歪んだ未練は残酷に
狂いかけた呼吸が元に戻り、揺れていた視界が安定する。脳内を駆け巡っていた混濁した感情が、抜け落ちていく。世界から音が消えた。
眠りに落ちたようなぼんやりした感覚。心の中は冷めきっていて、現実感がわかない。夢でも、見ているような。
いや、きっと夢だ。
過去も、現在も、未来もない。
延々と遠く、真っ暗な道が続くだけ。
彼女に向かって、『誰か』が凶器を振り上げる。
誰だ。知らない。知らないから、彼女を殺そうとするから、消さなきゃ。
嫌味なほどゆっくりと振りあげる、『誰か』の腕を掴みあげる。ナイフを奪い、細い喉につきつけた。
このまま裂くか。でも、それだと彼女にまで返り血がかかってしまう。首を絞めた方がいいか。せっかくだから、選択肢くらいやってもいい。
『誰か』がどうにか逃げようと暴れる。力はない。だが、面倒だ。掴みあげている方の手に僅かに力を込めると、悲鳴が聞こえたような気がした。
もう面倒だし、さっさと終わりにしようかな。
その時、凛然と輝く青い瞳と、視線がぶつかった。
「私を見て!思い出してっ」
彼女の澄んだ眼差しが突き刺さる。今まで何一つ聞こえなかったのに、彼女の声だけが急に響き始める。
「今負けたら、絶対に後悔するわ!君が今、誰に、何をしようとしているのかを考えて。考えることを放棄しないで。それは、逃げているのと同じことだよ!」
真っ黒な血の海がみるみるうちに引いていく。夢のようにふわふわした感覚が消え、色彩が戻る。
「もっと自分を信じてよ!君はそんなに弱くない。潰されないで」
祈りにも似た、叫び。澄みきった心。
「ハルは『化け物』じゃない!」
透き通った叫びに、強い意志を宿す瞳に、目が覚めたようだった。
散らかった本の数々、その中で、本棚にぐったりと背中を預けながら、澄んだ表情で僕を見つめるリラ様の姿。
そして、僕がナイフを突き付けているのは、他でもないミシュア姉さんだった。
僕が今しようとしたことは。それは、絶対に許されない。
背筋が凍りつき、途方もない自己嫌悪に吐き気がした。
また、繰り返すつもりだったのだ。何度誓っても、そのたびに逃げてしまう。正面から受け止め、戦うことができない。
力が抜けていく。ぽとりとナイフが絨毯の上に落ちた。ミシュア姉さんに手を振り払われ、軽くよろめく。
そんなに力を入れたつもりはなかったのに、ミシュア姉さんの手首には、痕がくっきりと残っている。
僕がやった。僕がやったんだ。また、取り返しのつかないことを。
『だから、言っただろう?お前は『化け物』だって』
愉しげな嗤い声に、頭が割れるように痛む。足元がぐらつき、揺れた。
そうかもしれない。結局変われないのは、僕が『化け物』だからなのだ。 だから、変われない。繰り返す。
きっと、これからも……いや、違う。
僕は『化け物』じゃない。リラ様が言ってくれた。だから、『化け物』じゃない。絶対に『化け物』じゃない!
その時、どうしてそんなことをしたのか、後になって考えてみてもわからなかった。
周りに、そして自分自身に証拠を示したかったのか、行動することで何かを変えたかったのか、自分の中の『化け物』を消そうとしたのか、何も考えていなかったのか。
それら全てか。それとも、どれでもないのか。
一つ言えることは、何かを考えることや、いつものように逃げることよりも先に、体が動いた。それだけだ。
僕は落としたナイフを拾い、自分の腕に勢いよく突き刺した。
肉が裂ける嫌な音と共に血が噴き出す。遅れて、痛みがやってきた。
痛いと思えた。
麻痺しきった痛覚は、ちゃんと戻ってきていたのだ。
「な……何を、してるの」
リラ様が目を見開く。ついで、その目が泣きそうに潤み、唇が震えた。
「馬鹿。……何で、そんなことするの。『化け物』じゃないって、言っただけなのに」
「わかってます。僕は『化け物』じゃありません。……今、ようやく確信が持てました」
小さく微笑みかけると、ますます目を潤ませる。それでも、桜色の唇をゆっくりとほころばせ、泣きそうに微笑んだ。
今のできっと、伝わったはずだ。リラ様だから。
僕はリラ様から視線を外し、再び抜け殻のようになったミシュア姉さんを見据えた。
「さっきはごめん。痛かった、よね?」
返事はない。ガラス玉のような目が、数度瞬く。
「今僕がしたことは、本当にごめんなさい。けど、ミシュア姉さんがリラ様にしたことだって、許されることじゃないよ。例え、ローグ・ゼルドが絡んでいても」
あの男の名前を出した時だけ、ミシュア姉さんの肩が揺れた。
「あのことを引きずっているのはわかる。だけど、どうしても納得がいかない。何故、姉さんがリラ様を殺そうとしたのか。シャルキットのことも、クロフィナルから来たお手伝いのことも。……だから、説明してほしい」
「私も、ハルと同じ思いでいるよ」
突然入りこんだ声に驚き、振り向くと、ステラ姉さんが戸口に寄り掛かりながら立っていた。青ざめ、いつもに比べて弱々しい姿。それでも揺らぐことのないしっかりした声で、
「私は、昔からお姉ちゃんのことがわからなかったし、今でもわからない。でもそれは、お姉ちゃんが何も言わなかったからってのも、あるんだよ。言わなきゃわからないことがある。そして今は、言わなきゃいけない時だよ」
ミシュア姉さんがうつむき、長い前髪が表情を隠す。薄く頼りない肩が小刻みに揺れている。
届いただろうか。伝わっただろうか。
長く重い沈黙に、息がつまりそうになる。ステラ姉さんも張り詰めた表情で、ミシュア姉さんを見つめている。
どれくらいの間、そうして固まっていたか。
突然、部屋に甲高い笑い声が響いた。
「ふふ……ははは……あはははははっ」
けたたましい声に、一瞬『化け物』かと思いゾッとしたが、声の主はミシュア姉さんだった。
うつむいたまま、おかしくてたまらないというように嗤う。艶やかな黒髪が揺れ、細い喉が上下する。
病的で、悪意に満ちた嗤い声に、悪寒がはしり動けなくなる。
ひとしきり嗤い終えると、ミシュア姉さんは顔を上げ、僕とステラ姉さんをきつく睨んだ。
「よく……よく、そんなことが言えるわね」
今までの無感情な声が嘘のように、憎々しげに言い放つ。
漆黒の瞳は怒りに満ち、青ざめた頬に血が上る。全身を震わせ、憎悪と恨みを纏い、黒髪をふり乱しながら吠える。
「私のことなんてお構いなしだったくせに、今更何?笑わせないでくれる?」
「そんな……そういうつもりじゃ」
「そうでしょうね、ステラ。あなたはいつだって傲慢で、勝手に私の胸の内を決めて。私の気持ちが、苦しんだことのないあなたにわかるはずないじゃない!」
ステラ姉さんがショックを受けた顔をし、口元を手で押さえる。見開いた瞳から、大粒の涙がこぼれていく。
膝を吐いてしまったステラ姉さんを、ミシュア姉さんは冷めた目で一瞥し、口元を歪めた。
「泣けばいいと思ってるでしょう?馬鹿みたい。泣いて何かが変わるなら、私だっていくらでも泣くわ。けど、泣いたってどうにもならないのよっ!」
「ミシュア姉さん!」
一方的な攻撃に耐えられず遮ると、冷え冷えとした瞳が僕に向けられた。
視線が絡む。
凍てついた憎悪に射殺されそうになる。思わず数歩後ずさった。
「ハル、あなたには失望したわ。ハルなら、私の気持ちがわかると思ったのに。大切な人を失ったことがあるあなたなら、私の気持ちがわかると思ったのに!」
「……しつ、ぼう?」
「そうよ。私は、ローグさんを取り戻すために、シャルキットになったのよ。願いを叶えるためなら、何だってしてきたわ。それだけが生きがいなんですもの。どんな代償でも構わなかった。ただ、ローグさんに振り向いて欲しかった。それだけなのに、本当にそれしか願っていないのに、どうしてわかってくれないの!?」
ミシュア姉さんが絶叫する。
そこまで、ミシュア姉さんはローグを愛していたのだ。
裏切られた後も、憎むでもなく、恨むでもなく。きっと、忘れられなかった。
怒りにギラつく双眸が、僕に少し似たおもざしが、憎悪にまみれた声が僕を締め付ける。
「ハルッ!あなたのせいよ!あなたが邪魔するから!これで最後だったのに!あなたが、私の人生を滅茶苦茶にしたんだっ!」
「それは違うわ!」
澄んだ声が強く遮った。
ミシュア姉さんが弾かれたようにリラ様を見る。
リラ様は本の中からすくっと立ち、僕を庇うように前に進み出た。腰のあたりで銀髪がさらさらと揺れ、海色のドレスに降りかかる。
背筋を凛と伸ばし、ミシュア姉さんを真っ直ぐ見つめ返す。何度も僕を救ってくれた青い瞳が、爛々と輝く。
「ミシュアさん、あなたは、願いを叶えるためならどんな代償でも構わないと言ったわね?」
「ええ、そうよ。それが何?」
「私は、そう思わないわ」
静かに、けれど強く言い放つ。
澄んだ声で語られた言葉に、ミシュア姉さんは逆上した。
「何よっ!何も知らないくせに……何も知らないくせに!」
「ええ、知らないわ!でも、間違っている。自分の願いのために人を犠牲にするなんて絶対に間違ってる!そして、自分さえも犠牲にしているじゃない!」
「別にいいじゃない。私は間違ってない」
「いいえ。もっと冷静になって。あなたは、怒りに取りつかれて自分を見失っている」
リラ様は哀しげに囁いた。哀切に満ちた瞳をそっと伏せる。
ミシュア姉さんの目が、一瞬だけ揺れた。が、すぐに憎悪に満ちていく。
漆黒の瞳をそっと細める。ゆっくりと唇をつり上げ、微笑んだ。
「何か勘違いしてるんじゃない、王女様?」
毒々しい笑みに皮膚が泡立つ。ミシュア姉さんは僕にもその微笑を向けた。
「ねえ、ハル?さっきは失望したって言って、ごめんね?あれは嘘。……だって、あなたはまだ、忘れてないんでしょう?」
「え?」
「あの女の子のこと、忘れていないんでしょう?」
酷く愉しげに繰り返す。
あの女の子。
脳裏に、お伽噺のような夕暮れの時間に出会った、美しい少女の姿が浮かび上がる。
「だから、私と同じように閉じこもったんでしょう?消えないように。時間を止めるために。まだ、好きなんでしょう?」
全身に冷水を浴びせられたような錯覚を覚えた。眩暈がして、視界がぐにゃりと歪む。薄紫の霧が広がる。
やめて。聞きたくない。僕は聞きたくない。言わないで。
耳を塞ぎたいのに、指の一本も動かせない。
リラ様の顔からサーッと血の気が引いていく。今まで僕を導いてくれたあの強さが嘘のように消え失せ、年相応のか弱い少女に変わる。
リラ様の顔に浮かんだ、酷く怯えた表情に、胸が軋んだ。
「どれほど時間がたっても、忘れられないんだよね?心の底では、あの女のこのことを想っているんでしょう?」
「やめてお姉ちゃん!」
ステラ姉さんが悲鳴を上げる。
言わないで。言わないで。言わないで!
このままでは、リラ様を裏切ったことになる!
しかし、ミシュア姉さんは綺麗で凶悪な笑顔を浮かべ、
「セレナを、忘れられないんでしょう?」
静かに、残酷に囁いた。
リラ様が手で顔を覆う。向こうでは、ステラ姉さんが驚愕に目を見開いていた。
世界が、音を立てて崩落する。
否定できなかった。
セレナを忘れることはできない。セレナとの思い出の中の自分は、いつだって彼女に恋をしていた。
僕はリラ様が好きだ。それは、絶対に嘘じゃない。本当に本当に、嘘じゃない。
けど、セレナのことを今でも引き摺っている。その感情もまた、恋としか言いようがないのだ。
僕は、最低だ。
ミシュア姉さんは満足げに笑うと、ローブの裾を翻し、戸口を飛び出し去っていく。
ステラ姉さんがハッとする。
「お姉ちゃん!待って、待ってよ!」
パッと僕を振り向く。
追いかけるべきなのだろう。
でももう、一歩も動けなかった。
ステラ姉さんは苦しそうに唇を噛み、一人でミシュア姉さんを追いかけていった。
部屋に、僕とリラ様だけが取り残される。
今更、どんな顔をして、何を言えばいい。
どう思われたのだろう。
嫌われた?見捨てられた?失望された?
どれだとしても、当たり前だ。
けれど、耐えられない。もう生きていけなくなる。
ポタリと、涙がこぼれた。
何で、僕が泣いているんだろう。僕は泣いていい立場じゃないのに。
いつもいつも、泣いてはいけない時に、涙が溢れだす。
今も、ぽろぽろと涙がこぼれて止まらない。喉に熱いものが込み上げ、上手く息が吸えなくなる。
泣くな。泣いちゃ駄目だ。そう言い聞かせても、嗚咽を噛み殺すので精一杯で、視界がぐちゃぐちゃになる。
ほっそりした、華奢な少女。薄茶色のさらさらの髪、長い睫毛に囲われた大きな瞳、雪のように真っ白な肌。花弁のような唇に、華やかな笑みを刻んで僕を見つめていた。
かと思えば、酷く頼りない、寂しげな瞳で見上げている。
明るくてキラキラしていて、けれどいつだって孤独な哀しみを胸に秘めていた彼女。
もう、二度と会えないのに。
忘れたことなんて、一度もなかった。
ふいに、頬に柔らかい温もりを感じた。何年も前、セレナが僕の頬にそっと触れた時のように。
僕の頭はおかしいから、夢でも見ているのかもしれない。
そっと瞼を上げる。
そこにいたのは、セレナではなかった。
透き通るように白い手が、僕の頬に控えめに触れている。
さらさらと流れ落ちる銀髪、切なく澄んだ瞳、儚い笑みを浮かべた唇。微かに漂う、甘い花の香り。
「……り……ら……さま……?」
呆然と呟く。
リラ様は、哀しげで優しい微笑みを浮かべて、僕を見つめていた。
「……どう、して?」
どうして、そんなに優しい目をしているんですか。
僕は、最低なのに。さっき、あなたを裏切ったばかりじゃないですか。
それなのに、どうして。
どうして、いつも、僕を助けてくれるんですか?
言いたいことは山のようにあるのに、どれ一つとして言葉にならない。ただ、掠れた吐息が漏れるだけ。
リラ様はふわりと笑うと、僕を抱きしめた。
「大丈夫。私は大丈夫だから。……泣いていいよ」
「……で、も……ぼ、くは」
「自分を責めないで。本当に、私は大丈夫だから。ね?」
リラ様が一言囁くたびに、涙が溢れていく。
「……リラ様、は……あ、あますぎ……ます……」
途切れ途切れに言うと、そうだねと笑った。
「でも、仕方ないじゃない。私は、ハルが大切なんだもの」
大切は、好きよりも重みがある気がして。余計に罪悪感に苛まれて、でも離れることができない。
本当に、僕は最低だ。
『弱虫』な僕を抱きしめながら、リラ様が囁くような声で歌いだす。
どこかで聞いたことのある旋律。澄み切った透明な歌声は、まるで子守歌のようで。
何かに引きずりこまれるように、暗い眠りに落ちていった。




