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影を孕む平穏

 セルシアの中でも最も豪華で美しい城の、一室。

 第四王女が住んでいるはずのその場所では、行儀の悪い罵声と轟音が響き渡っていた。


「ああ、もう!腹が立つ!あの色好みの万年欲求不満男!許さないんだからぁっ!」


 澄んだ声が紡ぐ呪いの言葉を、僕は苦笑しながら無言で聞いていた。


「だいたい、こんなに妃も愛人もいるのに、どうして増やすの?セルシア王国の恥よ!女に殺されないとやめないのよ、もはや病気よ!」

「まあまあ。あんまり言うと王様が可哀想……」

「な、に、かっ?」

「い、いえ、何でもないです……」


 一応試みた王様へのフォローは、リラ様の怒りにいとも簡単に跳ね返された。

 今日のリラ様は青い目がつり上がり、暴れたせいか長く綺麗な銀髪が乱れ、何というか大変残念だった。ふんわりしたラインの白いドレスと花の蕾の形をした髪飾りが可憐なせいで、滑稽さに拍車をかける。

 今日も今日とて僕の主は残念王女である。


「顔だけが取り柄の癖に、最低!」


 どうにもおさまらない怒りをぶつけるように、リラ様が近くの本棚を蹴っ飛ばした時、本棚がグラリと揺れた。その勢いのまま、大量にある本を撒き散らしながら、本棚がリラ様を巻き込んで倒れる。


「きゃあっ!?」

「何やってんですか!」


 思わず叫び、飛び退く。

 本棚はすっかり倒れ、リラ様を押し潰していた。分厚い本や本棚からは、リラ様の姿は見えない。


「あの……リラ様?生きてます?死んでます?死んでたら幽霊になって出てきたりとかやめてくださいね。あとお墓作るのは面倒だし、この本をお墓ということにすれば金も無駄にならな……」


 最後まで言い終わらないうちに、辞書よりも厚い赤い本が、勢いよく飛んできた。首を少し捻って避けると、本が向こうのドアに直撃。おっかないなぁ。

 本の山が僅かに動き、月の光を集めたような銀色の髪と白くほっそりした手が見え、清楚な白いドレスが覗き、ついには青く澄んだ瞳をつり上げた少女が、這い上がってきた。


「……死んでないもん。大体、面倒ってどういう意味!?」


 涙目で睨まれるも、明後日の方向を見て躱した。リラ様を怒らせると面倒くさい。

 僕は愛想笑いを浮かべ、


「何でもいいでしょう?取りあえず、無事なようでよかったです。……でも、この本と本棚は、どうしよう……」


 見事な造形の本棚と、豪華な絨毯に撒き散らされた本を片付けるのは、非常に骨が折れそうだった。

 やれやれ、本当にこの王女は、人騒がせだ。

 溜息をつく僕の気も知らず、リラ様は頰を膨らませて叫んだ。


「あれもこれもそれもぜーんぶ、あの人のせいよ!」


 そもそも、何故こんなことになったのか。

 それは、数分前に遡る。




「ねえ、今日は何する?やっぱりトランプでも?」

「却下です」


 朝食後、リラ様はいつものように瞳を輝かせて遊びについて訊いてきた。


「じゃあ、すごろくは?」

「却下です」

「かくれんぼ」

「却下です」

「えーと、舞踏会!」

「却下です」

「花占いはどう?」

「却下です」

「……パズル」

「却下です」

「……ハルの意地悪。これじゃぁ、何にもできないじゃないの!」


 唇を尖らせ、リラ様は子供のように拗ねた顔をする。

 破天荒の極みみたいなリラ様だが、最近はだいぶ慣れてきた。


「だったら、一人で遊んだらいいでしょう?ここには本もたくさんあるようですし」

「そんなの意味ないもの!ハルは何の為に私の遊び相手になったのよ!」

「王命で、仕方なく」

「うぅ……」


 リラ様は不満げに唸るが、こっちだって遊ぶのには体力も精神力も必要なのだ、しかもリラ様みたいな人には。つまり面倒くさい。

 何か理由をつけて退室しようと考えていると、ドアをノックする音が響いた。


「どうぞ」


 途端に、リラ様の表情が一変する。

 桜色の唇をほころばせ、花が咲くように微笑む。ちょっとだけ乱れていた長い銀髪もいつの間にか整えている。


「……うっわ、猫被り」


 僕だって他人のこと言えるような人間ではないが、リラ様が切替が鮮やかすぎる。いっそ感心してしまった。


「失礼します、リラ様。本日は重要なご報告があり、参りました」


 礼儀正しく振舞う女性に、リラ様もしとやかな笑みを返す。


「そう、ありがとう。その報告とはどのようなお話かしら」


 女性がちらりと僕を見る。あ、僕は移動した方がいいだろうか。


「あの人は空気みたいなものなので、気にしないでください。続きをどうぞ」


 にっこり笑いながら、かなり酷いことを言う。ていうか僕、リラ様に紹介されてよかったことって、一度もないんじゃないか?

 女性は戸惑うような眼差しを僕に向け、再びリラ様に視線を戻した。


「これから五日後に、ささやかなパーティーを行います。今回はリラ様にも参加してほしいと陛下が仰っています。ドレスや宝飾品などはあらかじめこちらで用意しますが、ダンスもありますのでそのつもりでいらしてください」


 女性の言葉に、リラ様はきょとんと首を傾げる。


「五日後?それって早すぎるんじゃないかな?そもそも、何故パーティーを?」

「ご存じありませんでしたか。陛下が新しい側室の方をお迎えするのです。高貴なお方ですので、式代わりのパーティーを開くことに……」

「何ですって!?」


 リラ様が目を大きく見開いてぽかんとする。

 驚いたのは僕も同じだ。あの方、まだ妃を娶るのか。どれだけ女好きなんだ。

 しばらく驚いた顔のまま突っ立っていたリラ様は、つかつかと女性に歩み寄ると、化けの皮がすっかりはがれた状態で、


「それで!お父様はその為にパーティーを開くと?」

「いえ、それ以外にももっと重要な理由がございまして……」

「お父様のことよ、どうせ屁理屈言って終わりだわ!信じらんないっ!」

「リラ様、落ちついてください!」

「黙ってなさいよ、へなちょこ!女の子の手も握ったことないくせに~」

「何で僕がへなちょこなんですか!あと握ったことくらいあ……あり、ます……たぶん」

「そんなこと、どうでもいいのよっ。あの節操無し!タラシの変態!講義してやるんだから!」


 怒り心頭のリラ様は、女性に「そこで待ってなさい!」と命令すると、机に向かってガシガシと何かを書き殴り始めた。

 そうして、素早く書き上げると女性の手に押しつけた。


「この文をお父様に渡して。それから、『こんなパーティーぶっ潰してやるんだから』って私が言ってたって、伝えなさい!」


 女性がギョッと目を見開き、狼狽える。


「そんなことは……!」

「命令です!」


 キッと目をつり上げるリラ様に、哀れな彼女はおろおろしながら部屋を出ていった。

 リラ様に振り回されて気の毒だとは思うが、今の僕に彼女を助ける理由も余裕もない。未だに怒りをみなぎらせているリラ様のとばっちりを食らったら、大変なことになる。

 そう思った矢先、リラ様は椅子を蹴っ飛ばし、


「もうもうもうっ!許せないっっ!」


 と叫んだ。その数秒後に足を押さえてのたうち回ったが。




 こうして、今に至る。

 リラ様のせいで最近頭痛が酷い。慰謝料もらえないかな。


「本と本棚の片づけは一人でお願いしますね?リラ様がやったんですから。……僕は散歩にでも行ってきます」


 素っ気なく言うと、リラ様は慌てて本の山から這い出て、僕の腕にしがみついてきた。


「待って、こんなの一人じゃ無理!絶対無理!お願いだから手伝って」

「だったら侍女でも何でも呼んだらどうです?」

「うぐっ……そ、それは嫌かな……」

「何故ですか?」


 召使にやらせれば楽なのに。

 すると、リラ様は頬をほんのり染め、恥ずかしそうにうつむいた。


「だ、だって……こんなの見られたら、王女らしくないって思われる……」


 急に恥じらっているが、はっきり言ってすでに王女らしくないです。といったら殺されそうなので、やめておく。

 代わりに、一番手近にあった本を手に取り皮肉った。


「何で急に恥じらうんですか。片づけもできないのに」

「か、片付けくらいできるわよ!」

「じゃあ、何でこんなに散らかってるのよ」


 愛らしいが生意気そうな声に振り向くと、扉付近で赤い髪の少女が仁王立ちしていた。


「ミーナじゃない。こんにちは」


 リラ様に名前を呼ばれたミーナ様は、不機嫌そうにそっぽを向いた。またもやお付きの人間を一人も付けず、フリーダムなお姫様である。


「リラ・クラリス、髪飾りが曲がってるわよ。それでも王女?」

「へ?ああ、ありがとう」


 リラ様がシャラシャラと音をたてながら髪飾りを直すと、子供っぽく唇を尖らせる。


「あんたに感謝される覚えはないわ。あたしは、品性に欠けるって言ったのよ」

「え、何で?」

「……もういいわ。あんたって本当に疲れる」


 ミーナ様は諦めたように溜息をついた。一方、リラ様の頭には相変わらずはてなマークが飛び交っている。

 それにしても、わずか十三歳の姫君から呆れられる十五歳の王女とは。ひとの悪意に気づかない天然っぷりには、呆れを通りこして感嘆するくらいだ。

 この王女がどうしようもないので仕方なく、愛想笑いを浮かべて話しかける。


「ミーナ様、今日はどうしてこちらへ?」

「あ、そうそう」


 ミーナ様が僕の方に向き直る。


「ちょっと話があったのよ。どこかのアホのせいで忘れるところだったわ」

「アホって誰?」

「リラ様はちょっと黙っててください……」

「何でよ!」


 リラ様が唇を尖らせて文句を言う。相変わらず、年齢よりも明らかに幼い表情だ。

 歌っていた時はあんなに美しかったのに、素に戻った途端これだ。頭が痛い。


「とにかく、あたしは五日後のパーティーについて話しに来たのよ」


 突如、リラ様の目がキッとつり上がり、ほっそりした手と華奢な肩が不自然に震え始めた。

 げっ。何か、面倒くさそうな予感がする。

 逃げようかどうしようか悩んでいたが、意外にもリラ様は怒りを抑え、にっこりと微笑んだ。微笑んだが、頬は強張り、目に怒りがこもっているので怒っているのは間違いない。


「ああ、あのパーティーね?ふふふ、何でお父様は新しく側室なんか迎え入れるのかしら。ねぇ?」


 すると、ミーナ様はどうでもいいと言いたげに、


「あれは病気よ。不潔、酷いわ。今度で二十人目達成ね。ああ、馬鹿らしい」


 バレエシューズの爪先で軽くドアを蹴る。……お姫様がこんなに足癖悪くていいのだろうか。

 僕はミーナ様の素行がかなり気になったが、リラ様はそうでもないらしく大きく頷く。


「そうよね、あんなの国王失格よ!」

「人間でも最低なクズね」

「本当に許せないっ!」

「あたしの人生の汚点は、あいつの娘ってことね!」


 それにしても、娘二人にここまでボロクソに言われると、王様に少しだけ同情してしまう。

 まあ、この国の事情……というか、王様の唯一かつ最大ともいえる欠点を考えれば、仕方ないのだけれど。


 セルシア王国は、政治的面においても、軍事的面においても、経済的な面においても優れていると言えるだろう。今の国王になってから、なおさらだ。長きに渡る戦争を繰り広げ、和解した今でも緊張状態にある強国ともほどほどの関係を保っていられるのも現国王の政治手腕のたまものだ。

 しかし、英雄色を好むとはよく言ったもので、王様は大変な女好きだった。

 国王様の妃が今度で何と二十人目。しかも、隠れた愛人や過去の相手を含めれば、軽く百人は超えるだろうと言われている。

 大抵の国で一人の王に対して妻は一人から三人。多くて五人程度。そんな当たり前のことを、平然と破ったのがこの色好み王様なのである。

 十人目を迎え入れると決めた時、たくさんの人が反対した中、『私に反対する理由を教えておくれ。この世界では愛する人に数など決まっていなし、私も彼女も愛し合っているのだ。どうして駄目なのか、完璧な理由を言ってくれれば、私も折れてやってもいいよ』と、それはそれは麗しい笑顔で言い放ち、平然とやってのけたという伝説がある。そして、猛反対した重鎮はいつの間にか政界から姿を消していた。

 これらの事情を考えてか、王様は生まれてきた子供達には、母の姓を設けることにしている。つまり、この城には苗字の違う兄弟やら争う妃やらがたくさんいるわけで。

 因みに、リラ様とミーナ様は異母姉妹、リラ様とクラウス様は異母兄妹という形になるわけだけど、実の兄のクラウス様が大好きなミーナ様はそれを認めていない。


 というわけで、王様への悪口で盛り上がっていても、ミーナ様の瞳は警戒心に満ちてリラ様を睨んでいる。


「……でも、残念だけど、あたしが話に来たのはあのタラシ王のことじゃなくて、アンジェラ嬢のことよ」

「……へ?アンジェラ姉様?」


 リラ様はきょとんと首を傾げる。ミーナ様はこくりと頷いた。


「えっと……アンジェラ嬢って、第一王女アンジェラ・ココ・ファーネス様のことですか?」

「他に誰がいるのよ、アンジェラって」


 不思議に思って聞き返すと、ミーナ様に睨まれてしまった。

 アンジェラ様は、王様と名家・ファーネス家の令嬢との間に生まれた第一王女。すなわち、長姫である。貴族界で評判だった母に似て、アンジェラ様も穏やかな気質の王女だと聞く。

 しかし、何故に今アンジェラ様?

 僕とリラ様の全くわかっていない様子に、ミーナ様は最初苛立ったように小さな足をぶらつかせ、それから困惑したような表情を浮かべた。


「……もしかして、聞いてないの?」

「何を?」

「だから、アンジェラ嬢のことよ」

「アンジェラ姉様がどうかしたの?」

「アンジェラ嬢の、婚約の件」


 一瞬、時間が止まったように音が消えた。


「……姉様が、婚約?」


 リラ様が、恐る恐るといった感じで尋ねる。


「ええ、そうよ。王の婚約と一緒に伝えられなかったの?」


 途端に、リラ様がピクリと肩を震わせた。あの時リラ様は、相手に話す隙も与えなかったのである。思い返してみれば、彼女は他の件もあるとか言っていたような。

 普段さんざん迷惑をかけられている仕返しに、ボソッと言ってやる。


「……どこぞの王女のせいで、通達が遅れたようですね」

「うっ」

「しかも、ミーナ様が言ってくれなければ、当日まで知らされなかったかも」

「うぅっ」

「小さな姫君のおかげで助かったなー、僕の主はどうもポンコツだからなー」

「……ごめんなさい」


 急にしゅんとなるリラ様は、やはり子供っぽい。けど、何だかこっちがいじめているみたいで、決まりが悪い。

 僕らが小声でやり取りをしていると、ミーナ様は不審そうに、


「何ヒソヒソ話してるのよ!」

「あ、いえ。何でもないです」

「ふーん。……アンジェラ嬢の婚約者のこと、教えてあげようかと思ったけどやめておこうっと!」


 ツンと横を向きながら言う。途端に、慌てるのが単純すぎるリラ様だ。


「ちょっと!教えてよ!」

「嫌よ!ばあああか!」


 ミーナ様の唇が僅かにほころぶ。作戦成功といった笑顔だ。何なんだ、この低レベルの争い。

 呆れて眺めていると、リラ様はふっと溜息をつき、今頃になってお姉さんらしい笑顔を浮かべた。


「私に突っかかってくるのもいいけど、少しは素直になりなさい。せっかく可愛いのに、ツンツンしてばっかりなんだもの」


 リラ様は優しく言葉を紡ぐ。さっきとは打って変わって包容力のある雰囲気に不覚にもドキリとする。

 ところが、ミーナ様の緑色の瞳はキッとつり上がった。


「何よ、馬鹿にしないでよ、リラ・クラリス!誰に説教してるつもり!」

「一応ミーナにだよ。あと、説教じゃないわ」


 天然かつ純粋な回答は、ミーナ様の怒りをヒートアップさせるだけだった。

 ふわふわした彼女の髪と同じくらい、ミーナ様の顔が赤くなる。


「あたし、あんたのそういうふざけた態度が気に食わないのよ!お兄様は絶対渡さない。あたしが守るんだからぁっ!」


 出た。ブラコンなミーナ様の「お兄様は渡さないっ!」発言。

 どうしたらそういう思考になるのかは知らないが、リラ様がクラウス様を狙っていると思い込み、リラ様を敵視している節がある。リラ様からしたらさぞかし迷惑だろう。

 ていうか、何故そこでクラウス様が出てくるの?


「何へらへらしてんのよっ!あたし、そうやって人を馬鹿にしたように笑うあんたが大嫌い!」

「馬鹿になんかしてないわ」

「うそっ!絶対嘘だもん!あたしにはお兄様しかいないのに……なんで……!」


 つり上がっていた眉が下がり、宝石のような瞳に涙が溜まっていく。頼りなげな表情にギョッとした。

 リラ様も驚いたように目を見開く。


「……ミーナ?」


 柔らかな白い手をミーナ様の肩にそっと置き、潤んだ瞳を心配そうに覗きこむ。その姿は、お姉さんそのもだ。

 ふと、自分の二人の姉を思い出し、胸が締め付けられた。

 ステラ姉さんならまだしも、上の姉さんに……彼女に何かを求めるのは、間違っているのに。

 自嘲しつつも何となく思い出に浸っていると、突然、とんでもない言葉が耳に飛び込んできた。


「超絶方向音痴の癖に!」


 再び目をつり上げ、敵意を剥き出しにしたミーナ様が唸るように言うと、リラ様がギクリと身を引く。

 何だって?超絶方向音痴?


「ふふん。あたし、知ってるんだから。リラ・クラリスがものすごい方向音痴だって。舞踏会の日に会場を抜けだしたら道に迷って、一晩庭にいたことや、王に会いに行こうとしていつの間にか城の厨房に行きついたこと、あと庭に出ようとした時……」

「や、やめて!」


 顔を真っ赤にしたリラ様が叫び、本が散乱したせいで妙に狭くなった部屋に反響をする。

 僕は冷ややかな視線を向けた。


「とんでもない方向音痴ですね。ていうか、他の人に道訊けばいいじゃないかです?そもそも王女が一人でふらふらしていいと思っているんですか?」

「うぐ……」

「ああ、なるほど。猫被りだから、聞けないんですか。そのくせ自覚もないと」

「ち、違うもん……」

「そういえば、以前のかくれんぼでは、僕のすぐ後ろの木にいましたよね。あれは迷子になるのが怖かったからですか?」

「それはっ!」

「あの時僕を見つけられたのも、こっそり後をつけていたからだったりして」

「……」


 完全に沈黙して項垂れてしまった。いつも振り回されてばかりなので、いい気味だ。

 ミーナ様は僕らの様子を見て、ころころ笑った。


「上下関係がおかしいわよ、今の。リラ・クラリスだからいいけどねっ。……そう言えば、あんたはウィルドネット伯爵家の人なんだっけ?」

「えっと……はい、そうですね」


 まあ、伯爵家の息子のくせにろくに勤めも果たさず、たいした教養もない、出来損ないの愚息だけど。

 負い目というかなんというか、少し情けない気持ちに駆られる。しかし、ミーナ様は僕の答えに満足したようだった。


「やっぱり、リラ・クラリスは王女らしくないし、本来ならここにいないはずだわ。出ていけばいいのよ、あんたなんて!」


 攻撃的な言葉に、リラ様は何も言わなかった。ただ少し、微笑んだまま困ったように眉を下げる。

 ミーナ様の言葉を聞いた途端、何故か僕がムッとした。リラ様が王女らしくないのは本当のことで、しかも僕には関係のない話なのに。

 しかし、気づけば二人の間に割って入っていた。


「ミーナ様。さっきのは言いすぎです。リラ様は能天気で人をイライラさせる天才ですが、れっきとした王女ですよ」

「うるさいっ!卑しい混血のくせに!その髪も目も気持ち悪い!」


 頭を殴られたような衝撃に襲われ、視界がグラリと揺れる。

 リラ様が息を飲むのが聞こえた。

 ミーナ様はただ、当たり前のことを言っただけなのだろう。僕が黒髪で、目も黒いのは本当だ。この国ではめったに見かけない容姿。それだけに色々な意味で人目を引く。

 ミーナ様に非はない。幼い子供が口走っただけだとわかっている。わかっているのだ。

 それでも、視界が揺れて動機が荒れ狂うのを止められない。

 髪や目のことを言われるたび、自分の異質さを再認識させられる。嘘つきだと言われているようだ。それが、辛い。苦しい。嫌だ、思い出したくない。


 人間の資格を手放したくせに、人間のふりをしてごめんなさい。

 謝るから、日陰で隠れて生きるから、どうか。


「ハル!落ち着いて!」


 凛とした声が耳を打ち、ふっと汗がひいた。動機が正常に戻り、視界も定まる。

 気がつくと僕はしゃがみこんでいて、握りしめた拳をリラ様の白い手が包んでいた。

 安堵の溜息とともに、苦い気持ちで愛想笑いを浮かべる。


「……大丈夫です。すみません」


 リラ様は何故か青ざめ、切なそうな目をしている。そんなに僕はあからさまだっただろうか。


「あ……う……」


 引き絞るような声が聞こえたかと思うと、ミーナ様は目に涙を浮かべ、ぶるぶる震えていた。

 マ、マズイ。

 僕は子供に泣かれるのはどうも苦手なのだ。なんとかしなくては。


「気にしないでください。さっきは、少し眩暈がしただけなんですから。本当に大丈夫です」


 必死で弁明するも、ミーナ様は更に泣きそうな顔をするばかりだ。この場面を他の人に見られたら大変なことになる。焦って顔を引きつらせると、ミーナ様は一層顔をくしゃくしゃにする。


「あ、あたしが悪いって言うのね!」

「いや、そういうことを言っているわけでは」

「うるさいっ!」


 耳を塞いで怒鳴り、自分の声にびっくりして目を丸くする。そのまま眉が下がり、叱られた子供みたいな顔をしながら、


「あ……あたしのせいじゃないんだからっ!あたしはなんにも悪くないんだからぁっ」


 くるりと背を向けたが、床に散乱していた本につまずき、転んでしまった。

 しかし、ものすごいスピードで立ちあがると、フリルトレースがたっぷりのドレスにもかかわらず脱兎の如く走っていった。


「い……行っちゃいましたね……」

「そうね……」


 赤いツインテールとフリルが見えなくなった頃、僕とリラ様は顔を見合わせて、溜息をついた。

 我儘で生意気で意地っ張りだが、箱入りのお姫様だけあって根は素直でいい子だと思う。リラ様もそれがわかっているから、酷いことを言われても怒らないのだろう。

 それにしても、僕はそこまで酷い顔をしていたのだろうか。我ながら情けない。あとでミーナ様に謝っておかないと。

 ふとリラ様を見ると、いつもよりも大人びた、優しい顔をしていた。僕と目が合うと柔らかく微笑む。


「ミーナって、感情の起伏が激しくて、誤解されやすいところがあるの。でも、本当は優しい子なのよ」

「そうですね……」


 ブラコン度は重症だけど、まだ子供だから兄離れできていないだけかもしれないし。それにしたってすごすぎるし、クラウス様はクラウス様でだいぶドライなのがちょっと面白い。

 個性の強い兄妹を思い浮かべていると、くすりと笑う声が鼓膜を揺らす。

 分厚い本を三冊ほど両手で抱え、リラ様は悪戯っ子のように僕の目を覗きこんできた。


「それにしても、ハルって意外と子供っぽいところあるのね」

「なっ……」

「可愛いなぁ。困ったことがあったら、お姉さんに頼っていいよ?」


 間近で見る小さな顔は天使のようで、からかうような笑みとセリフにカッと体が熱くなる。

 決して、ときめいたわけではない。腹が立っただけだ。

 リラ様の肩をつかんで引き剥がし、顔の火照りを無視しして愛想笑いを作る。


「僕の方が幼稚だと言うなら、一人で片づけられますよね?邪魔者は出ていくので、どうぞごゆっくり」





 シャンデリアの光の下、少女は気怠げに天蓋付きベッドに横になっていた。

 ベッドに着いたレースのカーテンは中途半端に引かれており、甘い香りと共に頼りなく揺れている。その切れ目から覗く、薄紫色のガウンから伸びた少女の手足は折れそうに細く、透き通るように白い。

 しかし、少女の異質な美しさのためか、か弱さは微塵も感じさせない。

 紫を基調としたこの部屋の主に相応しい、見た者を畏怖させるような妖艶な美貌だった。

 少女は露に濡れた赤い薔薇のような唇をほんの少し開いて、


「お腹があいたわ。それと、飲み物も」


 脳がとろけるような甘い声で、しどけなく囁く。

 すると、どこからともなく黒いローブを着た背の高い男が現れ、赤く透明な液体の入ったグラスを差し出す。その男に続いて、黒いローブを着た女が銀のトレイを持って入ってきた。


「ありがとう。今日のご飯はなぁに?」

「野菜を煮込んだスープと、胡桃入りのパン、あとは砂糖をかけたドーナツですよ」


 女はハスキーな声で告げると、軽く髪をかき上げた。大きなフードからこぼれた見事な金髪が揺れる。

 一方、男は無機質な低い声で、


「ワインや紅茶だけでなく、もっと栄養のある飲み物も飲んでください。どうか、ご自愛を」

「わかっているわよ。食後に薬草と砂糖を混ぜたお湯を用意して」


 スープを幼い仕草で冷ましながら、少女はうるさそうに命令する。男は軽く頷いた後、黙りこんでしまった。

 一方、金髪の女は楽しげに語る。


「小さな女王様、素晴らしい報告が入りましたよ。全て順調です」


 女の話に、少女はパンを千切る手を止めた。


「……ライトから、かしら。何の報告なの?彼のことはもう聞いているわよ?」


 甘く透明な声に、微かな冷たさが加わる。その様子に、女はますます嬉しそうに言った。


「実は、今日から五日後、パーティーが開かれるようです。しかも、国王が側室を迎え入れる件と、第一王女アンジェラ・ココ・ファーネスの婚約の件。……セルシア王国を貶め、混乱を招くのにはもってこいじゃないですか?」


 ハスキーな声の女の話を聞いた少女は、黙っている男に尋ねる。


「ねえ、どう思う?」

「……俺などの意見でよいのですか」


 機械的な口調だが、男の声音には驚きが混じっている。すると少女は、


「聞くだけ聞くのよ。意見は多ければ多いほどいい。……捨て駒と同じように」


 少女はそう言って、ころころと笑った。冷酷な発言とはかけ離れた、甘く可愛らしい表情で。

 少し考える素振りを見せた後、男はゆっくりと言った。


「やはり、まだ準備が整っていない以上、リスクは大きい。しかし、得られるものもある」

「つまり、やった方がいいんだね!よっしゃぁ!」


 浮かれる女と、無反応な男。二人を交互に眺め、少女は面白そうに唇をつり上げた。しどけなく結んだ腰のリボンがほどけていくのも構わず、少女は身を乗り出す。


「わかっていると思うけど、あたしは国だの政治だの、そんなものはどうでもいいのよ」

「存じ上げております」

「なら、それを考慮した上で、あなたはどう思う?」


 無垢な声でありながら、少女は蠱惑的な眼差しで首を傾げた。さらさらとこぼれる髪が薄闇の中で揺らめき、咽せ返るほど甘ったるい空気と絡み合う。

 幻想のように美しい少女を少しの間見つめ、男は口を開いた。


「やはり、ここで動き出すのがいいでしょう」




 暇だ。

 今、どうしようもなく暇だ。暇で暇でしょうがない。あまりに退屈すぎて、眠くもならない。

 城の庭を当てもなくうろうろしながら、大きく伸びをする。

 手伝わないことをきっぱり宣言した時は、リラ様を振り切るのが大変だった。

 思い切りしがみついてきて、「ごめんなさい~手伝って~!」だの、「誰かに知られるのは嫌なの~!」だのと言っていたが、あまりにもリラ様の発言に腹が立ったので、意地でも手伝わないと決めていた。

 けれど、それはそれでやることがなくて困ってしまった。

 部屋に帰れば、寝たり、読書したり、寝たり、ぼーっとしたり、寝たりできたのに。

 最近寝不足だから、寝たい。とにかく寝たい。しかし、眠いのに眠くならない。

 それに、残念ながら僕の部屋はリラ様の部屋の隣。絶対に厄介事に巻き込まれるだろう。なので、帰るわけにもいかない。

 お城から出て暇潰しという手段もあるが、それは絶対に嫌だ。外に出ることだけはしたくない。

 つまり、庭園を散歩する他にやることがないのである。

 王族の住む城の庭園だけあって、綺麗に整えられてはいるのだけれど、さすがに寝るのは不用心すぎるだろう。

 清々しくて爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。ざわざわと葉が擦れ、風に花弁が散る。遠い昔の記憶が、目の前の光景と重なった。

 ギュッと唇を噛みしめ、スタスタ歩き出す。忙しいのも嫌いだけど、退屈だって嫌いだ。よけいなことを思い出すから。

 整えられた芝生をサクサクと踏みしめていると、ふっと殺気を感じた。

 振り返って身構えると、意外な人物が仁王立ちしていた。


「こんにちは、お貴族様」


 にっこりと微笑みながら言ったのはソフィアだった。

 今日も相変わらずのサイドテール。古風な黒いワンピースの上から着たフリル付きの白いエプロンが、風になびいて揺れている。

 いつもと違うのはその表情。普段なら氷のように冷え冷えとした目で僕を見るのに、今日は可愛らしく微笑んでいる。

 ……逆に嫌な予感がする。

 取りあえず、僕は愛想笑いを浮かべた。


「ソフィア、どうしたの?僕に何か用でも?」

「ええ、その通りです」


 ますますにっこり。もう、嫌な予感どころではない。


「えっと……何かな?」


 するとソフィアは、手をエプロンのポケットの中に入れ、貴族の令嬢顔負けのしとやかな笑みを浮かべ、、


「まだわからないのですか、このヘタレ貴族」


 空気がピシリと凍りついた。ソフィアは相変わらずにこにこしているが、その青い瞳は氷並みに冷たい。

 これはたぶん怒っている。何故だ。ソフィアを怒らせるようなことなんかした覚えないぞ。


「そもそも、何故あなたのような役立たずがリラ様の遊び相手なんです?リラ様の命令に歯向かった時点で死刑にあたいしますが、今までの事柄全てをあわせると、百回死んでも全然足りませんね。浮浪者みたいに当てもなくうろうろして、リラ様に迷惑をかけていることにも腹が立ちますけど。ていうか、あなたみたいな人は生きる価値がありません。今すぐ死ね」


 僕が口を挟む隙も与えず、機関銃の如く吐き捨てる。ものすごい早口で長々と罵倒しているのに、一度も噛まない。活舌いいな。

 ていうか、「死ね」に近い発言、何回されたの、僕。そこまで嫌いなのか。


「あはは……なんか……ごめんね……」


 乾いた笑い声を漏らす僕に、ソフィアはわざとらしい笑顔のまま首を傾げた。


「どうしちゃったんですか?負け犬みたいな顔をして。まあ、もとから負け犬だとは思いますけど。ところで、リラ様が頼んだにもかかわらず、逃げたのって本当ですか?」

「何のこと?」

「とぼけないでくださいこのヘタレ貴族のクズが。リラ様の本を片付けるのを手伝うという役割を頼まれたにもかかわらず、逃げたんですよね?」


 何でそのことをソフィアが知ってるんだ!


「私が片付けたからに決まっているでしょう」


 思わずギョッとした。まさか心読まれてる!?


「別に心を読んでいるわけじゃないぞ」


 うわっ。怖い。そして口調がぞんざいになった。

 冷や汗を流す僕に、ソフィアはうるさそうに顔を顰めた。


「取りあえず、罰は受けていただきますから」

「……はい?」


 思わず聞き返した僕に、ソフィアはにっこり笑った。


「もちろん、殺したりはしませんよ?殺したいくらいだけどな」


 僕は一歩後退した。怖い、怖すぎる。人殺しの目をしているのですが。

 ソフィアの微笑みが更に鋭さを増す。


「まあ、さっきのは冗談です。罰を受けていただくというのは本気ですが」


 そう言った途端、ポケットから手を出し僕に向かって突き出した。

 空気が切れる音にサッと飛び退くと、ナイフを握りしめたソフィアが舌打ちする。


「……つまらない。何故逃げる」

「そりゃ避けるでしょう!刺されるのは誰だって嫌だよ!」

「刺されてくれないと、こっちとしては面白くもない」


 酷いことを平然と言う姿に背筋がひやりとする。

 ああ嫌だ、この頃は過去を思い出させるような場面が多すぎる。


「どうして君は、僕を目の敵にするんだ!?」


 思わず叫ぶと、ソフィアの目がスーッと細められた。表情が跡形もなく消え去り、ナイフを握る手が微かに震えている。淡い水色の瞳に浮かんでいるのは、煮え滾るような激しい憎悪だった。


「私は、貴族が死ぬほど嫌いだからです」


 周りから音が消えた。

 ソフィアの顔も、震える声も、握り締めた手も、彼女の本気さを物語っている。本気で貴族を憎んでいるのだ。

 情けない顔をしているであろう僕に、ソフィアは続ける。


「好きな人間なんて、数えるほどしかいない。人間なんてほとんどが最低。私は、人間そのものが大嫌いです。……特に、貴族が」


 妙に生ぬるい風が吹き、柔らかそうな金髪が乱れることにも構わず、ソフィアは顔を歪めて呟く。


「人間の中でも特に最低なのが、貴族だ。表では愛想良くして、裏では平気で裏切って、貶めて。綺麗な水を飲み、豪勢な食事をして、身なりを整えていても、内面は真黒だっ。常に自分の利益しか考えず、濡れ衣を着せて平然としている。……私は……貴族なんか……大っ嫌いだっ!」


 吐き捨てられたその言葉が突き刺さる。

 貴族は、確かに汚い生き物なのかもしれない。仲間だったはずの人間を平気で貶め、策略を巡らし、公の場では穏やかに微笑んでみせる。それが、貴族だ。

 ソフィアが、どうしてそこまで貴族を嫌うのかは知らないけど、正しい。だからこそ、間違いなく貴族である僕は、酷く申し訳なく思う。

 僕は社交界にほとんど出たことがないし、野心も影響力もない。むしろ、貴族の中ではかなり奇異で、野蛮なたぐいの人間だと思う。

 それでも、自己憐憫に浸りながらダラダラと暮らせるのは、ひとえに貴族という特権に守られているからだ。


「……ごめん」


 僕が呟くと、ソフィアは驚いたように目を見開いた。


「どうして謝る?」

「君の言う通りだから」


 ソフィアは戸惑うような眼差しを向け、唇を噛んだ。

 ふと、砂糖とバターの甘い香りが風に乗って流れてきた。今日のお茶か、デザートにでも使うのだろうか。この感じだと、スコーンかマフィンかな。

 どうでもいいことをぼんやりと考えていると、ソフィアが溜息をつき、僕から目を逸らした。


「無駄な話をしてしまいました。今のは忘れてください。代わりに、罰を帳消しにしてさしあげますから」

「え?あ……うん。わかった」


 僕が頷くと、ソフィアは不機嫌そうに舌打ちする。


「じゃあ、僕はこれで……」

「待ってください」


 可憐な声に引き留められたかと思うと、ナイフを突き付けられた。そして、にっこりと笑う。


「今回は特別です。でも、次にリラ様を侮辱したら……わかっているな?」


 ソフィアの可愛らしい笑顔に寒気を覚えた。しかも、敬語が外れている。

 油断した。さっさと立ち去るべきだったのだ。


「あはは……えっと……」

「その時は、自殺を希望していると解釈しますので、どうぞよろしく。この世を去りたくなったらいつでも言ってくださいね?喜んであの世送りのお手伝いをしますから」


 とんでもない毒を吐き捨て、もう一度可愛らしい笑みを浮かべると、ソフィアはスタスタ歩いて行ってしまった。

 ……疲れたな。うん、とっても疲れた。ソフィアがあそこまで面倒くさい人だとは思わなかった。

 ただでさえ、リラ様のハチャメチャな行動に振り回されているのに。

 ドッと疲れが押し寄せてきて、その場に座り込みたい衝動に駆られる。

 取り合えず部屋に戻ろう。リラ様に見つからないように戻れば、たぶん大丈夫。もう寝たい。

 ふらふらとお城に戻り、廊下を歩いていると、突然視線を感じた。

 不審に思い振り返ると、曲がり角から赤くふわふわした髪とフリルがはみ出ている。

 ミーナ様だ。何しているんだろう。

 取りあえず、朝のことでも謝っておこう。

 気づかれないようにこっそり近づいてから、そっと囁きかける。


「……ミーナ様?」


 ピクリと影が動く。そして、そろそろとミーナ様が出てきた。うつむいているため、表情はわからない。


「どうかしましたか?」

「……別に」


 ぽつりとつぶやいたかと思うと、ミーナ様は勢いよく顔を上げ、怒っているのか泣いているのかよくわからない顔で睨んできた。


「別にっ、あんたなんかどうでもいいのよ!あたしが逃げたと思ったら大間違いなんだから!あたしは悪くないもんっ」


 これは抗議なのだろうか。取りあえず、曖昧に笑ってみる。


「わかっています。朝のことは気にしないでください。僕が少し具合が悪くなっただけなんですから」

「気にしてなんかないわよっ」


 この小さな姫君は、文句を言いに来たのだろうか。それならそれで、構わないけど。

 ところがミーナ様は眉を下げ、少しだけうつむいた。


「……で、でも……ね。ちょっとだけ……言いすぎたかなって……思って……」


 自信なさそうにぽそぽそ言って、しゅんとする。

 勝気そうに見えてそんな些細なことを気にしていたなんて。やっぱり根はいい子なのだろう。

 思わず笑うと、ミーナ様がムッとした顔をする。


「何がおかしいのよ」

「すみません、嬉しくて。……ありがとうございます、ミーナ様」


 途端に、ミーナ様が赤くなった。


「……お、お礼を言われる筋合いはないし。別に、何にもしてないからっ。じゃ……じゃあね」

「はい」


 僕は自然と微笑みながら、ふわふわしたツインテールを揺らしながら歩く少女の後ろ姿を見守り、自分の部屋に戻ることにした。

 不思議と気持ちが軽い。

 軽やかな足取りで歩いていると、何かにぶつかった。

 あれ、おかしいな。壁と壁の間はもっと広いはずだ。

 不思議に思いつつもそのまま進もうとした瞬間、腕を強くつかまれて引き戻された。

 ドスのきいた野太い声が頭上に降ってくる。


「オレにぶつかるとは、いい度胸してんじゃねぇか。暇潰しに付き合ってもらおうか、小僧」


 ……はい?なんだって?


 恐る恐る振り返ると、巨体を鎧に包んだ強面の兵士が僕を睨んで見下ろしていた。

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