再びやって来た暴風雨
甘い夢のような時間は短く、現実は厳しい。
逃げても逃げても、逃げた分だけ追ってくる。終わることのない、悪夢のように。
それでも逃げたくなるのは人間の本能で。
つまり、僕のような人間が逃避欲と戦うのは大変なことなのだ。
「おい、ハル。現実逃避するな。そんなことしたって解決はしない」
「そうだよ。いくら君が社会のゴミで、頭おかしくて、人間性のバランスがガタガタでも、まだまだこれからだよ!……多分」
「心遣い感謝します、リラ様。ですが、まことに残念ながら、愚弟は愚弟でしかないので……」
「あはははっ!相変わらず手厳しいねえ、ステラ!どこかの馬鹿と違って頼りになるよ!」
僕が現実逃避を実行に移す前に、周りの人間が退路を潰しにかかるのです。
まあ、それはいい。というか、ありがたい。この際、ボロクソに言われているのも目をつぶろう。
そんなことより、
「何でっ!あんたがここにいるんだっ!!」
さっきから溜まっていた不満を糧に絶叫する。
叫ばれた当の本人は、ケロリとした様子で肩をすくめる。
「んな堅いこと言うなってー。あたしが久しぶりに会いに来てやったんだから、ちょっとは喜ぼうぜ?」
「喜んで欲しかったらもうちょっとマシになれよあんた!」
噛みつく勢いで言うと、ステラ姉さんが僕を睨む。
「ちょっと、愚弟のくせに何生意気なこと言ってるのよ。つーか黙れ」
「ステラこそ正気になったらどうだ。こんなのを尊敬している配下はいらない」
「クラウス様に賛成です!」
「ああ?うるせーのよ男ども」
「あ、もう終わりか。王女様、おかわりあるー?」
「……レウィンさん、これ以上はちょっと……。あと皆、喧嘩もそれくらいにしようよ。茶番劇をしに来たとか、そういうオチじゃないでしょう?」
あんまりな事態に見かねたのか、リラ様が眉を下げ、困ったような笑みで諭す。
ステラ姉さんが舌打ちをして顔を背ける。クラウス様は溜息を吐き、僕はというと恥ずかしいやら申し訳ないやらで顔を伏せた。
そして、当の元凶は。
「そんなこと言うなって!ここ、城なんだからいっぱいあるだろ?最上級とは言わないから、それなりに美味しい酒をあと十本くらい……」
「いい加減反省しろよ!」
勢いよく拳をつき出すが、相手はそれを片手でやすやすと受け止めた。普通の人なら、骨を折るかまともにくらうか、少なくとも吹っ飛ぶような一撃を。
そうして、この国では希少な黒色の目を細め、ニヤリとした。
「甘いねえ、ハル。そんなんで、あたしに敵うはずないだろ?」
山と積まれた空のワインボトルを指で弾き、暴風雨を人間の形にしたようなはた迷惑な師匠は、得意げに笑った。
今日は、ミシュア姉さんのことで話し合う予定だった。
あれからもう何日か経ってしまったが、僕とステラ姉さんが立ち直ったところで、改めて考えようとういうことになったのだ。
いつもリラ様の部屋というのは申し訳ないし、姉さんの希望もあって、城に有り余っている部屋の一つを用意してもらい、僕とリラ様はそこへ向かった。
そこまではいい。そこまでは本当によかったのだ。
問題はその後だった。
いざその部屋の前に立つと、何だか騒がしい。言い争うような声や、液体を注ぐような音、食器が触れ合う音までする。
おかしい。ここには、ステラ姉さんしかいないはずなのに。
「……部屋、間違いました?確かリラ様って、致命的な方向音痴だったし……」
「な、失礼な!致命的じゃないわ、破滅的よ!」
「どっちでも一緒でしょうが」
呆れながら突っ込むと、ムッとしたように睨まれる。しかしすぐに表情を曇らせ、不審そうに首を傾げる。
「でも、変ねぇ。確かに人がいるみたい。ここのはずなんだけど……?」
「やっぱり間違ったんでしょう」
「それはないわ」
「破滅的な方向音痴なら、自信持たないでください」
すると、リラ様が腰に手を当て、
「ハル、いいことを教えてあげる。自分を信じなければ、何も始まらないんだよ!」
「説得力皆無ですね。少し前の、天使のような王女はどこ行ったんですか?今のリラ様のは自信じゃなくて過信です」
「何よ、ハルのくせに。幼稚で、臆病で、馬鹿でアホで泣き虫の『弱虫』で、頭おかしいくせに」
「少なくとも今は、リラ様の方が百倍幼稚だと思います」
リラ様がなおも言い返そうとした時、ガチャリと扉が開いた。
二人同時に向き直ると、中から出てきたのはステラ姉さんだった。
「ハル、何で突っ立ってんのよ。ばっかじゃないのバーカ。……リラ様、どうぞお入りください」
「うん、ありがとう」
リラ様にはそれなりに愛想の良い笑みを向け、僕をを見ると尊大な目つきに変わる。
「さっさと入れ」
「……対応違いすぎるよね」
「贅沢言うな」
ギロリと睨まれ、溜息を吐きながらリラ様の後に続く。
そうして、僕は目の前の光景にポカンと口を開いた。
「お、久しぶり、ハル!リラちゃん!お邪魔してるぜ!」
固まる僕に向かって、陽気な声で挨拶してきたのは、師匠だった。
だいぶ前にあった時と少しも変わらない。艶のある黒髪を無造作に縛り、相も変わらず男物の服を着て、ガキ大将の如くニッと笑う。右手にワインがなみなみと注がれたグラスを持っている。
……何デ師匠ガイルンデスカ。
これだけでももう意味不明なのに、さらに意味不明でしかも危険な状況だった。
「……遅い。遅すぎだ」
ひんやりした中性的な声に、今はドスがきいている。その声の持ち主は、端麗な横顔を完璧な無表情にし、全身から黒々とした殺気を放っている。
クラウス様が剣を師匠に向け、構えていた。
「え?……え?」
リラ様も唖然とした顔で呟く。
「あんた、何指図してるの?だいたい、師匠に剣を向けるなんてどういうつもり?」
「貴様こそ、この酒と食料をどこから持ってきたか説明しろ」
「そんなのもわからないのに皇子なんかやってるの?城の厨房に決まっているじゃない」
ステラ姉さんが見下すように言う。途端、もとからやけに涼しかった室内の温度が更に下がった。雪が降りそうだ。
「前々から聞きたかったんだが」
「何よ」
「貴様は、死ぬか、殺されるか、処刑されるかだったら、どれがいい?」
それ、全部死にますよね。もはや選択肢にすらなってませんよね?
ひやひやしながら事態を見守っていると、ステラ姉さんはさらに尊大な目つきになり、
「ばっかじゃない!あんたこそ、断頭台で処刑されて……」
「うわあああ!?クラウス様、ごめんなさい!姉さんは何も言ってないんです!馬鹿とか断頭台とか処刑とかは、最近の流行りで!決してそう言う意味じゃないんです!」
ステラ姉さんの無礼極まりない発言をかき消そうとするも、時既に遅し。
クラウス様の双眸が冷たくきらめいた。
「少し前まではウルを斬るつもりだったが、予定変更だ。ステラ・ウィルドネット、貴様から抹消してやる」
「はあ?ボンボンのくせして言うじゃない?」
「ステラ、それは違うって。やっぱりボンボンはハルでしょうよ」
「それもそうですね。さすがは師匠」
「何気に人のこと侮辱してるよね!?」
「……ボンボン……なるほど、ハルにはピッタリだね。この状況でそれだけは納得……」
「リラ様まで!」
結局、僕は馬鹿にされるのだ。いつでもどこでも誰にでも!
いい加減慣れたけど腹は立つ。
ていうか、本当に何で師匠がいるんだろう?自由気ままに一人旅をしていたんじゃ。昼間から酒を飲むような人なので、山と積まれたワインボトルには驚かないけど。
ようやく脳が正常に機能するようになり、考えを巡らせ始めたのも束の間。
「まあ、皇子サマごときが私に敵うわけがないし、やめといたら?今のうちなら、あんたの無礼も許してあげる」
ステラ姉さん(伯爵家の娘とはいえただの兵士)は薄く笑って、クラウス様(世継ぎ)を嘲った。
嘲りやがった。
「……どうしても寿命を縮めたいようだな」
お手本のような無表情が僅かに引き攣る。氷雪色の瞳がこれ以上ないほど冷えてゆく。
クラウス様がこんなに怒るの、久しぶりに見たなー。うわあ、すごい無表情だー。こわいけどきれいでやっぱりこわいなー。あ、けんをもってとびかかった……え。
頭の中がひらがなだらけになっていたのが、戦闘らしきものが始まり我に返る。
クラウス様が流れるような動作で斬り込む。かわしたステラ姉さんを追い、舞うように身を翻す。そこへ、飛翔した姉さんが飛びかかった。
この光景、似たようなものをどこかで見たような。
いや、そんなことはどうでもよかった。なんかしないとマズイだろう、これ。
僕が言うのもアレだが、クラウス様は意外と短気だし、ステラ姉さんはどうしようもなく傲慢で、好戦的だ。止めるなら実力行使以外に手はない。
けど、僕が間に入るなんてろくでもない結果しか見えない。
そうしている間にも、クラウス様とステラ姉さんの戦闘で、瓶や食器が砕け、部屋にもともと設置されていた家具が壊れ、簡素な室内は見るも無残なあり様へと変貌していた。
そんな中で、平然とパンを頬張っている師匠はある意味スゴイ。
ふいに、ちょんちょんとつつかれ見ると、リラ様が困ったように僕を見上げていた。
「……ハル、悪いんだけど、あそこの二人を止めてくれないかな?」
「え。僕が?」
「うん。……ね?お願い」
僕の目を真っ直ぐ見つめ、可愛らしく小首を傾げる。銀色の髪がさらさらと流れ落ち、ふわりと花の香りがした。
そんな顔をされると、結構弱い。罪悪感が込み上げてくる。
けど、僕が何かすると本当に酷いことになるし。
「あ、じゃあ、あたしがやってあげるよ!さっきからステラとクラウスばっかり楽しんでて、ずるいなって思ってたところだし!よーし、暴れるぞー!」
「いいえ結構ですお引き取りください!できれば地獄にトリップしてきてくださいお願いします!」
早口でまくし立て、馬鹿師匠が動く前に、交戦中の二人の間に突っ込む。
師匠が暴れたら、おそらく一時間で城が全壊する。そんなのに任せられるか。
クラウス様の剣を弾きとばし、ステラ姉さん腕を捻りあげながら、僕はげんなりした。
そうして、今に至る。
師匠の馬鹿とステラ姉さんの上から目線はもうどうしようもないが、クラウス様は元の冷静さを取り戻し、部屋を片付けた。
「じゃあ、茶番劇は終了ね。本題に入りましょうか」
リラ様が落ち着いた声音で告げる。
「もともと茶番劇なんてしてないよ?」
「師匠は少し黙っていてください」
「いや、黙らないでほしいんだけど」
まさかリラ様、師匠の馬鹿な話を聞きたいのですか。
驚いてリラ様を見ると真顔だった。綺麗な水のように澄んだ瞳が、真っ直ぐ師匠を射抜く。
「ねえ、レウィンさん。今日ここにいらっしゃったのは、何か用があったからでしょう?レウィンさんのような人が、お父様に見つかる危険を冒してまで、用もなく城に来るとは思えないもの」
天上の音楽のような声は、清廉で美しく、けれど有無を言わさぬ響きがあった。
確信のこもった言葉に師匠を見ると、驚いたことに、その顔には苦笑いが浮かんでいた。
「うーん……もうちょっとゆっくりしたかったんだけどねえ……」
そう言うと、困ったように頬をかく。師匠らしくない、妙に歯切れの悪い物言いをする。
しかし、リラ様の揺るぎない眼差しに、ついに観念したようだ。
「リラちゃんの言う通り。あたしは、お前らに話があって来た」




