『化け物』の始まり
その日も、あの日のような快晴だった。
ミシュア姉さんを傷つけられた日の空と、彼女を傷つけられた日の空が、あまりにもよく似ていたのを覚えている。
どこまでも一面真っ青で、雲一つない。温かな陽光が降り注ぎ、最高に平和で美しい空の下、僕にとって最悪なことが起こった。
あのことはよく覚えている。……けれど、上手く形にならない。
僕が無意識にそうしていたのかもしれない。
子供が認めるには、あまりにも残酷すぎたから。
「今日はいい天気だね」
鈴のように綺麗な、甘い声で囁く少女は、僕の隣で朗らかに笑っていた。
スラリとした細みの体躯が年齢のわりに大人びていて、揺れる淡い茶色の髪は光の当たり具合で金色にきらめいた。
こぼれそうなほど大きな目はいつも寂しそうで、時々挑戦的に輝く。
浮かべる表情も、一人の人間がここまで色々できるものなのかと驚くくらい多彩で、それでもどこかに影があった。
よく笑っていたけど、その笑顔すら陰りがあって。
彼女は、何かが大好きだった。僕達が出逢ったきっかけも、多分それが関係していた。
それなのに、一つも思い出すことができない。
これも、現実逃避の一つなのか。
「そうだね!お昼寝したくなるくらい」
「そう、かな?眠くはならないけど……」
「え?……あれっ?ステラねえさんも眠くなるって言ってたけど」
「きっと、あたしが違うだけなんだね」
あの頃の僕は、よく笑っていた。それも作り笑いではなく、純粋に自然な笑顔で。ミシュア姉さんの事件があった後だったけど、彼女のおかげで笑えていた。
今ではもう、どうやって笑っていたのかさえ、覚えていない。
それからしばらく、二人で他愛ないお喋りを続けていた。
最近のこと、近所のこと、ステラ姉さんのこと、少女の趣味やお気に入りについて。
内容なんて何でもよかった。
彼女と一緒にいれば、それだけで楽しくて、幸せだったから。
「ねえ、ハル。ハルは将来どうしたいとか、決まってる?」
突然、少女が真剣な目をして尋ねてきた。人形のように整った顔がすぐ近くにあって、子供ながらにドキドキする。顔が熱くなり、直視できない。
彼女は眩しすぎた。
「え?え、えっとね、うーんと、ちょっと待って、えっとえっと……」
何を言っているのか自分でもわからなくなってきた。頭に血が上ってしまって、少女の甘い花の香りに酔ってしまったかのよう。
少女は可愛らしく首を傾げると、戸惑うような目で僕を見つめた。
「そんなに悩まなくても……。特になかったら、いいんだよ」
「そ、そう!?でも、ちょっと待って何か……えっと……」
「……あの、本当に大丈夫?」
「……そうだ!ぼくは、強くなりたいんだ!」
やっと見つけた答えに喜びながら、叫ぶ。
少女がまた首を傾げた。
「強く?……ハルは充分強いよ?」
「全然!ぼくは『弱虫』って言われてもしょうがない奴なんだ。だからこそ、もっともっと強くなってやる。それから……」
勢いに乗って喋っていたが、急に恥ずかしくなって押し黙る。よくこんなことを照れずに言えたものだ。勢いって怖い。
しかし、少女は続きを待っているようだった。無垢な眼差しが僕に向けられ、また頬が熱くなる。今日はどうしたというのだ。風邪でもひいたかな。
恥ずかしい。けど、せっかくだから言ってしまおう。あくまで目標なのだから。
「……その、強くなって、君を守れたら良いな、なんて」
言ってみると、もっと恥ずかしかった。顔から火が出そうだ。
頭の中が後悔でいっぱいになる。僕ってこんなに馬鹿だったんだ。引かれたらどうしよう。
少女の顔がまともに見れず、うつむく。
すると、僕の手を白く小さな、柔らかい手が包んだ。
「ありがとう。……優しいんだね」
ドキッとするほど優しい声で囁くと、少女はにっこり笑った。
心臓が跳ねる。顔が、いや全身がすごく熱い。
少女の花が咲いたような笑顔を見たいのに、どうしても直視できない。
この気持ちは何だろう。言いようのない、形のない、言葉にできないこの気持ちは。
後でステラ姉さんに聞いてみようか。それとも、母さんの方が良いかな。
その時、
「見つけたぞ、彼女だ」
夢のように優しい、満ち足りた時間を、低い声が引き裂いた。
僕と少女が振り向くと、数人の男がいた。どれも兵士のような格好をしている。
どことなく不穏な空気に少女を見ると、少女は真っ青だった。ガタガタと震え、小さな顔には恐怖がありありと浮かんでいる。
少女は怯えていた。
理由は知らない。どうして兵士がここにいるのかもわからない。
でも、そんなのどうでも良い。大事なのは、少女が恐怖心を抱いているということ。
僕が守らなきゃ。
今度こそ、守る。
ミシュア姉さんの時のような過ちは、絶対にしない。
少女の前に出て、先頭の男を睨む。
「ガキはほっとけ。大事なのは少女だ。とっとと回収するぞ」
先頭の男が後ろの仲間に言う。目的はやはり少女のようだ。
マズイ。この人数、絶対に敵わない。
僕はレウィン・ウルに体術を叩き込まれているので、そこらの子供には絶対に負けない自信がある。
だが、相手は大人。それも複数人だ。
冷や汗が流れる。怖い。怖いよ。
でも、今度こそ絶対に、守りきるんだ。
「君は逃げて!早く!」
少女を力一杯突き飛ばす。転ばせてしまったが、すぐに立ち上がり駆けだした。
少女を追いかける男を蹴り飛ばす。二人、こちらに意識を向けた。襲いかかってくる。
さすがに兵士だ。運動量も力も僕の比じゃない。
攻撃をかわすので精一杯で、余裕がない。剣が足元を襲うのを飛んで回避すれば、もう一人が頭を狙ってくる。
こいつらは誰だ。どうして僕らを襲う。誰か助けて。
視界の端で少女を確認しようとしたその時、
「痛いっ!やめてええええ!」
少女の悲鳴が上がった。
反射的に体を向ける。その間に首に剣が当てられたが、そんなのどうでも良かった。
男の一人が、小柄な少女を羽交い絞めにしていた。薄く華奢な肩に刃が乗せられ、そこから血が流れていた。
少女は動くこともできず、恐怖でいっぱいになった目からぽろぽろと涙をこぼしていた。
男の一人が叫ぶ。
「この方は帰るべき場所がある。それを邪魔するのであれば、命令にのっとり、お前の首をはねる。たとえ、子供であろうともだ」
帰るべき場所?お前の首をはねる?子供であろうとも?
『ふざけるな』
聞いたことがないほど歪で、暗く怒りに満ちた、けど確かに僕の声が頭に響いた。
熱い。全身が酷く熱い。幸福な時間に感じていた熱さがぬるく感じられるほどに。
恐怖も焦りも疑問も消えていく。怒りと憎悪だけがわき上がる。
『二度と、同じ過ちを繰り返さないんだろう?そう誓ったはずだよな』
体の内側から響く声が、怒りが、全てを飲み込んでいく。
目の前が赤黒く明滅する。何かが溢れる。壊れる。壊される。
「おい、聞いているのか!?二度目はな……」
「ハル!お願い、助けてっ!」
少女が泣きながら叫んだ。
突き刺さるほど痛々しい声が最後の情を叩き壊す。
「……い」
「あ?何て言ってんだよ、ガキ」
僕の首に剣をつきつけている男が怒鳴る。
うるさい。黙れ。
『消えろ』
「ユルサナイって言ってるんだ」
その瞬間、全ての鎖が千切れたような気が、した。
左右の剣を殴りとばし、地面を蹴って飛翔する。その勢いのまま、顔面を蹴り上げた。馬鹿みたいにスローモーションで、体が吹っ飛ぶ。
僕が着地したのと、他の奴らが反応したのは同時だった。
遅い。遅すぎる。全てが笑えるほどゆっくりだ。
『馬鹿にしているな』
全くだよ。
また一人、二人。襲いかかってくる。振り下ろされた剣をかわし、もう一人の腕を掴み投げ飛ばす。奪った剣を背後に投げると、気味の悪い音と悲鳴が上がった。
手を見ると、いつの間にか真っ赤に染まっていた。顔や服にも血が飛び散っている。
ちらりと残りの男に目をやる。悲鳴をあげ、何かを喚き出す。
……残りは三人。
しかし、あいつらは少女を連れて逃げだした。慌てふためき、恐怖で歪んだ顔で。
少女の顔は見えない。けれど、必死に抵抗しているのはわかった。
脳裏に、泣きながら助けを求める姿が浮かぶ。
怖いよね。痛いよね。ごめん、待ってて。
『行け。もう二度と、『弱虫』になりたくないなら、早く』
低い、囁くような声が脳を揺さぶる。
わかってる。
例え、殺してでも、絶対に助ける。
走り出すと、やはりスローモーションの奴らにはすぐ追いついた。男が金切り声をあげる。黙れうるさい。
少女が泣きながら僕を見る。
まだ少ししか生きていないけれど、僕が見てきた中で一番明るく優しい、不思議な女の子。彼女が泣いたのを初めて見た。
哀しそうな顔はよくしていたし、綺麗な瞳はいつだって寂しげに見える。 それでも、泣くことだけは我慢しているように見えた。
それなのに。
お前らは、自分のしたことがわかっているのか?
『わからせてやれよ。行動で』
一気に間合いを詰め、拳を振り上げる。相手はまだ、僕が目の前にいることに気が付いていない。馬鹿か。
ちょうど心臓の位置に拳を叩き込む。男が衝撃で吹っ飛ぶ。
いつもならこれをやれば、拳が痺れてしばらく殴れなくなるはずだ。しかし、今は全く痛くなかった。
痛みがない。血が流れているはずなのに、それすらもわからない。
熱さも冷たさも感じない。
湧き上がる怒りや憎悪は破壊衝動に変換される。それだけが体中を支配していて、感覚が狂ってしまったようだ。
ただ一つ、視界に映る少女だけが、赤く明滅する光景に浮きたっている。
トン、と地面を蹴る。それすらも赤く見えた。
奇声を発しながら一人が近づいてくる。もう一人は少女を連れ逃げる。
わけのわからない言葉を喚き散らすうるさい方を蹴り飛ばし、最後の一人にとびかかる。
男の顔が恐怖に歪む。
さあ、これで終わりだ。
もう僕は『弱虫』じゃない。絶対に『弱虫』じゃない。
自然と笑みがこぼれる。血で滑る右手を固める。
相手が少女を捨て、逃げようとする。
『だから、遅いんだよ』
ユルサナイって言っただろ。
男の体が宙を舞った。地面に叩きつけられる暇さえ与えず、胸ぐらを掴みあげる。
男が震えながら謝罪を口にする。許してくれと繰り返す。
ユルセ?
どうして僕が、お前をユルス必要がある?
彼女に傷を負わせたお前らを。
あいていてる手を伸ばし、男の腕を折る。悲鳴が上がる。
さて、どうしようか。このまま捨てる?それとも、砕いて、すり潰してやろうか。
『殺せ。完璧に息の根を止めろ』
脳内に響く声。
低くひび割れていて、とても人間の声とは思えない。
けれど同時に、僕自身の声だった。
男の首に手をかける。
誰かが僕の腕を掴み、何かを叫ぶ。やめてと言っているような気もした。
でももう、何も見えない。聞こえない。
止まることなんてできない。
ゆっくりと力を加えていく。徐々に、確実に。
「あ……あが……ば……がはっ」
男が何かを言おうとする。酷くうるさい。耳障りだ。ただの騒音なら消えろ。
喉を潰すため手の位置をずらす。その瞬間、男の目が見開かれた。
「……このっ、ば、『化け物』めっ!」
心臓を射抜かれたような衝撃が走った。
赤一色だった視界が元に戻る。音も正常に聞こえる。同時に、急速に力が抜けていく。
冷たい。凍ってしまいそうなほど冷たい。眩暈がする。
体の中がバラバラに切り裂かれるように痛い。
僕が、『化け物?』
そんなわけない。僕は人間だ。『化け物』じゃない。
ああ、でも。
僕はおかしくなってしまった。
聞こえるはずのない声が聞こえて、それに突き動かされるように人を滅茶苦茶にした。今だって、殺そうとした。それも、罪悪感一つ感じず。
初めの怒りも、少女を助けようとした気持ちも破壊衝動に変わり、愉しいとさえ、思えた。
こんなことが、愉しいと。
最低だ。
手を見れば、他人の血で真っ赤に染まっていた。ぬらぬらと光るそれは、全身の至る所に飛び散っている。
僕は、『化け物』になってしまったのか。
膝をつく。もう、立てる気がしない。
生きる価値なんてない。
目の前の男が逃げていく。
ぼんやりと前を見ていると、少女が泣きながら僕に抱きついた。
「ごめんね!ごめん、ごめんなさい……っ」
どうして、謝るの?
それに、僕の傍にいたら駄目だよ。僕は危険な『化け物』なんだから。優しくする必要はない。
僕は君のことが好きだけど、こんな僕に君を好きになる資格なんてない。
だから、逃げて。
言いたいことはたくさんある。それなのに、何一つ言葉にならない。
冷たい体に、少女の温もりは優しすぎて。自分から離れることができない。甘えだ。もう、どうしようもない。
気づけば、涙が溢れていた。止まらない。冷たい頬を伝う涙は、やけに熱を含んでいた。
どうして、
僕は『化け物』なのに、
涙が止まらないんだ。
もう何もかもがわからない。痛い。冷たい痛みが全身を貫く。
本当は、これこそが、許されないことだ。知ってる。わかってる。
わかって、いるけれど。
それでも、温もりがほしい。じゃないと、心から何かが溢れ出して、壊れてしまいそうだった。
僕は少女の背中に腕を回し、縋るように抱きしめ返した。




