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終わりの始まり

「し……しつこい……やっとまけた……」


 ゼエゼエ言う僕に、だから言ったのにとリラ様が呆れる。

 さすがは王直轄の部隊、死に物狂いで走り続けてどうにかまいたが、僕の体力は限界に来ていた。見つけられるのも時間の問題だろう。


「もう、何?二人になりたいなら城に帰ればいいじゃない」

「城に帰ったら、リラ様は自由じゃなくなります」


 リラ様が目を見開く。

 そんなことに気づかないほど子供だと思われているのか。だとしたら心外だ。


「今だけは、リラ様は本当の意味で自由です」

「……あははっ、ハルにしては面白い冗談だね!それで、用件は何?」

「誕生日、おめでとうございます。……遅くなってすみません」


 絹の布で包んだ小箱をそっと取り出して渡す。傷がつかないようにはしていたが、かなりめちゃくちゃに動いたから、ちょっと心配だったりする。


「何、これ」

「プレゼントですよ」

「えっ」

「いや、驚くことじゃないですよね!?」

「私の誕生日忘れてたじゃない!」

「一応、ずっと前から用意してたんです!」

「仕事サボってるくせに、遊んでたのね!」

「一生懸命選んだ人に対して言う言葉ですか!?いらないなら返してください!」

「い、や、よ」


 ふいっとそっぽを向いてから、リラ様が包みをほどく。簡素な木の箱を開けた瞬間、息を飲んだ。


「これって……」

「す、すみません、気に入らなかったですか?確かに、その、高いものじゃないんですけど……」


 僕が贈ったのは白いオルゴールだ。嗜好品ではあるが、高級品は山ほど持っているから、あえて質素なものを選んだのだが、やっぱり失敗だっただろうか。


「いらなかったら捨てるなり人にあげるなりしてもいいので!あの、本当にすみませ……」

「どうして」


 焦って弁解する僕を、掠れた声で遮った。

 リラ様は信じられないものでも見るような目で、オルゴールの蓋を開けようとする。けれど、震えるせいでうまく開かない。


「どうして、オルゴールを選んだの?」


 非難しているようには聞こえない。けれど酷く苦しげで、怯えているようにも見えた。


「もしかして、オルゴールは嫌いですか?」

「違うわ。好きよ。……でも、どうして?」


 どこか幼い表情に戸惑う。オルゴールに、何か思い入れでもあるのだろうか。リラ様が持っているところは一度も見たことがないけれど。


「何を贈ればいいか、わからなくて……。リラ様のことを考えた時に、歌うのが好きだったなって、思い出したんです。だから、音楽に関係のあるものにしようと」


 やっとオルゴールが開き、軽やかで甘いメロディーがこぼれる。

 リラ様の歌には遠く及ばないけれど、僕が気に入っている曲だ。リラ様の歌の一つに少し似ているから、余計に。


「僕は、あなたの歌がとても好きですから」


 照れ笑いを浮かべながら言った時、オルゴールの上に透明な雫が落ちて、弾けた。

 リラ様が泣いていた。

 大きく見開いた瞳から、涙をほろほろとこぼして、それからハッとする。


「あ、あれ?ちょっと目にゴミが入ったみたい……?嫌だなあ、何で泣いてるんだろう!ごめんね、気にしないで!」


 目をゴシゴシ擦って、明るく振舞おうとする。だが、それも崩れた。

 オルゴールを抱きしめて、うつむいてしまう。


「ごめんなさい、嬉しいのに……今日だって、私の我儘を聞いてくれて、本当に楽しかった。なのに……ごめんね、ハルのせいじゃないの」


 嗚咽を嚙み殺したような声で紡がれる言葉に、胸が痛んだ。

 知っていた。わかっていた。

 リラ様が何かを抱えて、苦しんでいることくらい、気づいていた。でも、僕は自分のことでいっぱいいっぱいで、リラ様は流すのが上手だから、踏み込めずにいたのだ。

 今だって、泣いている彼女の前で立ち竦んだまま、何も聞けずにいる。何て情けないんだろう。

 まだ、聞けない。踏み込める勇気がない。

 だから、せめて。


「……リラ様。これまでのことを考えると今更かもしれませんが、一応断っておきます。……ご無礼をお許しください」


 華奢な身体を引き寄せて、そっと抱きしめた。


「僕は、あなたを愛しています。……臣下ですから、もちろんこれ以上のことは望みません。けれど、傍にいることだけは、許してくれませんか」


 オルゴールの音楽が止まる。少しの沈黙があって、そして、


「……で」

「え?」

「名前で、呼んで。お願い。……一度だけで、いいから」


 細い指が、ぎゅっと僕の服をつかむ。

 哀しそうに、苦しそうに、呟く。迷子の子供のように。

 喉が締め付けられて、たった二文字がなかなか吐き出せない。必死に絞り出した声は、掠れて格好悪いものだった。


「……リラ」


 抱きしめる腕に、少しだけ力を入れた。


「僕のこと、遠ざけてもいい。……だから、どうか、守らせて」


 リラ様は何も答えない。ただ、震えながら涙をこぼし続けていた。




 リラ様を無事城に送り届け、自分も部屋に戻ろうとした瞬間、背筋に冷たいものが走り、本能的に飛び退った。


「さすが、一時的とは言え我らを巻いただけのことはあります。お見事です」


 特徴のない顔立ちの青年が、やはり抑揚のない声で言った。武器は持っていない。が、この異様なまでの存在感のなさは、暗殺部隊の人間だろう。

 恐れていた事態になった。冷汗をダラダラ流しながら、必死に言い訳を考える。


「じ、実は、ちょっと用事があったと言いますか!わざと巻いたわけでは……あの……すみません!もうしません!」

「いえ、素人に巻かれた我らの落ち度です。貴殿は何も謝る必要はありません。私が来たのは別件です」

「はあ……では、何ですか?」

「国王陛下がお呼びです」


 安堵しかけたところにカウンターを食らった僕は、そのまま固まった。

 何で今?やっぱり、リラ様を連れて逃走したことを咎められる?もしかして牢獄行きか?いや、ミシュア姉さんの件とか?

 一つだけ言えるのは、めちゃくちゃヤバい事態に陥ったということだ。


「あ、あの……ちょっと頭が……」

「すぐにお連れするようにと仰せつかっています。もし逃げようとしたら、強硬手段に出ていいとも」


 それは脅しだ!


「因みに、私以外に七、八人ほどの人間が見張っています」

「嘘っ!?」

「本当です。全て正直に話していますよ」


 いや、別に嘘つきだとか言ったわけじゃないし。

 完全に本気じゃないか。もちろん、王様に呼ばれた時点で僕に逃げ道などないのだけど、ここまでされるとなおさら怖い。


「因みに、今見張っているもののうちの何人かは、広場で大道芸人の振りをしながらお二人を観察していました」

「あの変……変わった踊りをしていた人達ですか!?」

「ええ、変な踊りをしていた人達です」


 せっかく訂正したのに青年が変と言ったため、突発的に殺気を感じた。それも複数の。

 震えあがる僕に、青年が淡々と、


「どういたしますか」

「どうするも何もないですよね……行きます……」

「では、こちらへ」


 言われるままについて行く。その間も、ビビりな僕は嫌な想像を止めることができず、それなりに青い顔をしていただろう。

 城の上の方に行き、重厚な彫刻の施された扉の前で止まる。


「陛下、お連れしました」

「ご苦労。通せ」


 青年が扉を開け、一歩下がる。彼は入らないようだ。

 一歩踏み占めるごとに、以前王様と会った時のことを思い出す。今日は何を言われるのだろうか。


「こうして会うのは久しぶりだね。まあそう固くならずに、椅子にかけなさい」

「ありがとうございます」


 一言お礼を言うのに噛みそうなほど、ガチガチに緊張していた。出された紅茶をいただく余裕なんて欠片もない。

 一方、王様はくつろいだ様子で高価な椅子に体を預け、面白そうにこちらを眺めている。


「さて、今日は娘の我儘に付き合ってくれてありがとう。王女の護衛をしながら遊ぶとなると、なかなかに大変だっただろう?」

「い、いえ」

「まあ、最後のほうで色々と余計なことをしたようだがね?騒ぎを起こしたり、護衛を振り切ったりと」

「申し訳ございませんでした!」


 叫んだのと頭を床にこすりつけたのと、どちらが早かったかはわからないが、取りあえず全力で謝罪した。やっぱりその件か。


「二度にわたる無礼な行為、本当に申し訳ありませんでした!ですが、すべて僕の独断です!どのような罰も受けますので、どうかリラ様には……」

「待ちなさい」


 笑みを含んだ声に顔を上げると、王様は本当に笑っていた。華やかな美貌に、どことなく胡散臭い色がある。なんて言ったら、不敬罪で牢獄行だろうが。


「別に私は怒ってはいないさ。振り切った件については、むしろ称えたい。見事だよ」

「あ、ありがとうございます……?」

「どうだろう、やはり我が直属の部隊に入る気はないか?」


 ゾッとして仰け反った。変な声を上げなかっただけ、成長したと思ってほしい。

 以前も強引な勧誘もとい洗脳を受け、正気を失いかけたことがる。あの時はたまたまやってきたリラ様のおかげでどうにかなったが、今ここには僕と王様だけだ。

 必死に愛想笑いを浮かべようとするが、どうしても引き攣ってしまう。そんな僕に、またもや王様は笑みを漏らした。


「冗談だよ」

「へ!?」

「君の戦闘能力も性質も大変貴重なものだが、考えてみれば、全く暗殺者には向いていないからね。目立ちすぎるし、理性的な判断に欠ける。まあもちろん、入りたいのであれば考慮しても構わないが」


 かなりけなされている気もするが、無理強いはしないようだ。それどころか、わりと使えない奴だと思われている。よかった。

 ほっとしたのもつかの間、また不安が頭をもたげてくる。では、何の件なのだろう。やはりミシュア姉さんのことだろうか。


「何を言われるのだろう、シャルキットの件だろうか、と思っているね?」

「ッ!?」

「君は大変わかりやすい子だ。私でなくても、大抵の人間は手に取るように心を読めるだろう。気をつけなさい」

「は、はい」

「で、用件だが。君の姉君の話ではないよ」


 じゃあ、本当に何なのだろうか。思い当たる節が全くない。

 困惑する僕を、さらに混乱させるようなことを王様はさらりと言った。


「今ある全てを守って一番大事な人を見殺しにするか、一番大事な人を救う代わりに全てを捨てるかだったら、どちらを選ぶ?」


 あまりにも突飛で、気負いのない言い方だった。ケーキとサンドイッチだったらどちらがいいか、くらいに。

 理解に時間がかかった挙句、それをはっきり認識した途端、パニック状態になってしまう。


「ええっ!?そ、それって、どう、いう……」

「言った通りだ。もっと言うと、一を取るか十を取るか。その覚悟はあるのか」


 切れ長の瞳を僅かに細めて、笑みを消す。王様は本気のように見えた。

 僕にとってはあまりに急な話だが、王様には意味のある質問のようだ。間違ったら、命取りになるかもしれない。

 凍るような恐怖を感じながら、必死に考えてみる。

 まず、王様が比較対象としたのは、全てと一人だ。

 全て、がどこまでを指すのかわからない。人なのか、モノなのか。表現が抽象的すぎる。

 そして、一番大事な人。

 僕の脳裏に浮かんだのはただ一人だった。もうとっくに、決まっていた。

 一番大事な人を見殺しにするというのは、どういうことだ?

 それに、比較対象の全て、が人なら、彼女以外にもたくさん大切な人はいる。その人たちを犠牲にすることなんて、できやしない。

 綺麗ごとなら言えるかもしれない。だが、王様は許さないだろう。

 結局僕は、『弱虫』な僕は、ありきたりで情けない答えを絞り出す。


「……申し訳ありません。わかりません」


 僕の言葉に、王様は溜息をついた。


「ずいぶんズルい回答だね。ガッカリだよ」


 ズルい、か。結構、心の柔らかいところに突き刺さった。

 と、思ったら、


「まあ、そんなことだろうと思ったけどね」


 先刻までの真顔が嘘のように、はっはっはと軽く笑った。


「え」

「おや、驚いているね。意外かな?心配せずとも、君が優柔不断で浅慮な人間であることはちゃんと理解しているよ。からかって悪かったね」


 さっきからめちゃくちゃけなされているのは何故なんだ。そしてどう返せばいいんだ。

 反応に困っていると、王様は笑いながら指を振った。その瞬間、ふっと気配が現れ王様の左に人が跪く。

 どこに潜んでいたのかもわからなかった。これが、暗殺部隊の力なのか。

 その人は王様に紙を手渡すと、また影のように姿を消した。


「見事だろう?彼はうちの中でも古参でね。気配の操作と速さ、正確さはこの国においても一番だろう。レウィン・ウルにも勝る」


 王様は自慢げに言うと、紙に何かを書きつけて僕に差し出した。

 見ると、城内の地図だ。ここと同じ階の奥まった複雑な通路の先にある部屋に、しるしが付けてある。


「この後、ここに行くといい。何か、君の覚悟を決めるための材料があるはずだよ」

「覚悟、ですか」

「もちろん、行かなくても構わない。今行かなけばれば得られないものもあるだろうが、得ないことを選ぶのもまた自由。また、時間が経ってから部屋に入ったとしても、探せばなにがしかの手掛かりは得られるだろう」


 含みのある言い方だった。

 強制ではないが、誘導されているようで居心地が悪い。さっきから意図も読めない。

 僕の心を読んだように、


「何を言われているのか、さっぱりわからないだろうね。まあ、いずれわかる時が来る。その時に知らないままにしておくか、知って決断するか。どちらを選ぶか……すべて、君の責任だ」


 ただし、と王様は付け加えて、苦笑いをした。その目に微かに自嘲のようなものを浮かべながら。


「どんな結末になったとしても、後悔しないようにすべきだ。どちらも選ぶ、またはどちらも選ばないなんて答えは、自分にとっては平和でも、時として何より残酷なのだから」




 部屋を出て、王様との話が終わったことにひとまずほっとした。だが、気持ちは一向に晴れない。

 不吉な宣告が耳にこびりついて離れない。いずれわかるといわれて、はいそうですか、と納得できるはずがないではないか。

 もらった地図に目を落とす。

 今行かないと得られないもの?何のことだろう。そもそも、この小部屋に何があるというのだ。

 頭の中で行かない方がいいという警鐘が響く。忘れてしまえ、知らない方が身のためだ、と。

 それでも、ズルズルと足は地図の通りに進む。

 途中から迷路なのかと思うほど入り組んでいた。一度間違えたら行き止まりだった程だ。ふざけているのか、何か意味があるのか。

 最後の角を曲がったところで、簡素な扉が奥にあった。

 近づいてみると僅かに開いていて、灯りが漏れている。話し声も聞こえた。


「……ね、本当に。うちのハルがごめんなさい」


 唐突に自分の名前が出てギョッとする。しかも、この声は。

 音を立て内容に隙間を広げて、そっと中を覗き込む。

 やはり小さな部屋で、テーブルが一つと椅子が二つ、硬そうなベッド、大きな衣装箪笥があるだけだった。カーテンはおろか窓さえない。そこで、二人の女性が話している。

 一人はステラ姉さんで、珍しくドレスに銀製の髪飾りと、良家の子女のように装っている。それなりに上品で綺麗だが、表情は暗く、普段のステラ姉さんとは程遠い。

 もう一人はリラ様だった。こちらも何故か侍女のような恰好をしている。

 どうして、ここに二人が?しかも二人の恰好は何なのだ。

 もしかして間違えたのかと地図を見るが、やはり間違いない。


「リラ様には、本当に何と言えばいいのか……」

「ステラさんが謝る必要はありませんよ。でも、よかったら昔みたいに呼んでくれませんか?」


 ステラ姉さんは目を剥いて、


「そんなっ!そんな恐れ多いこと……」

「ステラさん。私にとってステラさんは、強くて優しいお姉さんですよ。今も、ずっと」


 二人のやり取りに違和感を覚えた。

 今のリラ様のステラ姉さんに対する態度は、まるで姉のアンジェラ様の時のようだ。おまけに、昔みたいに、今もずっと、と昔からの付き合いのように話している。ステラ姉さんが城で働き始めて、そう何年も経っていないはずなのだが。

 ステラ姉さんは迷うようにうつむいていたが、やがて、苦笑気味に頷いた。


「リラちゃんが望むなら、そうするよ。私にとっても、リラちゃんは大切な妹のままだから」


 目が点になった。

 リラちゃん?妹?……何を言っているんだ、あの人は。

 さんざん王女様に対して馴れ馴れしい態度をとってきた僕が言うのもなんだが、臣下がちゃん付けはないだろ。しかも妹って、あんたはいつから王族になったんだ。

 だが、リラ様はとても嬉しそうに唇をほころばせた。


「よかった。ステラさんだけでも、以前の私を忘れないでいてくれたら、とても嬉しいですよ」

「リラちゃん……」

「だから、本当に謝らないでください。今の状況も私の我儘を通してもらっている身です。これ以上は望みません。……望んじゃいけない」

「そんなことない!リラちゃんは何も悪くないのに、」

「悪いですよ。私の責任です」


 一体、何の話をしているんだ。

 心臓が早鐘を打って、指先が冷えてくる。これでは盗み聞きだ、早く去らなければ。なのに、足が動かない。

 ステラ姉さんが顔を歪めた。怒っているようにも、泣きそうにも見える。


「でも……こんなの、酷すぎる!いつになったらあの馬鹿は思い出すのよ!こうなったら私が話して……」

「やめてください」

「ハルにとってもこのままじゃ駄目なのよ!?間違った記憶のまま生きていくなんて、私だったら絶対に嫌!」


 ひゅっと息を飲みこんだ。

 僕の、間違った記憶?


「何より一番辛いのはリラちゃんでしょう!?今のあいつが少しはマトモになったのは、全部リラちゃんのおかげなのに!」

「それは違います。少しは手助けに慣れたかもしれないけれど、結局私は、間違ってしまった……。今のハルがよくなったのならば、それはハル自身の努力です。……本当は、私がいなくても大丈夫だったのかもしれない」

「もし仮にそうだったとしても、ハルがリラちゃんを忘れたままでいいはずがないわっ!」


 頭を殴られたような衝撃に、軽く眩暈がした。足元が、ひび割れて崩れてゆく。

 僕が、リラ様を忘れている、だって?

 ステラ姉さんは息を切らしながら、哀しげに微笑するリラ様に訴え続ける。


「全部話すべきよ!それで信じないなら、私がぶん殴ってやる!お姉ちゃんが的外れで余計なことを言ったせいであいつの誤解も加速して、このままじゃリラちゃんに合わせる顔がない!お願いだから自分は不幸でもいいみたいなこと言わないで!」

「幸せですよ」


 穏やかな、心に染み入るような声だった。

 ステラ姉さんが口をつぐむ。僕も、食い入るようにリラ様を見つめた。

 ひっそりと、水面の波紋のように微笑んで、彼女は首を横に振った。


「私は幸せです。今日は、今までで一番幸せな日です。とても、いいことがあったから。もう二度と泣かないって決めていたのに、あんまり嬉しくて、泣いてしまったくらい」


 オルゴールを渡した時のことだ。


「そうでなくても、毎日がとても幸せなんですよ。これ以上はいりません。じゃないと、私の幸せがハルを不幸にするから」


 どこか諦めたような口調で語られる言葉に、胸が締め付けられる。自分の何が、彼女に哀しい顔をさせるのかもわからないまま。


「……だから、昔の私のことなんて、思い出さない方がいい。ハルの中では、リラ・クラリス・フォードは、ずっと前に死んだのだから」




 取り落とした本がバサリと音を立てる。慌てて寄ってきた召使に、一言答えることすらできない。

 愕然と目を見開いたまま、クラウスはただ立ち尽くした。


「クラウス様、どうされたのですか!?何かご不審な点でも……?」


 震える手で召使から本を奪って、もう一度目を通す。何度も、何度も。けれど、何も変わらなかった。

 そして、衝撃からゆっくりと絶望に変わり、力が抜ける。


「……そうか。そういう、ことか……」


 乾いた笑みを浮かべながら、受け容れようのない事実に納得してしまった。いや、今まで気づかなかった自分が愚かだったのだ。ヒントはいくらでもあったのに。

 それに気づこうともしなかった、滑稽な自分。


「あの、何か……」

「護衛に伝えろ。今後、俺の警備は最小限にしろ、できれば一人もつけるな、と」


 掠れた声で召使に命令すると、相手はびっくりして首を振る。


「申し訳ありません、聞き間違えを……」

「俺の警備をするなと言って来い。命令だ」

「は、はいっ!」


 召使は震えあがりながら部屋を後にした。それを見ることもせず、クラウスは床に目を落とす。


「……そんなに、俺が憎かったんだな」


 ここにはいない人間の名前を呟いて、自嘲するように笑った。

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