表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
73/118

歪んだ未練は残酷に

 狂いかけた呼吸が元に戻り、揺れていた視界が安定する。脳内を駆け巡っていた混濁した感情が、抜け落ちていく。世界から音が消えた。

 眠りに落ちたようなぼんやりした感覚。心の中は冷めきっていて、現実感がわかない。夢でも、見ているような。

 いや、きっと夢だ。

 過去も、現在いまも、未来もない。

 延々と遠く、真っ暗な道が続くだけ。

 彼女に向かって、『誰か』が凶器を振り上げる。

 誰だ。知らない。知らないから、彼女を殺そうとするから、消さなきゃ。

 嫌味なほどゆっくりと振りあげる、『誰か』の腕を掴みあげる。ナイフを奪い、細い喉につきつけた。

 このまま裂くか。でも、それだと彼女にまで返り血がかかってしまう。首を絞めた方がいいか。せっかくだから、選択肢くらいやってもいい。

 『誰か』がどうにか逃げようと暴れる。力はない。だが、面倒だ。掴みあげている方の手に僅かに力を込めると、悲鳴が聞こえたような気がした。

 もう面倒だし、さっさと終わりにしようかな。

 その時、凛然と輝く青い瞳と、視線がぶつかった。


「私を見て!思い出してっ」


 彼女の澄んだ眼差しが突き刺さる。今まで何一つ聞こえなかったのに、彼女の声だけが急に響き始める。


「今負けたら、絶対に後悔するわ!君が今、誰に、何をしようとしているのかを考えて。考えることを放棄しないで。それは、逃げているのと同じことだよ!」


 真っ黒な血の海がみるみるうちに引いていく。夢のようにふわふわした感覚が消え、色彩が戻る。


「もっと自分を信じてよ!君はそんなに弱くない。潰されないで」


 祈りにも似た、叫び。澄みきった心。


「ハルは『化け物』じゃない!」


 透き通った叫びに、強い意志を宿す瞳に、目が覚めたようだった。

 散らかった本の数々、その中で、本棚にぐったりと背中を預けながら、澄んだ表情で僕を見つめるリラ様の姿。

 そして、僕がナイフを突き付けているのは、他でもないミシュア姉さんだった。

 僕が今しようとしたことは。それは、絶対に許されない。

 背筋が凍りつき、途方もない自己嫌悪に吐き気がした。

 また、繰り返すつもりだったのだ。何度誓っても、そのたびに逃げてしまう。正面から受け止め、戦うことができない。

 力が抜けていく。ぽとりとナイフが絨毯の上に落ちた。ミシュア姉さんに手を振り払われ、軽くよろめく。

 そんなに力を入れたつもりはなかったのに、ミシュア姉さんの手首には、痕がくっきりと残っている。

 僕がやった。僕がやったんだ。また、取り返しのつかないことを。


『だから、言っただろう?お前は『化け物』だって』


 愉しげな嗤い声に、頭が割れるように痛む。足元がぐらつき、揺れた。

 そうかもしれない。結局変われないのは、僕が『化け物』だからなのだ。 だから、変われない。繰り返す。

 きっと、これからも……いや、違う。

 僕は『化け物』じゃない。リラ様が言ってくれた。だから、『化け物』じゃない。絶対に『化け物』じゃない!

 その時、どうしてそんなことをしたのか、後になって考えてみてもわからなかった。

 周りに、そして自分自身に証拠を示したかったのか、行動することで何かを変えたかったのか、自分の中の『化け物』を消そうとしたのか、何も考えていなかったのか。

 それら全てか。それとも、どれでもないのか。

 一つ言えることは、何かを考えることや、いつものように逃げることよりも先に、体が動いた。それだけだ。

 僕は落としたナイフを拾い、自分の腕に勢いよく突き刺した。

 肉が裂ける嫌な音と共に血が噴き出す。遅れて、痛みがやってきた。

 痛いと思えた。

 麻痺しきった痛覚は、ちゃんと戻ってきていたのだ。


「な……何を、してるの」


 リラ様が目を見開く。ついで、その目が泣きそうに潤み、唇が震えた。


「馬鹿。……何で、そんなことするの。『化け物』じゃないって、言っただけなのに」

「わかってます。僕は『化け物』じゃありません。……今、ようやく確信が持てました」


 小さく微笑みかけると、ますます目を潤ませる。それでも、桜色の唇をゆっくりとほころばせ、泣きそうに微笑んだ。

 今のできっと、伝わったはずだ。リラ様だから。

 僕はリラ様から視線を外し、再び抜け殻のようになったミシュア姉さんを見据えた。


「さっきはごめん。痛かった、よね?」


 返事はない。ガラス玉のような目が、数度瞬く。


「今僕がしたことは、本当にごめんなさい。けど、ミシュア姉さんがリラ様にしたことだって、許されることじゃないよ。例え、ローグ・ゼルドが絡んでいても」


 あの男の名前を出した時だけ、ミシュア姉さんの肩が揺れた。


「あのことを引きずっているのはわかる。だけど、どうしても納得がいかない。何故、姉さんがリラ様を殺そうとしたのか。シャルキットのことも、クロフィナルから来たお手伝いのことも。……だから、説明してほしい」

「私も、ハルと同じ思いでいるよ」


 突然入りこんだ声に驚き、振り向くと、ステラ姉さんが戸口に寄り掛かりながら立っていた。青ざめ、いつもに比べて弱々しい姿。それでも揺らぐことのないしっかりした声で、


「私は、昔からお姉ちゃんのことがわからなかったし、今でもわからない。でもそれは、お姉ちゃんが何も言わなかったからってのも、あるんだよ。言わなきゃわからないことがある。そして今は、言わなきゃいけない時だよ」


 ミシュア姉さんがうつむき、長い前髪が表情を隠す。薄く頼りない肩が小刻みに揺れている。

 届いただろうか。伝わっただろうか。

 長く重い沈黙に、息がつまりそうになる。ステラ姉さんも張り詰めた表情で、ミシュア姉さんを見つめている。

 どれくらいの間、そうして固まっていたか。

 突然、部屋に甲高い笑い声が響いた。


「ふふ……ははは……あはははははっ」


 けたたましい声に、一瞬『化け物』かと思いゾッとしたが、声の主はミシュア姉さんだった。

 うつむいたまま、おかしくてたまらないというように嗤う。艶やかな黒髪が揺れ、細い喉が上下する。

 病的で、悪意に満ちた嗤い声に、悪寒がはしり動けなくなる。

 ひとしきり嗤い終えると、ミシュア姉さんは顔を上げ、僕とステラ姉さんをきつく睨んだ。


「よく……よく、そんなことが言えるわね」


 今までの無感情な声が嘘のように、憎々しげに言い放つ。

 漆黒の瞳は怒りに満ち、青ざめた頬に血が上る。全身を震わせ、憎悪と恨みを纏い、黒髪をふり乱しながら吠える。


「私のことなんてお構いなしだったくせに、今更何?笑わせないでくれる?」

「そんな……そういうつもりじゃ」

「そうでしょうね、ステラ。あなたはいつだって傲慢で、勝手に私の胸の内を決めて。私の気持ちが、苦しんだことのないあなたにわかるはずないじゃない!」


 ステラ姉さんがショックを受けた顔をし、口元を手で押さえる。見開いた瞳から、大粒の涙がこぼれていく。

 膝を吐いてしまったステラ姉さんを、ミシュア姉さんは冷めた目で一瞥し、口元を歪めた。


「泣けばいいと思ってるでしょう?馬鹿みたい。泣いて何かが変わるなら、私だっていくらでも泣くわ。けど、泣いたってどうにもならないのよっ!」

「ミシュア姉さん!」


 一方的な攻撃に耐えられず遮ると、冷え冷えとした瞳が僕に向けられた。

視線が絡む。

 凍てついた憎悪に射殺されそうになる。思わず数歩後ずさった。


「ハル、あなたには失望したわ。ハルなら、私の気持ちがわかると思ったのに。大切な人を失ったことがあるあなたなら、私の気持ちがわかると思ったのに!」

「……しつ、ぼう?」

「そうよ。私は、ローグさんを取り戻すために、シャルキットになったのよ。願いを叶えるためなら、何だってしてきたわ。それだけが生きがいなんですもの。どんな代償でも構わなかった。ただ、ローグさんに振り向いて欲しかった。それだけなのに、本当にそれしか願っていないのに、どうしてわかってくれないの!?」


 ミシュア姉さんが絶叫する。

 そこまで、ミシュア姉さんはローグを愛していたのだ。

 裏切られた後も、憎むでもなく、恨むでもなく。きっと、忘れられなかった。

 怒りにギラつく双眸が、僕に少し似たおもざしが、憎悪にまみれた声が僕を締め付ける。


「ハルッ!あなたのせいよ!あなたが邪魔するから!これで最後だったのに!あなたが、私の人生を滅茶苦茶にしたんだっ!」

「それは違うわ!」


 澄んだ声が強く遮った。

 ミシュア姉さんが弾かれたようにリラ様を見る。

 リラ様は本の中からすくっと立ち、僕を庇うように前に進み出た。腰のあたりで銀髪がさらさらと揺れ、海色のドレスに降りかかる。

 背筋を凛と伸ばし、ミシュア姉さんを真っ直ぐ見つめ返す。何度も僕を救ってくれた青い瞳が、爛々と輝く。


「ミシュアさん、あなたは、願いを叶えるためならどんな代償でも構わないと言ったわね?」

「ええ、そうよ。それが何?」

「私は、そう思わないわ」


 静かに、けれど強く言い放つ。

 澄んだ声で語られた言葉に、ミシュア姉さんは逆上した。


「何よっ!何も知らないくせに……何も知らないくせに!」

「ええ、知らないわ!でも、間違っている。自分の願いのために人を犠牲にするなんて絶対に間違ってる!そして、自分さえも犠牲にしているじゃない!」

「別にいいじゃない。私は間違ってない」

「いいえ。もっと冷静になって。あなたは、怒りに取りつかれて自分を見失っている」


 リラ様は哀しげに囁いた。哀切に満ちた瞳をそっと伏せる。

 ミシュア姉さんの目が、一瞬だけ揺れた。が、すぐに憎悪に満ちていく。

 漆黒の瞳をそっと細める。ゆっくりと唇をつり上げ、微笑んだ。


「何か勘違いしてるんじゃない、王女様?」


 毒々しい笑みに皮膚が泡立つ。ミシュア姉さんは僕にもその微笑を向けた。


「ねえ、ハル?さっきは失望したって言って、ごめんね?あれは嘘。……だって、あなたはまだ、忘れてないんでしょう?」

「え?」

「あの女の子のこと、忘れていないんでしょう?」


 酷く愉しげに繰り返す。

 あの女の子。

 脳裏に、お伽噺のような夕暮れの時間に出会った、美しい少女の姿が浮かび上がる。


「だから、私と同じように閉じこもったんでしょう?消えないように。時間を止めるために。まだ、好きなんでしょう?」


 全身に冷水を浴びせられたような錯覚を覚えた。眩暈がして、視界がぐにゃりと歪む。薄紫の霧が広がる。

 やめて。聞きたくない。僕は聞きたくない。言わないで。

 耳を塞ぎたいのに、指の一本も動かせない。

 リラ様の顔からサーッと血の気が引いていく。今まで僕を導いてくれたあの強さが嘘のように消え失せ、年相応のか弱い少女に変わる。

 リラ様の顔に浮かんだ、酷く怯えた表情に、胸が軋んだ。


「どれほど時間がたっても、忘れられないんだよね?心の底では、あの女のこのことを想っているんでしょう?」

「やめてお姉ちゃん!」


 ステラ姉さんが悲鳴を上げる。

 言わないで。言わないで。言わないで!

 このままでは、リラ様を裏切ったことになる!

 しかし、ミシュア姉さんは綺麗で凶悪な笑顔を浮かべ、


「セレナを、忘れられないんでしょう?」


 静かに、残酷に囁いた。

 リラ様が手で顔を覆う。向こうでは、ステラ姉さんが驚愕に目を見開いていた。

 世界が、音を立てて崩落する。

 否定できなかった。

 セレナを忘れることはできない。セレナとの思い出の中の自分は、いつだって彼女に恋をしていた。

 僕はリラ様が好きだ。それは、絶対に嘘じゃない。本当に本当に、嘘じゃない。

 けど、セレナのことを今でも引き摺っている。その感情もまた、恋としか言いようがないのだ。

 僕は、最低だ。

 ミシュア姉さんは満足げに笑うと、ローブの裾を翻し、戸口を飛び出し去っていく。

 ステラ姉さんがハッとする。


「お姉ちゃん!待って、待ってよ!」


 パッと僕を振り向く。

 追いかけるべきなのだろう。

 でももう、一歩も動けなかった。

 ステラ姉さんは苦しそうに唇を噛み、一人でミシュア姉さんを追いかけていった。

 部屋に、僕とリラ様だけが取り残される。

 今更、どんな顔をして、何を言えばいい。

 どう思われたのだろう。

 嫌われた?見捨てられた?失望された?

 どれだとしても、当たり前だ。

 けれど、耐えられない。もう生きていけなくなる。

 ポタリと、涙がこぼれた。

 何で、僕が泣いているんだろう。僕は泣いていい立場じゃないのに。

 いつもいつも、泣いてはいけない時に、涙が溢れだす。

 今も、ぽろぽろと涙がこぼれて止まらない。喉に熱いものが込み上げ、上手く息が吸えなくなる。

 泣くな。泣いちゃ駄目だ。そう言い聞かせても、嗚咽を噛み殺すので精一杯で、視界がぐちゃぐちゃになる。

 ほっそりした、華奢な少女。薄茶色のさらさらの髪、長い睫毛に囲われた大きな瞳、雪のように真っ白な肌。花弁のような唇に、華やかな笑みを刻んで僕を見つめていた。

 かと思えば、酷く頼りない、寂しげな瞳で見上げている。

 明るくてキラキラしていて、けれどいつだって孤独な哀しみを胸に秘めていた彼女。

 もう、二度と会えないのに。

 忘れたことなんて、一度もなかった。

 ふいに、頬に柔らかい温もりを感じた。何年も前、セレナが僕の頬にそっと触れた時のように。

 僕の頭はおかしいから、夢でも見ているのかもしれない。

 そっと瞼を上げる。

 そこにいたのは、セレナではなかった。

 透き通るように白い手が、僕の頬に控えめに触れている。

 さらさらと流れ落ちる銀髪、切なく澄んだ瞳、儚い笑みを浮かべた唇。微かに漂う、甘い花の香り。


「……り……ら……さま……?」


 呆然と呟く。

 リラ様は、哀しげで優しい微笑みを浮かべて、僕を見つめていた。


「……どう、して?」


 どうして、そんなに優しい目をしているんですか。

 僕は、最低なのに。さっき、あなたを裏切ったばかりじゃないですか。

 それなのに、どうして。

 どうして、いつも、僕を助けてくれるんですか?

 言いたいことは山のようにあるのに、どれ一つとして言葉にならない。ただ、掠れた吐息が漏れるだけ。

 リラ様はふわりと笑うと、僕を抱きしめた。


「大丈夫。私は大丈夫だから。……泣いていいよ」

「……で、も……ぼ、くは」

「自分を責めないで。本当に、私は大丈夫だから。ね?」


 リラ様が一言囁くたびに、涙が溢れていく。


「……リラ様、は……あ、あますぎ……ます……」


 途切れ途切れに言うと、そうだねと笑った。


「でも、仕方ないじゃない。私は、ハルが大切なんだもの」


 大切は、好きよりも重みがある気がして。余計に罪悪感に苛まれて、でも離れることができない。

 本当に、僕は最低だ。

 『弱虫』な僕を抱きしめながら、リラ様が囁くような声で歌いだす。

 どこかで聞いたことのある旋律。澄み切った透明な歌声は、まるで子守歌のようで。

 何かに引きずりこまれるように、暗い眠りに落ちていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ