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クロフィナルの噂

 クラウス様が目を見開き、ステラ姉さんはつまもうとしていたサンドイッチを危うく落とすところだった。


「師匠!そんなの聞いてませんよ!」

「悪いね、ステラ。そう軽々しく言えるようなことじゃなかったんだよ。許してくれ」


 あの師匠の口からそんなセリフが聞ける日が来るとは思ってもみなかった。

 一体、何の話だろうか。

 と、その時、師匠の目が僕を捉えた。


「なあ、ここのところ、ずいぶんと暴れているらしいじゃないか?」

「え?」

「セルシア近辺の国々、何よりセルシアに入ってから、よく噂で聞いたよ。王女の命を狙った何者かが城に入り、それを見事返り討ちにした黒髪の少年……ってね」


 一瞬、言われた意味が理解できなかった。ワンテンポ遅れて内容を飲みこみ、呆然とする。あの時のことだ。

 硬直した僕の代わりに、クラウス様が聞き返す。


「どういうことだ」

「どうもこうもないよ。言葉の通り。その他にも、細々と関係のある噂を聞いたね」


 師匠の答えに対し、クラウス様が不審そうな表情になる。


「あの件は握り潰したはずだ。知っている者がいたとしても、広まっているはずがない!」

「そんなの知るかよ。あたしは事実を言ってるの。わかる?」

「だが……」

「誰かが流したのかもしれない」


 リラ様が冷静な口調で呟く。静かな眼差しは暗く翳っている。


「セルシアだって、一枚岩じゃないもの。一人でも知っている人がいれば、有り得る話よ」


 サーッと血の気が引いた。

 全く予想していなかったわけじゃない。けれど、甘かった。自分の都合のいいようにしか考えていなかった。

 どういう風に噂が伝わっているかは知らないが、もし僕の『化け物』のことが知られてしまったら、家族にもリラ様達にも迷惑がかかる。

 何より、僕が怖い。

 寒くもないのに震える手を握り拳にする。それでも、震えは止まらない。

 その時、柔らかな手が僕の手にそっと重なった。


「……でも、そういう人だけでもないから」


 僕を安心させるように、やんわりと包み込む。途端に恐怖がほどけ、震えが収まった。

 一瞬目があって、慈愛に満ちた目で微笑まれる。


「だから大丈夫。今は、レウィンさんの話を先に聞きましょう。何かを考えるのは後でもできるから」

「それもそうだな」


 クラウス様がいつもの無表情に戻って頷いた。


「それで?噂を言いに来たわけじゃないんだろう?貴様の話とやらは」

「もちろん。じゃなかったら、このあたしがわざわざ来てやるわけないだろ」


 以前から思っていたが、僕の周りにはやけに自信過剰で偉そうな人が多い気がする。馬鹿師匠もしかり。


「さっきのは前置きだよ。あたしが言いたかったのは……」


 そこでいったん言葉を区切り、躊躇うようなそぶりを見せる。普段無遠慮なほど真っ直ぐな視線が、僕に向いているのは気のせいだろうか。


「言いたかったのは、何ですか?」


 ステラ姉さんが聞き返すと、師匠は唸った。


「うーん……いや、杞憂だったらいいんだけど。でも、ものすごーく嫌な予感がするんだよなあ……こう、ビリビリと。あたしの勘って当たるし」

「師匠、前置き長すぎます」

「うるせー!……ま、いっか。悩むなんてあたしらしくないし」


 どういう思考回路に至ったのかは不明だが、師匠の中で何かが解決したらしい。スッキリした顔で頷いている。

 と思ったら、いつものようにニッと笑い、


「クロフィナルの動きがおかしいのさ」


 空気が音を立てて凍りついた。

 それもそのはずだ。数年前は敵国。現在は名ばかりの友好国。

 セルシアが最も警戒すべき大国、クロフィナル。

 クラウス様が椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、師匠に詰め寄る。


「今、クロフィナルと言ったな?確かにそう言ったな?」

「言った言った。間違いなくクロフィナルって言った」


 ことの重大さがわかっているのかいないのか、師匠は呑気な調子で頷く。

 クラウス様の目に苛立ちが浮かんだ。


「くだらない冗談ではないだろうな?根拠は?貴様の動物的勘とやら以外にも根拠はあるのか?なかったら……」

「あんた、尋問みたいなことしてんじゃないわよ。勝手に私と師匠にくっついてきて、その態度は何?」

「それは貴様らが、城の酒と食料を大量に持ち出したという話を聞いたからだ。だいたい、今はそんなことに構っている場合じゃない!」


 クラウス様が鋭い目でステラ姉さんを睨む。姉さんも負けじと睨み返すが、三秒ほどで視線を逸らした。

 今のクラウス様は、頑固で負けず嫌いなステラ姉さんが圧されるほど、温度の低い無表情だった。


「話を戻すぞ。ウル、クロフィナルがおかしいというのは、具体的にはどういうことだ?」

「それから、さっきの前置きとの関係性も聞かせてください」


 あの凛然とした強い眼差しで、リラ様が重ねて言う。

 どこか老成した静かな面持ちや、吸い込まれそうなほど大きく、透明で綺麗な青の瞳にドキッとする。

 こんな時でも、リラ様に見惚れそうになる僕は末期かもしれない。

 急に深刻になった王族の二人に、師匠の顔に苦笑いが浮かんだ。


「ごめんごめん、そこまでシリアスな話じゃないんだ。緊張させといて悪いけど、拍子抜けするかもよ?」


 おどけるように肩をすくめ、グラスの底に残っていたワインを飲み干してから、ようやく話し始めた。


「まずは、前置きと何の関係があるかだっけ?少し前にクロフィナルに言った時なんだけどさ、街でハルが正体不明の賊をぶっとばした話を、しょっちゅう聞いたんだ。それも、セルシアや他の国よりも、よっぽど詳しい話をな」

「はあ!?何で僕が!」


 セルシアや近辺の国に話が漏れたなら、まあわからなくもない。けれど、セルシアからクロフィナルは遠い。南国フラウィールよりはマシかも程度だ。


「詳しいって、どれくらいですか?」


 慌てる僕の横で、冷静だがどこか暗い表情でリラ様が尋ねる。


「場所や人にもよるけど……兵士の集まるような場所がいちばん細かかったかな。安い酒場とか。髪と目は黒、背は平均より少し低めで華奢、武器は一切使わない。凄まじいスピードと強力な打撃力が特徴。軟弱な外見からは想像できない、人間離れした戦闘能力。……これ、全部お前のことだろ、ハル?」

「……そう、ですね。多分」


 掠れた声で答える。顔が引き攣るのは、どうしようもなかった。


「最初は、うちの弟子みたいなのが他にもいるんだなくらいにしか思わなかった。……けど、聞けば聞くほど、ハルにしか思えない。それだけじゃない、クロフィナルだけ、リラちゃんやクラウス、あとあの金髪のメイドが話に出てきたんだ」


 金髪のメイド、という単語にクラウス様がピクリと反応した。冷たく張り詰めていた目を、そっと伏せる姿に胸が痛む。ソフィアはいまだ、異様なほどに殺気立ったままだから。

 しかし、すぐ切り替えて無表情に戻すところはやっぱり凄い。理性よりも感情優先な僕からすると、羨ましい。


「話に出てきた、だと?」

「うん。第四王女ってのはリラちゃんで、世継ぎはクラウス、ナイフ使いのメイドはあのチビな金髪メイドだろ?名前は……ソフィア、だっけ?」

「……それ、いつの話よ?私は聞いたことないんだけど」


 ステラ姉さんが不満げにぼやく。一人だけ蚊帳の外なのが気に入らないらしい。

 クラウス様が淡々と、


「知らなくて当たり前だ。そもそも、ここまでばれている方がおかしい。しかも、クロフィナルにというのが、また……な」

「あ、気になった話がもう一つあったよ。クロフィナルの酒場で」

「何ですか?」


 再び、師匠が僕の方に視線を向ける。

 え、また僕ですか。何の話ですか。まさかとは思うけど、『化け物』には関係ないよね?

 けれど、僕と同じ色をした瞳に、憐みのような感情が透けて見えるような気がした。

 痛ましげな視線が、僕の中の不安と恐怖を呼び覚まそうとする。


「……なあ、ハル。あたしは嘘が嫌いだから正直に話す。だから、傷つけてしまうかもしれないけど……その時は、ごめんな」


 師匠はあまりにも不釣り合いな、神妙な顔をする。

 リラ様とクラウス様を確認すると、僕と同じことを考えたのか、二人とも顔が暗い。ステラ姉さんだけが、重い空気に首を傾げている。

 正直、聞きたくない。

 しかし、余程躊躇っているのか、師匠はなかなか続きを言おうとしない。多分、僕から聞くまでずっと。

 だから、仕方ないから。

 どんな顔をしたらいいのかわからなかったから、僕はへらっと笑ってみた。


「大丈夫ですよ。僕、前ほど弱くありませんから。ここまで来て言わないのはどうかと思いますよ」


 へらへらと軽く見せながら、僕なりの強さをこめて言葉を紡ぐ。

 師匠は目を丸くした。

 が、すぐに嬉しそうに頬をほころばせて、


「そっか……うん、変わったな。ステラから聞いた通りだ」

「え?」

「あんたには関係ないわよ。愚弟はすっこんでろ」

「……そろそろ愚弟って呼ぶの、やめて欲しいな……」


 溜息をついた僕の肩を、師匠がぽんと叩く。子供のような満面の笑みが、いつの間にか困ったような顔に変っていた。


「そこの酒場で、何人かの兵士がなはしてたことだ。……はっきり言うけど、気にするなよ」

 一瞬だけ間が空く。そして、


「『死ぬほど怖かった』、『人間じゃないだろ』、『あれは確かに、『化け物』だよな。あいつらはご愁傷様だぜ』……そう、言っていた」


 氷の槍で貫かれたような気がした。

 ぐらぐらと足元が揺れて、真っ黒な水の中に沈んでいくような。


「……それ……は」


 僕のことだよね、と言おうとして、声にならないことに気づく。声を絞り出そうとしても、掠れた息が漏れるだけ。

 耳に、師匠が言っていた言葉が反響する。それも師匠の声ではなく、見知らぬ兵士の声で再生されるのだ。

 怖かった?人間じゃない?……『化け物』?

 恐怖がせり上がり、全身が冷たくなっていく。せき止めていた壁にひびが入り、黒い水が流れてくる。

 見たくないし聞きたくないし、見えないし聞こえない。何もないんだ。

 僕は人間じゃないの?

 どこまで行っても、結局は『化け物』でしかないなら。

 それなら、もういっそ、全部壊してしまおう。


『ハルは『化け物』じゃない!』


 澄み切った綺麗な声が、黒い水を透明な光に変える。まるで、魔法のように。

 心の中に大切にとっておいた言葉が、リラ様が、ギリギリのところで僕を現実に引き戻してくれた。

 目を開ける。

 脳は正常に機能しているらしく、さっきまでと同じ色彩で形作られている。クラウス様とステラ姉さんは、愕然とした顔で師匠を見ている。

 リラ様だけが僕を見つめていた。

 酷く苦しげな、哀しそうな表情だったが、僕が小さく笑ってみせると、ほっとしたように笑み崩れた。澄んだ瞳を優しく細める。


「大丈夫。ほんの数秒だったから、私しか気付いていないよ」


 僕にしか聞こえないように囁くと、いつの間にか繋がれていた手をほどき、少し横に移動する。

 甘い花の香りと、冷たいはずの手に残る柔らかい温もりに安堵すると同時に、恥ずかしさが込み上げる。情けない。酷く冷たかった頬に血が上る。

 でも、また自分の中の『化け物』に勝った。

 それが嬉しくて、誇らしい。

 一方、リラ様は凛とした表情になり、重い沈黙を破った。


「レウィンさん、それはどういう意味ですか?その言い方だと、兵士たちがその場でハルを見ていたかのように聞こえます」


 師匠がハッとする。


「そう!それだよそれ!あたしにもそう聞こえたんだ!だからちょっと脅して、問い詰めたんだけど、結局口割らなくてさー」

「何してるんですか!?まさかとは思いますけど、暴力じゃないですよね!?」

「そんな物騒なことはしてないぜ?あたしがやったのは、でこピン三発、ビンタ一発だけだ」

「……」


 師匠がやったらシャレにならないよ。


「だが、おかしくないか?リラの命を狙ったものは、全員ハルに八つ裂き……撃退されたはずだ」

「逃したんじゃないの?愚弟のやることだし」

「いや、あの時のハルに限ってそれはないだろう。リラ以外の人間は問答無用で殺す勢いだったぞ、あれは」


 顔を引き攣らせるクラウス様に、リラ様が真顔で同意する。


「私も、あっちの人格のハルが、逃がすなんて甘いことをするとは思えないわ。私が止めなかったら、城の中が屍の山になっていてもおかしくなかったし」

「むしろ屍の山にならずに済んだことが奇跡だ」

「……ハル、何やってんのよ。私が恥ずかしいんだけど。こんなのの姉とか最悪……」

「すみませんでした……」


 ステラ姉さんに蔑んだ目で見られ、縮こまる。


「冗談はその辺でやめましょうよ。私も加担したけど」

「そうだな」

「……冗談になってません」


 僕が悪いんだけどね。わかってるけどさ。


「うーん……スパイか何かが動いてる、とか?」

「ハル・レイス・ウィルドネット。今からあんたと縁を切ります。二度と家に帰ってくるな」

「えっ!ちょ、何で!?」

「あんたの愚かさには愛想尽かした。こんな弟いらない」

「おい、それは言い過ぎだろう」


 クラウス様が釘を刺す。しかし、真面目な顔で頷き、


「……確かにな」

「酷い!クラウス様まで!」

「え?ああ、違う。その話じゃない。ハルの意見に対してだ」

「へ?」


 僕の意見って、スパイがどうのって奴?冗談で言ったつもりだったのだけど。


「あながち有り得ない話でもないだろう?城の警備は、馬鹿みたいに厳重なところもあるが、場所によっては馬鹿みたいに手薄だ。特に、リラに対しては。あの馬鹿は一体何を考えているのやら……」


 クラウス様がらしくなく、馬鹿、馬鹿と連呼している。それに呼応するように、氷雪の双眸に苛立ちが浮かぶ。

 彼の頭の中には今、クラウス様によく似た実父の姿がいるのだろう。

 僕もあの人は苦手だ。

 全てを見透かすような瞳。一見陽気で華やかなのに、冷厳な立ち居振る舞いと隠しきれないカリスマ性が、本能的な恐怖を覚えさせる。

 僕のことも、何故かよく知っているようで、わざとクラウス様を煽って暗殺部隊に勧誘してきた。今から思えば、普段の気弱で臆病な僕ではなく、『化け物』の方の僕でさえ、コントロールされていたような気がする。

 何より、セレナを知っていた。

 一体どこまで僕のことを知っているのか。何故、知っているのか。

 王様は怖い人だ。


「でもさ、うちの弟子にそんな価値があるわけ?」


 師匠の呑気な声にハッと我に返る。つい、物思いに耽ってしまっていた。

 慌てる僕に気づくことなく、師匠は心底不思議そうな顔で続ける。


「確かに、体術はそこそこだよ。このレウィン様が指導してやったんだから。でも、気は弱いし、卑怯だし、依存心強いし、情緒不安定で体術以外はオール平均並み。しかもあたしよりぜんっぜん弱い。こんなのに価値があると思う?」

「ないわね!」

「まあ、そう意味ならないな」

「根は悪くないんだけど……うん、やっぱり価値はないかな。遊び相手渋るし」


 師匠に問いかけられた三人は、それぞれの反応を示しながらも、結局価値がないで一致。

 あんまりだ!人権なさすぎだろ!


「みんな、僕に恨みでもあるんですか!?」

「恨みはないけど迷惑はいっぱいかけられてるよ?」

「同じく」

「愚弟なんか恨む価値もないわよ!」

「……だってさ。ドンマイ!」


 師匠はとびきり爽やかな笑顔で、僕の肩に手を置いた。


「あんたにだけは言われたくないよ!」


 僕が怒鳴ると、師匠が首を傾げた。いや、不思議なこと何もないから。


「もういいです!僕は価値なしで結構ですよ!それで!?結論はどうなるんですかっ!」

「私だと思うわ」


 妙に上がっていた室内のテンションがスーッと下がる。

 みんなの注目が集まると、リラ様は困ったように笑った。


「もし、本当にそう言う動きがあるなら、私だと思うわ。これでも一応王女だし、私って外に出ないでしょう?お父様がやたらと秘密になさるから、色々と勘違いされそうだし。私が狙いなら、必要以上にハルのことが知られているのも仕方がないわ」

「そうだな。あくまで、推測だが。もし本当にそうだとしたら、相手はクロフィナルか……」


 沈黙が落ちる。

 僕が戦ったのも、やはりクロフィナルの兵士なのだろうか。

 あの血の海に浮かんでいた暗い感覚が甦り、思わず顔をしかめた時。


「あ、ごめん。一つ言い忘れてた」


 師匠が照れ笑いしながら髪先を弄る。

 それから、急に真顔になり、女性にしては低い声のトーンを更に落とす。

 内緒話でもするように身を屈めて、


「クロフィナルが、戦争の用意をしてる……かも」


 そう、囁いた。

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