彼女の生きる意味
「別れを告げて終わりにしたつもり?……戻ってきてよ。まだ何も、始まってすらいないじゃない!」
透き通った清らかな声が、真っ暗な血の海をかき分け、吹き払い、通り抜けていく。
まただ。
今度こそここからでないと決めたのに、またその声が僕を呼ぶのだ。僕には不釣り合いな光が、瞬いて。
もう、戻りたくなんかないのに。繰り返したくないのに。
泣き出しそうなその声が、僕の名前を呼ぶ。ハル、戻ってきて、と。
どうしてか、その声だけは裏切ってはいけない気がした。僕だけは、彼女の願いを、守らなければならないのだと。
あでやかな茜色が脳裏を過り、何かが浮かび上がろうとする。けれどそれは、泡のように溶けていった。
長い長い夢から目覚めた後の倦怠感に包まれる。が、それをかき消すかのように強く揺さぶられた。
「……して、どうして、諦めようとするのっ?それでいいと、終わりにしようとするの?」
長い銀髪がさらさらとこぼれる。見開かれた大きな瞳が、哀しみに潤み、けれど強く輝いていた。
ああ、そうだ。思い出した。
僕はこの人を守りたくて、一緒にいたくて、戻ってきてしまうのだ。
「……て、だって、無理なんですよ。リラ様のおかげでもう一度前を向けたけど、結局駄目だった。ぼく、は、もう」
「それでも前を向きなさい」
リラ様の叫びが突き刺さる。それでも、前を向け、なんて。
「な、んで」
「あなたが生きることをやめてしまったら、私の存在理由も消えてしまうわ」
息が止まった。
僕がやめたら、リラ様の存在理由が消える?どうして、そうなるんだ。
わからない。わからないよ。それじゃまるで、僕がリラ様の全てみたいじゃないか。そんな風に自惚れていいはずがないのに。
柔らかな白い手が、そっと僕の頬に添えられる。そうして、泣きそうな目で微笑んだ。
「これはね、私の願いで、我儘だよ。だから、ハルが言う通りにする必要はないの。……でも、お願い。諦めないで」
お願い。
記憶のどこかにしまいこんで、風化しておぼろげになり、けれど、どうしても消えない声が、囁いたような気がした。
そういえば、同じ目だ。
今更になって気づく。もう、彼女の姿は霞んで、はっきりとは見えないのだけど、同じ目をしていたような気がするのだ。
深く澄んで透明な、哀しみをたたえた色。けれど光を失うことは決してなく、奥底では光が揺らめいていた。
「で、も……でも、ぼくは、」
喉が引き攣る。上手く、言葉が紡げない。
長い黒髪が風に靡いて、広がって。蝋細工のような手が、あまりにも遠かった。
ミシュア姉さんを追い詰めたのは、他でもない、
「ねえ、さん……を、ころして……」
僕、だ。
再び、心臓が引き裂かれるように痛む。いっそバラバラになってしまえばよかったんだ。
全部、僕のせい。僕がいなければ、姉さんは飛び降りなかったのに。
「大丈夫だよ」
優しい、温かく澄んだ声が、絶望する僕をそっと包みこんだ。
「え……?」
「大丈夫……大丈夫だから。ハルはミシュアさんを殺してなんかないよ。ちゃんと、生きてるから」
目を見開く。その拍子にたまっていた涙が、溢れてこぼれ落ちる。熱いような冷たいような温度に、唇が震えた。
「ねえ、さん……が、いき、て……?」
「うん。生きてる。……ほら」
ほっそりした指がそっと示す。その先を辿り、息が止まった。
師匠に抱きあげられた黒髪の少女。気を失っており真っ青だが、まぎれもなくミシュア姉さんだった。
「みしゅあ、ねえ、さん」
「心配すんなって。ちゃんと生きてるよ」
師匠がニッと笑う。それから、場違いなほど明るい調子で、
「いやあ、でもヤバかったねえ!城の壁を移動してたら、上からミシュアがおっこってくるもんだから、たまげたよ。ま、あたしにかかれば助けるのくらいどうってことないけどさ!」
僕は、ミシュア姉さんを殺していなかった。
生きている。……ミシュア姉さんは、生きている。
その瞬間、数年前の悪夢が脳裏に浮かび上がる。鮮血が暗闇に飛び散り、むせ返るほど甘い香りが漂う中、少女が倒れる。
あの時、僕の目の前で彼女は死んだ。僕のせいだと罵り、微笑んで。
目の前の光景が過去と重なる。それから、ゆっくりと溶けて、流れていった。
「お、おい!泣くこたぁねえだろ!何で泣いてんだっ、生きてるって言っただろ!?つーか、あたしの弟子でしかも男なのに泣くなって!」
師匠がおろおろと叫ぶ。
嬉しいのか、哀しいのか、よくわからなかった。感情が入り乱れて、ぐちゃぐちゃで、それでもどこかでほっとしていた。
ミシュア姉さんが生きていて、よかった。
それから少しして、僕が落ち着いた頃。リラ様達がかわるがわる状況を説明してくれた。
こぼれ落ちる涙を拭う。そうして、どうしたらいいかわからなかったから、取りあえず笑おうとした時。
師匠に抱きかかえられていたミシュア姉さんの指が、微かに動いた。
緊張が走る。指先が冷えてゆくのを感じた。
長い睫毛が震えて、静かに瞼が開かれる。大きな黒目がちの瞳に虚無が広がり、それもすぐに憎悪に潰された。
「な、んで……こんな、ところにっ」
飛び出そうとするのを師匠が無理矢理押さえつける。ミシュア姉さんは必死に暴れるが、師匠に敵うはずもない。やがて諦めたように動かなくなったが、黒々とした瞳は底冷えし、真っ直ぐに憎悪を向けてくる。
色を失った唇が開き、苦しげに言葉を吐き出す。
「よくも……っ!わたし、は、願い……叶えるために、なのに!どうして……生きてるのおおお!」
ミシュア姉さんの顔がくしゃりと歪む。荒かった呼吸がますます酷くなってゆく。
僕は何も言えずにうつむいた。
追い詰めてしまったのは僕だ。だから、僕に何かを言う資格はない。胸の痛みを堪えて、ただうつむくことしかできなかった。
「お姉ちゃん、願いって何なの?何を叶えたかったの?」
微かに震えた声が場に落ちる。声のする方を見ると、ステラ姉さんが勝気そうな目を潤ませて立っていた。ここから少し離れたところに、クラウス様もいる。
ミシュア姉さんは答えない。
ステラ姉さんはなおも苦しそうに続ける。
「お姉ちゃんにないものなんて、全然ないじゃない。だってお姉ちゃんはシャルキットだったんでしょ?みんな、お姉ちゃんの絵を欲しがった。なのに、何が足りないの?」
ステラ姉さんは必死だった。
緑の瞳に涙をいっぱい溜めて、自分の一言でミシュア姉さんを失うのではないかと恐れながら、それでも必死で言葉を伝えようとしていた。
それでも、ミシュア姉さんは答えない。
「ねえ、何で?私達がいけなかったの?……あの男のせい?あいつが何か……」
「……ね」
低く掠れた声が遮る。
それまでここではないどこかを彷徨っていた瞳が、ステラ姉さんを見た。
蔑むように、哀れむように、うっすらと微笑む。そうして、地を這うような声で吐き出した。
「愚かね……。私のことを何もわかっていないのに、まだそんなことを言うの?誰も、わかってない、のにね……」
ステラ姉さんが凍りつく。
何もわかっていない。その通りだった。
僕は何一つわかっていない。わかっていないまま、自分の気持ちを押しつけて、追い詰めてしまった。 もう、きっと、どんな言葉もミシュア姉さんには届かない。
一度、絶望の底に堕ちてしまったミシュア姉さんを救い出すことは、僕にはできない。
どうしようもない無力感に目の前が暗くなるような気がした時、靴音が高く響いた。
リラ様が僕から離れ、ミシュア姉さんの方へ近づいてゆく。
銀髪がさらさらと揺らし、ゆっくりと、けれど確実に歩み寄る。ミシュア姉さんの顔に微かな驚きが浮かんだ。
誰も何も言えない。動くことすらできないほど張り詰めた空気の中で、リラ様が足を止めた。
そうして、光に溢れた青い瞳をそっと細め、桜色の唇をほころばせ、春に咲く花のように可憐に、優しく微笑んだ。
「いいえ、ミシュアさん。わかっているわ」
ミシュア姉さんの目が驚愕に見開かれる。
「何を……」
「あなたの願い、夢。シャルキットの名に込められた想い……。ちゃんとわかっているわ」
ミシュア姉さんはハッとしたように顔を上げる。既に怒りは消えているようだった。
リラ様が一冊の古びた本を掲げる。
よく見ればそれは、塔でミシュア姉さんを見つけた部屋にあった本だ。開かれたページには、シャルキットとよく似た人物の絵が描かれている。
「一つ、古い物語を聞かせましょう。昔々の伝説。人々の歴史に埋もれた、遥か彼方の御伽噺をを」
優しく澄んだ、子守唄を歌うように温かな声で、リラ様は物語を語り始めた。