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シャルキットの物語

 それは、遠い遠い昔のお話。黄昏色のベールに包まれた、誰からも忘れ去られた物語。

 

 彼らの存在が『記録』ではなく『記憶』だった頃を語りましょう。




 千年以上前のこと、とある国に一人の美しい娘がいました。

 心優しく、芸術に関する才能にも恵まれ、あらゆる人々が彼女を羨みました。国中の男性が恋に落ち、女性は彼女を承継の眼差しで眺めて、いつしか人々は、神に愛された娘と呼ぶようになりました。

 娘の描いた絵は飛ぶように売れます。娘が舞踏会に現れれば多くの貴公子が心を奪われます。娘が歩いた道さえ輝いているかのようでした。

 娘は幸福でした。

 娘のおかげで家は裕福になり、家族のみんなが娘に感謝しました。友達もたくさんいました。恋はしたことがなかったけれど、絵を続けながら、まだ見ぬ夫と穏やかな家庭を築くことを夢見てもいました。

 とある青年に出会うまでは。

 彼は孤独な人でした。いつも底が見えない冷たい目をしていて、誰のことも受け入れず、興味さえ持たず、ただ独りでおりました。

 けれど、娘の才能は認めたのです。

 青年は言いました。

「お前はまだまだ未完成だ。だからこそ、お前の才能は高みを目指すことができるだろう。そのままにしておくにはあまりに惜しい」

 優しさなど欠片もない声。なのに、娘はこみ上げてくる感情を抑えることができませんでした。

 この人に認められたい。

 それからの娘は人が変わったように絵に打ち込み、家族とさえあまり話さなくなりました。高みへ、もっともっと素晴らしいものを。あの人に認められるために。それだけを糧に、痩せ衰えていく身体に鞭を打ち、数々の作品を生み出していきました。

 そのどれもが鬼気迫る出来栄えで、多くの人に称賛されました。

 けれど、青年はすぐに次を求めました。

 そして、一時的に認めることはあっても、決して娘を愛することはありませんでした。




 月日が経ち、美しかった娘も幽鬼のような姿になり果て、病気がちになりました。心配した家族や友人は娘に絵を描くことをやめさせようとしました。けれど、筆を取り上げようものなら発狂する彼女を、誰が止められたと言うのでしょう?

 そう、誰にも止められなかったのです。

 恋に溺れた娘は心身ともに衰弱しながら、命がけで絵を描き続けました。

 なのに。

 娘が報われる日が来ることはありませんでした。

 ある日青年は言いました。


「お前はもう用済みだ」


 冷たく、無慈悲に、娘の世界は崩壊しました。




 リラ様は一旦言葉を切ると、長く息を吐いて目を閉じた。

 凍り付いたように誰も何も言わない。身じろぎすらしない。語り手の美しい瞳が再び開く時を、ただ待っている。

 僕はと言えば、聞いたばかりの御伽話に動揺し、恐怖していた。

 主人公の娘はミシュア姉さんそのものじゃないか。冷徹な男もローグ・ゼルドの特徴に当てはまる。だから、怖い。その先を知るのが。

 視線だけを動かしてミシュア姉さんを見る。

 笑っていた。

 もう笑うしかないのだとでもいうように、哀しく。

 パンと乾いた音がして沈黙が解かれる。強制的に視線を引き戻され、ゆっくりと語り手の瞼が上がった。


「誰か……ミシュアさん以外の人で、この物語を聞いたことがある人はいる?」

「……少しだけなら」


 首を横に振る面々の中で、クラウス様が答える。その顔に躊躇いが浮かんでいるのを見て、冷たい何かが体の奥からこみ上げるのを感じた。


「……シャルキットとは、つまりそういうことなのか?」

「それは私にもわからないわ。私はミシュアさんじゃないから。……クラウスしか知らないみたいだから、ともかく続けましょうか」


 リラ様はそう言って、再び語り始めた。




 その日から娘は狂気にとりつかれました。全てを傾けて愛した人から捨てられたという事実を、娘は受け入れることができなかったのです。

 娘は自分の部屋に鍵をかけてこもり、一歩も外に出なくなりました。家族が呼び掛けても、友人が心配しても一言も応えずに。

 そして、それまで描いた絵を全て破り、燃やし、あるいは塗り潰しました。それだけでは飽き足らず、自分の部屋の壁を、床を、カーテンを絵の具で塗りつぶし、刃物で傷つけ、形のあるものは全て壊しました。

 壊して、引き裂いて、砕いて、壊して壊して壊して。

 けれど、娘は満たされませんでした。満たされるはずがありませんでした。

 ある日、娘は止まりました。

 破壊された部屋の真ん中に立ち、天井を仰いだまま、静かに泣き出しました。

 自分の人生は何だったんだろう。

 自分は何のために生まれてきたのだろう。

 どこで間違ったのだろう。

 何が欲しかったのだろう。

 引き裂かれた記憶の中を探しても、何も見つからない。それどころか、娘は自分の名前さえ思い出せなくなっていました。

 もう、やめよう。こんなに辛いなら生きている意味などない。

 せめて清らかで美しい場所で眠りたい。

 それだけが、壊れた娘の唯一つの願いでした。

 娘は、瘦せ細り皮と骨だけになった体を隠すために黒いローブを纏い、幽鬼のような顔を不気味な仮面で覆いました。


「名前はどうしよう……もう、これまでのワタシはいない、から?……そうだ」


 シャルキットにしよう。

 娘は仮面の下で笑いました。

 それは、娘の出世作と言われている絵のモデルとなった城の名前でした。もちろん娘は覚えていません。ただ、記憶の片鱗が残っていただけ。それがおかしくて、おかしくて、娘は掠れた声で笑い続けました。

 シャルキットは家を飛び出すと、自分が眠る場所を求めて彷徨い続けました。北の大国へ、南の島へ、西の砂漠へ、東の大河へ。まるで亡霊のように、たった一人で。

 けれど、いつまでたっても自分の求める場所は見つかりません。

 それどころか、シャルキットの寿命は止まっていました。仮面を被ったあの日からとうに百年以上の歳月が過ぎていたのです。

 けれど、シャルキットは気づきませんでした。それも当然かもしれません。彼女の心は、あの時から止まっていたのですから。

 各地を巡り続けて、更に百年。とうとうシャルキットは、自分の故郷に帰ってきました。

 二百年もたった故郷は、別人のように姿を変えていました。

 シャルキットは自分の故郷を覚えていません。その故郷も変わってしまいました。

 それでも、シャルキットの飢え乾いた心はやっと満たされたのです。

 ここで死のう。安らかに眠ろう。

 シャルキットはとある塔に惹かれ、ゆっくりと登っていきます。その塔は、かつてシャルキットという城があった場所でした。

 塔のてっぺんに辿り着き天を仰げば、優しい青が一面に広がっています。


「きれ……いな、いろ……かきたい……」


 シャルキットは塔から身を投げました。

 穏やかな、満ち足りた微笑みを浮かべて。

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