和解
「……といっても……ホント……どうしよう……」
僕は自室で項垂れていた。
あれから一週間。僕は怪我を理由に部屋にこもり、一度も外に出ていない。
リラ様や事情を知らない召使の人達はやってきたが、他には誰にも会っていない。
一度何の気まぐれを起こしたのか、ステラ姉さんが遊びに来たが、どうにか追い返すことに成功している。
部屋にこもっていたら駄目だ。何度リラ様に諭されたかわからない。
僕だってわかっているのだ。もう逃げないと決めたのだから。
けれど、部屋から出て、何をすれば良い。どうしたらいいんだ。
脳裏に、彫刻めいた美貌の青年の姿が浮かび、胸に重く痛みがはしる。
どこをどう探したって、クラウス様に合わせる顔なんか見つからない。見つかるわけがない。
襲撃の後のことはよく知らないが、リラ様がどうにかしてくれたらしい。襲ってきた奴らは全員瀕死で今も意識不明だが、クラウス様とソフィアは大丈夫だそうだ。
でも、そんなの運が良かっただけだ。
謝る?……今更、どの面下げて謝るんだよ。
合わなければ良いだろうが、外に出てしまえばそうもいかなくなる。
このままでは駄目だとわかっていても、何も変えられない。
一歩すら、踏み出すことができない。
これが、今の限界だった。
しかし、ずっと部屋にこもっていても、結局は死ぬほど暇だった。
リラ様は気を使ってか、やれトランプだ、すごろくだと押しかけてはこない。ありがたいが、やっぱり暇には違いない。
たいして読みたい本もないし、眠ろうとしても一向に眠れない。眠れたとしても、悪夢が蘇りそうで怖かった。
暇なのは良いことだ。平和が一番いい。あの時死んでいたら、暇だなんて思えなかったのだから。
けれど、罪悪感が片時も頭を離れず、ふとした折に胸が痛む。息が詰まりそうだ。
溜息をついて、手元にあったペンを弄ぶ。くるくると回していると、力の入れ方を誤りバキッと折れた。
「………………………………はあ」
またやってしまった。何でこんなに不器用なんだよ。
昔から途方もなく不器用で、特に剣は酷かった。持ち手を折ったり、何故か自分を斬ったり、ちょっと振っただけなのに刃こぼれしたり。ステラ姉さんの剣を折った時には、半日ほど怒鳴られた。
最近はそういうこともなかったので油断していた。溜息を吐きながら新しいペンを探していると、テーブルに小さな紙切れが落ちているのが目に入った。いつからだろう。
何気なくひっくり返すと、
『池の前まで』
適当な走り書きで綴られている。乱雑なのにパッと見は綺麗なのがすごい。宛名はないが、リラ様だろう。
池の前まで来いということか。何故?というか、いつ?
まあ、考えても仕方ない。ちょうど暇だったし、散歩くらい大丈夫だろう。他の人に見つからないようにすれば。ところどころ体が痛むが、歩くのには全く問題ない。
締め切ったカーテンを少し引くと、眩い光がこぼれて暗い部屋を照らす。思わず目を細めた。
やっぱり、眩しすぎる光は、少し苦手だ。
サクサクと草を踏みしめて歩く。久しぶりの感覚だ。
いつの間にか空気も冷え、枯れ葉が舞っている。鮮やかな青空にさえ、どこか秋の哀愁があった。
今のところ誰にも会っていない。そのことにほっとして、すぐさま嫌悪感が湧く。
結局、逃げている。
逃げていた年月が長すぎた。そうそう変えられるものではないだろう。ましてや、僕なんかが。
それでも、ほんの少しでも良いから、変わりたい。
心の中で呟くと、池のすぐ傍まで来ていた。リラ様を探す。すると、
「……えっ!?」
今、一番会いたくなかった人がそこにいた。
鮮やかな栗色の髪が風になびく。装飾の少ない藍色の長衣を纏い、冷めた無表情で水面を眺めている。
何でクラウス様がここに?ていうかリラ様は?
もしかして、仕組まれた?
いや、それ以前にここにいては駄目だ。絶対に。
クラウス様が気がつかないうちに逃げなくては。
逃げる?一体どこに。いつまで。
僕はまた、逃げようとした?
自分自身に動揺した時、
「何で、お前がここに……?」
冷やかで中性的な声がした。
クラウス様が、水面ではなく僕に目を向けていた。その顔には驚きと、僅かに恐怖が見える。僕と目があった瞬間、サッと目を伏せた。
僕のせいだとわかっていても、胸が痛んだ。
「えっと、その……人に、呼ばれて」
「……そう、か」
重い沈黙が降りる。
手足が石になってしまったように動かない。何か言わなければと焦るほど、何一つ言葉が出てこなくなる。愛想笑いすら、できない。
どのくらいの間、そうしていただろう。
先に動いたのはクラウス様の方だった。
目を逸らしたまま、身を翻し去っていく。無造作に縛った髪を躍らせ、ゆっくりと。
行ってしまう。
自業自得。それが当たり前だ。覚悟していたはずだ。
それなのに、酷く哀しい。
手足が千切られたような錯覚に襲われる。呼吸が上手くできない。
仕方ない。逃げ続けた罰だ。やっぱり遅かった、ただそれだけのこと。
もう諦めよう。
『でもね、人間、いつでもやり直せるんだよ』
耳元で、リラ様が囁いたようだった。
優しく微笑みながら、温かな声で告げられた言葉。
逃げ続けたって何も変わらない。自分を追い込むだけ。
わかっているのに、わかっていたつもりなのに、本当は何も理解していなかった。
これ以上逃げて何になる。決めたんだろう。本当に強くなりたいと。変わりたいと。
もう一度、大切な人を守るために。
だったら、逃げるな。
だいぶ遠くへ行ってしまった。けれど、まだその背中は見える。僕は息を吸い込んだ。
「クラウス様っ!待ってくださいっっ!」
大声で叫んだ。
途端、クラウス様が駆け出したのが見えた。
距離はあるが、僕の方が速い。確実に追いつける。
走り出すと、冷たい風が傷口に沁みた。それを気にせず風を切って進む。
それなりに距離が縮んできたところで、振り返ったクラウス様と目があった。向こうが怯えた顔をする。
傷つかないわけがない。けれど、傷つく資格も暇もない。ただひたすらに追いかけ、捉えた。
風圧で舞い上がる髪を掴み、軽く引っ張る。
「なっ……」
クラウス様が顔を歪め、バランスを崩す。また力の加減を間違えた。その結果、転ばせてしまった。
「す、すみません!決してわざとではないんです!本当に!」
謝りながら助けようとすると、その前にクラウス様が自力で立ち上がる。
「……わかっている」
長衣についた汚れを払いながら、いつもより低い声で呟く。目を逸らしたまま。
「……すまない。何か用があったのか」
「え、えっと、それは……」
口ごもる。その先を言うのが怖くて、言葉が続かない。
でも、逃げないって決めた。なら、言うべきことはちゃんと言え。
深呼吸を一つ。それから、全力で頭を下げた。
「すみませんでした」
いつもいつも、謝ってばかりだ。そのせいで安っぽくなってしまうかもしれないけれど、僕のボキャブラリーは多くない。
だからせめて、気持ちだけでも伝えたい。
「……あの日、クラウス様達に暴力をふるって、本当にすみませんでした」
「……意識、あったのか」
冷たい声に、思わず逃げそうになる。でも、逃げない。今度こそ、絶対に。
「ほとんどなかったけれど、覚えては、います。多分に重人格みたいなもので……でも、僕です」
足が震える。
それでも、真っ直ぐ前を見据える。それしか方法はないから。
「……全部、僕がやったことです。取り返しのつかないことをしたと思っています。もっと早く言うべきだったのに、言えなかった。怖かったから」
楽して強くなれるわけがなかったんだ。
そんな、簡単なことに気づくのに、何年も遠まわりしてしまった。本当に馬鹿みたいだ。
でも、きっと、今更なんかじゃない。
彼女の言った言葉を信じて、前を向く。
未来を見据える。
「クラウス様達に知られるのが、怖かったんです。嫌われたり、怖がられたりするのが。だから……、何年も逃げてた」
これは、逃げ続けてきた代償のほんの一部でしかない。
クラウス様の目が大きく揺れる。
「だから、許してくれとは言いません。……そんなこと言う権利、ありませんから。でも、謝らせてください」
スッと頭を下げる。視界からクラウス様が消える。
「裏切って、本当にごめんなさい。……それと、友達になってくれて、ありがとうございました」
ああ、やっと。
一歩、前に進めた。
逃げなかった。ちゃんと言えた。……ほんの少しだけだけれど、変われたじゃないか。
これでいい。充分だ。
うつむいたまま立ち去ろうとした時、僕の肩を弱々しく掴んだ。
「……待て」
驚いて顔を上げると、クラウス様が戸惑った顔をして僕を見ていた。
いつもと変わらない美貌。けれど、氷のような無表情でも、皇子らしい優しい笑顔でもない。
どこにでもいるような、普通の人の表情だった。
「……確かに、俺はお前が怖かった……いや、怖い。今もだ。あの時のことも信じられないし、整理がつかない」
紡がれる言葉が痛烈に突き刺さる。クラウス様らしからぬひび割れた声の痛ましさが、余計に胸を抉る。逸らされる視線や、青ざめた顔も。
けれど、それは当然なのだ。
「わかっています。今、ここから立ち去った方がいいならすぐに……」
「それは違う」
怒ったような、強い遮りに目を見張る。しかし、クラウス様自身も驚いたようで、
「……それは、違う。違うんだ、違う」
と、酷く歯切れが悪い。言葉が迷子になってしまったかのように、苦渋に満ちた顔をする。
「……多分俺は、悔しいんだ」
「え?」
思わず聞き返す。
「悔しいって……どういう……」
「お前を怖いと思うことが。情けないし、自分に腹が立つ。どれだけ驕り高ぶっていたのか、思い知らされた」
「そんなこと」
「俺は驕っていた。それだけは間違いない。……確かにお前はおかしい。どう見たって狂ってる」
はっきりと告げられた言葉に、胸が引き絞られるように痛む。聞きたくない、逃げたい、嫌だ。……違う、聞くんだ。
自分を奮い立たせ、唇を噛みしめる。力を入れすぎたのか、血の味が舌先に滲んだ。
でも、と、クラウス様が続ける。
「……割りきれないんだよ。お前が怖いはずなのに、お前を憎めない。恋人だって怪我をしたのにだ」
おかしいだろと、クラウス様が苦笑いする。冷たく乾いた風が、艶々した栗色の長髪を揺らす。
「自分でも持て余している。……けどな、許すも何もない」
クラウス様がスッと手を差し出す。
「お前にやられたことは客観的に見ても酷いが、俺は酷いと思えないらしい。だから、おあいこってことで、どうだ」
息を飲む。
言葉の意味を理解した途端、全身の力が抜け、へなへなと座り込んでしまった。
「大丈夫か?」
「あー……えっと……」
驚き過ぎて言葉にならない。リラ様といい、簡単に許しすぎだ。……優しすぎる。
きっと、恵まれているんだ。今まで気が付かなかっただけで。
「本当に……いいんですか?」
「いいも何も……」
何かを言いかけ、しかし口を閉ざす。少しの間迷うように目を伏せたが、ぶっきらぼうに、
「……仕方ないだろ。ほら、行くぞ」
藍色の上着を翻す。
口調が素っ気ないわりに、端麗な横顔は優しい。
死にたくなるほど間違い続きの人生を、少しは変えられただろうか。
今度こそ、本当の意味での強さを手に入れられるだろうか。
僕がしたことは最低だ。最低最悪の裏切り。
それなのに、リラ様もクラウス様も優しい。
もしかしたら、本当に変えられるかもしれない。罪滅ぼしができるかもしれない。
色々なことに胸が詰まって、泣きそうになる。
おかしい。何年も泣いていなかったはずなのに。涙なんてとっくに枯れ果てたと思っていたのに、最近泣きすぎだ。
どちらかといえば、『弱虫』じゃなくて『泣き虫』なんじゃないか?
そんなことを考えながら、クラウス様の後ろをついて歩いていた時、
「ソフィア……?」
クラウス様が呟く。
振り向くと、確かにソフィアがいた。
いつものメイド服ではない。黒いレースを幾重にも重ねた高価そうなドレスを身に纏い、サイドテールにしている金髪をほどいて背中に垂らしている。うちの馬鹿師匠と対決した時の恰好だ。
木の陰に隠れていたが、僕らが見ていることに気がつくと、くるりと背を向け走っていく。
「あ……」
思わず、声が漏れた。
緩んでいた口元が強張り、全身に冷水を浴びせられたような悪寒が走る。胸が不快にざわめいた。
一瞬、目が合った。
「すまない。あいつはもともと、貴族が大嫌いだから、お前のことも少し苦手なんだ。それに加え、あんなことがあって、俺以上に怖がっているんだと思う。俺からも言っておくから、どうか嫌わないでほしい。……無理なことを言っているのはわかっているが」
ソフィアが去っていった方向を呆然と見つめる僕に、クラウス様が申し訳なさそうに言う。
「……いいえ。もともと僕のせいですから」
「本当に悪い。……しかし、あいつは意固地なところがあるし、相当時間がかかるだろうな……」
クラウス様が疲れたように溜息を吐く。
全身が冷たいのは、強くなってきた風のせいではない。不規則に刻まれる心音も、嫌な汗も引かず、胃をかきまわされるような錯覚に陥る。込み上げてくる吐き気を、うつむいて堪える。
「大丈夫か?顔色が悪いが……」
「大丈夫です……」
ぼそぼそと答え、いつも通りへらりと笑ってみせる。これくらいの些細なことなら、嘘には入らないはずだ。
「本当か?やっぱりソフィアが……」
「大丈夫です。本当に何でもありませんから」
笑顔を見せつつも、脳裏にソフィアの目がちらつく。
眩いほど輝く金色の前髪から覗く青い瞳。血の気のない頬と、引き結んだ唇。項垂れることなく伸びた背筋と、優雅な立ち姿。
その全てに、ゾッとした。
目があった刹那、彼女が抱いた感情はクラウス様が言うような恐怖ではない。もちろん楽しげでもないし、いつも通りの攻撃的な眼差しとも違う。
激しい憎悪。
それは怒りに淀み、けれど壮絶な覚悟故、純粋に見えた。
今まで誰にも向けられたことのないような殺意と憎しみ。何もかも、全てを破壊しなければ治まらないような。
あの感情を、僕は知っている。
向けられたことのない感情。……けれど、僕はそれを他人にぶつけた。だから、知らないわけがない。
ソフィアの憎悪は、『化け物』の時の僕の感情と、気味が悪いほどに酷似していた。