いってらっしゃい
逃げる。走る。逃げる。走る。
走って走って、逃げて逃げて逃げて、ただ走って、逃げて。
普段あまり使わない身体が悲鳴を上げ、息が上がり、咳が止まらない。足元がふらついて、酸素が足りないのだと気づく。
擦れ違う人々は皆、驚いた顔で自分を振り返る。
でも止まらない。止まれない。
あの人が助けに来るまで、逃げ続けなきゃいけないの。
目のふちに涙が滲み、流れる汗で服が身体に張り付く。長い裾や邪魔になる袖はとっくに切り裂いて落としたのに、動きは鈍るばかりだ。
ここは広すぎる。どこに逃げたらいいのか見当がつかない。今まで、あれほど入念に調査してきたのにもかかわらず。
閉じ込められた。
ここは地獄だ。逃げたつもりで、真っ暗な檻の中を走っているだけなのだ。
苦しい。助けて、誰か助けて。あの人が来ない。どうして?
絶望に潰される。罪悪感に絞殺される。
どこかで間違った。
けれど、どこで間違ったのかわからない。
引き返すこともできない。やり直すこともできない。
何より、止まることができない。
走って、走って、けれどその先に光は見えなくて。
ミシュア・ウィルドネットは、ただ逃げ続けた。
空気が凍りつき、亀裂が入った。
ステラ姉さんはつかつかと兵士に詰め寄り、拳を振り上げた。
「何で、早く言わなかったああああああっっ!」
キョトンとする兵士の顔面を問答無用でぶん殴る。奇声を上げながら吹っ飛ばされた兵士は、頭から壁にぶつかり、気絶してしまった。
「あいつ……後で百発ぶん殴って……一から鍛え直してやる……!」
殴ってもまだ足りないのか、ステラ姉さんはパキポキと指を鳴らしている。だが、すぐに顔をくしゃりと歪めた。
「お姉ちゃんが逃げたって……どうしよう!どこに行っちゃったの!?」
ステラ姉さんは泣きそうな顔で僕の袖を掴む。ショックでぼんやりしていた脳がやっと目を覚ました。
僕が何とかしなきゃ。今まで、さんざん迷惑をかけてきたのだから。
「……きっと、大丈夫、だよ。とにかく探そう。ね?」
震えそうになる手を握りしめ、少し無理して笑う。ステラ姉さんが驚きに目を見開く。
「あんた……いつの間に……」
何かを言いかけて、すぐにまた泣きそうになってうつむく姉さんの肩を、ぽんと叩いた。少しでも安心させられるように。例え、僕自身が不安定に傾いていても。
甘ったれで臆病で無力な僕も、血の雨を降らせる『化け物』も、もうたくさんだ。
これ以上、情けない姿をさらすわけにはいかない。
僕はリラ様達を振り返った。
「ミシュア姉さんを何としてでも捕まえます。姉さんは髪も目も黒くて目立つから、すぐに見つかるはずです。……師匠、手伝ってくれますか」
「……事情はよくわからないけど、ミシュアを捕まえないとヤバイのか?」
「そうです。しかも、早くしないと」
師匠は軽く眉根を寄せ、ふっと笑った。
「わかったよ。可愛い弟子達のねーちゃんだもんな。あたしは一人で探した方が早いから、単独行動にする。異論はないな?」
話しながら、僕が返事をする前に部屋の窓を開け放つ。
「じゃ、行ってくる!」
ふわり、と窓から身を投げた。
「レウィンさん!?」
「あいつ、馬鹿か!ここから落ちて助かるわけないだろ!?」
「いいや、大丈夫だよ」
師匠のいつもの奇行を見て少し落ち着いた。ステラ姉さんも表情を僅かに緩める。
僕は窓に近づき、外を指さす。
「ほら、師匠は全然大丈夫だから」
リラ様とクラウス様がバッと覗き込む。僕らの視界に映るのは、建物の僅かな凹凸に手をかけ、その反動で高く跳び上がる男装の変人の姿だった。
二人は呆然とその姿を見つめた後、ぐったりと座り込んだ。
「……あれ、アリなのか。人間として間違ってないか……」
クラウス様が額に手を当ててぼやく。
僕も昔はそう思っていたが、今ではとっくに慣れて何とも思わなくなってしまった。いや、ヘンな人だとは思うけど。
それに今は、師匠の奇行の数々を思い出している場合じゃない。
「僕は今から、ミシュア姉さんを探してきます。クラウス様も手伝ってくれませんか」
「そのつもりだ。そいつは見たことがないが、外見がそれほど目立つなら問題ないだろう。……俺なら、王直轄の暗殺部隊を借りることもできるが、どうする?」
僕はギクリとした。脳裏に、悲鳴のような雷雨と、王様の冷厳な笑みが浮かぶ。
慌てて首を横に振ると、クラウス様は表情を変えずに「そうか」と頷いた。
「私も行くわ」
「駄目ですっ!」
進み出たリラ様を遮る。リラ様は瞳を翳らせたが、落ち着いた様子で、
「もしハルが暴走した時、止められるのは私だけ。だから……」
「それでも駄目です。確かにリラ様は、僕の抑止力になります。……それと同時に、僕が暴走する原因にも」
リラ様が息を飲んだ。ついで、哀しそうに苦しそうに、顔を伏せる。
リラ様の辛そうな顔に、僕も胸がつぶれそうだった。
本当は、リラ様についてきてほしい。その方がどれほど安心できるか。
でも、またミシュア姉さんがリラ様に刃を向けたら。今度こそ間に合わなかったら。
その時、僕がどうなるかなんて、目に見えている。襲いかかる絶望と痛みが、全ての感情が破壊衝動に変換され、今度こそ皆殺しにするかもしれない。
それに、これ以上リラ様に寄り掛かるわけにもいかない。
僕は目を逸らしそうになるのをこらえ、リラ様にそっと笑いかけた。
「……大丈夫です。そんなに暗い顔しないで。らしくないですよ」
「でも……でもね、」
「本当に大丈夫だから。すぐ、帰ってくるよ。……リラのいる場所に」
リラ様が高熱で混乱していた時のように、敬語を外して、囁く。
想いが伝わるように。
リラ様が大きく目を見開き、ついで泣き出しそうに顔を歪め、それでも、最後は淡く微笑んだ。
きっと、伝わった。
ほっとしながら、今度はステラ姉さんに向かって言う。
「姉さんはここでリラ様と一緒にいて」
「何でよ!私も一緒に……」
「ここは警備が手薄だから、また狙われるかもしれない」
怒鳴ろうとしていた姉さんが口をつぐむ。
もう時間がない。早く行かなきゃ。
もし何か、取り返しのつかないことが起きたら、一生後悔することになる。
「行くぞ、ハル」
「はい!」
僕は扉を開け放ち、振り返りざまに叫ぶ。
「いってきます!」
駆けだした僕を追いかけるように、「いってらっしゃい」という声が聞こえたような気がした。