表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
84/118

絶望の螺旋

 ああ、また。ここに来たのか。

 どす黒く塗りつされた空を見上げて、ただそんな感想を抱いた。

 ゆらゆらと身体が頼りなく漂う感覚。どこを見ても真っ暗で、冷たい。血の臭いのする水の中に浮かんでいるのか、沈んでいるのか、感覚が麻痺した体ではわからなかった。

 まただ。また、守れなかった。


「……いや、違う……か」


 自然と乾いた声がこぼれた。それも、すぐに消えてしまう。

 ここでは何もできない。ただ、血の海の底へ沈むのを待つだけ。

 それなら、もうそれでいいや。

 いつもいつも、ここから這い上がってはまた戻ってきた。何年たっても繰り返しで、もう前なんて向けそうにない。僕はここにいなければならなかったのだと、今更気がついた。

 本当に遅すぎる。僕がいていい場所なんて、ここしかなかったのだ。どうして気がつかなかったんだろう。

 温もりに触れて、光に手を伸ばして。けれど、どうしたって僕が未来に向かって歩けるはずがなかったのだ。

 僕がそれに気がつかなかったせいで、ミシュア姉さんは死んだ。

 僕が、殺した。

 しかし今は、何の感情もわかなかった。哀しいだとか苦しいだとか罪悪感だとか自己嫌悪だとか、本来持つべき感情が、欠片もない。何も、感じない。いっそ楽なくらいに。

 もう、このまま眠ろうか。

 そうすれば、誰かを傷つけることも、誰かに傷つけられることもない。誰かを殺すこともない。もう絶望しなくていい。

 今度こそ、本当に。

 何かが腕に絡みつく。腕だけでなく、足や腰にも巻きついてからめとられる。そうして、揺れる水底へと引きずられていく。

 ふいに、血の臭いに混じって、懐かしい甘い香りがした。ほっそりした白い手が、僕の首に当てられる。さらさらと淡い茶色の髪が揺れて、髪に結んだ薄紫のリボンも一緒に揺れた。

 彼女が、数年前と同じ姿で、僕の唯一の光だった優しい笑顔で、僕の前にいた。

 一人にして、ごめんね。待っていてくれたのかな。


「ねえ、ハル。一緒に行こう?」


 あの頃と同じ、砂糖菓子のような甘い声に包まれる。

 僕は小さく微笑み返し、目を閉じた。

 指先から徐々に凍りついてゆく。息が途切れて、緩いまどろみに襲われる。苦しいとは思わなかった。

 絡まりながら沈んでいく。消えてゆく。

 もう二度と、光を見ないように。




 ざわざわと、風が木々を通り抜ける音がして目を覚ました。

 霞む目を開き、ゆっくりと体を起こす。視界がグラグラして、まだまともに考えられそうになかった。

 何か、あった気がする。思い出せないけれど、何かが。何だっけ。

 ぼんやりとした形は、やがて沈んで見えなくなってしまった。もう、いいや。きっと、たいしたことじゃないんだろう。

 焦点があってくると、いくつもの大木が目にとびこんできた。下に目をやれば、柔らかな土の上に草が生えている。わきにある巨大な岩には、びっしりと緑の苔が生えていた。

 森だ。森にいる。

 何故という疑問は、次の瞬間消し飛んだ。

 視線の少し先。一際巨大な気に向かって走っていく、黒髪の少年の姿がそこにはあった。

 小柄で華奢な少年が巨木に拳を叩き込む。重い音がし、同時に少年の身体が吹っ飛ぶ。巨木が僅かに揺れてはらはらと木の葉が舞った。

 地面に叩きつけられた少年は、すでにボロボロだった。土で汚れ、あちこちが擦り切れて破れ、全身傷だらけの姿は痛々しい。それでも、よろよろと弱々しく立ち上がる。

 足元が覚束ないようで、少年の身体がグラリと傾ぐ。だが、前に進む。少年の頭には進むことしかないのだから。

 そして、その少年の目が真っ暗で、狂気にとりつかれていることも、僕は知っている。

 あの少年は、僕だから。

 ただただ強さを求め、強くなれば大切な人を守れると信じ切っていた頃の、愚かで哀れな、小さな子供。




 轟音が森を揺らす。ばらばらと葉が雪崩のように降り注ぎ、鳴き声をあげて鳥が羽ばたく。

 僕はガクリと地面に膝をつき、息を吐き出す。いつの間に切ったのか、口の中に鉄の味が広がった。呼吸をすることさえ苦しい。目が霞んで何も見えない。

 それでも、まだやれる。やらなきゃいけないんだ。

 もう二度と、ミシュア姉さんの時のようなことが起こらないように。

 身体が壊れたっていい。強くなれないなら死んだ方がマシだ。

 悲鳴を上げる体を無理やり起こして、ずるずると身体を引き摺る。ぼやけて何一つ見えないが、もう何十回も当たりに行っている木だ。見えなくてもある程度感覚でわかる。

 皮がむけて血だらけの手を握りしめる。そのまま後ろに引いた時、


「無理しちゃ駄目よ、ハル」


 甘い声が耳元で聞こえ、後ろから腕が回された。必死でつなぎ止めていた緊張の糸が切れ、前のめりに倒れ込む。


「あ……」


 何か言おうと口を開いたが、言葉はでなかった。乾いた吐息と血だけがこぼれる。

 何て情けない。

 しかし、彼女はそんな僕を優しく撫でて


「大丈夫よ。あたしはここにいるから。あまり無理すると、ハルが壊れちゃうわ……」

「そ、れで……も……」

「駄目。……死なないで。ハルがいなきゃ、誰があたしを守ってくれるの?……守ってくれるんでしょう?」


 慰めるように紡がれる言葉には、どこか甘えた響きがあった。彼女の言葉が、嫌でもあの日のことを思い起こさせる。

 ローグ・ゼルドによって思い知らされた、僕の無力さを。


「ま、もる……なに、が、あっても……」

「ええ、信じているわ」


 蜜のような甘い声が、ボロボロの身体に沁み込んでゆく。紫の霧が、ぼんやりと視界で揺れていた。


「守ってね、ハル。あたしは何があっても、あなたの味方よ」


 地獄にも、一緒に堕ちてあげるから。

 


 砕け散った意識が、バラバラになったまま闇に吸い込まれてゆく。




 ふっと意識が戻った。

 いつの間にか、数年前の自分の記憶を見ていたらしい。

 目を覚ました場所はさっきの森ではなく、かといって危うくなると見える血の海の中でもない。

 崖だった。

 後ろには草原が広がっていて、遠くに森が見える。風が通り抜けるたびに、さわさわと草が揺れる。森とは違う、音。

 視線を戻すと、切り立った崖のふちに、誰かがいた。

 向こう側にも陸地はあるが、橋は架かっていない。あの誰かがもう少しだけ体重を前に乗せれば、呆気なく落ちて死んでしまうだろう。

 誰だろうと思った時、その人が振り返った。

 ボロボロの服をまとった、傷だらけの少年。伸びた前髪から覗く目は、ドロリとした闇で満たされ、溢れている。だが、口元は微かに笑みを浮かべていた。暗く、絶望と狂気の混ざった微笑を。

 また、過去の自分を見ているようだ。

 先ほど見た自分よりは、年齢だけは成長したように見える。どの時期のことだっただろうか。記憶が混濁していて、よくわからない。

 けど、もしかしたら。あの時のこと、だろうか。

 彼女まで奪われかけ、初めて『化け物』と呼ばれたその直後……?

 と、そのとき、急に目の前が暗くなった。どこかに沈んでいくような感覚。重くて、冷たい。海の底は、こんな感じなのだろうか。

 また、懐かしくも忌まわしい記憶に、呑みこまれるのだろう。

 そして、繰り返すしかないと思い知らされるのだろう。




 覗きこむと、強い風が唸りをあげて吹き付けてきた。悲鳴のような音は、この奥から聞こえてくるのか、それとも僕の幻聴か。

 まあ、どちらでもいいか。

 すっかり伸びてしまった前髪を手で払い、再び真っ暗な底を見下ろす。微かに、水飛沫の音が聞こえてきた。川があるらしい。

 ここから飛び降りれば、僕はもっと強くなれるだろうか。大切な人を守れるようになるだろうか。

 もし死んだら、それはそれだ。この程度で壊れるような身体なんかいらない。死ぬなら、死ねばいい。

 もし無事だったら、また修行を重ねるだけ。そうすれば、強くなれるはずだ。いつか、きっと。

 一歩足を踏み出すと、小石が乾いた音を立てて落ちていった。一度だけ、空を見上げる。

 今日は、本当に綺麗な青空だ。守りたい人の色と、よく似ている。

 視線を奈落の底に戻す。

 さあ、賭けだ。今までは僕の勝ちだったけど、今回はどうかな。

 前のめりになって身を躍らせようとしたその時、


「だめぇっっ」


 泣き叫ぶような必死な声と共に、後ろから抱きつかれた。ふわりと清楚な花の香りが広がり、冷え切って傷だらけの身体に温もりが触れる。


「駄目っ、死なないで、死なないで!いっちゃ嫌!ハル、いかないでっ!」


 引き離すのは簡単だった。けれど、僕が彼女の華奢な腕を振りほどくなんて、できるはずがない。

 僕はされるがままになりながら、小さく笑った。


「……大丈夫。死のうとしたわけでは、ないよ」

「じゃあ、何で……」

「これは賭けなんだ」


 ピタリと、彼女の動きが止まる。その意味もわからぬまま、僕はへらへらした笑みを張り付けて続ける。


「僕が『弱虫』な人間か、『化け物』なのかの賭け。ここから落ちて、壊れるかどうか、試そうと思ったんだ。だって、弱い僕なんて何の価値もないでしょう。強く、ならなきゃ。それだけだよ」


 伝わっただろうか。彼女は僕なんかよりずっと頭がいいから、多分大丈夫。そう思って振り向くと、彼女は泣いていた。

 泣いて、いた。


「どう、したの?どうして泣いているの?誰かに何かされたの?」


 少女は答えない。透き通った瞳から透明な雫をこぼして、震えている。

 やっぱり、どんな時も綺麗。世界で一番、綺麗なヒト。でも、やっぱり笑顔が一番好きだと思う。


「ねえ、本当にどうしたの?誰かに酷いことされたなら、僕が……」

「違うの」


 強く、強く首を横に振る。さらさらの髪が揺れて、涙がきらめきながら宙に散った。


「違う、違うんだよ。ハル、どうしてそこまで自分を追い詰めるの?死んじゃうかもしれな……」

「その時は、その時だよ」


 少女は呆然と目を見開いた。


「僕が死んだら、僕はその程度だったってことだから。でも、大丈夫。僕はヒトじゃないんだから。君にとって『化け物』じゃなければ、もういい。『化け物』でいいよ。だから大丈夫。絶対に守るから」


 例え、世界中の人間を殺してでも。

 心の中のつけたしが聞こえたわけでもないだろうに、少女は普段から白い肌を青ざめさせ、小さな手で顔を覆った。


「ごめんなさい……」

「どうして謝るの?君は何も悪いことしていないのに」

「いいえ……あたしの、せい。あたしが……あたしが、ハルを壊して……っ」


 ぽろぽろと涙をこぼしながら、苦しそうに囁く。ごめんなさい、ごめんなさいと。

 僕は彼女の薄茶色の髪にそっと触れる。すると、彼女の顔に更に絶望が広がった。


「ごめん、僕が何かしたんだよね。ごめんね」


 少女は答えない。ただ、僕にすがりつきながら悲痛な声で泣いている。

 僕には、何もわからなかった。

 何故、泣いているのか。何故、答えてくれないのか。

 彼女のことが何一つ理解できない。

 君がいてくれれば、守ることができればそれでいいのに。君以外のヒトから『化け物』と呼ばれてもかまわないのに。

 世界で一番大切な少女ひとの言葉の意味が、心が、僕にはわからなかった。



 世界が暗転する。

 いつの間にか、僕の意識は過去から戻ってきたようだ。

 ドロリとした闇が渦巻く水に揺られ、真っ暗な空を見上げる。空、なのだろうか。もしかしたら、あっちが下なのかもしれない。

 ここに、上も下も、右も左もない。温度のない、黒く塗りつぶされた空間。光の見えない血の海の底。

 それにしても、あの頃の僕は何て馬鹿なんだろう。能力だけ上がっても、それにつり合う精神がなければ意味がないのに。

 ミシュア姉さんのことや、彼女を奪われかけたのがきっかけで戦闘狂になっていた僕は、ただひたすらに強さだけを求めて、毎日死にもの狂いで修業したものだ。確か、死にかけたことも何度かあった気がする。

 傷が治りやすい体質ではあったが、無茶に無茶を重ねるようなことをしていたものだから、まだ傷が完治しないうちに更に増えて、消えなくなってしまった。何年も前の物だが、今でも残っている。

 そうして、ボロボロになりながら、いつか報われる日が来ると思っていた僕は、本当に愚かだ。今目の前にいたら、本気で殺したいほどに。

 むやみに強くならなければ、彼女を失うこともなかった。

 頭がおかしいとしか思えない。まあ、こんな幻覚を見ている時点で、今も相当おかしいのだろうけれど。

 けど、いくら狂っていても、ここから出なければ誰も傷つけなくて済む。これ以上何も壊したくないし、逃げ場もとうに失った。

 二つの過去の夢を見て、はっきりとそう思い知った。

 ああ、でも、僕はどうして強くなろうとしたんだっけ。今となってはどうでもいいことだけど、大切な何かがあった気がする。

 あの頃の僕が強くなろうとしたのは、彼女がいたから。

 今、彼女がいないのに、僕は何を守ろうとしていたんだろう。

 ふわふわと、つかみどころのない何かが視界にちらつく。

 何かあった。大切なモノ。それに触れたくて、いつも僕は戻ってしまった。

 もう、ここから出てはいけないのだから、思い出す必要もない。

 さようなら。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ