絶望の螺旋
ああ、また。ここに来たのか。
どす黒く塗りつされた空を見上げて、ただそんな感想を抱いた。
ゆらゆらと身体が頼りなく漂う感覚。どこを見ても真っ暗で、冷たい。血の臭いのする水の中に浮かんでいるのか、沈んでいるのか、感覚が麻痺した体ではわからなかった。
まただ。また、守れなかった。
「……いや、違う……か」
自然と乾いた声がこぼれた。それも、すぐに消えてしまう。
ここでは何もできない。ただ、血の海の底へ沈むのを待つだけ。
それなら、もうそれでいいや。
いつもいつも、ここから這い上がってはまた戻ってきた。何年たっても繰り返しで、もう前なんて向けそうにない。僕はここにいなければならなかったのだと、今更気がついた。
本当に遅すぎる。僕がいていい場所なんて、ここしかなかったのだ。どうして気がつかなかったんだろう。
温もりに触れて、光に手を伸ばして。けれど、どうしたって僕が未来に向かって歩けるはずがなかったのだ。
僕がそれに気がつかなかったせいで、ミシュア姉さんは死んだ。
僕が、殺した。
しかし今は、何の感情もわかなかった。哀しいだとか苦しいだとか罪悪感だとか自己嫌悪だとか、本来持つべき感情が、欠片もない。何も、感じない。いっそ楽なくらいに。
もう、このまま眠ろうか。
そうすれば、誰かを傷つけることも、誰かに傷つけられることもない。誰かを殺すこともない。もう絶望しなくていい。
今度こそ、本当に。
何かが腕に絡みつく。腕だけでなく、足や腰にも巻きついてからめとられる。そうして、揺れる水底へと引きずられていく。
ふいに、血の臭いに混じって、懐かしい甘い香りがした。ほっそりした白い手が、僕の首に当てられる。さらさらと淡い茶色の髪が揺れて、髪に結んだ薄紫のリボンも一緒に揺れた。
彼女が、数年前と同じ姿で、僕の唯一の光だった優しい笑顔で、僕の前にいた。
一人にして、ごめんね。待っていてくれたのかな。
「ねえ、ハル。一緒に行こう?」
あの頃と同じ、砂糖菓子のような甘い声に包まれる。
僕は小さく微笑み返し、目を閉じた。
指先から徐々に凍りついてゆく。息が途切れて、緩いまどろみに襲われる。苦しいとは思わなかった。
絡まりながら沈んでいく。消えてゆく。
もう二度と、光を見ないように。
ざわざわと、風が木々を通り抜ける音がして目を覚ました。
霞む目を開き、ゆっくりと体を起こす。視界がグラグラして、まだまともに考えられそうになかった。
何か、あった気がする。思い出せないけれど、何かが。何だっけ。
ぼんやりとした形は、やがて沈んで見えなくなってしまった。もう、いいや。きっと、たいしたことじゃないんだろう。
焦点があってくると、いくつもの大木が目にとびこんできた。下に目をやれば、柔らかな土の上に草が生えている。わきにある巨大な岩には、びっしりと緑の苔が生えていた。
森だ。森にいる。
何故という疑問は、次の瞬間消し飛んだ。
視線の少し先。一際巨大な気に向かって走っていく、黒髪の少年の姿がそこにはあった。
小柄で華奢な少年が巨木に拳を叩き込む。重い音がし、同時に少年の身体が吹っ飛ぶ。巨木が僅かに揺れてはらはらと木の葉が舞った。
地面に叩きつけられた少年は、すでにボロボロだった。土で汚れ、あちこちが擦り切れて破れ、全身傷だらけの姿は痛々しい。それでも、よろよろと弱々しく立ち上がる。
足元が覚束ないようで、少年の身体がグラリと傾ぐ。だが、前に進む。少年の頭には進むことしかないのだから。
そして、その少年の目が真っ暗で、狂気にとりつかれていることも、僕は知っている。
あの少年は、僕だから。
ただただ強さを求め、強くなれば大切な人を守れると信じ切っていた頃の、愚かで哀れな、小さな子供。
轟音が森を揺らす。ばらばらと葉が雪崩のように降り注ぎ、鳴き声をあげて鳥が羽ばたく。
僕はガクリと地面に膝をつき、息を吐き出す。いつの間に切ったのか、口の中に鉄の味が広がった。呼吸をすることさえ苦しい。目が霞んで何も見えない。
それでも、まだやれる。やらなきゃいけないんだ。
もう二度と、ミシュア姉さんの時のようなことが起こらないように。
身体が壊れたっていい。強くなれないなら死んだ方がマシだ。
悲鳴を上げる体を無理やり起こして、ずるずると身体を引き摺る。ぼやけて何一つ見えないが、もう何十回も当たりに行っている木だ。見えなくてもある程度感覚でわかる。
皮がむけて血だらけの手を握りしめる。そのまま後ろに引いた時、
「無理しちゃ駄目よ、ハル」
甘い声が耳元で聞こえ、後ろから腕が回された。必死でつなぎ止めていた緊張の糸が切れ、前のめりに倒れ込む。
「あ……」
何か言おうと口を開いたが、言葉はでなかった。乾いた吐息と血だけがこぼれる。
何て情けない。
しかし、彼女はそんな僕を優しく撫でて
「大丈夫よ。あたしはここにいるから。あまり無理すると、ハルが壊れちゃうわ……」
「そ、れで……も……」
「駄目。……死なないで。ハルがいなきゃ、誰があたしを守ってくれるの?……守ってくれるんでしょう?」
慰めるように紡がれる言葉には、どこか甘えた響きがあった。彼女の言葉が、嫌でもあの日のことを思い起こさせる。
ローグ・ゼルドによって思い知らされた、僕の無力さを。
「ま、もる……なに、が、あっても……」
「ええ、信じているわ」
蜜のような甘い声が、ボロボロの身体に沁み込んでゆく。紫の霧が、ぼんやりと視界で揺れていた。
「守ってね、ハル。あたしは何があっても、あなたの味方よ」
地獄にも、一緒に堕ちてあげるから。
砕け散った意識が、バラバラになったまま闇に吸い込まれてゆく。
ふっと意識が戻った。
いつの間にか、数年前の自分の記憶を見ていたらしい。
目を覚ました場所はさっきの森ではなく、かといって危うくなると見える血の海の中でもない。
崖だった。
後ろには草原が広がっていて、遠くに森が見える。風が通り抜けるたびに、さわさわと草が揺れる。森とは違う、音。
視線を戻すと、切り立った崖のふちに、誰かがいた。
向こう側にも陸地はあるが、橋は架かっていない。あの誰かがもう少しだけ体重を前に乗せれば、呆気なく落ちて死んでしまうだろう。
誰だろうと思った時、その人が振り返った。
ボロボロの服をまとった、傷だらけの少年。伸びた前髪から覗く目は、ドロリとした闇で満たされ、溢れている。だが、口元は微かに笑みを浮かべていた。暗く、絶望と狂気の混ざった微笑を。
また、過去の自分を見ているようだ。
先ほど見た自分よりは、年齢だけは成長したように見える。どの時期のことだっただろうか。記憶が混濁していて、よくわからない。
けど、もしかしたら。あの時のこと、だろうか。
彼女まで奪われかけ、初めて『化け物』と呼ばれたその直後……?
と、そのとき、急に目の前が暗くなった。どこかに沈んでいくような感覚。重くて、冷たい。海の底は、こんな感じなのだろうか。
また、懐かしくも忌まわしい記憶に、呑みこまれるのだろう。
そして、繰り返すしかないと思い知らされるのだろう。
覗きこむと、強い風が唸りをあげて吹き付けてきた。悲鳴のような音は、この奥から聞こえてくるのか、それとも僕の幻聴か。
まあ、どちらでもいいか。
すっかり伸びてしまった前髪を手で払い、再び真っ暗な底を見下ろす。微かに、水飛沫の音が聞こえてきた。川があるらしい。
ここから飛び降りれば、僕はもっと強くなれるだろうか。大切な人を守れるようになるだろうか。
もし死んだら、それはそれだ。この程度で壊れるような身体なんかいらない。死ぬなら、死ねばいい。
もし無事だったら、また修行を重ねるだけ。そうすれば、強くなれるはずだ。いつか、きっと。
一歩足を踏み出すと、小石が乾いた音を立てて落ちていった。一度だけ、空を見上げる。
今日は、本当に綺麗な青空だ。守りたい人の色と、よく似ている。
視線を奈落の底に戻す。
さあ、賭けだ。今までは僕の勝ちだったけど、今回はどうかな。
前のめりになって身を躍らせようとしたその時、
「だめぇっっ」
泣き叫ぶような必死な声と共に、後ろから抱きつかれた。ふわりと清楚な花の香りが広がり、冷え切って傷だらけの身体に温もりが触れる。
「駄目っ、死なないで、死なないで!いっちゃ嫌!ハル、いかないでっ!」
引き離すのは簡単だった。けれど、僕が彼女の華奢な腕を振りほどくなんて、できるはずがない。
僕はされるがままになりながら、小さく笑った。
「……大丈夫。死のうとしたわけでは、ないよ」
「じゃあ、何で……」
「これは賭けなんだ」
ピタリと、彼女の動きが止まる。その意味もわからぬまま、僕はへらへらした笑みを張り付けて続ける。
「僕が『弱虫』な人間か、『化け物』なのかの賭け。ここから落ちて、壊れるかどうか、試そうと思ったんだ。だって、弱い僕なんて何の価値もないでしょう。強く、ならなきゃ。それだけだよ」
伝わっただろうか。彼女は僕なんかよりずっと頭がいいから、多分大丈夫。そう思って振り向くと、彼女は泣いていた。
泣いて、いた。
「どう、したの?どうして泣いているの?誰かに何かされたの?」
少女は答えない。透き通った瞳から透明な雫をこぼして、震えている。
やっぱり、どんな時も綺麗。世界で一番、綺麗なヒト。でも、やっぱり笑顔が一番好きだと思う。
「ねえ、本当にどうしたの?誰かに酷いことされたなら、僕が……」
「違うの」
強く、強く首を横に振る。さらさらの髪が揺れて、涙がきらめきながら宙に散った。
「違う、違うんだよ。ハル、どうしてそこまで自分を追い詰めるの?死んじゃうかもしれな……」
「その時は、その時だよ」
少女は呆然と目を見開いた。
「僕が死んだら、僕はその程度だったってことだから。でも、大丈夫。僕はヒトじゃないんだから。君にとって『化け物』じゃなければ、もういい。『化け物』でいいよ。だから大丈夫。絶対に守るから」
例え、世界中の人間を殺してでも。
心の中のつけたしが聞こえたわけでもないだろうに、少女は普段から白い肌を青ざめさせ、小さな手で顔を覆った。
「ごめんなさい……」
「どうして謝るの?君は何も悪いことしていないのに」
「いいえ……あたしの、せい。あたしが……あたしが、ハルを壊して……っ」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、苦しそうに囁く。ごめんなさい、ごめんなさいと。
僕は彼女の薄茶色の髪にそっと触れる。すると、彼女の顔に更に絶望が広がった。
「ごめん、僕が何かしたんだよね。ごめんね」
少女は答えない。ただ、僕にすがりつきながら悲痛な声で泣いている。
僕には、何もわからなかった。
何故、泣いているのか。何故、答えてくれないのか。
彼女のことが何一つ理解できない。
君がいてくれれば、守ることができればそれでいいのに。君以外のヒトから『化け物』と呼ばれてもかまわないのに。
世界で一番大切な少女の言葉の意味が、心が、僕にはわからなかった。
世界が暗転する。
いつの間にか、僕の意識は過去から戻ってきたようだ。
ドロリとした闇が渦巻く水に揺られ、真っ暗な空を見上げる。空、なのだろうか。もしかしたら、あっちが下なのかもしれない。
ここに、上も下も、右も左もない。温度のない、黒く塗りつぶされた空間。光の見えない血の海の底。
それにしても、あの頃の僕は何て馬鹿なんだろう。能力だけ上がっても、それにつり合う精神がなければ意味がないのに。
ミシュア姉さんのことや、彼女を奪われかけたのがきっかけで戦闘狂になっていた僕は、ただひたすらに強さだけを求めて、毎日死にもの狂いで修業したものだ。確か、死にかけたことも何度かあった気がする。
傷が治りやすい体質ではあったが、無茶に無茶を重ねるようなことをしていたものだから、まだ傷が完治しないうちに更に増えて、消えなくなってしまった。何年も前の物だが、今でも残っている。
そうして、ボロボロになりながら、いつか報われる日が来ると思っていた僕は、本当に愚かだ。今目の前にいたら、本気で殺したいほどに。
むやみに強くならなければ、彼女を失うこともなかった。
頭がおかしいとしか思えない。まあ、こんな幻覚を見ている時点で、今も相当おかしいのだろうけれど。
けど、いくら狂っていても、ここから出なければ誰も傷つけなくて済む。これ以上何も壊したくないし、逃げ場もとうに失った。
二つの過去の夢を見て、はっきりとそう思い知った。
ああ、でも、僕はどうして強くなろうとしたんだっけ。今となってはどうでもいいことだけど、大切な何かがあった気がする。
あの頃の僕が強くなろうとしたのは、彼女がいたから。
今、彼女がいないのに、僕は何を守ろうとしていたんだろう。
ふわふわと、つかみどころのない何かが視界にちらつく。
何かあった。大切なモノ。それに触れたくて、いつも僕は戻ってしまった。
もう、ここから出てはいけないのだから、思い出す必要もない。
さようなら。




