『化け物』の正解
息を切らし、時には人とぶつかりながら、城の中を駆けていく。
頭の中がぐるぐると回り、強烈な吐き気と相反する飢餓感に襲われる。息が苦しい。目が霞んで、ふらつく。
時折見える幻覚と、悲鳴に似た耳鳴り。誤作動を起こす脳が、怒りと焦燥と恐怖をかきたてる。目の縁に涙が滲んだ。
間に合え。間に合ってくれ。
間違いならいい。もういっそ、これが夢だったらいいのに。
辿り着いたドアを思い切り開け放ち、反動で前のめりになりながら跳び込む。
汗で視界が滲む、その先に。
予想していた、けれど見たくなかった光景があった。
やや青ざめてはいるが、凛とした瞳で静かにたたずむリラ様。彼女は、何かに追い詰められているかのように、壁際にいた。
そして、その向かいに、漆黒のローブを身に纏った小柄な姿。フードをかぶり、仮面をつけている。それは、噂のシャルキットと同じ恰好だった。
シャルキットは両手で包丁を握りしめ、リラ様に向けている。
間に合った。
けれど、状況は最悪だ。
「リラ様っ!」
真っ直ぐにシャルキットを見つめ返していたリラ様がこちらに気づき、悲鳴を上げる。
「ハル!何で!?帰ってたはずじゃ……!」
シャルキットが振り返る。途端、リラ様に向かって包丁を振り上げた。
遅い。動きも滅茶苦茶だ。
一気に踏み込み、後ろから腕を捻りあげる。痩せ細った手から、包丁が滑り落ちる。
「拾ってください!」
シャルキットを拘束したまま叫ぶと、リラ様は慌てて包丁を拾い、僕らから距離をとった。
シャルキットは必死に逃れようとするが、圧倒的に力が違う。
「逃げようなんて考えない方がいい。僕の方が力があるし、足も速い。諦めてよ、……ミシュア姉さん」
シャルキットがビクッと肩を震わせた。
拘束を解くが、シャルキットはもう抵抗せず、石のように固まってしまった。
泣きたいような気持で、薄ら笑いを浮かべた仮面を見つめる。
知りたくない。見たくない。今ならこのまま、なかったことにできる。
けれど、大切な人の前で、そんなことはできないから。
僕はシャルキットの仮面を剥がし、フードを取り去った。
リラ様が息を飲む。僕の手から、仮面が転がり落ちた。
さらさらと流れ落ちる黒髪、病人のように青ざめた肌、ローブから鎖骨が浮き上がっているほど痩せた体つき。長い睫毛に縁取られた漆黒の双眸は生気がなく、虚ろだ。
綺麗だけれど、壊れた人形のような姿。
色の失せた唇が動き、抑揚のない声がこぼれる。
「久しぶりね、ハル」
わかっていた。頭では理解していた。
それなのに、心のどこかでは、微かな希望を抱いていたのだ。
「……ミシュア姉さん?」
「そう。私がシャルキットよ」
感情も温度もない声が、冷たく流れる。
手が震えていた。寒くもないのに、震えが止まらない。
怒り、絶望、哀しみ、憎悪、後悔。感情が滅茶苦茶に入り乱れ、収拾がつかない。
「……んで」
「え?」
「……何で、こんなこと、したんだよ」
ミシュア姉さんはガクリと首を傾ける。深淵の双眸には、何も映っていない。
「何でっ!こんなことしたんだよ!」
「……こんなことって、何?」
「リラ様を殺そうとしただろっ!」
声が震えて、叫んだ声は悲鳴のように響く。視界の端に、酷く哀しそうな顔をするリラ様が映る。
「何でっ!何でだよ!答えてよっ!何で、こんなことをしたんだっ」
怒りと絶望に胸が裂けそうになる。気を緩めたら、またアレの声が聞こえそうだ。僕の軟弱過ぎる精神力はもう限界だった。
信じられない。信じられるはずがないっ。
だから、理由を聞きたかった。
一つでいい。仕方なかったと言えるような理由を。
けれど、ここまできてもミシュア姉さんは何の反応も示さない。温度のない虚ろな瞳が瞬きもせずこちらを見つめるだけ。
そのことに苛立ちが込み上げ、僕はミシュア姉さんに詰め寄りローブの襟を掴みあげた。
「どうして黙ってるんだよ!?理由があるんでしょう、答えてよ!」
「……答える必要が、どこにあるの?」
人形のように生気の失せた瞳に、すうっと光が灯る。
「あなたは、何か勘違いをしているわ」
「え……」
「私は、どうしても叶えたい願いのために、ここに来たのよ」
ドクンと心臓が揺れた。
「……叶えたい……願いって……?」
あの手紙の、差出人の名前が呪いのように浮き上がる。
ミシュア姉さんの青ざめた唇がゆっくりと弧を描く。そっと目を細め、囁いた。
「ローグ・ゼルド」
何かが切れる音がした。
必死で押し込めていた憎悪が、淀んだ狂気が溢れていく。
『やっぱり、お前は変わらないな』
地の底から響くような、ひび割れた声が嘲笑う。
それは『化け物』の声であり、僕自身の声だ。
『お前のせいで、こうなったんだ。お前があの時、ローグ・ゼルドを殺せなかったから。だから今、こんなことになっている。お前が、『弱虫』だから』
違う。違う、それは違うっ。
人を殺したって、何もならない。あいつを殺したって、いつかはこうなっていたかもしれないんだ。
確かに僕は『弱虫』だ。
けど、『化け物』じゃない。ただの在り来たりな人間だ。
お前の力はいらない。出ていけ。消えろ!
『……『化け物』にはなりたくない?馬鹿か。お前は人間じゃない。もともと『化け物』だよ。だって、『僕』はお前なんだから』
狂った抑揚をつけながら、『化け物』が嗤う。『化け物』の声が頭いっぱいに響いて、視界が歪む。黒々とした血の海が、空間を染めていく。
やめろ。もう『化け物』にはなりたくない。
僕は『化け物』じゃない。
もう、これ以上誰も傷つけたくない。
『そうやって逃げて、どうする?このままじゃ、また繰り返しだ。彼女を守れないよ』
全身の血管が音を立てて凍りついた。
血の海の届かない場所に、哀しげな瞳で僕と姉さんを見守る彼女がいた。
信じていたものが、揺れる。
『賊に攻め入られた時、彼女を助けたのは誰だ?それだけじゃない、いつだって、『僕』が戦うことで守ってきた』
「ハル?どうしたの?」
リラ様が不安げに尋ねる。
少し潤んだ青い瞳が、真っ直ぐに僕を射抜く。リラ様の眼差しが、僕を狂気から現実に引き戻した。
そうだ。もう、『化け物』にはならないと決めたんだ。
と、その時、僕の手からミシュア姉さんがするりと抜けた。
『ほらな』
ローブの袖から小型の包丁を取り出す。鈍い光を放つそれに、リラ様が顔を引き攣らせた。
まだ、持ってた?止めなきゃ。何を?どうやって?今の僕が、手加減できるのか?
『お前が迷っていたからだよ。お前のせいだ。全部、お前のせいでまたこうなる』
消えかかっていた黒い水が一気に押し寄せる。感覚が麻痺する。得体に知れない何かに体を乗っ取られるような錯覚が、危うかった意識を更に突き放す。
僕の、せい、なの?僕は、また間違った?
ミシュア姉さんが、包丁を握りしめ、真っ直ぐリラ様へと向かっていく。
リラ様が初めに取り上げた包丁を前につき出し、後ずさりながら叫ぶ。
「駄目!『化け物』になっては駄目!自分を見失わないで!守らなくていいからっ!」
必死な目で僕に訴えかける。が、意識が僕にいっていたせいで、落ちていた本に躓き、本棚に激突した。
バサバサと本が落ちてくる。それらも、黒く染まっていく。
僕のせいだ。
こんなことになったのも、今助けることができないのも、全部、僕のせいなんだ。
嫌だ。誰も傷つけたくないのに。どうしたらいい?わからない。わからない、わからない、わからない。
誰か答えを、間違うことのない道を、教えてよ。
『だったら、殺せ。排除しろ』
ああ、そうか。
それが正解なんだ。