暴風雨の見解
空気が凍りついた。
動けない。少しでも動いたら何かが壊れてしまうような、そんな錯覚を覚える。張り詰めた空気に透明なひびが入り、時が経てば経つほど、沈黙は重さを増していく。
息が苦しい。呼吸が止まってしまう。そう思った時、誰かが飛び出した。
「貴様!どういう意味だ!説明しろっ!」
焦燥と怒りに満ちた声に、ハッとする。
クラウス様が、師匠の喉に剣先を突き付けていた。
「クラウス様!?」
「何してるのよ!馬鹿皇子、やめなさい!」
「黙れ!」
凄まじい剣幕にビクッとする。ステラ姉さんもみるみる青ざめ、押し黙った。
師匠だけが、涼しい顔で平然とクラウス様を見返す。
「ほんっと、見かけによらず血の気が多いねえ、君?かっこつけて冷静なふりをするよりは、こっちの方がいいけどさ」
「……どういう意味だと聞いている」
「そのままだよ。クロフィナルが戦争の用意してるかもって話」
繰り返された言葉に、頭を鈍器で殴られたような衝撃が襲う。もう聞いているはずなのに。
クロフィナル?……戦争?
指先から温度が抜け、冷えていくのがわかる。
「根拠はあるのだろうな?もし悪趣味な冗談ならば……」
「根拠ならあるよ」
師匠は肩をすくめると、いつの間にか奪っていた剣を片手で投げた。剣は矢のような直線を描き、壁を割って突き刺さる。
「兵士の募集がやたら多かったし、物資を運んでいるのもしょっちゅう見かけた。臭いからして、あれは大量の鉄。それって武器じゃないの?」
「だが、戦争と決めるのは……」
「だーかーら、かもって言ってるだろ!あたしだってそれだけで戦争だとは思わないよ!思わない、けど……」
師匠が顔を曇らせる。
「けど、何ですか?」
「……なーんか、嫌な予感がするんだよね。ほら、あたしの勘ってよく当たるだろ?クロフィナルのきな臭さと関係があるかはわからないけど、とにかく嫌な予感がする。それも、かなりデカイやつ」
師匠の言葉に僕はゾッとした。
筋の通っていない適当な話に思えるが、師匠の感は本当に鋭い。鋭すぎて、たまに気味が悪くなるくらいに。
そして、師匠は「嫌な予感」であればある程、的確に当ててくるのだ。
クラウス様は口を開いたが、突然何かを思い出したような顔で黙りこんだ。リラ様も沈痛な表情でうつむいている。二人とも、フラウィールで師匠の勘のよさを見たりしたのだろうか。
重い沈黙が落ちる。
もしクロフィナルが、本当に戦争の準備をしているのだとしたら、どことするつもりなのか。そんなのは愚問だ。
昔の話といえど、クロフィナルと戦争してきたのはここ、セルシアだ。そして、セルシアとクロフィナルは、今でも仲はあまり良くない。
僕は戦争なんて見たことがないし、多分行かなくて済むだろう。僕の父は伯爵で、僕は貴族だから。
しかし、兵士であるステラ姉さんは戦わなければならない。それが仕事だから。
戦争なんて、史実として勉強するのも辛くなるような話なのに。
ふと、王様の冷たく美しい微笑と、全てを見透かすような瞳が脳裏をよぎり、ぞわりと悪寒が走った。
もし戦争が起こったとして、あの人はどうするつもりなのだろうか。
と、その時、パチンという軽い音が沈黙を破った。
驚いて見ると、師匠が指を鳴らしたようで、
「シリアスモードはそこまでっ。あたし、重い空気苦手なんだよねー」
「誰のせいだと思っている!?」
「そうカリカリするなって。さっきのは単なる推測だし、一応気をつけた方がいいよってだけの話だからさ」
師匠は肩をすくめると、あっけらかんと笑った。
「辛気臭い話の後だし、パーっと飲もうかなっ!リラちゃん、上等な酒ある?」
「お酒以外じゃ駄目ですか?もう、倉庫がちょっと……」
「あと一本なら、出してやってもいい」
クラウス様が険しい表情で有り得ないことを言った。……クラウス様が!?
驚いたのは師匠も同じようで、目を丸くしている。
「いいの?ホントに?」
「ああ。ウェジェロイでもガーレンスでも、その他のでも、好きなのを選べ。ボトルごとやる」
僕は耳を疑った。ウェジェロイもガーレンスも、超高級品だ。グラス一杯でも、庶民が一生遊んで暮らせるレベル。それをボトル一本なんて、金額を想像するだけで気が遠くなる。
「いいの!?一度飲んでみたかったんだよねー」
「駄目に決まってるでしょう!?クラウス様、やめた方がいいです!この人、本当に飲みますよ!」
「いくら師匠でもそれは駄目よ!私の給料が一年……いや、三十年くらいか?とにかく、それくらいとぶからやめて!」
「別にいいだろ。酒の一本や二本、くれてやる」
幻の高級品を何とも思っていない発言に、僕は絶句した。ステラ姉さんも隣で石化している。
リラ様が「それもそうだね」とか言って頷いているのは、きっと幻だ。
「ただし、正直に答えろ」
「ん?」
クラウス様の目が冷たい光を放つ。
「何故、クロフィナルのことを王にではなく、俺達に話した?王に言えば、いくらでも褒美が出されたはずだ。貴様とて、その方がいいだろう」
王、という単語を口にした時、クラウス様の表情が苦々しく歪んだ。
真剣な眼差しで見据えるクラウス様を、師匠は不思議そうに見返す。そして、怪訝そうに
「何でって……あたしが、あの王が苦手だからだけど?」
あっさりと言った。
「……それだけなのか!?」
「うん。悪い?」
「いいとか悪いとかの問題じゃないですから!ていうか、クラウス様もリラ様も、王様の子供ですよ!それくらいわかれよ馬鹿師匠!」
ケロリとしている師匠に怒鳴ると、師匠は頭をガシガシやりながら、
「じゃあ聞くけど、あんたら二人は、あの王が好きなの?」
「嫌いだ。さっさと死ねばいい」
「……」
そりゃ、苦手だけど。正直言って気持ち悪い。腹の底が全く読めないから。
「質問は終わり?なら飲もうかな。リラちゃん、悪いけど、ウェジェロイとガーレンスの二本を持ってきて」
「何当たり前のように王女こき使ってるんですか!?馬鹿ですか?馬鹿でしたね馬鹿師匠!」
「馬鹿馬鹿うるさいなあ。だったらハルが行けばいいだろう?」
「……そもそも俺は、一本と言ったはずだが」
「んあ?気にしない気にしない。リラちゃんが駄目なら、ステラ持ってきてよ」
「師匠の頼みでも無理です!つーか、やめましょうよそんなもん!セルシアの財政かたむいたら、私の給料にも影響が出るじゃない!そんなの嫌!」
ステラ姉さんが悲鳴じみた叫びをあげる。
さっきまでの暗い雰囲気がどこへやら。原因は全部、師匠のせいだ。
もはや、何の話をしにきたのか本気で思い出せなくなって来た。大切な話があって、来たはずなのに。……もしかして、僕って忘れっぽい?いや、そんなはずはない……多分。
溜息を吐いて視線をずらすと、僕らの茶番劇を眺めていたリラ様と目があった。
幸せそうな笑顔を浮かべていたリラ様が、少し赤くなる。が、すぐに唇をほころばせ、花が咲くようににっこりした。
心臓が跳ねる。じわじわと頬が熱くなるのを感じて、僕はうつむいた。
この程度で動悸が収まらないなんて、僕は一体何歳だ。幼稚なリラ様は平気なのに、時々大人びた、温かくて優しい目で見つめられると、緊張でわけがわからなくなる。
気が動転していて勢いで告白して以来、リラ様を抱きしめるどころか、自分から触れることは一切していない。てか、できない。一生このままのような気もする。
でも、こんな日々が好きだ。こんな優しい、幸せな時間が。
このまま止まってしまえばいい。
甘くて、優しくて、どうしようもなく愛おしくて、夢のように幸せな日々が、永遠に続けばいいのに。
顔を伏せたまま、叶うはずのない夢を想い、小さく苦笑した時。
師匠の明るい声が僕の耳に届いた。
「そういえば、ミシュアはどうしてる?元気してる?」
それまでうるさいほど賑やかだった空気が凍りついた。
頭を殴られたような衝撃に、グラリと視界が揺れる。さっきとは別の理由で、尚更顔を上げられなくなる。
「ステラ?他のみんなも、何で黙るんだ?あたし、何か変なこと言ったかな?」
戸惑った様子で師匠が問いかける。
「……師匠、ミシュア姉さんは……」
ステラ姉さんが躊躇いがちに答えようとする。
それを遮ったのは、慌ただしく駆けてくる足音と、ノックもなしに開け放たれた扉の音だった。入ってきたのはステラ姉さんと同じ恰好の青年で、酷く青ざめている。
「隊長!大変なことが……」
「バッカじゃないのあんた!私相手にノックなしで入ってくるとか、いい度胸ね。ぶっ殺されたいわけ!」
ステラ姉さんが物凄い形相で的外れなことを言う。哀れな青年は、「ひいっ!す、すすすみません!」と叫び、壁際まで後ずさった。
僕の姉がいつもごめんね、兵士君。その人の傲慢と短気は誰にもどうにもできないので、頑張ってください。
心の中で同情していると、平身低頭で謝っていた青年兵士が、僕らの方を見た。
ポカンと口を開き、呆けた表情をした後、ステラ姉さんに怒鳴られた時よりも青ざめて跳び上がった。
「ぎゃあああああああっっ!は、ハル・レイス・ウィドネットォォォォ!?」
まるで猛獣にでも出くわしたかのような反応に、呆然とする。
あの、僕が何かしました?してないですよね?一言も喋ってないですよね?
一応あっちの人格が出ていないか周りを確認するが、異常ナシ。
「あ、あの……?」
「ひいいいいっっ!スミマセン!謝るんで勘弁してください!」
ますますわけがわからない。僕が何をしたと言うんだ。……まあ、色々とやらかしてはいるけど。
「だから、謝るって何を?」
青年兵士は頭のてっぺんから爪先までガクガクと震わせ、叫んだ。
「だって、ハル・レイス・ウィルドネットって、歩く殺人兵器じゃん!」
え、今、何て言いました?
「見かけは貧弱なボンボンでも、戦闘になると豹変するんだろ!襲いかかってきた賊を一撃で木っ端微塵にし、瞬間移動で血の雨を降らせる戦闘狂い!その笑顔を見た者は地獄の方がマシだと思うように……」
「ならねーよっっ!」
ペラペラととんでもない話を語る兵士を怒鳴りつけて黙らせる。
「歩く殺人兵器って何!?木っ端微塵って何!?瞬間移動って、僕は魔法使いか!血の雨も降らせないし笑ってもないよ!その噂、どこから聞いたんだよ!?」
「同僚からですよ?結構有名だし、噂って言うよりは伝説?みたいな」
「どっちでもいいけど違うから!」
兵士は目を丸くして僕の話を聞いていたが、急にステラ姉さんに向かって、
「隊長、本当に違うんですか?」
「知らないわよ。初耳だし。……でも、愚弟ならやりかねないような……」
「やらないよ!愚弟でもいいからそこは信用してよ!?」
真剣に考え込むステラ姉さんに脱力すると、今度はリラ様達に向かって聞いた。
「本当に、少しもあってないんですか?」
リラ様とクラウス様が同時に目を逸らした。
「兄妹そろって気まずそうな顔しないで!頼むから否定してくださいよ!」
「だって、確かに笑顔でぶっとばしてるし……」
「瞬間移動と言われてみれば、そう見えなくもないしな……」
遠い目をして呟く二人に、兵士が僕を指さして叫ぶ。
「やっぱり殺人兵器じゃん!」
「違う!てか、あんた本当はからかってるだけだろ!」
「からかってないです!……それより、本当に本物ですかぁ?細いし筋肉もないし、気は弱そうだし、ちょっと押したらミイラになりそう。偽物なんじゃねーの?」
小鹿のように怯えていた兵士が、僕を胡散臭そうに見る。
さっきからイライラしていたが、今のには軽く殺意が湧いた。こいつ、半殺しにしてやろうか。
引き攣る顔を無理に愛想笑いに変え、問いかける。
「あはは……偽物、ねえ?だったら確かめてみる?」
「いや、遠慮しときます。もし万が一本物だったら、一生独身で死ぬことになるし。まだ英雄『瞬殺のレウィン』にも会ってねーし」
兵士が羨望の眼差しで語る『瞬殺のレウィン』は、リラ様の隣で食べ物を漁っていた。こんなのが英雄なんて、世の中間違っている。
更に無駄なお喋りを展開させようとする兵士に、ステラ姉さんが無言で蹴りを入れた。
「いってえええええ!な、何するんですか隊長!」
「あんた、上司に対する態度が有り得ないわ。そんなにこのステラ様の部下が嫌なら、いつクビしてやってもいいのよ?」
「いえ、滅相もございません!太陽の如く勇猛で美しい上司のもとで働けて、私は世界一の幸せ者であります!」
「しょうがないわね。そんなに言うなら働かせてあげるわ。ただし、言葉には気をつけるようにね?」
「御意ッ」
ビシッと敬礼するが、兵士が怯えていることは誰の目にも明らかだ。
つーかステラ姉さん、普段部下に対してどんな教育をしているんだよ。怖すぎて聞けない。
ステラ姉さんを恐れ半分呆れ半分で眺めていると、リラ様が銀髪をさらりと揺らし、兵士の前に立った。
「兵士さんって、大変なのね。いつもご苦労様です」
ちょっと首を傾げふわりと微笑む。澄みきった青い瞳が、優しげに細められる。
兵士に対して、多少猫を被りつつもしとやかに微笑む様子に、胸がもやっとした。
リラ様の笑顔にぽーっと見惚れていた兵士は、突然ハッとすると早口で喋り始めた。
「い、いえいえ!こんなのたいしたことないですよー!慣れればチョロイもんですし。と、ところで、名前を聞いても……?」
「リラよ」
清らかに澄んだ声で告げられると、兵士はますます頬を赤らめ、
「リラさんっていうんですね!綺麗な名前ですね、似合ってますよ!そうだ、今度一緒にお食事でも……」
「君、いい加減にしなよ」
兵士の肩を右手で掴み、低い声で囁く。様子のわかっていないらしい兵士を強制的に振り向かせる。
「いってえ……え?」
「本当にいい加減にしてくれないかなあ?この人が誰だか知らないの?」
右手に力をこめ、わざと淡々と言う。兵士がみるみる青ざめていく。
「おい、その辺にした方が……」
「セルシアの第四王女、リラ・クラリス。彼女を知りませんでしたとか、言わないよね?」
「ひっ!」
「……冗談だよ」
パッと手を離す。兵士は一瞬止まった後、声にならない悲鳴をあげてひっくり返った。
「やべえ……マジで本物だった……。しかも肩砕けるかと思った……危なかった……」
兵士は真っ青な顔で肩をさすりながら呟く。ちょっとやりすぎたかな。
それにしても、自分が結構なやきもち焼きの体質だったとは。いや、これは嫉妬?
どちらにしろ、ショックだ。臆病で卑屈で甘ったれの情緒不安定、おまけに嫉妬深い性質ときた。我ながら酷過ぎる。あれ、長所が見つからない。
「あの、ハルがごめんね?大丈夫?」
「あんまり大丈夫じゃ……い、いえ!大丈夫でしたすみません!」
僕の方を見てガタガタ震えている。それはそれで結構傷つく。
リラ様は困ったように眉根を寄せ、それからスッと冷静な表情に変わった。
「ところで、入ってきた時慌てていたけど、何があったの?」
「あ」
兵士が間の抜けた声を出す。
「やっべ、すっかり忘れてた」
「……あんた、やっぱりクビ」
「やめてください隊長!言いますから!今すぐ言いますからーっ!」
ステラ姉さんの足元にすがりつき、必死の形相で懇願する。ステラ姉さんは鬱陶しそうな顔で、
「はいはい。わかったわよ、わかったから離れて」
「はい!ありがとうございます!」
パッと顔を輝かせ、ものすごい速度で後退する。元気いいな。
「隊長に保護を命令された女性のことですが」
「……お姉ちゃん?お姉ちゃんがどうかしたの?」
ステラ姉さんが眉を潜める。僕も、ミシュア姉さんの名にギクッとした。
空気が重く張り詰めていく中、何も知らない兵士は、ビシッと敬礼を決め、言った。
「先ほど、彼女に脱走されました!」




