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揺らぐ記憶、凍りづけの覚悟

 あれから、どうやって自室まで辿りついたのか覚えていない。気が付いたら自室のベッドの上にいた。

 リラ様はずっと前から僕を知っていて、僕が一方的に忘れている。それを、ステラ姉さんも知っていたのにずっと黙っていた。

 突然あらわになった多くの事実は僕を打ちのめし、思考を停止させた。

 リラ様は知ってて隠していたのか?いつから?

 そんなはずはないと思おうとしても、一度芽生えた疑念は消えない。

 夕食はいらないと召使に言い、何時間も自室で頭を抱えているうちに夜になっていた。

 リラ・クラリス。セルシアの第四王女で、お転婆で子供っぽくて、けれど達観していて脆いところのある、不思議な少女。

 けれど、僕は彼女に対して何も知らないのだ。

 あの時彼女は、僕の中で「リラ・クラリス・フォード」は死んだと言った。フォードというのは、もしかしたら彼女の本当の姓なのかもしれない。

 けれど、どれほど頑張って思い返してみてもわからないのだ。

 子供の頃にリラ様に会った覚えはないし、そもそもセレナのことがあって以来、自室にこもりきりでほとんど人には会わなかった。

 そんな僕が王女様と会ったことがあるはずがないのに。

 おまけに、ステラ姉さんはリラ様のことを「リラちゃん」と呼んでいた。王女と伯爵令嬢として会っていて、そんな関係が有り得るだろうか。

 考えれば考えるほどドツボにはまっていくようだった。ぐしゃぐしゃと髪をかきむしって、窓の外に目を向ける。

 仄かに赤みがかった不気味な三日月が、ドロリとした闇の中で冷笑している。星は赤い月と暗闇に飲まれてどこにもない。

 嫌な夜だ。こんな夜になると、数年前のあの日のことがまざまざと甦る。


「……本当に?」


 意図せず口からこぼれた疑問に、目を見開く。

 本当に、はっきりと覚えているのか?

 ドクドクと心臓が早鐘を打つ。全身の血液が逆流して、破裂しそうだ。それなのに、寒い。冷汗が止まらない。

 あの日の夜、僕は外にいた。修行場所の一つ、崖近くだった気がする。真っ暗で、足場が見えなくて。ただ、むせ返るような甘い香りと、血の匂いが漂っていた。

 どうして、そんなところに行った?どうしてセレナもそこにいた?


 どうして、僕はセレナの首を絞めたんだ?


 ひゅっと喉が鳴った。呼吸が荒くなって、視界も記憶も白くぼやけてゆく。目のふちから涙がこぼれ落ちた。

 少しだけ、思い出した。

 あの夜、僕はセレナをセレナと知らずに、彼女の首を絞めた。薄ぼんやりとしかわからないが、他にも酷いことをしたかもしれない。

 セレナは僕を罵倒した。裏切り者、大嫌い、死んでも許さない。『化け物』とも『弱虫』とも言われ、泣きながらナイフで刺され続けたのだ。僕は呆然とそれを受け続けた。

 どうしてそんなことになったのか、その後どうなったのか。思い出したいのに、拒絶するように頭に激痛が走る。


「思い出せ……思い出さなくちゃ……」


 暗示のように何度も繰り返す。

 これがリラ様と何の関係もなかったとしても、少なくとも、ステラ姉さんの言う通り、僕の記憶は不確かだ。あやふやなまま、目を背け続けてきた。

 思い出さなければ。

 ちゃんと向き合わなければ。

 ギュッと目を瞑って、割れるような頭痛に耐える。寒気が止まらない。


「あの後、セレナはナイフを捨てた……崖に、捨てて、……それで?」


 高笑いをしながら、崖から身を投げた。

 そう、セレナは自殺した。大きく広げた手を、僕はつかめないまま。


「……ちが、う」


 息を飲んだ。

 ずっと、セレナは死んだと思っていた。僕が追い詰めて、殺したのだと。

 崖の向こうに長い茶色の髪が翻って、小さな手が闇に吸い込まれてゆくのを確かに見た、と思う。

 けれど、セレナは崖から身を投げてなどいない。だってあの子は、崖と反対方向の木の前に立っていて、僕に向かって手を伸ばしていたのだから。

 唐突に、あどけなく甘い声が響く。その声は、やめて、死なないでと叫んでいた。

 僕に向かって。

 ガタガタと手が震える。呼吸の乱れが収まらない。

 今思い出したこの記憶でさえ、間違いかもしれない。僕の思い込みかもしれない。

 けれど、これがあっているとしたら。

 浮かび上がった記憶の中の映像は、未だぼやけているが、木の前に人がいて、叫びながらこちらに手を伸ばしていた。

 それを、僕は取らなかった。

 絶望の中で奈落に落ちてゆく感覚。こぼれた涙が、僕を置き去りに天へと上っていた。


 あの日、崖から飛び降りたのは、僕だ。




 執務室で仕事をしていた王のもとに、部下から報告が来てからすぐ、報告通りの相手が訪ねてきた。


「誕生日おめでとう、リラ。祝いが遅くなってすまないね。プレゼントは足りたかい?それとも、もっと……」

「茶番はやめてくれませんか」


 澄んだ声も、こちらを見据える瞳も氷のように冷え切っている。落ち着いた様子の中に怒りが見えた。

 普段とは別人のような娘の姿に、王は薄く笑う。


「父が娘の誕生日を祝うことは茶番ではないだろう?」

「私が何のためにここに来たのかを承知の上で話を逸らしているのだから茶番です」

「何のことだい?」


 わざと受け流すと、リラは音もなく歩み寄ってくる。老成した眼差しはもはや少女のものとは言えない。


「ハルには手を出さない約束のはずです。よくも破ってくれましたね」

「……彼に会ったのか?」

「いいえ。ステラさんと話しているとき、物音がしたのです。ステラさんが確認した時はもういませんでしたが、あの部屋を知っている者はほとんどいない。このタイミングでしたら、お父様が行くよう仕向けたと考えるのが妥当です。今夜はハルは夕食を取らなかったようですしね」


 淡々と事実を並べて行くリラに、思わず溜息が漏れた。

 普段は天真爛漫で幼い様子を見せるが、実際は現実主義の切れ者だ。自分のことも周りのこともよく把握した上で、残酷な判断を下すこともできる。容姿と歌声は今は亡きリラの母に生き写しだが、性格や素質はむしろ父である王に近い。これほど自分に似ている子供もいないと思うほどだ。

 リラが男だったら、どれほど有能だっただろうか。だが、女でよかったのだろうとも思う。王位継承権に巻き込まれたら、もっと悲惨な目に合っていただろう。


「我が娘は本当に洞察力に優れているな……。感服するよ」

「相手はあなたです。可能性は十分に考えられました。……ステラさんとあのように話す機会を設けてくれたことは感謝しています。外出を許可してくださったことも。その分の働きはきちんとするつもりです。けれど、ハルを惑わせたことは許し難く思います」


 感情を抑えていた声に微かに怒りが混ざる。


「今日だけではない。あの嵐の日、あなたはハルを洗脳しようとし、それに失敗したらセレナさんの名前を出した。あのせいでハルがどれほど苦しんだか、お父様にはおわかりにならないでしょう。わかるはずがない」


 リラはスーッと目を細め、唇を皮肉っぽく緩めた。決して、親しい人間には見せたことがないであろう笑み。

 それを、王は静かに見つめ返す。


「お母様を見殺しになさったあなたには」


 温度の低い糾弾は、思ったよりも古傷に沁みた。弁論が得意なはずの王が、珍しく返答に窮する。

 リラが自分を憎んでいるのは知っている。それだけのことをしたし、もしあの時のことをやり直せるとしても、王は同じ選択をするだろう。

 それでも、こうしてリラになじられると、かつて愛した女性が乗り移って恨み言を告げているような錯覚に陥り、苦しめられる。

 弁解はしない。謝罪もしない。

 だが、王は苦々しげに椅子にもたれ、呻いた。


「……愛していたよ。君の母を、誰よりも愛していた。彼女だけが私の唯一の女だった」


 リラは答えない。ただ、冷ややかな視線を王に向け続ける。


「それでも、私は王だ。この国を治め、民を守らなければならない。愛に生きることはできなかった」

「そうでしょうね。理解はできますし、あなたの選択は王として正しかったでしょう。だからと言って、私がお父様を許すことはありません」

「わかっているよ。私はお前にも酷いことをし続けている。憎まれても仕方がない」

「お父様は、私の大切な人ばかり奪われますからね。もう慣れました」


 そう言って、今度はいつものようににっこり微笑んで見せる。


「ご命令には従います。どうぞ、このリラを道具としてお使いくださいませ。存在してはならない私ですが、私の力はそれなりにお役に立つはずですから」


 けれど、と付け足して。


「これ以上ハルに手を出さないでください。私からのたった一つのお願いです」

「……わかったよ。可愛い娘の頼みだ、もちろん聞こう」

「ありがとうございます」


 リラが腰を折って丁寧にお辞儀をする。そのまま戸口まで進み、くるりと振り返る。銀色の髪が翻り、一瞬、かつて王が愛した女性と重なった。


「もし、これ以上ハルに手を出したら、私が殺して差し上げます」


 可憐な微笑を浮かべたまま、小首を傾げる。


「それとも、セルシアを滅ぼした方がお父様にとってはお辛いですか?」

「……さあ、どうだろうね。どちらも望ましくない結末だ」

「そうですね。お互いにとって、平和な日々が続くことを私も望みます」


 人の心を読み、操ることにさえ長けた父と娘は、お互いに上辺だけの言葉を交わして別れた。

 部屋を出ていった娘の言葉を思い返し、王はまた溜息をつく。

 今はまだ嵐の前の静けさに守られている。だがこの後、誰がどう出るか。

 激動の幕開けは、すぐそこに迫っていた。

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