悪夢の延長
飛び起きると、辺りはまだ真っ暗だった。まだ夜が明けていない。
呼吸が荒い。嫌な汗が伝い目に入る。体の節々も痛み、意識が朦朧とする。
物凄い疲労感だ。吐き気や頭痛も酷い。全身が熱いのに、頬に触れると冷たかった。
涙の跡、だ。
僕は、泣いていた?
首を傾げると、それだけで痛み蹲る。しかし、この歳になってそう泣くことはない。いくら僕がヘタレでも、『弱虫』でも。
何かがあったはずだ。何が?
思い出そうとするとますます頭痛が酷くなる。頭が割れそうだ。唇をきつく噛んでそれをこらえると、ゆっくりと、さっきまでの悪夢がよみがえった。
僕が初めて、『化け物』と呼ばれた日のことを。
思い出した瞬間、血が凍りついた。呼吸のリズムが狂いそうになり、ベッドに拳を沈めて息を吐き出す。
あの光景は時々夢に出てくる。起きるたびに精神状態がガタ落ちになるが、それでも最近はあまり見ることはなかった。
酷い悪夢だ。だが、悪夢の根源は僕自身なのだから、どうしようもない。それが一層、苦しい。
そして不思議なことに、この悪夢では、みんなの顔がぼやけてしまうのだ。
襲いかかってきた兵士の恰好をした男達はもちろん、彼女さえ。
何度か深呼吸を繰り返す。まだ心臓はうるさいが、少し落ち着いてきた。
しかし、どうして体中が痛いのだろう。昨日何があったっけ。思い出せない。
まあどうせ、リラ様の無茶振りにつきあわされたんだろう、きっと。もしくはソフィアの攻撃を受けまくったか。
軽い気持ちで何気なく腕を見て、……硬直した。
包帯。しかも、両腕に巻かれていた。そして、肩にも。
おさまりかけた鼓動が、嫌な音を立てて早まる。
どうして。いや、きっとソフィアのナイフが当たったんだ。そうに違いない。
まさかまた、僕が『化け物』になったなんて、そんなはずはない。
ガタガタと震えだす。冷や汗が止まらない。頭にかかった靄が、ゆっくりと解けていく。
そして、さっきまでの悪夢が優しいと思えるほどに残酷な悪夢が、怒涛のように溢れ出てくる。
鮮血。怒り。憎悪。破壊衝動。恐怖に立ち尽くすクラウス様達。倒れ伏す賊。怒り。赤と黒。闇。血の海に溺れる感覚。
思い出した。思い出して、しまった。
僕は、初めて『化け物』と呼ばれた時から、二重人格のようになってしまっていた。
たいていは大丈夫。特に、家に閉じこもり、全てが停滞していた数年間は。
けれど、外に出て。バルクさんに因縁をつけられ、挑発され罵られ、挙句『弱虫』とまで言われた。その瞬間、理性が吹っ飛び蹴り飛ばしていた。
それ以来、僕はどんどん抑えがきかなくなっていった。どうにかしなくちゃいけないとわかっていても、上手くいかない。
それでも、大事な人達には、ばれなかったから。
だから、僕はその状況に甘えて逃げ続けた。それが仮初の物だとわかっていても、トラウマに向き合えるほど強くない。
僕は弱い。だからこそ、反動で『化け物』が生まれた。
その結果が、代償が、これだ。
大事な人達に、『化け物』を見られた。しかも、クラウス様やソフィアまで傷つけた。殴り、蹴り、傷つけ、嗤って嗤って嗤って。
今までの『化け物』の中でも、最悪だ。これのどこが人間なんだ。
もう、戻れない。
またあの時のように、恐れられるだろう。忌嫌われ、みんなが離れていくだろう。
きっと、リラ様も。
視界が歪む。涙が溢れて、こぼれていく。
僕に泣く資格なんてない。だから、泣くなよ。人間じゃないんだから、泣くな。
どうして、『化け物』の人格を持ちながら、普通の人間の感情を持つ。
辛い。苦しい。胸が張り裂けそうだ。……でも、全て僕が招いた結果。
もう、良い。全て終わりだ。
壁に後頭部を打ちつける。痛みはない。でも、涙は止まらなかった。
「はは……はっ、あはははははっっ」
嗤う。泣きながら嗤う。嗤い続ける。
真っ暗だ。未来なんてない。何で僕は外に出てきた。……違う。
どうして、生きていたんだ。
セレナを失った時点で、僕の生きる意味も資格も価値も全て消えた。
なのに、何故。何故生きる。
……簡単だ。死ぬのが怖かったからだ。
でももう、いい加減にしろ。それ以上生きていて何になる。死んだ方が他人のためになる。
もう自分では止められない。逃げようにも、逃げる場所さえ失った。
自分のしてきたことを見つめ、向き合う。
それが正しい選択で、残された数少ない道だ。
けれど、僕はそっちにはいけない。
前を向くには遅すぎる。血を被り過ぎた。
もう、全て遅い。
震える指先で首に触れる。冷たい。指が冷たいのか、首が熱いのか。
他人に散々やってきたことだ。今更躊躇う理由はない。
ぐっと力を込める。絞めていく。苦しいとは思わなかった。
目を閉じると、薄紫のリボンが妖しく揺らめく。失った少女の残像が、やがて闇に溶けていった。
「……だってさ、女王様。どう思う?」
ネリーは肉にフォークを突き立て、自らの主君を伺った。
紫色のリボンを結んだ淡い茶髪が、さらさらと揺れる。妖艶だが少女らしい甘さも残る横顔は、見慣れていてもうっかり見惚れてしまいそうだ。
返事がないので肉を頬張る。旨い。
両脇の男がじっと睨んでくる。ライトとローグだ。ライトは羨ましそうに肉を見つめ、ローグは呆れ顔だ。
食えば?と目で聞くと、ライトは悔しそうな顔で唸り、そっぽを向いた。ローグの視線が冷たくなる。
ネリーが半分ほど肉を飲みこんだところで、やっと少女が顔を上げた。
いつもは表情豊かなその顔には、珍しく何も浮かんでいない。だからこそ、その目にわずかに閃いた嫉妬の色が強烈に焼きつく。
少女の唇が艶やかに動く。
「つまり、ハルは暴走したの?」
「そういうことでしょう。ほとんど自我がなかったようですから」
冷めた口調でローグが肯定する。ライトの顔が引き攣った。
「うわー……それじゃ、あいつら滅茶苦茶怖かっただろうなー。オレと戦った時は、貴族クン自我はあったけど超怖かったし。何か別人だったし。あれ以上ってことは……うわっ、想像したくないな。あんなん生け捕りとか無理だから」
「ダッセーなライト」
「うるせぇ。ネリーは直接戦ってないからそんなことが言えるんだ」
「いい加減黙れお前ら。誰の前にいると思ってるんだ」
ローグの睨みに、ネリーとライトはそれぞれ舌打ちしつつ少女を見た。
彼らの女王である、少女を。
「話を続けてもいい?」
「ええ、どうぞ。奴らには後で言っておきますので」
ネリーとライトがビクッと体を震わせた。
ローグの「後で言っておく」は「後でぶちのめす」なのだ。
「そう。いつもありがとう、ローグ。……それで、ハルの暴走の原因はあの女だと、はっきりわかったのね?」
「それを確かめるための作戦ですから」
「そう」
少女の目にはっきりと憎悪が浮かぶ。形のいい唇が震える。
しかし表情は崩さない。それどころか、ゾッとするほど冷たく微笑んだ。
「これで、崩れたね、きっと。今頃ハル、苦しんでるのかなー。……あの女もわかっただろうし、あたしが何を考えているのか。今回は充分な収穫だよ。お疲れ様」
「ありがとうございます」
「あのさー、女王様。気になることがあるんだけど」
少女の瞳がネリーに向けられる。途端、肉を豪快に食べていた彼女が怯んだ。
冷たい目。少女の美しい瞳には、嫉妬が渦巻いている。
少女はそれを隠そうとはせず、そのままの目で妖艶に微笑んだ。
「何?」
「え、あ、その」
「何かあるなら、早くして?」
ネリーは一瞬恐怖に顔を歪めたが、すぐに陽気さを取り戻した。少し、無理があったけれど。
「いくら女王様が上手く隠れているからって、そろそろ居場所が気づかれないかな~って」
「それ、オレも思ってた」
ライトが頷く。
「セルシアの王って、なんかすごいんだろ?かなり力のあったあたしの一族を潰したくらいだし。いくらなんでも、気づかれるんじゃない?」
「証拠を掴まれたらおしまいだぜ。もし、そんなことになったら……」
「ならないわ」
甘い声がぴしゃりと遮る。
少女が冷ややかにネリーとライトを一瞥する。可憐な容姿とはあまりにも不釣り合いな、尊大な眼差しで。
「絶対にならない。第一気づかれたとして、どうするの?あたしに手が出せるとでも?今まで、一度でもあたしが間違ったことがあった?」
ネリーとライトがギクリとする。同時に青ざめた。
ローグだけが表情を変えず、淡々と答える。
「ありません。これからもないでしょう」
「そう。そう思うなら、あたしに従いなさい。……あなた達は?」
「あ、ありません」
「従います」
うつむき震えながらも、二人が答えると、少女は薄く笑った。
「いいわ、それで。さっきのも許してあげる。引き続き、例の件をよろしくね。……出てって」
「仰せの通りに」
言うと、ローグは不自然なほど規則正しい足取りで部屋を後にした。ネリーとライトも、慌てたように後を追う。
三人がいなくなると、この部屋はいつものように、少女一人になった。
毒々しいほど甘い香と、霧の如く揺らめく空気。高価な玩具や服が散乱し、物で溢れかえっている。
少女は菫色のドレスの裾を引きずり、テーブルに置かれてそのまま放置された小皿に近づく。作り物めいた華奢な指で、クッキーを手に取る。
「……いつまで、我慢しなきゃいけないの」
苛立ったようにクッキーを小さな口に放り込み、噛み砕く。ひんやりしたつまらなそうな顔で、クッキーを咀嚼する。
もくもくと噛み続け、飲み込んだ瞬間、冷たい表情が一変し、夢見る少女の顔になった。
形のいい唇が緩み、甘くとろけるような笑顔が浮かぶ。非の打ちどころのない愛らしく無邪気な笑顔は、どこか残虐さを秘めているようにも見えた。
「でも、もう少しだもん。我慢しなきゃ、ね」
もう一つ、齧る。
「今頃、どうなってるのかなあ」
辛いよね。
でも、君があたしを裏切ったのが悪いんだよ。
もう少ししたら助けてあげる。
そして、一緒に生きましょう?
「ふふっ」
少女は楽しげに笑い、恋い焦がれるような瞳をそっと閉じた。




