殺気立つ侍女が見た王女
次の日。
クラウスは帰ってこなかった。
昨晩色々考えすぎて一人悶々としていたソフィアは、目の下にどす黒いクマをつけたまま庭を闊歩していた。
寝不足と不機嫌のせいで、いつもにもまして殺気を放つ目と黒々としたオーラのせいで、みんなすれ違うことすら避けている。現に今、楽しげに喋っていた召使三人がソフィアを目にした途端、回れ右して逃げて行った。
その様子に嫌悪感がわかないわけではないが、奴らのために大人しくしてやる何ざごめんだ。
じっとしていると嫌な考えが浮かんでくるし、城で作業していてもメイドたちの笑い声に猛烈に苛立つ。
特に、クラウスに関する噂話は爆発寸前だった。
「クラウス様って素敵よねえ!すっごく綺麗で、天才なんですもの!それに、王様のように女にふらふらしないところがまた魅力的!」
「でもぉ、ちょっと怖くない?いつも無表情で、冷たいし」
「そこがいいのよ!いつも氷のようなクラウス様が笑ったら、絶対素敵だもん」
「何それぇっ!有り得なーい」
「想像するのは勝手よ。ああ、私だけに微笑んでくれないかしら。そうしたらもう、死んでもいい!」
「でもさ、クラウス様って隣国の王女と婚約するでしょう?」
「そうなのよね。王女様はクラウス様にメロメロで、クラウス様も満更でもないって話よ」
「本当!?すごいニュースね、それ!」
思い出すだけではらわたが煮えくりかえる。
あの時、どれほどナイフで八つ裂きにしてやりたかったか。我慢するために唇を噛んでいたが、強く噛み過ぎて切れて血が出てしまった。
心の底からあの女達が憎らしい。そして、あの王女も。
あああ、殺したい殺したい殺したい。
そう思いながらも、ソフィアは絶対に殺せない。
クラウスと約束したから。
自分でも情けなるくらいに、クラウスに惚れ込んでいるのがわかる。いけないと思っていても、惹かれていく。
そんな自分にほとほと呆れるが、一度好きになると止められない性格だったようで、歯止めが聞かない。
何故、自分はクラウスに釣り合う王女や令嬢じゃなかったのだろう。いや、贅沢は言わない。
せめて普通のメイドでいたかった。
もしくは、クラウスに出会わなければよかった。
そうしたら、心がバラバラに砕けるような思いも、……甘い幸せも知らずに済んだのに。
神は信じていないが、もしいるとしたら、それは自分が世界一嫌いな貴族共よりもクズだろう。人の運命をひっかきまわすような、最低最悪な存在だ。
何故、こんな自分に恋なんて不安定で邪魔なものを与えたのだろう。
クラウスへの恋情が、自分の首を絞めていく。
ドロドロした苦い気持ちに襲われていると、いつの間にか、いつもクラウスとこっそり会っている茂みの前に来ていた。
この茂みの奥は何もないように見えるが、実は小さな空間があって、テーブルと椅子が置いてある。ソフィアが設置したのだ。
そこで会う時は、いつも自分で作ったお菓子と紅茶のポットを抱えて、誰かに見つからないように細心の注意を払っている。
不安でたまらない。スリルがあるとかそんな馬鹿なことは思えないし、行きたくないとさえ思ってしまう。
それでも。
一旦クラウスに会ってしまうと、やっぱり幸せで、楽しくて仕方がないのだ。
いつもいつも、このまま時が止まってしまえばいいのにと思う。
甘い記憶ばかりが残る風景を独り、苦い気持ちで眺めていると、ふいに何かが聞こえてきた。
透明で甘い、澄んだ音色。……いや、歌声?
この歌声は、何度か聞いたことがある。
あのヘタレ貴族にあってからは全く歌わなくなり、最近だとあの馬鹿が死にかけた時に歌ったきりだが、聞き間違えるはずがない。
包まれるような、光に溶けていくような優しい歌声。この世界の誰よりも美しく、寂しげな、天上の旋律。
「リラ様……?」
歌の聞こえる方へと足を進めると、ちょうど木の陰になっている場所に、ドレスが汚れるのも構わず地面に座って歌っていた。
さらさらした銀色の髪が光を受けて輝き、淡い水色のドレスにふりかかり揺れている。整った横顔はいつものような明るさはなく、切なげに澄んでいる。
日頃から絶世の美少女ではあったが、今日は何故か特別に綺麗で、声をかけるのをためらってしまう。
ふと、昨日のリラの様子を思い出し、胸がざわめいた。
ガラス片などが刺さって怪我をしてはいたがたいしたことはなく、ざっと薬を塗るくらいで済んだ。むしろ大変だったのは片付けの方で、かなり時間がかかった。
あれ以降リラの様子におかしいところはなく、やはり実験とやらだったのだろうと納得していた。
だが、やはりふに落ちない。今日の姿を見ても。
陰に隠れるようにしてリラの様子を窺っていると、リラが首にかけたペンダントを握りしめていることに気がついた。
彼女にはそれなりに長く仕えているが、ああいう仕草は見たことがない。
視力はいい方だが、リラの手に隠れてしまって、どんな代物かはわからない。
ただ、透明な青い何かが、リラの白い指の隙間から少しだけのぞいていた。
……どこかで見た気がする。
しかし何故か思い出せない。引っかかっているのに。
ソフィアはリラの顔と握りしめたペンダントを見比べ、溜息をついた。
透き通るような青。光を反射して、優しくきらめく。
綺麗なガラスは、思い出の欠片。
青空のような、海のようなガラスに、自分の瞳が映り込む。
ああ、綺麗。
これを見れば、思い出さずにはいられないのがわかっているのに、どうしても手放すことができない。
いつも服の中に隠していたから、誰も気がつかなかったけど。
このガラスも、想いも、真実も、……自分の全ても。
粉々に割れて、溶けて、消えてしまえばいいのに。
「……やっぱり、私は駄目ね」
開けてしまった未来は、信じられないくらい甘く幸福で。でも、結局は痛みと傷しか残らない。
それでも。
自分がどれほど傷ついても、どれほど苦しくても。
やっぱり××は、彼の幸せを一番に願ってしまう。
不器用で、誰にも気づいてもらえない。
でもそれが、××の愛情の形だから。
「……君が私の×を××と言ってくれたあの瞬間から、こうなる運命だったんだろうなあ」
唇からこぼれた言葉は、瞳から流れた透明な雫と共に消えた。