『化け物』と天使
「やめなさい」
よく透る静かな声が、空気を割って広がる。
ハルの動きが止まる。
クラウス自身も、絶望しか見えなかった光景に光が射したように感じた。
乱れて汚れてもなお美しい銀髪が揺れる。
結んだ唇は切れ、血の気の失せた顔であっても、凛とした眼差しがそれらを上回る。
いや、そんな姿だからこそ、強い意志が輝いて、いつもよりも一層美しく見えるのか。
彼女がいる場所だけ、空気が清浄になっていくよう。
今の王女もまた、ハルと同じように、しかし全く正反対の意味での、人間から離れた存在に見えた。
彼女を的確に表す言葉が見つからない。見つかるわけがない。
それでも、無理やり既存の言葉で当てはめるとしたら。
ハルが『化け物』になるとしたら、リラは天使と呼べるだろう。
クラウスは呆然と、腹違いの妹を見つめた。
「もう、私のせいでこんなことをさせたくない。……もう、いいんだよ」
少し泣きそうに目を伏せ、優しく微笑む。限りなく優しいのに、凛然とした瞳は欠片も揺るがない。
強い。
ハルのような物理的な強さではなく、もっと別の形で、リラはとても強い。
その種の強さは、クラウスが見たことのないものだった。
ハルの手が緩み、その隙にソフィアがするりと抜け大きく飛び退く。だが、それはハルの視界に入っていないようだった。
ただひたすらに、光のない目で、光に溢れた目を見つめ続ける。
「ごめんなさい。私のせいだから、自分を責めたりしないでね?」
音もなく、歩み寄っていく。
「ね、もう平気だから。終わりにしよう」
ゆっくりと、一歩ずつ。
ハルが口を開く。何かを言おうとしているようだった。しかし、その言葉は紡がれることなく、ハルはガクリと膝をついた。
誰も止められなかった暴走が、崩れていく。
あまりのことに、クラウスは何も考えられなかった。
「……だと……なら、大丈夫だよ。私……から」
ハルに目線を合わせるように、リラもまた床に膝を付く。綺麗な微笑を浮かべると、ハルの耳元に唇を寄せる。何かを囁いたようだった。
その瞬間、ハルの目が驚愕に見開かれた。
肩を震わせ、唇を噛んでいるのが見える。震えは肩だけでなく、指先にまで広がっていく。何かをこらえるように拳を握りしめ、震え続ける。
やがて、ぽたりと。
闇と虚無しかなかった瞳から一筋、涙がこぼれ落ちた。
血で赤黒く汚れた頬を、透明な雫が伝い落ちていく。そこだけ血が落ちて、白くなった。
震えが止む。
もう一粒、先ほどよりも大粒の涙がこぼれた。
グラリと体が揺れる。そのまま、リラにもたれかかるように倒れ込んだ。
音が消える。
世界の時が止まってしまったようだった。
ハルがピクリとも動かない。死んでしまったように静かで、『化け物』のような少年の姿とはかけ離れた、無防備な顔をしている。
それでも、周りの惨状と、ハルにこびり付く多量の血が、夢ではないことを物語っている。
それが、ひどく恐ろしくて。呼吸すらも忘れそうなほどに。
永遠にも思えるような沈黙を、リラが静かに破った。
「終わり、だよ」
透明な声で囁く。それと同時に、リラの唇に切なげな淡い微笑が浮かんだ。
澄んだ瞳とぶつかり、思わず目を逸らす。
何も、何も整理がつかない。あまりにも突飛で、滅茶苦茶で、最後は呆気なさすぎて。
それに、……ほんの少しだけ、リラの綺麗な、清らかすぎる目が怖かった。
「クラウス様!大丈夫ですか!?」
ソフィアが叫びながら駆け寄ってくる。
情けないことに、力が抜けていて一人では立ち上がることすらできない。 それでも、痛みは治まったことだし、たいしたことないのだろう。何故。わからない。
ハルが手加減してくれたのか。そんなことはないだろう。ほとんど意識はなさそうだったから。じゃあ、何故。……そんなの、些細なことか、今は。
ソフィアに手伝ってもらいながら立ち上がる。
また、リラと目があった。
水のように澄み切った、透明な瞳。ひどく優しくて、けれど寂しそうで。
聞きたいことは山ほどある。当然だ。
いや、その前にここをどうにかするべきだろう。
ああ、でも頭が働かない。おかしい、違うだろう。こういう時こそ冷静に対応しなくてどうする。それでも、クラウスが相当混乱しているのは間違いない。だからこそ。
そうだ。落ち着け。
ばれないように軽く息を吸う。さっきよりは落ち着いた気がする。大丈夫だ。
何も考えずに口を開く。
「……お前、さっきまでどこにいたんだ。いきなり出てきたが」
出てきたのは、どうでもいい内容だった。
リラの顔に困惑が浮かぶ。
「え、ああ……黒い服を着た人達が突然攻めてきて、ハルが気が付いてやってきてくれたんだけど、私、気絶していたみたい。……ごめんなさい」
最後の「ごめんなさい」は、クラウスやソフィアに言っているようには思えなかった。
「……どうして謝るんですか。リラ様が謝る必要なんて、ないでしょう」
「ううん。もっと早く私が目覚めていれば……ううん、その前にこんな事態を引き起こさなければ……」
「そんなこと言ったって、仕方ないだろう」
「そう、ね……でも……」
リラが哀しげに目を伏せる。
「……ごめんね」
風に消えてしまいそうなほど小さな、儚げな声で、誰にともなく呟いた。