殺意の刃
サーッと体が冷たくなった。そのくせ、冷静に考えることを思考が放棄している。
リラ様は、初めからここにいたわけではない。しかも、七年前くらいというと、だいたい僕が引きこもり始めたくらいではないか?
ステラ姉さんの声が蘇る。
「間違った記憶」、「リラちゃんを忘れたままでいいはずがない」。
そして、リラ様の「ハルの中でリラ・クラリス・フォードは死んだ」。
もしかして、僕は本当に、王女になる前のリラ様に会っているのかもしれない。だが、だとしたらどうして何も覚えていないのだろう。
記憶が不確かなのはもうわかっているけど、欠片も思い当たらないのはおかしい。もともと僕は交友関係がとても狭いから、会ったら覚えているはずだ。しかも、本人に再会しているのだから。
それに、リラ様は何故僕に隠しているのだろう。ステラ姉さんに頼んでまで。
そして、これが一番わからないが、昔会ったのを隠そうとしているなら、何故わざわざ王命を使ってまで僕を呼び寄せたのだろう。
最初は、遊び相手として。
そののちに、彼女は僕を守るために呼んだと言った。
確かに、僕はリラ様が傍にいてくれなかったら、今頃どうなっていたかわからない。リラ様のおかげでここまで来れたのだ。
だが、僕に隠す理由があるなら、遠ざけるのが普通だろう。僕は何も覚えがないけれど。
それから、王様は何故、僕をあの時あの場所に向かわせたのだろうか。
どう見てもあれは密会だった。リラ様とステラ姉さんの不自然な格好も、おそらく変装だろう。そこまでして話していた二人の邪魔になるかもしれない僕をおくる意味がわからない。
王様も、全て知っているのだろうか。だとしたらあの人の狙いは何だ?
考えれば考えるほど泥沼にはまっていく。わからない、本当にわからないのだ。
「……ル、ハル!」
「は、はいっ!ハルですすみません!」
「すみません……?まあいい、大丈夫か?」
肩を強く揺さぶられ、我に返る。
クラウス様はちょっと眉根を寄せ、いつもより低い声で呟く。
「よけいなことを言ったな……。今のは忘れてくれ」
「いえ、そんなことはないです!気にしないでください!……その、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げる。
何はどうあれ、事実は知るべきだ。何年も逃げ続けた僕だが、ちゃんと向き合わなければならない。
クラウス様は何か言いたげに僕をじっと見ていたが、やがてそうかと言い、戸口を指さした。
「時間を取って悪かった。もう行っていいぞ」
「いいえ、何もお手伝いできなくてすみません」
「いや、しただろ。ローグ・ゼルドについての情報は有益だ。すぐに調べさせよう」
「何かわかったら教えてください。ミシュア姉さんのためにも」
「そうする。……ところで」
帰ろうとしたところに急に呼びかけられ、振り返ると、今度は少しだけ笑みを浮かべていた。
「妹に会ってくれないか?」
「妹?って……」
「ミーナだよ」
あのお兄様大好きっ子のお姫様のことだ。まだここに来たばかりの時に会った。
そういえば、もう半年以上ミーナ様を見ていない。色々ありすぎて忘れていたが。
「ミーナは最近までずっとルスチェカの修道院に預けられていたんだ」
「ええっ!?初耳ですよ、それ!」
道理で見かけないわけだ。そもそも、ブラコン姫がクラウス様のそばにいないこと自体おかしかったのだが。
クラウス様は呆れたように溜息をついた。
「結構有名な話だぞ。知らないのお前だけじゃないか?」
「え……そんな……」
もしかして、僕がリラ様のことを全然知らないのも、僕に非があるのだろうか。不安になってきた。
「でも、何で修道院に?」
「表向きは花嫁修業だが、俺にべったり甘えすぎるのを見かねた王が、自立させるために修道院に送った。あのままじゃ他国に嫁がせるわけにもいかないし、ある意味花嫁修業で間違ってはいないが……」
「な、なるほど……」
納得してしまった。クラウス様も遠い目をしている。
「ん?てことは、ルスチェカに行けと!?」
「いや、帰ってきた」
「帰ってきた?いつです!?」
「今日だな」
「唐突ですね!?」
「そう、それだ」
クラウス様が微かに眉を寄せた。
「ミーナが帰ってくるタイミングが、妙なんだ」
「へ……?」
「予定では五年は修道院で修行することになっていたのに、急に王が修道院に使いをやって帰国させたんだ。しかも秘密裏に。俺も母も知らなかった」
それは確かに変だ。
ミーナ様の修道院行きを知らなかったのは僕が世間知らずだっただけだが、秘密裏に戻す必要がわからない。まるで、何かあるみたいではないか。
「あの王が意味もなくそういうことをするとも思えない。何かの策なのか……」
やつれた顔をさらに険しくする姿に、不安が募る。
ミーナ様の急なお帰りが気になるのはわかるが、今はクラウス様のほうが心配だ。このままでは擦り減ってしまう。
「もう調べ物はやめて、少し休みましょう。クラウス様は本当に疲れているんです、これ以上は……」
「平気だ。やることはいくらでも、」
「休息も仕事の一つです!」
思わず怒鳴ってしまい、クラウス様が目を見開く。
僕は慌てて弁解した。
「す、すみません!偉そうに言うつもりじゃなかったんですけど、あの……本当にすみません……」
「……いや」
首を横に振り、少しだけ笑う。
「ありがとう。お前の言う通りだよ。まさか、ハルに諭される日が来るなんて思っても見なかったがな」
「はは……。あ、そう言えば、ミーナ様にお会いするのはいいんですけど、どうして僕が?」
「どうしてって……お前、結構鈍いな」
そんな理不尽な。
クラウス様はぐちゃぐちゃになった髪をほどき、手櫛で適当に直して結いながら、呆れた顔で僕を見据える。じっと見られたところで思い当たる節はない。
クラウス様はやれやれと言った様子で溜息をついた。
「ミーナが結構お前を気に入っているからだ」
「それはないです」
「即答するな」
「ご、ごめんなさい!いやでも、ないですよ。僕なんてリラ様のお付きでしかないし、たぶん覚えてないでしょうし」
しかも会うたびに睨まれたし。あのお姫様はお兄様至上主義なので、クラウス様以外眼中にないだろう。
「ハルは、ミーナと話したことがあるだろう」
「ええ、何度か」
「ミーナは基本的に俺以外の男は嫌いだぞ。というか、苦手みたいだ」
「え!?」
何だその情報。初耳だ。
「父親はアレだからともかくとして、男の召使や貴族、母方の親戚、男なら無条件に怖がる。怖がると言ってもたいしたことはないが、緊張して話しにくいみたいだ。そんなことが広まったら嫁がせるのに不都合だから、王が隠していたけどな」
なかなか気の強そうな女の子だと思っていたけれど、意外とそうでもないらしい。そういう事情があって、余計にクラウス様にべったりだったのかもしれない。
「……ん?僕には普通に絡んで……話しかけてきましたよ?」
「だから、それだ」
「あ、なるほど。……何でだろう?」
僕は平気ということなのだろうが、僕とクラウス様にこれと言った共通点はない。
すると、クラウス様は淡々と
「男の範疇に入ってないんじゃないか」
「酷い!酷いですよ!」
「女顔だし、なよなよというか、軟弱そうだし」
「顔だけならクラウス様も中性よりですからね!?僕と違って美人ですけど!」
「喧嘩売ってるのか」
「それはこっちのセリフです!なよなよって何ですか!?」
「見たままだろう。……今度中性よりだの美人だの言ったら不敬罪で牢獄に放り込むぞ」
「ごめんなさい!」
後ずさって謝りながら、内心ほっとしていた。クラウス様の様子がいつも通りだったからだ。
「では、そろそろミーナ様にお会いしてきます。……覚えてくれてるかな……」
「忘れられてたらまた自己紹介でもすればいいだろう」
「……そうですね」
「冗談だ」
「冗談言う前に鏡見てください」
軽いやり取りをして、僕は軽く頭を下げて部屋を出た。
この後、何が起こるのかも知らないまま。
ハルが出て行ってしばらくののち、クラウスは無表情でじっとしていた。
調べ物はしていない。かと言って、ハルに言われたように休憩を取っているわけでもない。
深い藍色の双眸を天井に固定して、身じろぎも、まばたきすらせずに、『その時』を『待って』いた。
不意に、首筋にひやりとしたものが触れた。
冷たい刃の感触。正確無比に頸動脈を這うそれは、彼女の愛用するナイフだった。
「久しぶりだな」
淡々と言おうとしたが、駄目だった。ひび割れて聞き苦しい声にそっと苦笑する。
相手は答えない。
「どうした?……俺を殺しに来たのだろう?それとも、恨み言を言ってからか」
「……驚かないのですね、クラウス様」
「知っていたからな」
「いつからです?」
「つい最近だよ」
「愚かですね。……吐き気がするほど、甘い」
そうだな。俺は愚かで、甘い。中途半端な人間だ。
だから、愛した少女に騙され、おそらく今日、クラウスは死ぬ。
「最初からあなたを憎んでいた。私は、復讐のために生きてきたのです」
底冷えのする剝き出しの憎悪が突き刺さる。
知っていた。けれど、本人の口から言われるとこたえた。何十回、何百回と、この時のために予想していたよりも、ずっと。
「ソフィア……」
「その名前で呼ぶな。それは、私の名前じゃない」
切っ先がより押し付けられる。あと少しで、皮膚を破り鮮血が噴き出すことだろう。
クラウスは諦めたように目を閉じて、笑みを浮かべた。
「そうだな。……フィリア・オルコット、お前には償っても償いきれないことをした」
彼女になら、殺されても、いい。