ様の部屋とも、物がなさすぎるクラウス様の部屋とも全く違う。というか、あの二人の自室が変わっているのか。
忘れられていることにちょっとガッカリしつつ、曖昧に笑う。
「以前お会いしたハル・レイス・ウィルドネットです。リラ様の遊び相手の」
「え……えッ!?」
ミーナ様はエメラルド色の目を真ん丸に見開いて、それから、二つに結った赤毛と同じくらい顔を真っ赤にした。
酷くあわあわした後、ふかふかの椅子にふんぞり返ってそっぽを向く。お付きの年配の侍女が苦笑した。
今のなに。今の反応はなに!?
「誰かと思ったじゃない!あたし、ビックリしたのよ!」
侍女に名乗っておいたのだが、聞いてなかったということだろうか。首を傾げると、ミーナ様はまだ赤い頬をぱしぱし叩いて、
「言っとくけど、忘れてたわけじゃないわ!ただあんまりにもあんたが変わりすぎて、ちょっとわからなかったんだもん、それだけ!」
怒ったように言うと、フリフリのドレスの裾をぎゅっと握り締めてまたそっぽを向く。
僕は困惑した。
「……変わったって、何が?……ですか?」
「……わかんないの?」
「えーと、さっぱり……」
しばらく会っていなかったとは言え、まだ一年は経っていない。髪が少し伸びたとか、その程度だろう。身長も変わらないし。……変わらないし!
ミーナ様はむうっと唇をへの字にして、考え込む。
「確かに、特別変わったってわけじゃないわね……。うーん、雰囲気?」
「雰囲気ですか?」
「取りあえず、前ほどふにゃふにゃしてない気がするわ」
むしろふにゃふにゃしていた僕とは一体なに。
ちょっと不本意だったが、いい意味で変われているのであれば嬉しい。
「ありがとうございます」
「な、なにニヤニヤしてるの!?気持ち悪いからこっち見ないで!」
「気持ち悪いって……」
別にニヤニヤしたつもりはないのだけど。ショックを受ける僕を睨んで、ミーナ様は再びフンとそっぽを向く。相変わらずツンツンした子だなぁ。
ミーナ様はそのままの姿勢で、
「そんなことより、お兄様に何があったの?」
「はい?」
「だから、お兄様よ!あたしが帰ってきてからずっと、すごぉく暗いお顔をなさっているんだもの。心配だわ。理由を聞いても、何でもないって仰るし」
ミーナ様が気づいていたことに驚いたと言ったら、また怒られるだろうか。
「僕も理由はわかりませんが、心配です。あんなクラウス様、初めて見ました」
「そうよね……。いつも堂々となさっていて、優雅で、紳士的で、お父様と違って堅実で、世界一美しいお兄様が、あんなに苦しそうに……って、何よ、何か文句あるの!?」
「あ、ありませんよ~、その通りですよねあはは」
「だったら引き攣った顔しないでっ!この無礼者!」
怒って叫んだと思うと、何かを思い出したように、
「無礼と言えば、あの女はどうしてるの?」
「あの女?誰です?」
「リラ・クラリスに決まってるでしょ」
「うっ」
思わずつまってしまった。
「うって何よ、下品だわ!」
「すみません……。えーと、リラ様が何か?」
「あの女ったら、あたしに会いに来ないのよ!」
「まだ知らないのでは?」
僕もついさっきまで知らなかった。極秘でのお帰りなのだし、王族とは言っても中心からは遠のいているリラ様が知らないのも無理はない。
しかし、ミーナ様は唇を尖らせて、
「知ってるもん、リラ・クラリスは知ってるの!だって、使いをよこしたのはお父様だけど、その前の帰る支度をするようにっていう手紙はリラ・クラリスが送ってきたのよ」
無邪気に語られる言葉に、息を飲んだ。
また、僕の知らないところでリラ様が動いていた。しかも、王様とつながっていたということではないか?
リラ様がわからない。事実を知れば知るほど、彼女の輪郭が曖昧にぼやけてゆく。
本当の彼女は、どこにあるのだろう。
僕が見てきた、僕を救ってくれたリラ・クラリスは、本当の彼女なのか?
もしそれがハリボテだったなら、今度こそ僕は、折れてしまう。もう立ち上がることなどできやしない。
だから、怖い。怖くて怖くて、踏み出せない。
リラ様に会って、話すことすらできないのだ。
「……ねぇ!聞いてるの?」
冷たくドロドロとした感情にはまりかけたところに怒鳴られ、我に返る。
「あ、あはは。すみません、ぼーっとしちゃって」
「やっぱりふにゃふにゃじゃない。前会った時と全然変わってない、恰好悪~い」
「ミーナ様、お行儀が悪うございますよ」
「はぁい。でも、聞いてないハルが悪かったんだからっ」
侍女に注意され、ミーナ様が子供っぽく拗ねる。以前と変わらない幼い仕草にほっとするのを感じた。
思えば、あれから随分と時間が経ったものだ。
色々なことがあった。その中で、僕が正しかったことなんてほとんどない。
そんな僕がここまで来れたのは、やっぱりリラ様がいたからだ。いつだって傍にいてくれた。あの優しい笑顔を、愛情だと語った歌を、嘘だと思いたくはない。
僕はたくさん嘘をついてきたくせに、自分勝手な願いだが、それでも疑いたくはなかった。
それから、ミーナ様は会いに来ないリラ様の愚痴を延々とこぼした。王族としての気品に欠ける、お兄様に馴れ馴れしいだのと文句を言いつつ、寂しそうだ。素直になれないだけで、本当はリラ様のことが好きなのだろう。可愛いなと和んでいたら、また気持ち悪いと睨まれたが。
リラ様の話から、王様の悪口、またクラウス様の心配と参事、母君のこと、他の王族たちの噂などを、ミーナ様は色々と話してくれた。ミーナ様がおしゃべり好きとは知らなかったが、知らないことも多くて楽しい。
さらに話が修道院での日々に移ったところで、
「そうだ!忘れるところだったわ」
ミルク色の手のひらをぱちんと合わせて、ミーナ様は侍女に何か指示を出した。侍女は一礼して部屋の奥に移動する。
「ハルに渡さなきゃいけないものがあったのよ。すっかり忘れてたわ」
「僕に?」
「修道院に来たお客さんが、『あなたの国に帰ったら、ハル・レイス・ウィルドネットに渡して』って。名前は言ってなかったけど、中身を見ればわかるとか言ってたわよ」
ルスチェカに知り合いはいないし、全然思い当たる節がない。伯爵である父さんならまだしも、僕あてとなるとさっぱりだ。
首を傾げていると、戻ってきた侍女が一通の手紙を渡してくれる。何の変哲もない、宛名もない封筒からは、何故か甘ったるい匂いがした。
侍女が貸してくれたペーパーナイフで口を切り、中身を取り出す。薔薇の透かし模様の入った美しい便箋から、先ほどよりも濃密な香りがして、くらりとする。
筆跡を見た瞬間、目を疑った。
全身から汗が噴き出し、息が苦しくなる。一気に血の気が引いた。
有り得ない。有り得ない有り得ない!
ガタガタと震える手で破れそうなほど紙を握り締め、食い入るように読み、最後の文字を見て、凍りついた。
何度読み返しても、変わらなかった。甘ったるい香りが毒のように僕の肺を侵して、視界が白む。耳鳴りが嘲笑のようだった。
「ど、どうしたのよ。顔を真っ青にして……そんなに大変な内容だったの?」
怯えたような声にのろのろと顔を上げる。
「これをくれたのは、どんな人でしたか」
「ヴェールで顔を隠してたからわかんない。……けど、すごく豪華なドレスを着てたから、高い身分の人だと思うわ」
「私もその時、ミーナ様のお傍におりましたが、修道院の方々に最高のご待遇を受けておりました。噂ですと、クロフィナルのさる高貴な方がお忍びでいらっしゃったとか……」
眩暈がした。
クロフィナルの高貴な方とやらと、この手紙に何の繋がりがあるのかはわからない。いきなり襲い掛かってきた情報が、ただでさえ飽和していた僕の脳にとどめを刺す。
どうして、どうして。
「どうして……今になって……」
「ハル?」
ミーナ様は何も悪くないのだから、関係ないのだから怖がらせちゃダメだ。わかっているのに、愛想笑いすら浮かばない。以前の僕だったら、精神的に耐えられず気を失っていただろう。
どうすれば、いい。
震えの止まらない手で紙を握り締め、再び文字に目を落とした時、ノックもなしにドアが開いた。
「無礼者!この方を誰と……」
「火急の要件につき、どうかご容赦を!お逃げください!」
飛び込んできた兵士が跪いて叫ぶ。侍女はサッと顔を引き締めた。
「何があったのです」
「城に大量の賊が侵入しました!どこの者かはまだわかっていませんが、腕が立つ者が多く危険です!」
突然の内容に目を見開く。
固まってしまうミーナ様を抱き上げ、侍女はすぐに部屋を出てゆく。僕も後に続こうとした時、
「お、お待ちください!」
まだ部屋に残っていた兵士に引き留められた。
兵士は恐怖と嘆願の入り混じった表情で跪き、切羽詰まった様子で叫ぶ。
「貴殿はウィルドネット伯爵家のハル殿でございますか!」
「そ、そうだけど」
「どうぞお力をお貸しください!軍に属していないばかりか、貴族の方に助けを求めるなど、無礼のほどは承知しております!ですが、どうか!」
「どういうこと?僕に戦いを手伝ってほしいってこと?」
緊急事態とは言え、これ以上王様に目をつけられるようなことはしたくない。思わず顔を引きつらせると、兵士は首を横に振った。
「王子殿下……クラウス様を助けていただきたいのです。何者かに東の塔に連れて行かれたのですが、救出に向かおうとしても敵の人数が多く辿りつけないのです」
ぞわりと、嫌なものが背筋を撫でた。手の中で半分潰れた紙がガサガサと音を立てる。
「その、クラウス様を連れて行ったのって、どんな人?」
「二人の金髪の女です。兵の一人が、数年前に処刑されたオルコット一族の末裔と名乗ったと言っていました。それから、自分は『女王様の配下』だとかいうことも」
目の前が真っ暗になる。
これが、夢ならいい。夢なら早く覚めてくれ。
ほんの少し前に読んだ手紙の内容がぐるぐると周り、甘い香りに吐き気がした。
愛しいハルへ
あなたにお手紙を出すのは久しぶりだわ。懐かしいでしょう。まさか、あたしを忘れてはいないわよね?
あたし、あなたのことなら何でも知ってるのよ。ずいぶん有名になって、交友関係も広がって。王女様ととっても仲良しなのね。酷いわ、あたしのことは捨てたくせに。
でも、知ってる?
リラ・クラリスはあなたに嘘をついているの。あなたは騙されているのよ。
嘘だと思うなら、王女様について調べてみなさい。ああ、可哀想なハル。待っててね、すぐに迎えに行ってあげる。あたしを女王と慕っている駒達に、邪魔者は全部消させるから。
愛しているわ、ハル。あなたもそうかしら?
ううん、あなたはあたしを愛さなきゃならない。愛して、一生罪を償わなければならないのよ。わかっているでしょう?
また、あの頃みたいに遊びましょうね。今度こそ二人きりで。
セレナ・ウェスト・クロフィナル
もし、手紙の『女王』と兵士の言った『女王』が同じ人物だとしたら。
その邪魔者が僕の周りの人間だとしたら。
オルコット一族の金髪の女があのネリーで、ローグ・ゼルド達やこれまでのことも、全て繋がっていると、したら。
全部、ぜんぶ、僕のせいじゃないか。
グラグラと視界が揺れて、吐き気がした。それを飲み込み、グシャグシャの手紙を懐に突っ込んで、兵士に返事もせずに走り出す。
ただ闇雲に、必死に、何もかもわからないまま。