『化け物』の少年が求めたモノは
視界に血の海がちらつく。
真っ黒に塗り潰され、光は消えてしまった。
まだ力が足りない。
頭は酷くぼんやりしてきたが、意識がある。駄目じゃないか。僕は早く、死なないと。
まだ未練があるのか?まさか。じゃあ……いいや、もう考えるだけ無駄だ。
そう思った時、戸が開く音がした。それが乱暴に開け放たれる。
「やめなさいっ!」
悲鳴が耳に突き刺さる。誰だ。……誰でも良いや。
無視して指に力を入れると、思い切り突き飛ばされた。力は強くないものの、突進してきたのか、僕の体はベッドから転げ落ち、床に強く打ちつけられた。
でも、痛くないんだ。ちっとも。
『化け物』にはなっていないのに、痛みを感じなくなってしまったようだ。感覚さえ壊れた。……ほら、希望なんてどこにもない。
目を開ける気にはなれずそのままでいると、肩を揺さぶられた。
「ねえ!今何しようとしてたの!どういうつもり!?……私を見なさいよっ」
何かを叩いたような、乾いた音がした。それも、すぐ傍で。
目を開けると、目の前にいたのはリラ様だった。
普段は綺麗な白い手が赤くなっている。……僕は平手打ちされたのか。それすらもう、わからない。
わからない。わからない。何もわからないし、わかりたくもない。
「……ああ、無事だったんですね」
自分でも驚くほど覇気のない声だ。重たい瞼を必死で持ち上げ彼女を見ると、こんな時間なのにドレスだった。傷つけられたはずの首筋や腕は、傷跡一つない。まるで、昨日のことが嘘だったみたいに。
どうして?昨日のことはただの夢だったのか?
でも、
「無事だったって……そんなことどうでも良いじゃない!君は今、何をしようとしたかわかってる!?」
夢のはずがない。『化け物』として暴走した時間が夢だと思うのは、ただの現実逃避だ。
そんなの、自分が一番わかっている。
例え夢だとしても、いつかまた、同じことが起こるだろう。僕の手によって。
なら、もう良い。もうどうでもいい。
「返事しなさいよ!」
リラ様の綺麗な顔が歪む。酷く怒っている。そして、それ以上に哀しそうで。吊り上がった青い瞳は、今にも泣き出しそうに潤んでいた。
「……すみません」
「え?」
「こんな目にあわせて、すみませんでした」
リラ様が眉を潜める。
「何を言っているの?」
「もう、大丈夫です」
「……何が」
話が全くかみ合っていない。僕のせいか。
「さっきしようとしていたことは、リラ様が見た通りのことです。だから、リラ様は出て行ってください」
やけに淡々とした口調になる。感覚だけでなく、自分の気持ちすら曖昧になっていく。目に映るリラ様が、やけに眩しい。
「……どういう、こと」
リラ様の目に恐怖が走る。
リラ様ですら、僕のことが怖いんだ。だったら、僕が怖くない人間なんていないだろう。
もう嫌だ。全部、自分のせいだけど。
「死のうとしていました。今も、そう思っています」
リラ様が目を見開く。何かを言おうと唇を開きかけたその刹那、僕の首を両手で掴んだ。
力を入れていないのか苦しくはない。それどころか、締めているリラ様の方が、震えていた。
「……リラ様が、殺してくれるんですか?」
だったら、そっちの方が嬉しい。
一人きりで死なずに済む。本当は、一人は嫌いだから。
結局、僕は臆病なのだ。消えたいのだって、自分勝手な理由。ただの恐怖……最期まで。
僕が好きな人が、天使が『化け物』を殺す。何て幸せな死に方だろう。
安らかな気持ちで目を閉じた瞬間、
「何でよっっっ!!!」
突然の怒声に目を開ける。
リラ様の震えはますます酷くなっていて、けれどその瞳は真っ直ぐ僕を射抜く。
「何でっ!何で私がハルを殺すと思うの!?そんなこと、するわけないじゃないっ」
「……リラ様?」
「だいたい何で勝手に死のうと思うの?死ぬなんて言葉、軽々しく使わないでよっ。そんな奴、大嫌いだ!」
リラ様の叫びは、曖昧に濁っていた感情に突き刺さった。
僕だって、死にたくなんかない。怖い。怖いことは大嫌いだ。
……でも、
「もう、死ぬしかないじゃないですかっっ!」
抑えられなくなった心の叫びが、爆発する。
もういい。最期なんだ。全部、ぶちまけてやる。
「見たんでしょう、『化け物』を。僕が敵を残酷なやり方で打倒し、それだけでは飽き足らず、クラウス様やソフィアにまで手を出したのを!あの最低な『僕』を、見たんでしょう!?」
リラ様の顔が強張る。
やっぱり、彼女は見たんだ。『僕』を、『化け物』を。
もう終わりだ。
「僕は異常だ。狂ってる。それも、子供の時から!何年も前からずっとああなんですよ僕は!何かのきっかけでキレると、押さえられなくなって暴れる。二重人格みたいなもので……でも、あれは僕、です。全部、僕がやったこと!」
「でも、ハルは私を助けようと……」
「ええ、きっかけはそれでしたよ!でもそんなの単なる言い訳だ。友達のことも傷つけて、滅茶苦茶に踏みにじった。……破壊衝動の塊だ。他人の血を浴びて、嗤うような奴なんだっ」
真っ黒な塊が、体の内側から込み上げる。叫びすぎて喉が切れたのか、血の味がした。もう嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ、全部嫌だ。
「……だ、から、もう、僕のことはほっといて。すぐにここから逃げてください。じゃないともう、僕は何をするか自分でもわからないから」
「そんなこと……」
「僕はリラ様を傷つけたくない。……大事な人に、嫌われたく、ない」
「だからって!」
「もう、自分でも止められないんですよっ!間違っているのはわかってるのに!もう駄目なんです、生きる資格がない。だから早く、ここから出て」
「嫌だ」
一瞬、何と言われたのかわからなかった。
「今、なんて……」
「嫌だって言ったのよ!お断り!誰がハルの言うことなんか聞くか!あんたなんて怖くもなんともないのよバーカ!自意識過剰!」
駄々をこねる子供のようにリラ様が叫ぶ。
何を、言っているんだ。これは……こんなの、ふざけていい場面じゃ、ない、のに。
「僕は真面目に言っているんですよ!リラ様は死にたいんですか!?」
「私だって真剣よ。私は死にたくないし、君を死なせる気もない。今、ここから出ていく気もないわ!」
リラ様の顔は、言葉通り真剣そのものだ。だからこそわけがわからない。
同時に、言葉にならない怒りが込み上げてくる。
「いい加減にしろ!僕は、暴走したら誰にも止められないんだっ!そして誰であろうと構わず傷つける!」
ああ、わかった。これはリラ様への怒りなんかじゃない。
吐き気がするほどの自己嫌悪。自分に対する苛立ちと憎しみと恐怖。
ただの八つ当たりだ。
でも止まらない。止まらない止まらない止まらない。
「どうして、逃げてくれないんですか!?」
「嫌だからよ!どうして私が逃げなくちゃいけないの」
「だって、こうして話している今にも、リラ様を殺すかも……」
「ハルは私を殺したりなんてしない」
透明で美しい、けれど力強い声に断言される。
僕は、リラ様を殺さない?そんな保証、どこにあるんだ。
そんなわけがない。
「……何で、そんなことが、言えるんですか。僕……僕は、人間じゃないんだ。最初から『化け物』だか、ら……」
今までの勢いが嘘のように消え、紡ぎ出す言葉は掠れて途切れ途切れになる。
リラ様は小さく溜息をつくと、優しい苦笑いを浮かべた。
「何度も言ってるじゃない。ハルは、『化け物』なんかじゃないって」
体中を支配していた熱が急激に冷めていく。
違う、嘘だ。リラ様は嘘をついている。嘘、全部嘘だ。嘘のはず、だ。
「じゃ、あ……何でさっき、怖がったんですか」
「ハルが本気で死のうとしたからに決まってるでしょう!?だいたい、私がハルのことを怖がったことがある?言ってみなさいよ、一度でもあった?」
「……え、あ、」
「ないでしょう?」
否定できなかった。
リラ様はいつも明るくて、その割に暗い部分や激しい部分も持ち合わせている。けれど、いつだって優しかった。
リラ様が僕を怖がったことを、僕は見たことがない。
透き通るように白い綺麗な手が僕に伸びてくる。
怖い。怖い怖い怖い。触れられるのが、怖い。
反射的に飛び退く。そのまま、数歩後ずさった。
怖い。リラ様が怖い。
リラ様が僕を怖がっていたんじゃない。その逆だった。
その綺麗な指が、優しい声が、彼女に似た澄んだ瞳が、温もりが、全てが怖い。
きっと、死ねなくなる。また逃げてしまう。繰り返してしまう。
リラ様が僕に歩み寄る。
やめて、来ないで、来ないで、
「来ないでくださいっ!」
それは悲鳴になってこぼれた。
もう、隠せない。作り笑いも、嘘も、『化け物』さえ表に出てしまった。
でも、この弱さだけは、誰にも晒したくない。
最後の意地。弱さには触れられたくない。
そして、今のリラ様は、きっと探り当ててしまうから。
「来ないでください!お願いです!」
「じゃあ、死なないって約束、してくれる?」
静かな声が肌を泡立たせる。いつもなら、ここで愛想笑いでも浮かべて、冗談を交えながら頷けばいい。たったそれだけの簡単なこと。
けれどもう、いつも通りになんて、出来やしない。
「……っ、約束、できません」
リラ様には、嘘がつけない。
「どうして?」
肯定も否定もしない静かな声が、最後の鍵を壊す。
もういい。もういいよ。
「……だって、」
僕がどんなに最低な奴かは見られてるんだ。
「……だって、誰も、」
今更だ。
「……誰もっ、僕を殺してくれないからっ!」
リラ様の顔が僅かに歪む。
「誰も。誰も殺してくれなかった。……違う、押さえて……助けてくれる、人が……欲しかったんだ。いつか、……いつかは、僕を助けてくれる人が現れると思ってた。……でも、そんな人、どこにもいない」
ガキのように甘ったれた、ご都合主義の願望。
自分勝手な理屈だ。
でも、もう耐えられないくらい、ボロボロなんだ。
僕は弱い。弱いことをちゃんと認められないくらい、弱い。だから助けて欲しかった。
また失うのが怖くて、心を許すことが怖くて、過去を忘れてしまうことが怖くて、でも助けて欲しい。
自分の手でやってきたことだ。仕方がない。
だからもう、自分で何とかするしかない。
「もう……誰にも、自分にも止められないんだったら、死ぬしか、ないじゃないですか。僕なら、僕を殺せるから。だから、これしか、ない」
胸が張り裂けそうに苦しい。生きていることが辛い。資格がない。もう無理。
もう一度手を喉に持っていく。今度こそ、ちゃんと終わらせ……、
「なら、私が止める」
凛とした声に阻まれた。
息が止まりそうになる。ショックで何も言えない。ただ呆然と、リラ様を見つめる。
「な、んて……」
「私が止める」
静かに、何の気負いもなく告げられ、再度呆然とする。
口を開くも、上手く言葉が出てこない。声が掠れる。
「そんなの、無理、に、決まって」
「じゃあ、昨日君を止めたのは誰?」
ビクッと体が震えた。
よくは覚えていない。
でも、助けてくれたのは、リラ様だったような、気がした。
水のように澄み切った優しい眼差しにぶつかるのが怖くて、うつむく。
「でも、もし、」
「大丈夫。ハルは『化け物』なんかじゃないし、私を傷つけもしない。……それに、今傷ついているのは、ハルの方でしょう?」
「……っ」
違う。そんなことない。これは僕が蒔いた種だから、傷つくなんておこがましいこと、絶対にない。
「私が、どうしてハルを王命を使ってまで呼び寄せたと思う?」
「……え?」
どうして今、そんなことを。
確かに不思議ではあった。けど、僕の目と髪の色が珍しいからとか、貴族で暇人だからだとか、そういう理由だと思っていた。
すぐ傍で靴音が止まった。リラ様が目の前にいるのはわかったが、逃げようと思っても、体が動かない。
両頬を、柔らかくて温かい手が挟み、顔を上げさせられる。目が合う。
「……ほら、泣かないで」
リラ様の目に映り込んだ僕は、確かに泣いていた。……気がつかなかった。
最近泣いてばかりいる。ずっと、涙など流さなかったのに。情けない。馬鹿みたいだ。
自分で自分が憎らしい。
「別に、泣くのが悪いってわけじゃないよ。でも、もう泣かなくても大丈夫」
「大丈夫って……?」
リラ様が、柔らかくて、泣きたくなるほど優しい笑みを刻む。
「私は、ハルを守るためにここに呼んだの」
優しい声が、指先からしみ込んでいく。
温かい。
その笑顔も、眼差しも、頬に添えられた手も、温かくて優しい。
僕を守るために、ここに呼んだなんて、有り得ない。
リラ様と僕は何の接点もない赤の他人だ。知り合いですらない。しかも、遊び相手と守ることの何が関係してるんだ。そもそも、外に出てから僕は苦しむようになった。そんなの嘘だ、絶対嘘。僕を止めるための嘘だ。おかしい。
……でも。
そんなことは、どうでもよかった。
リラ様は微笑んだまま動かない。僕がこのまま黙っていれば、永遠に続きそうだ。時が止まってしまったかのように。
それはそれで、良いだろう。
けれど、僕がとったのは全く違うものだった。
リラ様の華奢な腕を取り、引き寄せて閉じ込める。そのまま強く抱きしめた。
「ごめ、んな……さい」
声が震える。やり方も伝え方も、子供のように不器用で拙い。あれ以来、僕の中で時が止まっていたせいか、どうしても子供になってしまう。
さらさらと揺れる銀髪から、花の香りがする。清楚で甘い香りのせいか、脳裏に彼女の姿が過った。
けれどもう、止められないし、止める気もない。
今を逃したら、二度と伝えられなくなるから。
「……僕は……リラ様が好き……です」
腕の中の少女がピクリと震える。
「ごめんなさい。……本当にごめんなさい。僕なんか、が、好きになって、ごめんなさい……。でも、ずっと前……から、好きだったんです」
言ってしまった。
閉じ込めて、蓋をした想いを、伝えてしまった。
こんな最悪な状況で。
リラ様はどう思っているだろう。この後、どうしたら良い。もう逃げられない。逃げ場がない。
僕はまた、間違った選択をしてしまったのか。
リラ様が、そっと溜息を吐いて。
「……ありがとう」
透明な、いつもより甘い声が、そっと囁く。
「……え?」
「ありがとう。嬉しい」
「……本当、に?」
「ええ、本当よ」
一瞬も躊躇うことなく頷いた。
またぽろぽろと涙がこぼれて、リラ様の髪を濡らす。何もかもが震えて、歪んで。
胸に渦巻く感情が理解できない。ただ、涙が止まらない。
僕は間違っているのかもしれない。
けど、許されるなら、今度こそ逃げたくない。本当の意味での強さがほしい。
守りたい人が、できたから。




