彼女は甘くて、優しすぎて
スッキリした爽やかな香りが辺りを満たす。バターと砂糖の、甘い匂いもする。
夢と現実の境目に立っているような、ふわふわした感覚。焦点が定まらず、ただぼんやりと下を見つめる。
ほんの少し前までは散乱していた本が片付き、窓から入り込む透明な光が辺りを照らしている。酷く眩しい。
不意に、揺れていた視界に鮮やかなブルーのドレスが映った。同色の華奢な靴が、陽光にきらめく。
「目が覚めた?」
甘く透き通った声が、労わるように尋ねる。
答えようと口を開くが、何も出てこない。声が出ないのではない。ただ、どこを探しても言葉が見つからないのだ。
「まだぼーっとしてる?だとしても、何か食べたほうがいいよ。さっき、ソフィアに頼んでお茶とお菓子を用意してもらったから、一緒に頂きましょう?」
言うなり、リラ様は僕の手を取って立たせる。導かれるまま歩き、席に着くと、真っ白なテーブルクロスの上にポットとティーカップ、砂糖やジャムを淹れたガラスの容器、お菓子が並んでいた。
中央に置かれた青い花瓶に、真っ白な花がいけられ、甘い香りを放つ。
「あ、このお花ね、ちょうど庭に咲いていたの。ハルが起きるまでの時間暇だったから、散歩してきたんだ」
うつむいたまま小さく頷く。
不愛想な僕に対して全く怒ることなく、リラ様は続ける。
「このお茶はルスチェカ産なんだけど、すごく新しいのよ。品種改良されたんだって!味は渋みと苦みが強いから、あまぁいジャムや、砂糖とミルクがあうみたい。あ、蜂蜜もよかったかな?頼みそびれちゃった」
明るく朗らかに言葉を紡ぐ。
見なくたってわかる。リラ様は何事もなかったかのように、笑っているはずだ。ただ、澄んだ瞳だけ、寂しげに翳り。
「この砂糖漬け、花弁だよ!すごい!こっちはドライフルーツを焼きこんだケーキね。焼き立てだから、ソフィアが焼いたのかな?サンドイッチも色々あって、すっごく美味しそう!」
何度も何度も繰り返した、夢のように優しい時間。
「ね、ハルも食べようよ。ティータイム、好きでしょう?」
ほら、というように、リラ様自身が僕にカップを差し出す。
のろのろとカップを引き寄せ、口をつける。確かに、苦い。しっかりした味わいがあって、これはこれでいいが、甘くするのも悪くないだろう。
「ラズベリーのジャム、よく合うよ。いる?それとも、砂糖の方がいい?」
「……ジャムで……」
「はい、どうぞ」
ティースプーンを受け取り、ジャムを溶かす。カチャカチャという食器の音が、やけに大きく響いた。
もう一度口に含むと、先ほどの渋く苦い味に、まろやかな甘酸っぱさが溶けている。紅茶本来の香りとジャムの香りが絡んで広がる。
「美味しい。やっぱり、ジャムで正解ね。ケーキもしっとりしていて、甘さもちょうどいいわね」
心の底から楽しげに振舞う。それが、罪悪感となって僕の胸に突き刺さる。
痛い。苦しい。息の吸い方がわからなくなり、吐き出すこともできなくなる。
乱暴にカップを置くと、ガチャンという音が響いた。
「どうしたの?口に合わなかった?」
「……違います。美味しい、です」
「じゃあ、何?」
ちらりとリラ様を見ると、切なさの滲んだ優しい表情で僕を見つめていた。
澄んだ瞳とぶつかりそうになり、慌てて目を逸らす。
「……あの後、姉さん達がどうなったか、知ってますか?」
「ええ。ついさっき、ステラさんが来て教えてくれたわ。ミシュアさんの様子を不審に思った警備の人が捕まえて、今はステラさんの部隊に任されているって。落ち着いてるから大丈夫って、言ってたわ」
リラ様の話に、少しほっとする。ステラ姉さんなら酷いことはしないだろうし、そちらに話が映ればリラ様も安全だ。問題は何一つ解決していないけれど。
「ミシュア姉さんがシャルキットだということは……?」
「それは、まだばれてないって言ってたよ。シャルキットの最大の特徴である仮面は、ここにあるから」
ほっそりした指が、本棚の一角を指し示す。
「あそこに隠してあるから、誰にも見つからないわ」
「……すみません。ありがとう……ございます……」
「どういたしまして」
軽やかに言うと、急に悪戯っぽい目をして、
「そういえば、警備が手薄すぎるって、ステラさんに怒られちゃったわ。これじゃ、狙ってくださいって言ってるようなもんだって。私もそう思うけど、お父様がこれ以上人員を割くのは無理だって言ってるのよねえ……。まあ、私はクラウスのように高い地位につくことはないから、大丈夫だけどね」
そう言って、くすくす笑う。
気負いのない、晴れやかで透明な笑顔が苦しい。罪悪感だけではなく、リラ様に甘え、無理をさせているという事実が、泣きたくなるほど情けなくて、苦しい。
こうしている時も、セレナの姿が見えるような気がして、それを追いかけてしまいそうになるのに。
甘く澄んだ笑い声を思い出し、胸が締め付けられ、息ができなくなる。
どうして、いつもこうなんだ。
紅茶に映った僕の顔は、思った通り泣きそうに歪んでいた。
「……リラ様は、泣いたりしないんですか」
意図せず、言葉がこぼれ落ちる。
花弁の砂糖漬けを食べようとしていたリラ様は、驚いた顔をして、砂糖漬けを皿に戻した。
「どうしたの、いきなり」
「……だって……は……だから」
「え?何?」
僕が言ったことが聞こえなかったようで、リラ様はキョトンとする。
けれどもう、声が詰まって何も言えなかった。
リラ様がちょっと眉を下げ、
「そうね……もう、しばらく泣いてないかなあ。少なくとも、ハルの前ではないな」
「……覚えてないんですか?」
「何を?」
怪訝そうな顔で首を傾げる。まあ、風邪をひいた時のことだし、覚えていなくてもおかしくないか。
熱で朦朧としながら、「行かないで」と泣き叫ぶリラ様の姿と、セレナの幻影が重なってしまい、また胸が疼く。
「……何でもありません」
「そう?なら、いいけど。……ていうか、もう誰の前でも泣いてないな。あまり気にしてなかったけど」
「どうして泣かないんですか。辛いこととか、あるでしょう?」
また、冗談ではぐらかされるかと思っていたが、違った。
「……私は、泣いてはいけないから」
ふっと瞳が翳り、寂しげな笑みが浮かぶ。
「私ね、何年も前に失敗しているの。だから、もう泣かずに前を向くと誓った」
苦しそうに、けれど強く、言い切る。
「誓いを守るのは大変だけど……でも、平気。今が、幸せだから」
「幸せ……なんですか?」
「うん、幸せだよ」
一瞬、意味が理解できなかった。
リラ様は、今が幸せだと、そう言った。
セレナの幻影がゆらゆらと揺れ、薄れていく。目のふちが熱くなり、歪んで、ついにはリラ様の顔も見えなくなる。
涙がこぼれ、紅茶のカップに落ち、小さな波紋が生まれる。
「ど、どうして……幸せなんですか。さっきのだって……っ」
「ミシュアさんのこと?それは……」
「違うっ!」
自分で叫んでおきながら、ビクッとした。
酷く混乱している。
頭の中がぐちゃぐちゃで、何を言っているのかわからない。過去と現在が混ざり合い、真実が見えなくなる。
「……っく、それも、そうだけど……ね、姉さんが、言った……セレナ……!」
涙で濡れた視界の中で、リラ様の瞳が揺れた。
「……リラ様のこと、好きだっていったの……嘘じゃないんです。本当に、嘘じゃない。僕……は、嘘吐きだけど……これはっ」
「もう、いいよ」
優しい声に諭され、より一層絶望と恐怖が増す。
嘘だと思われたら。見捨てられたら。
そうしたら、きっと生きていけない。
「違う……本当に違う……!で、でもっ、わからなくて……否定、できなくて、……でも、嘘じゃないっ!」
「わかったから。ね?もう……」
「本当に嘘じゃ……ない!……っく、どうして……責めないんだ……!……やっぱり、僕は最低です……ごめんなさい……全部、僕が……っ」
酷く混乱して、自分が何をしているのかわからなくなっていた。溢れる涙をぬぐうことさえできず、拳を握り締める。
消えてしまいたかった。
過去を延々と引きずり続け、やっと前を向いても、どうしようもなく居残り続ける未練と、知りたくなかった真実に阻まれ、進めなくなる。
もう、何も考えたくないし、知りたくない。前に進みたくない。
嘘でもいいから、平穏で当たり前な幸せだけを見ていたい。
それは単なる甘えでしかないし、多分間違っている。
けど、もう傷つくのも傷つけるのも、嫌だっ。
「……ごめんなさい」
苦しそうに囁くのが聞こえた。
のろのろと顔を上げると、涙に濡れた視界に、目を伏せたリラ様がいた。
「……え……?」
意味が、わからない。
「な、ん……で」
「結局は、私のせいなのかもしれないね」
僕は耳を疑った。
辛そうに、苦しそうに、それでも彼女は言葉を紡ぐ。
「私が、ハルを呼ばなければ、きっとこうはならなかった。きっと、今よりは傷つかなくて済んだはずだよ。……本当に、ごめんね」
綺麗な水のように澄み切った声は、震えていて。
僕が、リラ様に謝らせて、こんなにも哀しい顔をさせてしまった。
僕が『弱虫』だから、リラ様は自分のせいだと思ってしまった。
そんなこと、思っても見なかった。
「……謝っても、もう遅いかな……。でも、これ以上は辛いというなら、契約は解除するわ。ミシュアさんの件は、中途半端に私が関わってしまったから、もう少し調べようと思うけど……」
伏せた瞳に憂いを滲ませ、それでも毅然と微笑む。
「それが終わったら、もう、ハルには会わない。約束するわ」
ナイフが、心臓に突き立てられたようだった。
足元がぐらつくような喪失感。目の前が真っ暗になる。
けれど、それ以上に、リラ様にそんなセリフを言わせてしまった自分に、吐き気がするほど苛立つ。
「別に、怒ったりしないから。だから、無理は……」
立ち上がった拍子に倒れた椅子の音が、リラ様の声をかき消す。
「リラ様のせいなんかじゃありません」
「……けど」
「これは、僕が逃げて……選んできた、結果です。だから、誰かのせいではない」
リラ様が息を飲む。
焼けつくような痛みを伴いながらも、言い切ることができた。
何かのせいにして、目を閉じ、耳を塞いで逃げてきたから、自分のしたことを認めるだけで、痛くて、逃げたくなる。
けど、もう、本当に変われたはずだから。
「僕は、リラ様のことが好きです。嘘じゃなくて、本当に」
こぼれ落ちそうになる涙を乱暴に拭う。リラ様の頬が微かに赤くなった。
「けど、……まだ、リラ様に言えないことが、あるんです。それも、本当のこと」
「……ミシュアさんが言っていたことと、関係しているの?」
苦い気持ちで頷く。
あの場で、ミシュア姉さんがセレナのことを口に出すとは、思いもしなかった。
ローグ・ゼルドの件以来、ミシュア姉さんはからにこもってしまった。セレナのことがあったのはその後だ。てっきり、知らないと思っていた。
「……自分でも、不誠実だとは思います。けど、どうしても、自分で決着をつけなきゃいけないと思うんです。今のままでは、とても言えない。……だから、」
青く透き通った瞳と、真正面からぶつかる。
今から告げることは、あまりにも酷い。蔑まれ、嫌われても仕方がない。
けど、中途半端な今の僕にはこれが精一杯だ。
「……だから、僕が話すまで、待っていてくれませんか」
沈黙が、一つ、二つ。
リラ様は済んだ瞳をそっと伏せ、それからゆっくりと微笑んだ。
「いいよ」
花の蕾が、音もなく開いていくように、唇をほころばせる。
「言ったでしょう?私は、君が大切だって」
澄んだ声が、絡みつく痛みをほどいていく。温かい光にふんわりと包みこまれたような。
安堵や、情けなさや、切なさや、形容しきれない感情が混ざり合い、込み上げてくる。
ヤバイ。また泣きそうになる。
涙を押し込めようと上を向くと、スッと手がさしだされた。
「はい、どうぞ」
「……何ですか、これ」
「砂糖漬けだよ」
「それは知ってます」
淡いピンクの花弁を、砂糖の衣にくるんだ菓子だ。見ればわかる。
「えーと、ほら!泣きそうな時は甘いものを食べると、涙が砂糖に変換されるっていうじゃない?」
「……言いません」
「え?言わないの?」
キョトンとした顔で首を傾げる。表情も仕草も可愛らしいが、それはないだろ。本気で言ってるあたり頭が痛い。
けれど、心底呆れたせいか、潤んでいた視界も元に戻り、荒れていた胸の内も穏やかになる。
本当に敵わないなあ、この王女様には。
「……もらいますよ」
苦笑いしながら砂糖漬けを受け取る。
リラ様の透き通った瞳に、一瞬切なげな光がよぎる。が、すぐに朗らかに微笑んで、
「うん、やっぱり、その顔の方がいいよ」
「へ?」
「ハルは笑っている方がいい」
苦笑なのが残念だけどと付け足して、優しく目を細める。
かあっと頬に血が上る。
何だよそれ。恥ずかしい。しかも、そんな優しい目で。
咄嗟に顔を背けた拍子に、口に入れたばかりの砂糖漬けを飲みこんでしまった。
「それ、どう?私はまだ食べてないんだけど」
甘く柔らかな声が耳朶を打つ。
僕は赤い顔を必死で隠しながら、ぼそりと言った。
「……甘すぎ、ですね」




