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悲劇のシナリオ

「これで、おしまい」


 リラ様は静かにそう締めくくった。

 シャルキットが、ミシュア姉さんだとしたら。

 この塔に来たのは、ミシュア姉さんの願いは、つまり。


「お姉ちゃんは……し、死のうとしたの?」


 ステラ姉さんが青ざめた顔で尋ねると、ミシュア姉さんは薄く微笑んだ。


「そうだとしても、あなたには関係ないわ」

「どうかしら。本当にそう思ってるの?」


 やや冷たい声音でリラが問う。かつんと靴音を立て、ミシュア姉さんに近づく。


「ミシュアさん、あなたは死にたいだなんて思ってないわ」

「勝手に私の気持ちを決めないで」

「だって、そうでしょう?あなたは死のうと思えばいつでも死ねた。ローグ・ゼルドの手伝いをし、さらには城に忍び込んで私の命を狙えたんだもの、自殺くらい簡単よね?でもしなかった。それは何故?」


 確かに、そうだ。

 本当に死にたいなら、こんな大掛かりなことはしなくてよかったはずだ。ローグ・ゼルドの気を惹きたかったのだとしても、マントに仮面といった目立つ格好をする必要はない。

 なら、何故?


「……関係ないわ」

「そうやって逃げるの?あなたのしたことがどれだけ多くの人間を苦しめているかわかってる?王女暗殺未遂なんて、普通に考えたら即刻打ち首よ。あなたの家族にも迷惑をかけるし、哀しむわ」

「関係ないっ」

「なら、はっきり言ってあげましょうか」


 リラ様がスッと目を細める。


「あなたは自己憐憫に酔いしれて、他人を振り回しているだけ。悲劇のヒロインごっこは、もういい加減にしたら?」


 全身から血の気が引いた。


「リラ様!ミシュア姉さんにそんな……」

「ま、その通りかもね」


 場違いなほど軽く言ったのは師匠だった。呆然としていたミシュア姉さんの顔が歪み、再びもがき始める。


「離してっ、離して!」

「離したらどうなると思ってるんだよ?王女様を手を出そうってんなら、今度こそ実の弟がお前を殺すぞ。この馬鹿娘」

「師匠!お姉ちゃんは……」

「ステラは黙ってな。ハルもね」


 師匠から放たれた殺気にゾクリと肌が泡立つ。時間にすればほんの一瞬、けれど本能的な恐怖を植え付けるには十分な時間だった。それほどに、師匠の殺気は凄まじい。ステラ姉さんも青ざめて固まっている。


「だいたいわかったよ。……ったく、どいつもこいつも馬鹿しかいやしない。それと、君は戻りなよ」


 師匠が当然のように指差した相手が、不愉快そうに眉を顰める。


「俺が邪魔だと?」

「ま、それもあるよ?これは身内の問題だ。……けどそれ以上に、君はやることがあるでしょ、殿下?」

「レウィンさんの言う通り。ミシュアさんの刑を軽くすること、兵の統率、その他もろもろの後始末。そもそも王位継承権第一位のあなたが姿を消していたら、ますますことが大きくなるわ。そろそろ潮時じゃない?」


 リラ様の言葉にクラウス様が軽く目を見張る。逡巡する様子を見せた後、溜息をついた。


「……わかった。だが、お前はどうなんだ?王女がこんなところにいるのもおかしいだろう?」

「あら、私はいいのよ」


 けろりと言い放つ。それから、朗らかな笑顔でゾッとすることを言った。


「私なんていたっていなくたって同じだもの。ううん、いない方がいいわね、きっと」


 空気が凍り付いた。

 あ、まずいこと言っちゃったかなとリラ様がおどける。それが余計に恐ろしかった。ミシュア姉さんがビクッと体を揺らす。

 クラウス様は躊躇う様子を見せたが、溜息をついて頷く。そして、足早に去って行った。

 あとに残された場に、沈黙が漂う。

 僕は、どうすればよかったのだろう。今はどうすればいいのだろう。

 ミシュア姉さんを、どうすれば救える?

 焦燥感に胸を焼かれ、けれど何もできやしない。ミシュア姉さんが何を思っているのかわからない以上、迂闊なことを言って傷つけたくはなかった。

 シャルキットの御伽噺、あれがヒントだと言うのなら、ミシュア姉さんは死にたがっていることになる。それだと、中途半端に死にたがりの僕が言えることは何もない。

 けれど、リラ様は違うと言う。

 自己憐憫に酔いしれて、他人を振り回す。悲劇のヒロインごっこ。

 僕にはそうは思えない。他人に振り回され、傷つきボロボロになったのはミシュア姉さんの方なのに。

 考えれば考えるほどわからなくなって、無力感に打ちのめされる。結局、僕は救われ与えられてばかりで、誰も救えないのか。大切な実の姉でさえ。

 どうしようもなく項垂れた時、かつかつと靴音がした。その次の瞬間、パァンと乾いた音が響く。

 驚いて顔を上げると、ステラ姉さんが目に涙を溜めて手をあげていた。彼女の前には、右頬を赤く腫らし、呆然としているミシュア姉さんがいる。

 ステラ姉さんが血を吐くような声で叫んだ。


「いい加減にして!」


 ミシュア姉さんが目を見開いた。

 師匠が拘束を解く。だが、凍り付いたように動かなかった。動けなかったのかもしれない。

 ステラ姉さんが再びミシュア姉さんの頬を打ち、床に倒れたところにまたがって胸倉をつかむ。僕は慌てて駆け寄った。


「姉さん!何やってるんだ!」

「うるさいっ!黙ってろ!私は……私はもう、うんざりだ!」


 ステラ姉さんを無理矢理引き剥がすとキッと睨まれる。だが、それも長くは続かなかった。

 つり上げた瞳が下がり、大粒の涙がぼろぼろと溢れ出す。そのまま僕に縋るようにもたれかかると、僕の胸を叩いた。何度も、何度も、力なく。


「どうして……どうして、私ばっかり!お姉ちゃんとハルにばっかり才能取られて、私には何もないのに!不幸だって喚いて、嘆いて、自分の殻に閉じこもって!誰が二人のつけを払ってきたかわかる!?誰がお父さんとお母さんを慰めてきたと思ってるのよ!誰が……誰が、特別な才能もないのに、必死に家を支えてきたと思ってるのよっ!」


 激しい叫びが胸に突き刺さる。

 僕が勝手なことをしているせいで家族に迷惑をかけているのはわかっていた。……つもりだった。

 ステラ姉さんがどれだけ辛かったか、逃げ続け、自分のことしか見えていない僕にはわかっていいはずがない。どれだけ責められても、言い返せない。それだけのことをしてきてしまった。


「二人が辛いのなんて嫌って程わかってるわよ!けど、私が何も感じないとでも思ってるの!?姉と弟が苦しんでるのに助けてやれない、理由もわからない、どうしようもない!なのに、あなたにはわからないってなじられて!わかってほしいなら、自分の言葉で説明しなさいよ!」


 泣き叫びながら僕の胸を叩いていた拳が止まった。苦しそうに嗚咽を噛み殺すステラ姉さんを、僕はそっと抱きしめた。


「ごめん」

「あ、謝って……済むとでも……」

「ごめんね、姉さん。僕はどうしようもなく自分勝手だったね。……ごめんね」


 掠れた声で告げると、ステラ姉さんはきつく抱きしめ返してきた。溺れかけの人間が藁に縋るように。

 ステラ姉さんは強い。誇り高く、自信過剰で、いつだって自分を貫き通す。けれど、強いからと言って、傷つかないはずがなかったのだ。

 当たり前のことなのに、気づけなかった。自分を憐れんで、現実から目を背けてきた僕の罪だ。

 ステラ姉さんの肩越しにミシュア姉さんを見ると、衝撃を受けたような顔で固まっていた。僕と目が合うと、ビクッと震え、そのまま肩を震わせる。空っぽだった瞳に光が戻り、血の気のない頬を涙が伝う。


「だ、だって……みんな、お、おいてっちゃうんだもの」


 ステラ姉さんのような激しさはない。けれど、胸が張り裂けるような、哀しい、孤独な響きだった。


「わ、私のこと、おいてったじゃない……。私は、ステラみたいに活発でもないし、あの頃のハルみたいに無邪気でもなかったから……あなた達しか、いなかったのに」


 弱々しく肩を震わせ、喘ぐように呟く。


「ステラも、ハルも、修行なんて言ってどこかに行っちゃって、そうでなくても他の子と遊んでばかりで……私は独りぼっちだった。婚約者にも捨てられた。……もう、誰かに置いて行かれるのが嫌だったから、引きこもったのよ……。そうしたら、あなた達は私のこと、見てくれるようになった……。それからハルも、私と同じになった。最低かもしれないけれど、嬉しかったのよ……」


 語られる言葉に、驚くばかりで何も返せなかった。ミシュア姉さんがそんなことを思っていたなんて、知らなかった。


「……でも、またおいてかれた……わ。ステラはちゃんと仕事をしていて、ハルは王女様に仕えて……みんな、私のことなんか忘れてたでしょう?気にもしていなかったでしょう……?寂しくて寂しくて、死んじゃいそうだった……そんなとき、ローグさんが言ってくれたの。言うことを聞けば、戻ってきてくれるって」


 ローグの名前を口にした瞬間、苦しげに顔が歪む。それまでの恍惚としたものではなく、諦めたような、自嘲的な笑みを浮かべながら。


「本当はわかってた……利用されているだけだって、わかっていたわ。あの人は、私のことなんて駒としか見ていないって……。それでも、縋るしかなかったのよ……一度始めてしまったからには、戻れなかった。……でも、私が描いた絵で得たお金で、ひ、人を、不幸にすること、してるって……わかって……。絵だけは、残されたのに……っ、絵だけは、私の絵は、人を幸せにできたのに、それすらもう……!」


 青ざめた頬の上を涙が滑り落ちてゆく。怯えた顔で、罪悪感でいっぱいの目ですすり泣くミシュア姉さんを、どうして責められるだろうか。


「ごめんなさい……ごめんなさいっ。み、認めたくなかった……それだけは認めたくなかったの、だからっ。わ、私は、ローグさんが正しいって、助けてくれるって思いこんで……本当はわかってたのに……ごめん、なさい。とうとう、何の罪もない王女様を殺そうとして……」


 ミシュア姉さんが僕を見た。ハル、と消え入りそうな声で呼びかける。


「ごめんね……ごめんなさい。王女様を殺そうとした時、そ、それから、今日のこと……。ハルが、本気で私に殺意を向けた時、自分で自分が嫌になった……。ハルにすら憎まれる、なんて。どんなに自分を憐れんでいても、家族だけは私を捨てることはないって、どこかで思ってたんだわ……。それに気づいて、いっそう自分が嫌になって」


 聞きながら、後悔と自己嫌悪で胸が張り裂けそうだった。

 最後にミシュア姉さんを追い詰めたのは、やはり僕だった。僕があんなことをしなければ、ミシュア姉さんは死のうとなんてしなかったのだ。

 ぐらぐらと、地面が揺れるような錯覚に襲われる。結局、僕が悪かったのだ。僕さえいなければ、姉さん達がここまで傷つくこともなかったのに。


「けれどあなたは、死ぬのも怖かった。死にたくなかった。そうね?」


 透き通るような声にミシュア姉さんが身を竦める。


「ミシュアさん。あなたは、完全に見捨てられる前に、少しでも爪痕を残そうとしたのでしょう?自分の痕跡が、消えてしまわないように。……寂しかったのでしょう?」


 リラ様が静かに歩み寄ってくる。そして、ふわりと微笑んだ。


「御伽噺の中のシャルキットも、自分の本心に気づかず、周りの人に気づくこともできなかっただけで、本当は孤独を恐れていたのだと思うわ。そこから救ってくれる人も、確かにいたのに」


 ミシュア姉さんの前に膝をつき、その手を取って、自分の手で包み込む。驚く姉さんに対し、リラ様は穏やかな笑みのまま、


「さっきは酷いことを言ってごめんなさい。乱暴な言い方をしたのは、目を覚ましてほしかったからよ」

「ど、して……だって、わたしは、殺そうと、して」

「死んでないわ。ミシュアさんに対して怒ってもいない。あなたがやったことは決していいことではないけれど、少しだけ、わかるから」


 伏せた瞳が淡く憂いを帯びる。


「私も、私の歌が人を不幸にするとしたら、辛くてたまらないだろうから」


 哀しげな響きにドキリとした。

 それは本当に、ただの例えなのだろうか。

 苦しそうなその目は、まるで本心を語っているかのようで、僕まで息苦しくなる。

 天真爛漫で無邪気な子供でも、強く凛とした大人の女性でもない、危うい儚さを持つ少女のような顔。彼女が時折のぞかせる影。

 それが、リラ様の本質なのだとしたら、僕は大切なものを見落としてきたのではないか。

 何故だかそんな不安が頭をもたげてきて、僕はそれを振り払った。今は、ミシュア姉さんに意識を向けなければならないのだから。


「あなたは間違っているわ。ミシュアさんを思ってくれている人は、こんなにたくさんいるのよ。暗く冷たい世界にこもっていれば、確かに傷つかなくてすむでしょう。……けれど、ミシュアさんが心から求めているものは、その外側にあるのよ」

「……でも、もう遅いわ」

「いいえ。何かに気づいて、それをやり直すのに、遅いなんてことはないのよ」


 リラ様がこちらを、僕を、見た。

 唇をほころばせ、慈愛に満ちた眼差しで、同意を求めるように。

 覚えている。忘れるはずがない。僕だって、同じ言葉に救われたのだから。

 リラ様は何も言わない。けれど、あなたの番よと瞳が訴えている。見えない手に、背中を押される。

 いつだってリラ様は、僕をどん底から掬い上げて、光のあたる道を示してくれた。

 だから、今度こそ間違えないように。


「ステラ姉さん、行こう」

「……嫌よ。勝手に行けば」


 拗ねたようにそっぽを向く。仕方がない、ステラ姉さんは何度も手を伸ばしては、その手を払われてきたのだから。


「じゃあ、先に行くよ」


 それでも、ステラ姉さんは来てくれるだろうと思った。世界中の誰より、ミシュア姉さんを心配して、気にかけてきた人だから。

 ステラ姉さんの腕をそっとほどいて、ミシュア姉さんの元まで歩く。リラ様が立ち上がって場所をあけてくれる。

 そこに、ミシュア姉さんの前に膝をついて、笑いかけた。


「ごめんね、姉さん。僕は自分のことばかりで、姉さん達のことがまるで見えていなかったよ。ミシュア姉さんがそんな風に思っていたのも、知らなかった。てっきり、姉さんを守れなかった僕を恨んでいると思っていたから」


 血に汚れたキャンバス、倒れたミシュア姉さん、それらを塵でも見るように蔑んだローグ・ゼルドと、あいつにただやられるだけだった惨めな僕。

 『弱虫』であることへのコンプレックスは、あの日から始まった。

 けれど、認めよう。僕は今でも『弱虫』で、人の心がわからないガキだ。

 そんな『弱虫』でも、救える人がいるならば、僕も変わっていけるかもしれない。


「僕は姉さんを置いて行ったりしないよ。あの時だって、ミシュア姉さんを傷つけたくはなかった。大切な家族なんだ、当たり前だろう?」


 ミシュア姉さんが信じられないものでも見るように、唇を震わせる。そうして、懇願するように、縋るように、僕を見上げてくる。


「わ、私を、許してくれる?」


 僕は笑ったまま首を横に振る。そのまま、ステラ姉さんにしたのと同じように、優しく抱きしめた。


「許すも許さないもないよ。僕こそ、ごめんね。……ちゃんと話して、向き合っていこう。もうひとりぼっちにはしないから」


 僕の気持ちは届いただろうか。今度こそ、間違えてはいないだろうか。

 すると、ミシュア姉さんは僕の背中に腕を回して、声をあげて泣いた。か細い声、けれどただ涙をこぼすばかりだった姉さんの、確かな叫び。

 ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返す姉さんの背中をさすっていると、僕らごと強く抱きしめてくる人がいた。


「お姉ちゃんのばか、ばか、ばあああかっ!私が置いて行くわけないのにっ!馬鹿!でも……ごめんねっ」


 ステラ姉さんが泣きながらギリギリ締め付けてくる。そんなつもりはないのだろうけど結構苦しい。けれど、それ以上に嬉しかった。

 これからミシュア姉さんの処分がどうなるかはわからない。やったことは国家反逆罪ととらえられてもおかしくないし、取りあえず牢屋行きにはなるだろう。僕らでどうにかするしかない。

 それでも、それでも。


「一件落着、なの?あーあ、めんどくさい姉弟に巻き込まれたこっちとしてはたまらないよ。てか、ミシュアを助けてやったのあたしなんだけど」


 師匠の呆れた声がする。文句を言っているわりに満更でもなさそうだった。リラ様がくすりと笑う。


「あとでお酒でも飲みますか?クラウスの権限で」

「おっ、いいねぇ。そうと決まったら~」


 視界からミシュア姉さんが消えた。ギョッとして見ると、師匠がミシュア姉さんを担いでいる。


「ほら、早く帰るよ!ったく、いつまで泣いてんだよだらしない。こいつはボロボロだから、あたしが特別に運んでやる。ハルは王女様のエスコートでもしてな」

「ま、待ってください師匠!私はお姉ちゃんに言い足りないことが……師匠!」


 ステラ姉さんが目をごしごし擦って、慌てて追いかけてゆく。塔の上には僕とリラ様だけが残された。

 目が合う。

 透き通った瞳が優しく僕を見つめて、どこか息苦しくなる。柔らかな眼差し。


「あ、あの……すみませんでした、色々と。その、巻き込んで」


 何と言ったらいいかわからず、つっかえながら言葉を口にする。リラ様は静かに首を横に振った。


「謝ることじゃないわ。ハルは、頑張ったじゃない」


 ね、と小首を傾げる。可憐さにドキリとしながら、先ほどの哀しい顔がちらつく。

 自分の歌が、人を不幸にする、と。

 何故あんなことを言ったのだろう。聞いたら教えてくれるだろうか?リラ様のことだから、はぐらかすかもしれない。

 冷たい風が吹き荒れて、僕らの間を通り抜けてゆく。雲が流され散らされ、太陽を隠した。

 影の落ちた世界で、リラ様がふわりと微笑んだ。


「もう、私がいなくても大丈夫ね」


 何を言われたのか、わからなかった。

 息が止まった。目を見開いてリラ様を凝視する。


「ハルは強くなったわ。とても、とてもね。それに、ハルを大切に思っている人はちゃんといる。もう、私にこだわる必要はないのよ。好きにして、いいの」


 朗らかな声で、何でもないことのように語る。安らかな笑みがあまりに遠い。

 どうして、そんなことを言うんだ。まるで死ぬ前のように。


「私の我儘に付き合ってくれてありがとう。もう、いいから」


 意味が分からない。唇を強く噛み過ぎて、血の味がした。


「……なに、言ってるんですか」

「大丈夫、私のためにもう無理する必要は……」


 薄い肩をつかんだ。勢いが強すぎて押し倒してしまうが、もしここに誰が来たらどう思われるかなど、考えている余裕はなかった。

 これ以上聞きたくなかった。何かが、壊れてしまいそうで。


「意味が分からない……っ、何で、そんなこと言ってるんですか!僕がもう面倒ならそうと言ってください!けどっ、そんな……僕の気持ちまで否定しないでください!」


 血を吐くような声で叫ぶのを、リラ様は驚いたように見ている。

 折れそうに華奢な手首を握り締めた。手加減なんてできそうにない。離したら、消えてしまいそうで。

 リラ様がいたからここまで来れた。リラ様は僕の唯一の光だった。

 全然大丈夫なんかじゃない。

 光のない世界じゃ、何も見えない。真っ暗な絶望の底に溺れてしまう。


「僕が嫌いですか。鬱陶しいですか。自分でも重くてどうしようもないのはわかってます。もうやめますから、だからっ!」

「違うの。私がハルを嫌いになることはないわ」


 澄んだ声が鼓膜を震わせる。美しいその響きに、何故だか体中の力が抜けてしまった。

 リラ様が自由になった腕を僕の背中に回す。ごめんね、と囁かれた。


「私は、たとえあなたがどんな風になっても好きよ。愛しているわ。……きっと、あなたが壊れても、たくさんの人を殺して、その返り血で酷い姿になっても、愛さずにはいられない。ハルのことだけは、公正な目で見ることができない」


 瞠目した。

 リラ様が僕を大切に思ってくれているのは知っていた。わからないはずがない。けれど、どう思っているのかは聞いたことがなかった。


「だからこそ、ハルに幸せになってほしいの」


 自分でも顔が歪むのがわかった。


「私にこだわってはダメ。私はただ、ハルが苦しんでいるときに近くにいただけ。間違った人を好きだなんて思い込んだら、可哀想だもの」

「そんなことっ」


「ハルは私を知らないから」


 心臓が脈打ち、凍りつく。喉の奥でひゅっと嫌な音がした。

 景色が黒く塗りつぶされてゆく。血の匂いのする黒い水が濁流のように押し寄せて、息ができなくなる。甘い匂いが立ち込め、紫の霧が揺らめいた。

 あどけなさを残す少女の声が甲高く響く。嘲笑する。


 何も知らないくせに、何も知らないくせに、何も知らないくせに!


「ごめ、なさ……っ、ご、め」


 息ができない。溺れ死んでしまう。それが、彼女の望みなのかもしれない。

 セレナを死なせたくせに、自分だけ幸せになろうとしたから。


『あたしのこと、何も知らないくせに。あなたもあたしを裏切るのね』


 違う、違う違う違う、そんなつもりじゃなかった。

 セレナを傷つけるつもりじゃなかった。

 紫の霧が集まって、ヒトの形になる。まだ幼い少女だった。柔かそうな薄茶の髪が顔の上半分を覆っていた。形のいい唇に笑みを浮かべて、少女が僕の首に手を伸ばす。

 謝ったところで許されない。一生、彼女の死を背負わなければならないのなら。

 見開いた目から涙がこぼれ落ちて、黒い水と混ざり合う。溢れ始めたそれはとどまることを知らないが、彼女の姿は鮮明になるばかりだった。

 彼女の望み通り、殺されてあげるべきなのかもしれない。


「せれ、な……ぼくは」


 どうすればよかったの?


 目を閉じる。何も見たくない。

 細い指が喉に食い込むのがわかっても、止めなかった。

 その時、柔らかな何かが唇を塞いだ。

 甘い香りが広がる。さっきまでのものと違う、優しい、春の花。少しだけ血の味もした。どこか懐かしいそれに、凍った心臓が融けてゆく。もう嘲笑も聞こえない。

 何もわからず、けれどそれがあまりに安らかで心地のよいものだったから、ただ受け入れた。

 何かがゆっくりと離れた。花の香りが遠ざかり、冷たい空気が喉を刺す。

 目を開けると、ぐらぐら揺れて定まらない視界に、澄んだ青があった。黒でも赤でも紫でもない、透き通った青。

 それが涙をたたえた瞳だと気づくまで、ずいぶん時間がかかった気がする。


「りら、さま?」


 リラ様が綺麗な顔を歪める。それから、必死に笑顔を浮かべて頷いた。


「ええ、そうよ。大丈夫よ。ここにいるのは私とハルだけなの。あとは、誰もいないわ。……ごめんね。無神経でごめんなさい。わかっていたのに、私は……最低だわ……」


 笑顔が剝がれる。苦しそうに呟いて、血の滲む唇を震わせた。

 ほっそりした指が、僕の目元を拭う。


「ごめんね……ハルは、まだ辛いのね。でも、もう時間がないの……。できることなら、あなたが本当に一人で立てるようになるまで、ずっと守ってあげたかった。……そんな資格、私にはないけれど」


 澄んだ声で紡がれる言葉が、擦り抜けてゆく。何を言っているのだろう。


「りら、さま?何を言っているんですか?今のは、僕のせい、です。幻覚……ううん、きっと、本当のこと……」


 言葉にすると、胸が張り裂けそうだった。

 セレナに言われた言葉を思い出して、またおかしくなったのだろう。リラ様は何も悪くない。これは、僕だけの話。

 なのに、どうして謝るのだろうか。


「……は……だもの」

「え?」


 よく聞き取れなくて首を傾げた。

 リラ様が泣き笑いのような表情になる。ゆるゆると首を横に振り、僕の目を覗き込んで、言った。


「いきなり変なことを言って、ごめんね。全部忘れていいから。帰りましょう……ね?」


 懇願と懺悔が入り混じった瞳。酷く哀しい色で僕を映すその瞳は、やはり見覚えがあった。けれど、どこで見たのかは思い出せない。


「……はい」


 掠れた声で答えると、リラ様はゆっくりと目を伏せた。また、聞き取れない言葉を残して。




 ハルを壊したのは、私だもの。

 



 私さえいなければ、御伽噺が悲劇になることもなかった。


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